俺が奈々の世界を変えてみせるよ。奈々が俺の世界を変えてくれたように
奈々と雅樹の接点が明らかに
ふたりは元の世界に帰れるのか?
朝食の最中、異空間から逃れるか否かでふたりの想いがすれ違う。
異空間からの脱出を試みようと提案する俺と異空間に留まると言い張る奈々。
交差する思いが平行線をたどったかと思われた次の瞬間、奈々から切実な胸の内が溢れ出した。
『だけど・・・だけどもう少しだけ・・・ほんの少しだけでもいいから奈々はこのままでいたい・・・このまま時間が止まってくれれば奈々はそれが一番しあわせ・・・』
そう言うと奈々は立ち上がり涙を隠すかのように背中を向け窓のそばに向かう。
「奈々・・・」
俺は奈々を追い背中から抱きしめた。
予想していなかった俺の行動に奈々が体を固くする。
だがこうせずにいられないほど、俺にとって奈々はかけがえなく愛おしい存在となっていたのだ。
その瞬間、俺が奈々を抱き寄せたまさにその瞬間、これまで何度も脳裏にフラッシュバックしたあのデジャブがまた顔を出した。
奈々の髪から漂う甘い香りが、そしてそのか細い体から溢れる生命力が、俺の記憶を呼び覚ます・・・。
これまで潜在下に押し沈められていた想いが一気に噴き出して来るのを体中で感じる俺。
『俺は、この香りを知っている・・・』
覚醒した俺は、背中から抱きしめた奈々をこちら側に向けた。
「奈々? 俺は奈々のことを知っている・・・」
俺の腕の中でいいように弄ばれることに戸惑い見上げる奈々の目に、さっきまでとは違う色の涙が溢れてくる。
俺は奈々の涙を拭うようにもう一度強く抱きしめた。
奈々は何も言わず俺の胸に身を任せることで『やっと思い出したのね』と全身で伝えていた。
「あの時の女の子だよ・・・な?」
胸に顔をうずめたまま黙ってうなずく奈々。
「あれから元気だったの?」
小さくすすり泣きながらうなずく。
まだ涙は止まっていないようだ。
かつて俺は電車の中で目の前に立つ女の子が倒れるのを抱き止めたことがあった。
その小さな女の子は倒れる前、何かを確認するかのように後ろをチラッと振り返り次の瞬間ふらっと倒れこんできたのだ。
か細いその体を抱き止めた俺の鼻に甘い香りが漂ってきた。
俺は二人掛けの座席に座る乗客を促し立ち上がらせ、かわりに朦朧としている彼女を座らせた。
そして真っ青な顔をした彼女を次の駅で下車させ、下りの列車で最寄りの駅まで一緒に付き添ったのだ。
ずいぶん心配したものだったが駅に降りる頃には顔色も生気を帯び足取りもしっかりと元に戻っていた。
その頃にはだいぶ気持ちも落ち着いた様子で『今日は自宅に帰って休みます。一人で大丈夫です。ありがとうございました』そう言い残し駅の階段を小走りに昇る女の子を姿が見えなくなるまで見送った。
それからしばらく、同じ時間に同じ車両に乗るその小さな女の子が再び体調を崩して倒れやしないかと冷や冷やしながらもそれとなく見守る日々が続いた。
が、ある日を境に女の子は俺の視界から消えた。
ただ時折、あの時香った甘い匂いが俺の近くでふわっと漂うばかりであった。
「良かった・・・しばらく心配で様子を見てたんだけど。その内姿が見えなくなったからさ」
俺がそう言うとようやく胸から顔を出し見上げる奈々。
「奈々はいなくなってなんかいません・・・ずっとそばで『雅樹さん』って名前も知らないままに・・・ずっとそばにいましたっ。」
すすり泣きながらか弱く言うもその語尾に小さく恨み言を込める。
「そっか。それで奈々のこの香りが俺の脳裏に焼き付いてたんだな・・・」
そう笑いながら言う。
