言葉の力
願い事 56 対決
「雅樹さん早く!どのエリアから津波が始まるかわかりませんわ!出来るだけ早く電車に乗り込まなければ!」
俺はふらつく足で必死に走った。
今この地点から津波が始まったら到底逃げ切れない気がした。
奈々は駅に走りながらも辺りを気にかけている。
そして不意に立ち止まると工事資材の置かれている場所から直径8cmほどの鉄パイプを二本拾い上げその内の一本を俺に手渡した。
「雅樹さんこれを手にしていて下さい。」
「鉄パイプなんてどうするんだ?」
「いいからこれを持っていて!死神が来た時にこれを使うのです。」
「こんなもんで死神に立ち向かうってのか?」
「そうです!彼らは雅樹さんがイメージしている死神とはきっと全然違います。彼らを撃退する方法は今のところこれが一番手っ取り早いんです。これを使って彼らを打ち砕いて下さい!」
「打ち砕く?」
俺は走りながら聞き返した。
「そうです!彼らは硬質の物体です。生命体とはとても思えませんが何らかの意志を受けて私達を殺しに来ます。彼らには決して触れないで下さい。その鉄パイプで打ち砕いて!」
走りながら奈々が苦しげに言う。
「わかった。」
俺は手短に返事をするともう一度空の様子をうかがった。
まだ奴らはやって来ないようだ。
津波もまだ始まらない。
強い風が行った後の不気味な静けさの中でただ俺達だけが生きるために走っている。
俺達は立ち止まった時の中を走りに走りようやく駅にたどり着いた。
電車は何事もないかの様に静かに俺達を待っている。
俺達が息も絶え絶えとなって電車に乗り込もうとしたその瞬間頭の上から一体の黒い影が舞い降り俺達の目の前に立ちはだかった。
無数の三角形を重ね合わせた様なその姿は俺がイメージしていた死神を鋭角的で硬質な質感で表現した様な姿だった。
黒光りする漆黒の鋭角的多面体。
生命の欠片すら感じられないその姿から死の臭いが沸き立つ様な気がした。
俺はその存在感に呆然と立ちつくしてしまった。
が次の瞬間、死神の黒々とした太刀の一降りが奈々の顔の前を横切った。
俺は消え入りそうな意識を必死に覚醒させ倒れ込む奈々の体をを支えた。
奈々の長い髪の毛が俺の鼻をくすぐる。
この香り・・この感触・・・どこかで?
またも俺の脳裏を横切るデジャブの様な感覚を押し切り奈々を後ろに隠す。
死神の次の一太刀に備え鉄パイプを握り替えしながら真空になっているであろう空間を避け後ずさりする。
カマイタチの様な衝撃が俺の鼻を真横に切り裂く。
死神が一歩踏み込み太刀を振りかざした瞬間俺は奴の懐に飛び込みその体に叩きつけた。
ガシャンと言う感触が俺の手から頭に響いて来た。
願い事 57 死闘
俺は確実に死神を捉えて鉄パイプで叩きつけた。
しかし死神はその場に浮き続けそれ以上俺達に近づく事はなかったが上半身のひねりと太刀の向きを見た俺は慌てた。
死神は尚もその太刀を振るい降ろそうとしていたのだ。
俺は死神に叩きつけた鉄パイプを次の攻撃のために体に引き寄せようとするが死神の体に同化するように食い込み外れない。
今にも暗黒の大鎌が降り降ろされるとたじろぎ諦めかけた瞬間、奈々の叫び声が俺を闘いに引き戻す。
「雅樹さんこれを使って、叩きつけるのではなく貫き打ち砕いて!!早く!!」
奈々の手から鉄パイプを受け取った俺は力任せに死神の体を貫いた。
と同時に奴の大鎌も振り降ろされる。
俺は死力を尽くして奴に鉄パイプを突き立てながら、寸でのところで大鎌を交わす。
