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ぼくの宝石みーつけた

作者: 山口康弘

第一章  宝石の夢


エコちゃん、エコちゃん、笑顔の子。

いつでも、いつも、笑っているよ。

エコちゃん、エコちゃん、ありがとう。

いっしょに、楽しく遊びましょう。


顔が隠れるくらいの大きなマスクに、お母さんがつくってくれた黄色いタオル地の帽子をかぶり、エコちゃんは病院の二階まで下りて来ました。

このフロアには、内科、外科、耳鼻咽喉科など、7つに分かれた診察室があり、受付の窓口では係の人たちが忙しそうに働いています。血液内科はAの窓口。すっかり馴染みになったお兄さんが、エコちゃんに目配せの合図をくれました。

いつもの場所に、いつもの人がいて、いつものように働いている。その光景を目にすると、エコちゃんは何だかホッとするのです。

エスカレーターを使って一階に下りると、そこにはもう、たくさんの人がいます。

再診受付の窓口には長蛇の列ができ、初診、会計、支払いなどの窓口も大混雑。入退院や文書受付にも人だかりができています。

病気を患う人がこんなにもたくさんいることを、エコちゃんはここに来るまで、まったく知りませんでした。

みんなの表情は、どこかさえない様子です。

疲れた顔、泣き出しそうな顔、怒った顔もあれば、苛立っている顔もあります。

エコちゃんは、そんな顔のひとつひとつに魔法をかけてみました。それは、すべてを笑顔に変えてしまう魔法です。

すると、どうでしょう。

あたりにたちこめていた沈んだ空気がいっぺんに明るくなって、軽やかに弾みだしたではありませんか。

(ほらね)

エコちゃんは、心の中でつぶやきました。

(笑った顔が、一番自然なんだよね)

「おはようさん」

エコちゃんが、声がした方を振り返ると、毎日顔をあわせる掃除のおばさんが立っていました。

「エコちゃん、今日もいい日だね」

魔法を使わなくても、おばさんはいつも素敵な笑顔です。そしてポケットからいくつかキャラメルを取り出し、エコちゃんに手渡しました。

お礼を言ってエコちゃんは、キャラメルを手に玄関へと向かいました。


「シャワ、シャワ、シャワ、シャワ」

外に出た途端、むわっーと、うだるような夏の熱気がエコちゃんを包み込みました。雨音のように降り注ぐのはセミの声です。

ふわー、眩しいなあ。それに暑くて気持ちいい。

 夏の仲間入りができて、エコちゃんは嬉しくてしかたありません。

目の前ではひまわりが、大きな顔を揺らしています。きっと花粉を運んでくれる蝶やミツバチを探しているのでしょう。そのひまわりの向こうには、大きなさくらの木。

不安な気持ちを抱えながら、エコちゃんが初めてここに入院してきた時、このさくらの木が、薄桃色の花を満開にして、やさしく出迎えてくれたのでした。

「さくらさん、こんにちは」

さくらの幹にそっと手を触れ話しかけ、エコちゃんは木陰のベンチに腰を下ろしました。

頭上から降りそそぐセミの声に負けないくらいの賑やかさで、足元のアリたちが、右に左に、せっせ、せっせと働いています。アリたちのあらい息づかいが、聞こえてくるようです。エコちゃんは、自分ひとりだけ、ぼんやりとしていることが、なんだか申し訳なく思えてきました。

そうだ、おすそわけしよう。

そう思いつくと、エコちゃんは、さっき掃除のおばさんからいただいたキャラメルを、地面にひとつ置いてあげました。

するとどうでしょう。アリたちが続々と集まってきて、あっと言う間にキャラメルは、大きな黒いかたまりになってしまいました。

まだ甘いプレゼントに気づいていないアリがいないかと、あたりを見渡したエコちゃんの目に、もうひとつの黒いかたまりが飛び込んできました。

あれ、なんだろう? ほかの誰かも、何かをあげたのかな?

近づいて見てみますと、アリさんたちが群がっていたのは、なんとセミのなきがらでした。

「セミは何年もの間、真っ暗な地中でじっと待ち続け、ようやく太陽の下へ出てきても、たった数日の命しか残されていないのよ』

いつかセミを捕まえて帰った時に、お母さんから聞かされたことを、エコちゃんは思い出しました。

忙しく動き回るアリ、セミの大合唱、通り行く人々や、町のざわめき。それら、生きているものの賑やかさ比べ、死んでいるセミは、なんて静かなのでしょう。鳴くことも、息をすることもなく、ただ黙ったまんま、時間からも遠のいている。だけど不思議な存在感を有しています。アリに曳かれて草むらの中へとそのセミが姿を消してしまうまで、エコちゃんはじっとその姿を見つめていました。そして考えました。

頭上のセミたちが、もし残り時間の短さを知ってしまったら、こんなにも楽しそうに鳴いていられるだろうか……。それとも知っているからこそ、力いっぱい鳴いているのだろうか……。

足元では、まだキャラメルにアリたちが群がっています。しかしエコちゃんは、自分が与えたものが、何だかとてもちっぽけなもののような気がしてきてなりませんでした。



お母さんが来てくれるのは、いつも夕方の六時頃です。

エコちゃんは、それまでに夕食を終え、お片づけもちゃんと済ませて、ベッドの中で本を読んで待つのです。


まだかな、まだかな、もうすぐだ。

まだかな、まだかな、もうすぐ、もうすぐ。


今か今かと、こうして待っている時が、エコちゃんは、一日で一番好きな時間です。

時計から、また手元の本へと目を戻しました。

病院の図書室で借りてきたのは、『少年と石(ニーニョ イ ピエドゥラ)』という題名のご本です。

それは、遠い国の小さな村での石にまつわる物語です。

七年に一度、村にやって来る『石撒き』と呼ばれる男から、村に住む、五つから、十二歳までの子供たちが、石をひとつ選んで受け取るというお話ですが、選び取ったその石がその後の運命を決定づける強い力を持っているので、子供たちは真剣そのものです。