「それに・・・。いなくなっちゃったのは雅樹さんの方でしょ。どうして奈々の前から急にいなくなったの?」
奈々がいうその時期、俺は新しい事業を起こすクライアントにいわゆるヘッドハンティングされ職場を変えていた。
大量のスタッフと極めて数の少ない専門的な資格保有者を探しだすことに奔走していた俺に追い打ちをかけるように発生した未曾有の大災害。
その影響は建築資材から作業員まで不足させ、建造物の完成時期を遅らせて事業を一層難航させた。
そんな中、毎日のように始発電車で職場に向かい帰りと言えば終電1本前といった日々が続いていたのだ。
学生の奈々と重なり合う時間は事実上こうして無くなったのだ。
俺は奈々にその当時のことを伝えた。
「だから奈々と同じ時間に同じ車両には乗れなくなってたんだよ」
「でも・・・。どうしてもっと早く奈々のことを思い出せなかったの? どうせ奈々のことなんか忘れてたんでしょ」
「忘れてなんかいないよ。何度もこの香りに記憶が揺さぶられていたよ」
「うそ!」
強がるように泣き顔のままキッと睨んで見せる奈々。
「うそじゃないよ。ただ・・・」
「ただ?」
奈々が急かすように言う。
「覚えてちゃいけない? 覚えているべきじゃないって言うか・・・」
途切れ途切れに言葉を選ぶ俺。
「覚えてちゃいけないって・・・どう言う事?」
怪訝な顔をする奈々。
「助けてあげたなんて思いたくないし、助けてもらったなんて気を遣わせたくもない。たまたま同じ時間に同じ車両に乗り合わせただけのふたりなんだからさ」
力を抜いてそう言う俺。
しかしこれが本音で偽りは欠片もない。
「違う・・・。たまたまなんかじゃない・・・。ふたりの間で起きていることは全部・・・。偶然なんかじゃなくてそうなるべくして起きているんです。雅樹さんがこの異空間に来たのも・・・」
語尾を弱める奈々。
「ああ、そうか・・・どうして奈々がそう願ったのかは正直理解に苦しむけど俺も今、奈々と同じ境遇になったら同じ願い事を言うよ・・・」
「えっ?」
奈々が驚いたような顔をして俺を見上げる。
「俺は、奈々のふたつめの願い事を当てたよな?」
「はい・・・」
奈々が不安気な顔で返事をする。
「みっつめの願い事はきっと『あの人に会いたい。あの人を連れて来て!』じゃないか?」
俺は奈々を抱き寄せる腕の力を少しも緩めずにそう言う。
「ごめんなさい・・・。雅樹さんを異空間に呼びよせて危ない目に合わせたのは全部奈々のせい・・・」
うつむく奈々の顔をグイッとさらに強く抱きしめることで上に向かせる。
「いいや、奈々? 呼び寄せてくれた事を俺は感謝しているよ。奈々はさっき『このまま時間が止まってくれれば一番しあわせ』だって言ってたよな? 俺はそんなことを思ってはいけないとわかっていながら、奈々と同じように考えていた。奈々と過ごしたほんのわずかな時間が俺にとってどれだけしあわせな時間だったか。」
「本当に?」
「本当だよ。だけど奈々、ここは違う! ここでは奈々のことを真に幸せすることは出来ない。それは奈々が俺に教えてくれたことだ。俺は必ず奈々を元の世界に戻す。そしてもう一度奈々をこの腕に抱く」
「そんなの無理、元の世界に帰れば雅樹さんはここでの奈々とのことを全部忘れてしまう。そうしたらまた元のふたりに戻るだけ。奈々にはわかる。ここでの瞬間がふたりの全てだって・・・」
奈々が幼子のように頭を振り再び元の世界に帰ることを否定する。
俺は奈々を体からわずかに離しその顔に近づき力強く思いを放つ。
「俺が奈々の世界を変えてみせるよ。奈々が俺の世界を変えてくれたように。」