しかし俺自身も鉄パイプで奴を打ち、至近距離にいたため真空からは逃げ切れず左の目の上を裂かれる。
吹き出した血に片目の視力を奪われながらも鉄パイプを突き立てた。
沈黙の世界が更にその静けさをました長い一瞬が過ぎた時ガシャガシャと打ち砕かれる音が鳴り響いた。
続いて死神の断末魔の叫び声が響く。
「グオォォオ~」
まるで地獄の底から沸き出て来たかの様な叫びに俺は無機質な死神の生の部分を見た気がした。
ガラガラと音をたてながら崩れ逝く死神の暗黒の欠片は地面に堕ちる前に跡形も無く消え失せた。
願い事 58 脱出
「雅樹さん!早く!早く電車に乗って!」
殺されていたかも知れないという恐怖とそれを打ち倒した興奮から俺は呆然と立ちすくんでしまっていた。
奈々の呼び掛けで我に返り急いで電車に乗り込む。
例の如く俺達が乗り込むとすぐに電車は動きだし、ただその音だけが鳴り響く。
「雅樹さん大丈夫?傷口を押さえて。」
奈々から小さなハンカチを受け取るとそれで目の上の傷を押さえる。
幸いにしてたいした傷では無いが出血は続く。
「奈々・・奴らはどうした?追ってくるか?」
死神の行方が気になった俺はすぐさま奈々に様子を聞く。
この状態で束になってかかってこられたらさすがに守りきれるか不安だ。
「3体がこの電車を追ってきています。」
奈々が車窓に目をやり即座に答える。
「3体も?どうすんだ?いっぺんに来られたらまずいぞ!」
俺は手にした鉄パイプを握り治し死神の襲撃に備えようと扉に体を向ける。
「奈々!追いついてきているじゃないか!」
3体の死神が電車に並走して飛行している。
「まずい!あの真空波うけたら・・・」
「大丈夫ですわ雅樹さん。彼らは暗黒の津波からそんなには離れられないはずです。ほら、段々離れていきます。」
慌てる俺を落ち着かせるように奈々が穏やかに言う。
奈々の言うとおり死神達は段々と電車から遠ざかっていった。
「もう大丈夫です。ごめんなさい雅樹さん。私浮かれてしまっていたみたい・・あのエリアにいつ津波が来たのかを全然計算に入れていませんでした・・危ない目に遭わせてしまって、ケガまでさせてしまって・・ごめんなさい。」
奈々が今にも泣き出しそうな顔をして俺に謝る。
「こんな傷たいしたこと無いさ。奈々を守れてホッとしたよ・・・あんな経験滅多に出来ない・・死ぬかも知れなかったが・・俺を殺そうとした対象を倒せた。本能が呼び起こされた気分だよ。」
実際俺は死闘が終わった今、これまでに経験した事の無い高揚感を得ていた。
「それより・・・冷静な奈々が何をそんなに浮かれていたんだ?」
俺は奈々の気を紛らわそうと微笑みながらそう問いかける。
「だって・・・男の人をお家に招待するなんて小学生の頃のお誕生会以来だったんですもの・・」
奈々が顔を背け恥じらう様に言う。
本当に育ちが良いんだなこの子は・・・。
なんとしても守らなければ・・・
そして・・・
ここから逃げ出す手段も・・・
そんなことを考えながらも俺はおくびにも出さずただ明るく返す。
「そうか~それは残念だった!それを聞いたら尚更奈々のお家に行きたくなったぞ!津波が去ったら絶対に行こうな!」
「ハイ!今度は危ない目に遭わないようにちゃんとします・・・。」
奈々の顔に明るさが戻った。
「頼むよ・・・。」
俺は微笑みながらそう言いながらも胸中で死神について考えていた。
あれがいっぺんに何体も襲ってきたら・・・
こんな武器じゃあ何ともならない。
何かしら戦う術と武器を見つけることだ。
それからもっと奴らについて知る必要もある。
京子ちゃん?