挿絵には、そんな子供たちとともに、たくさんの石が描かれています。

光り輝く宝石から、隕石、岩石と、石の種類は様々で、エコちゃんが今までに見たこともない、綺麗な石もたくさんあります。

エコちゃんは、本の中の子供たちと一緒になって、挿絵の石とにらめっこ。

と、その時です。コツン、コツンと小さく扉をノックする音。

あっ、お母さんだ。

 エコちゃんの輝いた視線の先には、そうです、お母さんが、やさしく微笑んでいます。エコちゃんは、その両手の中に飛び込んで、柔らかな温もりを、胸いっぱいに吸い込み

ました。


「ねえ、お母さん、もう病気、治ったんじゃないかな?」

 お母さんは作業の手を休め、驚いた表情を浮かべて振り返りました。

「そんな気がする。それにね、今日は病院の外にも出たんだよ」

「そうなの。でも、そんなに無理をして、大丈夫だった?」

心配そうな声ですが、お母さんのとても嬉しそうです。その輝いた表情を見て、エコちゃんは益々はしゃいだ気分になってきました。

「病気が治ったら、また学校に行けるよね?」

「もちろん」

「じゃあ、みんなとまた一緒に勉強できるんだ。やった。お母さん、ぼくお家に帰ったら、お手伝いもいっぱいするからね」

「ありがとう」

お母さんは、エコちゃんの顔をじっと見て、にっこりと微笑みました。


 時間はどうして、こんなに不公平なんだろう……。

 エコちゃんがそう思うのは、お母さんといる時間があっと言う間に過ぎ去ってしまうからです。

 今日もあっという間に、お母さんが帰らなければいけない時間になってしまいました。

一度、立ち上がりかけたお母さんでしたが、エコちゃんの額にそっと手を当てると、また腰を下ろしました。

「うん、熱はないようね。それじゃもう少しだけ、一緒に本を読んでようかな」

「うん」

 エコちゃんはもう大喜びです。


「ぎこぎこ ばったん ぎこぎこ ばたん

ぎこぎこ ばったん ぎこぎこ ぱたん」


お母さんのやさしい声を聞いていると、エコちゃんはとって安心してきます。まるで真綿に包まれているように、温かくって、とってもいい気持ちです。そしていつしかエコちゃんは、遠くから聞こえてくる物語とともに、ゆっくりと夢の中へとこぎ出して行きました。



ぎこぎこ ばったん ぎこぎこ ばたん。

ぎこぎこ、ばったん、ぎこ、ばたん。


気がつくと、眼下には、まるで箱庭のような小さな村が広がっていました。

まどろむような昼下がり。聞こえてくるのは、時折、思い出したように鳴くニワトリの声と、小川のせせらぎ、機を織る音。


ぎこぎこ ばったん ぎこぎこ ばたん。

ぎこぎこ ばたん ゴトゴトゴト。

ぎこ ばた ゴトゴト ギトゴトト。


機織りの音に、車輪の音が重なってきました。エコちゃんが視線を向けますと、遠くひとりの男が、リヤカーを引き、ゆっくりと坂を上がってくるのが見えました。

やがて男は、エコちゃんがいる丘の上の広場まで上がってくると、草はらに大きな茣蓙を広げ、その上に、荷台に積んであった大きな麻の袋をよいしょっと下ろしました。

「あっ、石撒きだ」

エコちゃんが小さく叫んだとおり、その男は石撒きです。石撒きの男が袋に中から次々に取り出し始めたのも、そうです、挿絵に描かれていたあの石の数々です。

 しかし、本物の石は挿絵とは比べ物にならないくらいに色鮮やかで、まばゆいばかりに煌めいています。エコちゃんは、その美しさに、思わず息をのみました。

すべての石を並べ終えると、石撒きは葦笛を取り出してきて、空に向かってゆっくりと奏ではじめました。それは、石選びの儀式が始まる合図です。

まるで風にあずけるような柔らかな音色が流れると、午睡から覚めた小さな村のあちらこちらから、いっせいに子供たちの嬌声が沸きあがってきました。そしてあっという間に丘の上の小さな広場は、カラフルな民族衣装に身を包んだ子供たちに埋め尽くされてしまいました。

女の子たちは、色鮮やかな毛織りのシャツに、羊の毛でつくられた黒い巻きスカートと

赤い腰帯。そしてかわいい髪飾り。白のパンタロン姿の男の子たちも、女の子に負けないくらいの色鮮やかな貫頭衣をまとっています。

そんな、お伽の国の住人のような子供たちと一緒になって、エコちゃんも石の並んだ茣蓙に向かいました。

目の前の石英がエコちゃんにチラチラとささやきかけてきました。見ているとその乳白色の安らぎに包み込まれていくようです。石英の向こうからは、アクアマリンが爽快な風を送ってきます。「ぼくに決めなよ」と呼びかけてきたのは、オパール石。オーロラを一瞬の中につかまえたような輝きに触れると心を奪われてしまいそうです。オパールの隣にいるのは黄鉄鋼。その金色の力は、どんな困難に遭っても決して怯むことのない勇気を与えてくれることでしょう。