あの子は何を掴んだんだろう・・
奈々は死神との戦い方も京子ちゃんに教わったという・・
あの子のことをもっと知る必要がある。
それから奈々のことも。
俺は顔に着いた血を拭うとガラガラと音を立てながら世界を飲み込む暗黒の津波に目をやった。
あいつのことももっと良く知らねば・・・
願い事 59 勝利の女神
「でも雅樹さんは強運の持ち主ですわ!」
「はっ?なんで?」
奈々が何を持って強運だと言っているのかさっぱりわからなかった。
「だって死神の大鎌を寸でのところでかわしたじゃないですか!」
「あ、あぁ、あれね・・・そうだね運が良かったかもねハハハッ・・・」
笑ってごまかす俺。
あの時、どういう訳か奈々が怒って振り返ってもくれなかったから・・・。
倒れた振りして気を引こうとしたんだけど・・・そうとは言えなくなった。
俺は強運だと言うことにしておこう・・・。
俺に言わせれば奈々が『勝利の女神』だな。
この女神を守ろうと必死になったからこそあんな得体の知れない化け物に勝てたんだからな。
そう言えば・・・。
死神に斬りつけられて倒れ込む奈々を抱き寄せた時、またデジャブみたいなものを感じたな。
奈々の髪が俺の鼻をくすぐった時・・・
奈々の髪が香った時・・・。
奈々の抱き寄せた時。
なんだろう?
以前も同じ事があった様な・・・。
もう少しで思い出せそうな気がするんだが・・・。
「雅樹さん?どうしたんですかボーッとして?」
車窓に目をやりながらボーッとする俺に奈々が言う。
「何でもないよ奈々。俺が強運の持ち主って言うより奈々が俺の幸運の女神かなってさ。そんなこと考えてたんだよ。」
「え~私が幸運の女神ですか?」
「そう!幸運の女神!」
「だって私のせいで雅樹さんケガはしちゃうし危ない目に遭っちゃうし・・どっちかって言うと疫病神じゃないですか?」
「そんなことないよ奈々はやっぱり勝利の女神だ!」
「どうして?」
「どうしても!」
「根拠を教えて下さい。」
「根拠なんてどうでも良いよ。」
「どうでもよくありません!どうしてそうなのかを考え捉えることは大切ですわ!」
「なんだよそうムキになるなって、いいじゃないか奈々は俺の勝利の女神なんだから!」
「だからどうしてそうなのか教えて。」
「だから~」
奈々・・・
時々異様にしつこいんだから・・・。
何かを知りたいと思ったら止まらないタイプの子だな。
「だから?」
奈々は大きく目を見開いて言う。
その仕草のなんと愛らしいことか。
眩しすぎるその姿にやはり女神だなと心の中で呟く。
そんな自分に照れた俺は奈々から少し顔を背けた。
願い事 60 想い
いやいや照れてる場合じゃないだろ。
ここはひとつオジさんらしく・・・
「どうしてって・・そりゃあ奈々が可愛いからだよ。奈々を必死で守ろうと思ってあんな化け物と戦えたんじゃないか。それにあの時奈々が叫んでくれなければ俺は奴らにやられてたし・・だから俺の勝利の女神!」
とオジさんらしい余裕を込めて言う。
変な下心がないと大胆な事も意外とすんなり言えちゃったりするんだよね。
「・・・・・」
無言でジッと見つめる奈々。
あら?
気のせいか、またまたご機嫌斜めか?
「雅樹さん・・そう言う事いろんな女の子に言ってるんですか・・・」
厳しい目つきで奈々が言う。
一瞬ドキッとするがそんな素振りは微塵も出さ無いように頑張る俺。
そりゃあ、オジさんだからそのくらいのことサラッと言うけど・・。
別に相手にされない事を前提にね。
自分で認めつつなぜか奈々に取り繕う俺。
「何でそんなこと言うわけ?大体あんな事態現実世界ではあり得ないだろ?死神に殺されそうになるなんてさ。それに、考えたら俺は二度までも奈々に命を救われてるから厳密には命の恩人?で奈々のおかげで生き抜けたから俺の勝利の女神!こんな事そんじょそこらの女の子に言うと思う?つまり・・奈々が俺にとって特別だって事だよ。」
「・・・言葉数が多くなるところがなんだか怪しい。人ってやましいところがあると言葉数が多くなりますものね・・・。そうやって『君は僕にとって特別だ。もう一生離さない』なんていろんな女の子に言ってるんじゃないですか」
「・・・・・。」
今度は俺が無言になる。
さすがにオヤジの戯れ言でにそこまで強烈な事は言わ無いって・・・。
でも・・・
これ以上余分な事言うと余計に言い訳がましくなるか?
「ホラ!図星!ホントのこと言われると言い返せなくなっちゃいますもんね~。」
奈々が意地悪く言う。
何でそこまでこだわるかなこの子は・・・。
そう思いつつ・・・
「別に認めた訳じゃないよ・・ただ・・・」
「ただ?」
勝ち誇ったように奈々が繰り返す。
「奈々にそんな風に思われていたって考えると切なくてさ・・・」
「え?」
「傷つくよな・・・俺はただ奈々が大切だって言いたかっただけなのに・・・・」
ちょっと表現がストレート過ぎたかな。
でも想いに嘘はない。
願い事 61 言葉
「雅樹さんごめんなさい・・・私、意地悪言っちゃった・・」
さっきまでの勢いは消え失せた奈々がポツリというとそのままうつむき黙りこくってしまう。
これは反撃の好機かなとチラリと意地悪が浮かぶがすぐにかき消す。
半分おちゃらけた気分も混じっていたはずの自身の言葉に戸惑う。
「奈々気にしないでくれ。奈々のおかげで俺は頑張れた。それだけわかってくれれば良いんだ。」
「はい。」
奈々の顔に明るさが戻る。
その姿を見て俺の気持ちも和らいでいった。
この素直な反応に俺自身が支えられまた突き動かされていることもまた明白な事実なのだ。
「雅樹さんはやっぱり優しい人でした。」
奈々が茶目っ気を込めて言う。
「やっぱりって?」
どこか含みを持たせたような言い方がひっかかり奈々に問いかける。
「なんでもありませ~ん。」
「また内緒かよ・・・」
「そう~内緒~。」
「奈々は謎めいた子だね・・・」
「そうですか?」
「そうだよ。」
「でも男の人って謎めいた女性に惹かれるんでしょ?」
「まぁ・・ね。」
俺としては開け広げの子の方が好きだけど・・・と言う言葉を飲み込んで返答する。
「じゃあ奈々はいつまでも謎めいた女でいて雅樹さんを惹きつけ続けちゃいま~す。」
「もう充分惹きつけられているよ。」
「嘘ばっかり~。」
「なんで嘘ばっかり?」
「奈々にはわかります~」
「わかったわかった奈々には降参だよ。」
「ほら!降参って肯定した~って事はまだまだ奈々に全然惹きつけられてないって事でしょ~」
むくれた振りをしながら奈々が言う。
「また・・奈々はすぐ言葉尻をとるんだからな・・あんまりオジさんいじめるなよな・・・」
「揚げ足とってるって言いたいんだったら違いますよ~だ。奈々は言葉ってとても大切だと思うんです。例えば自分では認識できていなくても言葉が如実に真実を語ってくれます。人って知らず知らずのうちにって言うか何気なく本音で話してたりするもんですよね。」
「そんなもんか?」
「そんなものです。奈々は言葉ってとても大きな力を持っていると思うんです。私達はそれが嘘でも何でも言った通りになろうと無意識の内に行動していたりしませんか?だから悪いことは言っちゃダメなんです。」
「おぉ~なんだか哲学的だな奈々!」
「そうですよ、奈々は詩人で哲学者なの!なんちゃってね。」
そう言って笑う奈々の笑顔が眩しかった。
願い事 62 内宇宙
「病は気からってってのも似たようなもんかな。」
死神の恐怖から逃れた俺はこんな取り留めない話しを求めていた。
極度の緊張から解き放たれた後って言うのはこんなもんなのだろう。
「同じだと思います。言葉として口に出すかどうかも重要だけど要は『想い』の問題ですものね。」
「想いか・・・口に出すか出さないかの違いって言うのは?」
「口に出す事で他者に意思を表明することになりますから、ただ想っているよりも大きな力となります。場合によってはただ言うだけでも、実行したのと同じくらいの重みを持つことだってありますわ。」
「例えば?」