あー、どれにしょう、どれがいいかな……。

エコちゃんは、目移りがしてなかなかひとつに決めることができません。

他の子供たちも、散々迷っているようです。

その時、一人の男の子が流氷のように淡いブルーに光り輝く、ホタル石を手に取りました。

それがきっかけになり、みんな次々に気に入った石を手にしはじめました。

 直感だけで決めてしまう子もいれば、友だちと相談しあって決める子、薦められたものを迷うことなく持ち帰る子もいます。

いつまでたっても迷っているのは、エコちゃんと……あっ、それにもう一人、エコちゃんの斜め向かいにいる女の子もまだ石を手にしていませんね。

彼女は、手を伸ばしては引っ込め、また伸ばしては引っ込めてを繰り返すだけで、どうしてもひとつを手に取ることができないようです。

そうこうしている内に、彼女が候補にあげていた石を、どんどん他の子たちが持って帰ってしまいました。

そしてとうとう広場に残ったのは、エコちゃんと彼女の二人だけになってしまいました。

教会の鐘が鳴り、空も焼け始めました。

 女の子は、残った石の中から、ようやくローズクォーツとトパーズの二つに絞り込んだようですが、そこからがまたたいへんそうな様子です。

彼女は、それぞれの石と過ごす時間を、そっと心の中に思い描いてみました。

思いやりに満ちたローズクォーツとなら、やさしくいたわり合いながら歩いていけるような気がします。一転、トパーズからは陽気な笑い声が聞こえてきます。この笑い声に包まれていれば、不安や恐れなんか、すぐに消し飛び、いつも楽しい気持ちで過ごせるに違いありません。しかしトパーズにはローズクォーツの柔らかさ足りないような気がします。かといってローズクォーツにはトパーズの陽気さが足りません。そうなのです。この石にあるものがあの石にはなくて、あの石にあるものがこの石にはない。これじゃやっぱり、いつまでたっても堂々巡りが続くばかりです。

 彼女はとうとうあきらめて、ローズクォーツの石を手に取りました。

一度手にした石は二度と返すことができません。けれど彼女は、ローズクォーツを手にした瞬間に、手にしなかったトパーズが愛しく感じて仕方がなくなってしまいました。手に入れた喜びよりも、失くしてしまった悲しみの方が、ずっとずっと大きくなって、心の中に広がっていくようです。

そして彼女は、泣き出しそうな表情で坂を下っていきました。そんな様子を、エコちゃんはじっと眺めていました。


一人っきりになってしまってからも、エコちゃんは、どの石にも手を伸ばそうとはしません。

やがて黄昏がカーテンを下ろし、どこかで夜告げふくろうが「ホウ」と一声、鳴きました。

それまで居眠りをしていた石撒きの男は、ふくろうの声に目を覚ますと、大きく伸びをして起き上がり、帰り支度をし始めました。

数を減らしていく石を、エコちゃんは、ただじっと見つめているだけです。

石撒きの男が、どれかひとつを残していってくれたなら、エコちゃんは、それがどんな石であろうとも、生涯大切にしようと心に決めていました。しかし男は、エコちゃんのそんな気持ちに気づくこともなく、どんどんとしまい込んでいきます。そしてとうとう、すべての石を麻袋の中にしまいこむと、さっさと茣蓙を巻き上げ荷台に積んで、ふり返ることもなく坂を下っていきました。


 シーンと静まり返った丘の広場。

エコちゃんは、じっとうずくまったまんまです。

 どうしてぼくは、石を選ばなかったのだろう。ああ、ぼくには石がない。ぼくだけ、石を持てなかったんだ。

とうとう涙がこぼれて落ちて来ました。

エコちゃんは、あわてて涙をぬぐうと、草の上に寝転がりました。

すると……、涙で滲んだ風景に、一斉に無数の煌めきが飛び込んできました。

「うわー」

 エコちゃんは、思わずため息をつきました。

眩いばかりの星空が、どこまでも広がっています。

右手の先から、左手の先、足の先から、頭の向こう、ずっと、ずっと、はるか彼方まで。

眺めているうちに、エコちゃんは、自分が見上げているのか、それとも見下ろしているのかさえ分からなくなってきました。やさしくせ身体を抱きかかえてくれている背中の大地が、もしもその手を放したら、きっとこの果てしない星空の中へと漂いだしてゆくことでしょう。

 空に輝いている星たちは、まるであの宝石のようです。そしてこの地球(ほし)も、そんな石のひとつなのです。

 いつか寿命ときを終える日がくれば、星はあくたとなって散りひろがってゆく。そしてまたいつかそのあくたたちが集まって、新しい星、命をつくりだしてゆく。

この地球も、そうやって生まれてきたのです。

エコちゃんは、広大な宇宙を前に、果てしのない時の流れに思いをはせました。

自分が生まれるずっと前からこの世界はあり、この先もずっとあり続ける。そして永遠と永遠に挟まれた瞬くような時を、すべての命と共にしているのだ。

さっきまで自分はひとりぼっちだと感じていたことが、おかしく思えてきました。そしてエコちゃんは、そっと目を閉じました。

目を閉じても、まだ星空が見えています。

かすかに風がゆらぎ、大地が香り、鳥や虫たちの寝息までが感じられてきます。

木々のはく息と自分のはく息が大気を通して繋がって、その繋がり合った命が大きな自然の中に包まれている。

そうか……石を持つっていうことは、この世界との繋がりを忘れないためのものだったんだ。

そう気づいた時、エコちゃんの指先がなにか小さな固まりに触れました。手の取ってみると、それはどこにでも転がっているような、ありふれた玄武岩の欠片でした。しかしエコちゃんは、その小石を大切に拾い上げ、胸の上でしっかりと握りしめました。