「例えば『殺してやる』とか『愛してる』とか?わかりやすいのは『殺してやる』と言った場合の方かしら。つまり・・・『殺してやる』と言った瞬間にそれを言った者は相手を自分の内宇宙内で殺してしまうんです。そして言われた者はそれまでは双方の内宇宙に存在していた自己の存在が少なくとも相手方からはいなくなります。だって相手は自分のことを殺してしまっているんですからね。場合によっては言われた側の内宇宙からも抹殺されてしまうこともあるでしょう。そうなった場合は双方の内宇宙からその存在が完全に消えてしまうわけです。消滅・・つまりは死です。」
「でもそれって内宇宙・・・内宇宙っていうのは平たく言えば精神世界・・つまり心の中ってことだろ?心の中で殺されたからって現実世界にはそんなに影響ないだろ?」
「そうでしょうか?雅樹さん?『殺してやる』って言われたことあります?」
「いや・・今のところ無いけど・・・」
奈々の目つきが鋭くなった。
「想像してみてください・・・『殺してやる』なんてこと言われたらどんな気分になるか・・・。例えばネット上でお互いハンドルネームでやり取りする関係・・要するにお互いの実体は知らないケースでも、殺してやるって書き込みでもされよう物なら・・・」
「そうだな・・・仮想世界でのやり取りでも充分威力があるかもな。生きた心地がしないって言うか・・・何となくわかるよ奈々。」
「それがもし面と向かってだったとしたら?もうやったも同然のダメージを相手に与えることになるわ。
法的にも殺人を表明すると言うことになりただではすみませんものね。」
「なるほど・・・そう言う捉え方をすれば確かに奈々の言うとおりだな。『言ったことはやったことに等しい』っか。」
「そうですある種の言葉達は言うだけでやったことと同等の効力を発生させますわ。」
願い事 63 天使の憂い
奈々の確信に満ちた目が車窓を見つめる。
「例えば窓の外に言えるあの高いビル・・あれだって誰かが初めに『ここにビルを建てるぞ』って思ってそれを実現すべく口にしたことから始まったんです。言葉には何かを創り出す力があります。」
「なるほどのその通りだ・・ビルを建てようと思い、建てる!と口にする。そこから全てが始まって多くの人間が動き実際にビルが建つ。」
「そうです。まさに『初めに言葉ありき』です。」
「言葉か・・・そんなに意識したこと無かったが確かにそうだよな。身近なところでも嫌なこと言われれば心が沈むし、良いこと言われればワクワクするし結構言葉に左右されてるよな俺達って。」
「だから良い言葉を使うことを心がけなければならないのです。人を生かすも殺すも言葉次第です。それがわかっているのなら人として選ぶ道はひとつ!のはずですよね・・・。」
「奈々の言うとおりだが・・実際はそううまくいってないよな・・・ちょっとした言い争いから小さくは個人間、大きくは国家間で悲惨な殺し合いが繰り広げられている・・・」
「残念な話しです・・・。言葉を使える『人』と言う生き物には大いなる可能性があるというのに・・・この世を天国にするのも地獄にするのも一重に『人』が『言葉の力』をきちんと意識し正しく使えるかどうかにかかっているのに・・・」
奈々の憂いのある横顔に見入ってしまう俺。
その時、窓の外を見つめる奈々を強烈な光が照らし出した。
そして一瞬、俺の目に天使になった奈々の姿が映った。
純白の衣にやんわりと身を包み、やはり純白の大きな羽をつけた美しい天使。
奈々の真っ直ぐで純真な心、やわらかな眼差し、温かい手。
もしかしてこの子は本当に天使ではないか?