第二章  光る(さかな)になって


「残念ですが、今回も寛解に至ることはできませんでした」

 あまりにも思いがけない先生の言葉に、一瞬、お母さんは耳を疑いました。

「え?」

「もう一度、薬を変えてやってみましょう」

「でも先生、最近とても体調が良さそうで、顔色もいいですし、食事もちゃんと摂れていますし……」

「残念なのですが、白血病細胞がまた増えだしています」

残念という言葉が、お母さんの胸に刺さるようです。

「このままでは、いつ感染症を引き起こすかも分かりません。時間との戦いです。お母さん、治療を再開していいですね」

お母さんの瞼には、副作用に苦しんだ子どもの姿がまだ焼きついています。それに化学療法を再び行うとすれば、もう三度目になる。

「身体に負担をかけない、例えば免疫力を高めるような、そんな治療方はないのでしょうか?」

「やはり化学療法が、最も効果が高い治療法です。それに新薬もたくさんできてきておりますし、さまざまな組み合わせ方もありますから、今まで効かなかったからといって、あきらめる必要はまったくありません。今度はプレドニゾロンを経口で投与し、週単位でビンクリスチンをアスパラギナーゼとともに入れて行こうかと考えています」

「先生、どうか、よろしくお願いします」

お母さんは、何度も何度も頭を下げて先生にお願いすると、エコちゃんがいる病室に向かいました。


(またあの辛い治療が始まることを、あの子にどう伝えよう……今までだって、あんなに頑張って来たのに)

必死に言葉を探しながら、病室への廊下を歩いていたお母さんは、前からやって来た看護士さんに声をかけられました。

「こんばんは、今からですか?」

「あっ、はい」

「ほんとに、いいお子さんですね。いつもみんなで話しているんですよ。普通、子どもは楽しくないと笑わないものでしょ、それなのにエコちゃんは、どんな辛い時でも私たちに笑いかけてくれて、逆に元気づけられることも多いんです。どうしてあんないい子が……。あっ、お母さんをお呼び止めしてたら、エコちゃんに叱られますね」

「あっ、それではどうも」

お母さんは、軽く頬笑み会釈をすると、またエコちゃんの病室に向かって歩き始めました。しかしその足取りは、よけいに重くなってしまったようです。

「どうしてあんないい子が……」

こんな言葉を今まで何度、聞かされたことでしょう。そしてその度にお母さんは思い悩んできました。

何がいけなかったのか? どうしてこんな病気になってしまったのか……と。散々に悩

んだ挙句、ようやく我に返ってつぶやくのです。

「なにかの報いで、病気になるわけじゃない」

(よし、元気を出さないと。自分が元気をなくしていたら頑張っているあの子に申し訳がない。それに、こんなにも愛しい存在がいてくれることを感謝しなければ)



 エコちゃんの化学療法がまた始まりました。

午後一番の注射のあと、エコちゃんは、決まって気分が悪くなります。身体がだるくなり、食欲もなくなります。それでも何とか食べることができたとしても、すぐに吐きもどしてしまいます。

今日は唾液や汗が、プラスチックが溶けたような匂いがして、どんどん気分が悪くなり、夜になってお母さんが来てくれた時も、まだエコちゃんは、ベッドの上で背中を丸め軽い吐き気を抑えていました。

「気分が悪いの?」

「ううん、大丈夫」

エコちゃんは精一杯の笑顔を浮かべそう答えましたが、その表情はまるで冴えません。

「先生に来てもらう?」

「大丈夫だから」

お母さんは心配そうにエコちゃんの額に手を当てたあと、「さくらんぼ、持ってきたよ」と、つとめて明るい声で言いました。さくらんぼは、エコちゃんの一番の好物だからです。

エコちゃんは小さく頬笑みうなづきました。しかし、その笑顔がこわれそうになってし

まい、あわてて「ちょっと眠くなったから」と、お母さんに背を向けてベッドに寝転がりました。身体の調子もそうなのですが、エコちゃん、今日は心の調子もちょっと変なのです。いつもなら、お母さんの顔を見たとたん、どんどんと元気がわいてくるのに、今日はなんだかシュンと萎んだまんまで、まったく力が入りません。だからエコちゃんは、お母さんが身体をさすってくれている間も、手を握ってくれている時も、ずっと眠ったふりをしていました。そして、お母さんがそっと額にキスをして病室を出ていく時も、目をあけず、さよならさえ言いませんでした。そしてようやく浅い眠りの中に落ちていきました。


『サクランボ、冷蔵庫に入れてあります。

新しい下着とパジャマ、いつもの棚に入れてあるから、汗をかいたら必ず着替えてください。

よく眠っているから、起こさずに帰ります。

また明日ね。

おやすみなさい』


夜遅くに目が覚めたエコちゃんは、お母さんが残してくれたメモに従い、新しいシャツに着替えて、サクランボもいくつかいただきました。

身体のだるさは少し治まったようですが、心は元気をなくしたまんまです。

扉の外は、シーンと静まり返っています。

ナースコールやスリッパの音が聞こえると、少しホッとしますが、その音が消えると、重さを増した静けさが部屋の中まで押し寄せてくるような気がします。

エコちゃんは眠れずに、ベッドの上でじっと目を開け天井を見つめています。

(ほんとうに、病気は治るのだろうか?)

こんなことを考えたことは、今まで一度もありませんでした。

(もし治らなければ……病気がどんどん悪くなって……そして……)

身体の力がすっと抜け落ちて、手にはじっとりと汗が滲んでいます。エコちゃんは、早い息をしながら飛び起きました。

(ああ、どうしよう。ああ、どうしたら……)

その時、お母さんの顔が暗闇の中に浮かんで見えました。

「お母さん」

エコちゃんは、大きな声でお母さんに呼びかけました。

「お母さん」

そうして何度も名前を呼んでいるうちに、エコちゃんの両目から、ぽろぽろ、ぽろぽろと涙が零れ落ちてきました。ぽろぽろ、ぽろぽろ、あふれ出て、いつまでも止まりません。

 エコちゃんは、お母さんに会いたくてたまらなくなってきました。その気持ちをなんとかしずめるために、手紙を書くことに決め、お母さんが残してくれたメモを裏返しに広げて、必死の思いで鉛筆を握りしめました。

(明日がきたら、またお母さんに会えるんだ。ああ、早く明日が来ないかな……)

手紙を書き終えたとき、少しだけ身体に力がもどってきたような気がしました。しかしこのあとエコちゃんの病状は、急変してしまったのです。



遠くから聞こえてくるのは波音でしょうか。弾むような歌声も聞こえて来ます。


わかめ 干せ 干せ 昆布 干せ

アジ 干せ イカ 干せ 猫 干すな

干せ 干せ 昆布に わかめ 干せ

お天道様 お願いだ

わかめ 干せ 干せ 昆布 干せ

アジ 干せ イカ 干せ 猫 干すな


 目を開けたエコちゃんの前に、大きな大きな世界が広がっていました。

真っ青な空を溶かしこんだ海。ざぶん、ざぶんと、白い波が砕けてできた砂浜。青と白の真ん中で、つるつる頭の赤い顔した男の子が、大声で歌いながら天日干しの作業をしています。

 どこからか猫も一匹やって来ました。干物をねらっているのでしょうか……。いや、猫は干物には興味がないようです。それどころか干物を並べたムシロの上に、ごろんしょっと寝転がりました。

 真っ赤な顔をした男の子も、その様子を見て安心したのか、また歌い始めました。


わかめ 干せ 干せ 昆布 干せ

アジ 干せ イカ 干せ 猫 干すな


その歌声を聞いていると、エコちゃんの心も弾んできました。

そして思わず声をあわせて歌い出しました。


干せ 干せ 昆布に わかめ 干せ

お天道様 お願いだ

わかめ 干せ 干せ 昆布 干せ

アジ 干せ イカ 干せ 猫も干せ


同時に歌い終わると、二人は顔を見合わせ大笑いしています。一方「干せ」と歌われた猫はというと、不愉快そうに寝返りをうち、そっぽ向きました。その様子を見て、また二人は大笑いしています。

「はじめまして。ぼくエコと言います」

「ぼく、タコ」

つるつる頭に、飛び出たおちょぼ口。タコの少年は「エコちゃん、エコちゃん、一緒に遊ぼう」と大きな声で呼びかけました。

「うん、遊ぼう」

エコちゃんが返事をした途端、タコくんが、ポンっといきなり、真っ赤な鯛に変身しました。それまで背中を向けていた猫は、鯛の匂いにつられたのか、すくっと起き上がると、忍び足で近づいてきました。

(あっ、タコくんが食べられてしまう!)

エコちゃんが、あわてて猫を追い払おうとした瞬間、タコくんは、ポンっともとの姿に戻っています。

「変身、変身、ぼく得意。今度は何に化ける?」

「じゃあ、郵便ポスト」

エコちゃんが言い終わるか終わらないうちに、またタコくん、真っ赤なポストに早変わり。

エコちゃんは大喜びで声を張り上げました。

「暑中お見舞い、いかがですか? お忘れ言の葉お届けします。暑中お見舞い、いかがですか?」

呼び声を聞きつけ、学生服のお兄さんが葉書を手にしてやって来ました。そしてタコくんが化けたポストとも知らず、葉書をポトンと投げ入れて立ち去って行きました。

再びもとの姿に戻ったタコくんと、エコちゃんは、手を取り合って大喜び。そして二人は学生さんが入れた葉書を持って、一目散に、本物の郵便局のポストに駆けていきました。

 変身ごっこに、かくれんぼ。砂のお城づくりに貝殻集め。飛んだり跳ねたり海辺の町を、二人で日がな漂いながら、力一杯遊んで過ごしました。そしてお日さまが西に傾く時間になっても、まだ海に面したバス停のベンチに場所を移して、手遊び歌に興じています。


えこたこえこたこ

真昼のお月さん

えこたこえこたこ

ガラス瓶

えこたこえこたこ

かもめの口笛

えこたこえこたこ

 入道雲

 

不思議なことに、二人が口に出したものが、次々と姿を現します。今もタコくんが、入道雲と言った瞬間、もくもくと雲がわき上がり大粒の雨が落ちてきました。

二人は歓声を上げ、雨の中を、くるくるまわって飛び跳ねました。


えこたこえこたこ

雨上がり


エコちゃんが大声でそう唱えると、雨はさっと上がって、あたりは金色の光に包まれました。やがてカナカナカナと、ひぐらし蝉の鳴く声が聞こえてきて、眩しかった夏の日がゆっくりと暮れだしました。