そんな想いを抱いていた俺の目の錯覚か、次の瞬間にはもう元通りの奈々がいた。
俺は目をこすりながらもう一度奈々を見直した。
「どうしたんですか雅樹さん?」
「なんでもないよ奈々。光が眩しくてさ・・・」
「光?」
「いや・・奈々が眩しかったんだなきっと・・・」
きっと俺は奈々に光を見たのだ。
そしてその先の奈々の幻影に彼女の本質を見たような気がした。
「もう、雅樹さんたら。」
「奈々言葉についてもう少し話そうよ。」
願い事 64
「あら、雅樹さんこういった話好きですか?」
「好き好き~大好き。謎とか不思議だとか神秘なんて話大好きだよ。宇宙の果てはどうなってるんだなんて考えると眠れなくなっちゃうし、UFOも輪廻転生もロマンがあって良いね~。ま、一言で言ったら『夢見る中年』って感じかな?そう思って見ると俺の瞳もなんだか少年の様な輝きに溢れてるみたいだろ?」
「フフッ雅樹さんたら…雅樹さんは、おじさんになんて見えませんよ。」
奈々が微笑む 。
「本当に?お世辞でもうれしいよ奈々。生きる気力が湧いてくる…みたいな!まさに言葉の力が人を生かす!だね。」
「ウフフ、本当、言葉の力ですね。」
奈々が微笑む度に生きる気力が湧いて来ている。
と言うのが俺の気持ちの本当のところだ。人を生かすのは言葉だけじゃないよな…奈々。
「そうだ!奈々!『法律』なんて言うのは究極的に言葉の力を活用した物だよな?」
「そうですね。今まで議論していた言葉の力とはちょっとニュアンス違いますけど。つまり言葉の力によって行動を律するんですね、法律の場合は。」
「一番代表的でわかりやすいのは…『汝殺すなかれ』だね?」
願い事 65 汝殺すなかれ
「うふふ、また聖書からの引用ですね。雅樹さん?こういったお話しも大丈夫なのね?」
「全然大丈夫だよ奈々!興味の範疇が一般的でないかも知れないけど宗教にはとても興味がある・・・う~んつまり、『最大の神秘なのかそれとも最強の規範なのか』って言う価値観からなんだけどね。」
「『最大の神秘なのか最強の規範なのか』・・・ですか。」
奈々が訝しげな顔をして繰り返す。
「そう!人類が科学力の粋を駆使したとしても今だたどり着けない神への膝は・・えっと、つまり科学では実証し得ないし否定も仕切れない最大の神秘って事なんだけどやはり実在するのか、それとも時代背景や地域性を鑑みて発達した人心統治の最強の規範なのかって点でね!」
「ふ~ん・・面白い捉え方かも知れませんね。つまりそれは『神は創造主かそれとも創られた象徴か』って言うことですよね?」
「さすが奈々!わかってくれるよね!」
「雅樹さんはどちらだとお考えなんですか?」
「そうだな今のところやはり最大の神秘だと考えているよ。やはり完全に否定しきれない。」
「どういった観点で?」
「俺は科学者でもないし哲学者でもないから感覚的な物でしかないんだけど、それでもこの宇宙が誰の意志でもなくただ偶発的に生まれ出たとはどうしても思えないんだ。つまり神の存在を否定仕切れないと言うか・・消極的な発想かも知れないけどね。」
「いいえ雅樹さん、私もそう思いますわ。」
「奈々!この感覚わかってくれるのか?うれしいよ。俺は怖いんだ・・もし宇宙が何の意志もなくただ湧き出たのだとしたら、俺達はただ生まれ出て、ただ生き、ただ悩み苦しみ、時には喜び愛し憎むそして・・ただただ死んでいくんだって考えざる得ない気がしてさ。そうなると、一体何のために生きるのかが益々わからなくなって・・なんだかとてもやり切れない気分になったりするんだよ。」
「わかりますわその気持ち・・でも雅樹さん?私達は生まれた、そして創り出す。『言葉の力』を正確に意識しないまでもここまでたどり着いた。何のために生きているのかは、もう少しお話しをする中で見えてくるかも知れませんわ。」
「そうだとうれしいよ奈々・・・」
「まずは『言葉の力』のもう一面について『汝殺すなかれ』を例にとって考えてみましょう。」
願い事 66 十戒 十善戒
「『汝殺すなかれ』を考える前に軽く十戒についておさらいしましょうか。」