エコとタコ、二人は肩を寄せ合い西の空を眺めていましたが、大きくなってゆく夕陽にあわせタコくんが風船のように膨らみ始めました。

夕陽はにじんで、どんどんと大きくなって行きます。タコくんも、どんどんどんどん広がって、いつしか薄桃色の夕映えになってしまいました。

エコちゃんは、その薄桃色の夕映えを、胸一杯に吸い込みました。楽しかった夏の日の思い出を忘れないように。

「さあ、ぼくも行かなきゃ」



 病室を後にしながら、お母さんは何故か胸騒ぎを覚えていました。何度も引き返そうかと思ったのですが、不安や不吉な想像をその度に打ち消して、やっと家まで帰り着きました。しかし悪い予感は現実のものとなってしまったのです。胸騒ぎを抱えたまま深夜を迎えた時、突然、電話のベル。そしてそれはエコちゃんの容態の悪化を告げる病院からの急報でした。

お母さんは、取る物も取らず、家を飛び出しました。

タクシーの中、全身がガタガタと震え出すのも、止めようもありません。

お母さんが病室に駆けつけた時、エコちゃんは集中治療室のベッドの上に寝かされていました。その小さな身体は、いくつもの計器に繋がれています。お母さんは、エコちゃんの枕もとに駆け寄ると、その手を強く握りしめました。

「心配していた感染症をおこしてしまったようです。しかし抗生物質が効いてきましたので、少し容態は落ち着いてきています」

「先生、大丈夫ですよね」

お母さんはすがるような眼差しで、先生の顔を見つめました。

先生も、その思いに応えるように、力強くうなづかれました。


 それからどれくらいの時間が経ったでしょう。

「お母さん、少し休まれた方が……」

看護士さんが入って来たことも、お母さんはまったく気づきませんでした。お母さんは、ずっとエコちゃんの手を握り締めたままです。

「それから病室にこれが……」

 看護士さんから手渡されたのは、お母さんが残したメモの裏に書かれたエコちゃんからの手紙でした。


『おかあさん、ありがとう。

いっぱい、いっぱい、ありがとう。

いつもしんぱいばかり、かけてごめんね。

おかあさんの、わらったかおが、だいすきだよ。』


 その手紙を目にした途端、お母さんはこらえ切れず、泣き崩れてしまいました。



 歩きはじめた時は、まだ薄暗がりだったのが、徐々に闇が深さを増して来たようです。エコちゃんはちょっと不安になって来ました。

その時、遠くにぼんやりと、オレンジの灯りが見えました。

ほっと胸を撫ぜ下ろし近づいて行くと、その灯りは、まるで霞みのように滲み広がっているだけで、中の様子がよくわかりません。ただオレンジの靄の中から、話し声が聞こえてきます。

「ビビール、万歳」

「いただきます」

まるで弾むような話し声です。

「楽しかったよ」

「ほんとうね。いい経験をさせてもらったわ」

「ねえ、こっちにも、ビビールおくれ」

「お母さん、ぼくも、もう一杯いいでしょ」

お年寄りから、子供まで、色んな声が混ざっています。

ようやくオレンジの霞みの中に、同じオレンジ色をした人型ひとがたのようなものが、おぼろげに見えて来ました。どうやらみんなで集まって、お話ししながら、ビビールというオレンジ色の飲み物を、楽しんでいるようです。

「ビビール、乾杯」

「ありがとう」

「よかった、よかった、よかったなあ」

「ビビールの香りは、たまらないね」

「朝の香り、夜の香り、雨上がりの香り」

「草や、木や、清流の香りもするよ」

「それに、春に夏、秋、冬と、季節の香りもね」

「それに、この花綿の実が、かかせないよね」

「ほんのりと温かくって、七色の味がつまっているからね」

「ねえ、花綿のお皿、もう一枚いいでしょ」

「いいよ、いいよ、いただきましょう」

「じゃあ、こっちにも、もう一枚」

「ガチャ、ガチャ、キュッキュ、ガチャ、キュッキュ。グラスをどんどん洗っているね」

「プカプカ、ピンピン、クックックッ。お皿も、綺麗になってくよ」

「クスクスクックッ、あっはっはっ」

「よくやったね。おめでとう。温かいね。気持ちいい。のんびり、だらんと、力が抜けてく、伸びてゆく。ビビールに、乾杯しようよ。あー、嬉しいな」

聞こえてくるいくつもの声は、近づいたり、遠のいたりと、まるで波のようです。

「また来られるかしら?」

「そうだね、いつかまた、来られたらいいね」

「それじゃ、いつかを楽しみに、そろそろ行きますか」

「そうだね、行きましょう」

ひとつ、ふたつと、オレンジの人型が、霞みの中から、こぼれ出て行きます。道案内にするのでしょう、手にはそれぞれ、オレンジの炎を(とも)し、連なって前に向かって進んでいきます。エコちゃんも、その人型について行こうとしましたが、道案内の炎がありません。

その時、小さな赤い炎が、スーっとこちらに近づいてきたかと思うと、またただようように向こうの方へと去っていきます。エコちゃんは、必死で追いかけ、ようやく捕まえました。なんとその赤い炎はタコくんが化けたものでした。

タコくんは、オレンジの人型が流れるのとは逆方向に駆けて行きます。

「そっちじゃないよ」

呼びかけても、タコくんはどんどん先に行ってしまいます。

と、その時です。

エコちゃんの頬に、一粒の雨が落ちて来ました。

見上げると、さっきまで真っ暗だった空が、少しだけ明るんで見えました。そして、そんな空から、一粒、また一粒と、雨が降り出しています。

雨が勢いを増すごとに、何故だか、急にあたりが明るくなってきました。

気がつくと、枝を大きく広げた木々が左右に並ぶ小道に立っていました。木々の翠は霧雨に濡れ、大気の中へと淡く滲みだしているようです。

そんな翠のトンネルのような小道を辿り、エコちゃんは。タコくんの去った方角へと向かいました。泳ぐような足取りは、海中散歩をしているようで、何だかはしゃいだ気分になって来ました。

(あっ、タコくんだ。)

遠くに光の尾を引く赤い炎が見えました。誰かが落したものでしょうか、赤の隣に、オレンジの炎も見えます。それに、黄色い帽子や、緑の葉、藍や紫の色をした石たちも、光の帯を引きながら、赤い炎を追いかけて行きます。

そして、翠のトンネルを抜けた時、そこには真っ青な空が現れました。

赤い炎となったタコくんが、その空に向かって、どんどんと伸びて行きます。あのオレンジの炎も、黄色い帽子や緑の光線、それに輝く石も、キラキラ輝く粒子の尾を引き、駆けあがって行きます。そして、そんなすべての光が溶け込んだ、大きな虹が出来ました。

エコちゃんは、いつしか光り輝く一匹の魚になっていました。そして大喜びで尾を震わせて、虹色の光線の中を泳ぎ上がって行きました。


ここはいったいどこなのでしょう?

ピー、ピーっと、計器の音が聞こえています。

あとは、とっても静かです。

エコちゃんは、少し不安になってきました。

その時、じっと誰かが手を握ってくれていることに、気がつきました。

(この温もりは……。)

エコちゃんは、ようやく長い眠りから覚めて、その手をしっかりと握り返しました。


「ただいま、おかあさん」






『少年と石(ニーニョ イ ピエドゥラ』


そこには、遠い国の小さな村での石にまつわる物語が書かれています。

七年に一度、その村にやって来る、『石撒き』と呼ばれる男から、村に住む、五つから、十二歳までの子供たちが、石をひとつ選んで受け取るというお話しですが、選び取ったその石が、その後の運命を決定づける強い力を持っているので、子供たちは真剣そのものです。子供たちの様子とともに、挿絵にたくさんの石が描かれているのですが、光り輝く宝石から、隕石、岩石と様々で、エコちゃんが今までに見たことのないような綺麗な石もたくさんあります。

エコちゃんは、本の中の子供たちと一緒になって、挿絵の石とにらめっこを始めました。

「ぎこぎこ ばったん ぎこぎこ ばたん ぎこぎこ ばったん ぎこぎこ ぱたん ぎこぎこ ばったん ぎこぎこ ばたん。 ぎこぎこ、ばったん、ぎこ、ばたん。

 気がつくと、眼下には、まるで箱庭のような小さな村が広がっています。

まどろむような昼下がり、聞こえてくるのは、時折、おもいだしたかのように鳴くニワトリの声と、小川のせせらぎ、機を織る音。

ぎこぎこ ばったん ぎこぎこ ばたん。

ぎこぎこ ばたん ゴトゴトゴト。

ぎこ ばた ゴトゴト ギトゴトト。

機織りの音に、車輪の音が重なってきました。

音のするほうにエコちゃんが視線を向けると、遠くリヤカーを引いた男が、ゆっくりとこっちに向かって坂を上がってくるのが見えました。

やがて男は、丘の上の広場まで上がってくると、草原くさはらに大きな茣蓙を広げました。そして、荷台に積んであった大きな麻の袋をよいしょっとその上に下ろしました。

「あっ、石撒きだ」

エコちゃんが叫んだとおり、その男はどうやら男は石撒きのようです。

そして袋に中から次々に取り出すのは、そうです、あの挿絵に描かれていた石の数々です。

本物の石は、挿絵とは比べ物になりません。

色鮮やかで、まばゆいばかりに煌めいています。

エコちゃんは、その美しさに、思わず息をのみました。

すべての石を並べ終えると、石撒きは、次に葦笛を取り出してきて、空に向かってゆっくりと奏ではじめました。

まるで風にあずけるような、その柔らかな音色は、石選びの儀式が始まる合図なのです。午睡から覚めた村のあちらこちらから、いっせいに子供たちの嬌声が沸きあがり、丘の上の広場は、あっという間にカラフルな民族衣装に身を包んだ子供たちに埋め尽くされてしまいました。

女の子たちは、色鮮やかな毛織りのシャツに、羊の毛でつくられた黒い巻きスカートと赤い腰帯姿で、かわいい髪飾りをつけています。白のパンタロン姿の男の子たちも、女の子に負けないくらいの色鮮やかな貫頭衣をまとっています。