「頼むよ奈々。」
「はい、雅樹さん。十戒とはエジプト出発の後にモーセがシナイ山より授かった石版二枚に記された戒律でプロテスタント、カトリックで若干の表現の差はありますが総じて次のような内容です。一、我は汝の神ヤーウェ、汝をエジプトから導いたもの、我の外何ものも神とするなかれ。二、汝自らのために偶像を作って拝み仕えるなかれ。三、汝の神ヤーウェの名をみだりに唱えるなかれ。四、安息日をおぼえてこれを聖くせよ。五、汝の父母を敬え。六、汝殺すなかれ。七、汝姦淫するなかれ。八、汝盗むなかれ。九、汝隣人に対して偽りの証をするなかれ。十、汝隣人の家に欲を出すなかれ。汝殺すなかれは十戒の六番目に記されているんですね。」
立て板に水、全くよどむことなくスラスラと十戒について語る奈々。
奈々は一体何のプロフェッショナルなのだろう?と言う疑問は未だに解決されていない。まぁぶっちゃげて聞けばそれで済むんだがそれじゃあ芸がない。それに、こんな異常事態の中にあっても出来れば会話の中で触れあう中で段々と奈々という一個の女性を理解したかったのだ。
しかし・・十戒をそらんじて言うからにはそれなりの学問的、生育歴的な背景があるのだろう。
俺は奈々のバックボーンを探るかのように質問する。
「十戒って言うとさキリスト教の物ってイメージあるけどアラブその他の回教圏においても、モーゼは偉大な預言者として尊敬されているんだって何かで聞いたことあるけど、どうなんだ?」
「雅樹さんの言うとおりモーゼはイスラム圏でも尊敬を集めています。そして十戒の思想は様々な形でコーランの中に取り入れられています。」
キリスト教徒と言うよりも宗教全般にわたって知識がある・・・か。
すると宗教社会学か神学系の研究者なのか?
しかしどうも奈々には理数系の臭いがするんだが・・気のせいだったか。
いや先駆的な科学技術の研究の果てに宗教に行き着くと言うこともあるから一概には言えないな。
「日本にも、って言うか仏教にも十戒と似たようなのがあったよな?ジュウゼ・・何とかって奴!子供の頃婆ちゃんによく言われたよ。欲張っちゃいけません、やたらに殺しちゃいけません、人の物を盗ったり、嘘をついたら仏様の罰が当たるんだよってさ。」
「それは十善戒ですね。、不殺生 故意に生き物を殺しません。不偸盗 与えられていないものを取りません。不邪淫 みだらな性的関係を持ちません。不妄語 嘘をつきません。
不綺語 無駄な噂話をしません。不悪口 乱暴な言葉を使いません。不両舌 他人を仲違いさせるような言葉をいいません。不慳貪 異常な欲を持ちません。
不瞋恚 異常な怒りを持ちません。不邪見 (因果、業報、輪廻等を否定する)間違った見解を持ちません。と言う仏教における十悪を否定形にして、戒律としたものです。」
「そうなんだ十善戒って言うのか。しかし奈々は詳しいな。宗教学を専攻していたのかい?」
「いえ特別に専攻はしていませんが、私の研究の果てにどうしても大いなる存在が見えてくるのでどう言った物なのか色々と学びましたわ。」
研究の果てに、大いなる存在が見えてくる・・・か。
やはりかなり先駆的な科学技術を研究している感じだな・・・。
「しかし・・十戒と十善戒・・・時代も地域も全く違うのにかなり共通した事項があるな。まぁ時代的には十善戒の方がずっと後だから十戒の影響を受けている可能性はかなり高いにしても・・殺すな、盗むな、姦淫するなそれから、十戒の汝隣人に対して偽りの証をするなかれって言うのと十善戒の不両舌他、人を仲違いさせるような言葉を言ってはいけないなんてのはまるっきり一緒だもんな。やっぱりこの辺の事って人類普遍的な物だからなのかな?」
「そうですね両者に類似点が多いのはとても興味深い事です。十戒の、殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。隣人に関して偽証してはならない。隣人の妻を欲してはならない。隣人の財産を欲してはならない。と言う部分は刑法の根幹とも言えますね。この後『言葉の力』について法律の観点から考える上でも興味深い事ですわ。殺人罪とか、もう廃止されていますけれど姦通罪とかと照らし合わせる上でも。」