そんな、お伽の国の住人のような子供たちと一緒になって、エコちゃんも、石の並んだ茣蓙を取り囲みました。

まず目の前の石英が、チラチラとささやきかけてきました。

見ていると、その乳白色の安らぎに包み込まれていくようです。

石英の向こうからは、アクアマリンが爽快な風を送ってきます。

「ぼくに決めなよ」と呼びかけてきたのは、オパール石。

オーロラを一瞬の中につかまえたような輝きに触れると、心を奪われてしまいます。

オパールの隣にいるのは黄鉄鋼。

その金色の力も、どんな困難に遭っても、決して怯むことのない勇気を与えてくれることでしょう。

あー、どれにしょう、どれがいいかな……。

エコちゃんは、目移りがしてなかなかひとつに決めることができません。

他の子供たちも、散々迷っているようでしたが、ようやく一人の男の子が流氷のように淡いブルーに光り輝くホタル石を手に取りました。

それがきっかけになり、みんな次々に気にいった石を手にし始めました。

直感だけで決めてしまう子もいれば、友だちと相談し合って決め合う子、ひとに薦められたものを迷うことなく持ち帰る子もいます。

いつまでたっても迷っているのは、エコちゃんと……あっ、もう一人、エコちゃんの斜め向かいの女の子も、まだ石を手にしていませんね。

その女の子は、手を伸ばしては引っ込め、また伸ばしては引っ込めてを繰り返すだけで、どうしてもひとつに決めて、手に取ることができないようです。

そうこうしている内に、彼女が気に入っていた石は、どんどん他の子たちが持って帰ってしまいます。

そしてとうとう広場に残ったのは、エコちゃんと彼女の二人だけになってしまいました。

教会の鐘が鳴り、空も焼け始めました。

石はまだまだ、たくさん残っています。

そしてようやく女の子は、ローズクォーツとトパーズの二つに絞り込むことができました。けれど、これからがまたたいへんなようです。

彼女はそれぞれの石と過ごす時間を、心の中に思い描いてみました。

思いやりに満ちたローズクォーツとなら、やさしく、いたわり合いながら歩いていけるような気がします。

トパーズからは、一転、陽気な笑い声が聞こえてきます。

この笑い声に包まれていれば、不安や、恐れなんかは、すぐに消し飛び、いつも楽しい気持ちで過ごせるに違いありません。

しかしトパーズには、ローズクォーツの柔らかさ足りないような気がしますし、かといってローズクォーツには、トパーズの陽気さが足りません。そうなのです。

この石にあるものがあの石にはなくて、あの石にあるものがこの石にはない。

これじゃやっぱり、いつまでたっても堂々巡りが続くばかりです。

彼女は、とうとうあきらめたように、ローズクォーツの石を手に取りました。

一度手にした石は二度と返すことができません。

けれど彼女は、ローズクォーツを手にした瞬間に、手にしなかったトパーズが愛しく感じて仕方がありません。

手に入れた喜びよりも、失くしてしまった悲しみが、心の中にどんどんと広がっていくようです。

そうして彼女は、まるで泣き出しそうな表情で帰って行きました。

エコちゃんは、彼女の様子をじっと眺めていました。

そのせいでしょうか、彼は一人っきりになってしまってもまだ、どの石にも手を伸ばそうとはしません。

やがて黄昏がカーテンを下ろし、どこかで夜告げふくろうが「ホウ」と一声、鳴きました。ずっと居眠りをしていた石撒きの男は、ふくろうの鳴き声に目を覚ますと、大きく伸びをして起き上がり、さっさと帰り支度をし始めました

数を減らしていく石を、エコちゃんは、ただじっと見つめているだけです。

石撒きのおじさんが、どれかひとつを残していってくれたなら、ぼくはそれがどんな石だって、生涯大切にすることを約束します。

しかし男は、エコちゃんのそんな気持ちを察する様子もなく、どんどんとしまい込んでいきます。そしてとうとう、すべての石をしまい麻袋の中に戻すと、茣蓙と一緒に荷台に積んで、そのまま振り返りもせず、さっさと坂を下っていきました。

シーンと静まり返った丘の広場。

エコちゃんは、うずくまったままです。

どうしてぼくは、石を選ばなかったのだろう。ああ、ぼくには石がない。ぼくだけ、石を持てなかったんだ。

涙がこぼれて落ちて来ました。

エコちゃんは、あわてて涙をぬぐうと、草の上に仰向けに寝転がりました。

その時です。

涙で滲んだ風景に、一斉に無数の煌めきが飛び込んで来たのです。

「うわー」

エコちゃんは、思わずため息をつきました。

眩いばかりの星空が、どこまでも広がっています。

右手の先から、左手の先、足の先から、頭の向こうの、ずっと、ずっと、はるか彼方まで。

眺めているうちに、エコちゃんは、自分が見上げているのか、それとも見下ろしているのかさえ分からなくなって来ました。

やさしく身体を抱きかかえてくれている、背中の大地がもしその手を放したら、この果てしない星空の中へと漂いだしてゆくことでしょう。

空に輝いている星たちは、まるであの宝石のようです。

そしてこの地球ほしも、そんな石のひとつなのです。

いつか寿命ときを終える日が来れば、星は塵あくたとなって散り拡ってゆく。そしてまたいつかその塵が集まって、新しい星、生命を作り出してゆきます。この地球も、そうやって生まれて来たのです。

>エコちゃんは、広大な宇宙を前にして果てしのない時の流れに思いをはせました。

自分が生まれるずっと前からこの世界はあり、この先もずっとあり続ける。

そして永遠と永遠にはさまれた瞬くような時を、すべての命と共にしているんだ。

さっきまで自分はひとりぼっちだと感じていたことが、今ではおかしく思えてきました。エコちゃんは、そしてそっと目を閉じました。

目を閉じても、まだ星空が見えています。

かすかに風がゆらぎ、大地が香り、鳥や虫たちの寝息までが感じられてくるようです。

木々のはく息と自分のはく息が、大気を通して繋がって、その繋がり合った命が大きな自然の中に包まれている。

そうか……石を持つっていうことは、この世界との繋がりを忘れないためのものだったんだ。

そう気づいた時、エコちゃんの指先が、何か小さな固まりに触れました。<BR>

手の取ってみると、それはどこにでも転がっているような、ありふれた玄武岩の欠片でした。

しかしエコちゃんは、その小石を大切に拾い上げると、胸の上でしっかりと握りしめました。

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