「う~んちょっと大胆なと言うか早急な仮説かも知れないけど『神はひとつ』って言うのはやっぱり本当かもな。地域性や時代背景の差違から神や、仏と呼び方が違ったり捉え方や細かな教義は違うけれど根本的なところではかなり共通点が多いものな。」
「そう言った捉え方も出来るかも知れませんね。でも私が一番ひっかかっている部分は・・・」
「何か気になることがあるのかい奈々?」
「ええ、気になるって言うかなんだかとても違和感のある表現が十戒の中にあって・・」
「どの部分にだい?」
「十戒の初めの部分にですわ。神はこう言っています。私の他に何者をも神としてはならない。己の為に何の偶像を作ってはならない。天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもの、水の中にあるものの何の形をも作ってはならない。これを拝んだり使えたりしてはならない。私は妬む神である。私を憎むものには父の罪を報いて3、4代に及ぼす。私を愛し、戒めをまもる者には千代に渡り恵みを施す。神の名をみだりに口にしてはならない。と言うくだりです。」
願い事 67 違和感
「う~ん言われてみれば違和感あるな・・なんて言うのかなぁ・・人間くさいって言うか・・・」
「そう!そうなんですよ雅樹さん!私もこの部分の表現がどうにも人間っぽいなぁって!例えば『私は妬む神である。』なんてとこ!」
奈々が興奮した様子で言う。
「だよなぁ~。普通人間でも『私は妬みが強い』とはなかなか宣言しないよな?まぁ可愛い女の子に『私ってヤキモチ焼きなの』なんて言われればちょっと男心くすぐられるけど・・・。でも・・あれか?神だからこそ恥じることなく堂々と自分をさらけ出してるとも言えるか?」
「そうですね、そう捉えると『私を憎むものには父の罪を報いて3、4代に及ぼす。私を愛し、戒めをまもる者には千代に渡り恵みを施す。』という凄く厳しい一面もうなずけますけど・・・」
「なんだかまだ納得いかない感じだね。」
「雅樹さん、私も大いなる存在は実在する確率が高いと考えているんですけど、もしかしたらその存在は超然としつつも、もっと我々人間に近い感覚なのかなぁ・・・・なんて考えちゃうんです。」
「それってどういう事?」
「感覚的になんですけど・・・例えば我々よりも長い時間軸で存在する別次元の生命体であるとか。」
「別次元の生命体?」
「そうです!」
「時間軸が長いって言うのは?」
「要するに人間よりもずっと長生きって言うことなんですけど・・・例えばさっきの『私を憎むものには父の罪を報いて3、4代に及ぼす。私を愛し、戒めをまもる者には千代に渡り恵みを施す。』って言うところは要するに、『報い』は3~4代、『恵』は千代って言ってます。これはつまり、150~200年くらい罰を与えて1000年間恵を与えるって事ですよね。それって凄く長生きって事ですよね?」
「まぁ、そう言うことになるよね。奈々の計算だと1代50年だろ?千代ってのはとても長い時間を示して、まぁだいたい1000年くらいを意味してるよな。これをバカ正直に文字通り1000代に置き換えたら5万年!人間と比較したらとんでもなく長大な寿命だな。しかし・・それは長生きって言うより神が永久不滅だって言うことを示唆しているんじゃないのか?」
「もし神が永久不滅ならば、永遠に罰を与え永遠に恵を与えるってすれば一番効果があるって思うんです。永久に罰を受け続けるって考えれば罪を犯さないって思うだろうし反対に永久に神の慈愛を受けられるって思えばどんな苦境も我慢できると思うんですよね。でも実際は期限を決めている。つまり人間界における賞罰的なニュアンスですよね。この辺もとても人間っぽいと思うんです。期限があるって言うところに慈悲深さも感じ取れなくもありませんがそれ故に法制的な印象をうけるんですよね。またそれ以上の期限は見切れ無いとも読めなくもありません。この点から寿命は人間と比較して長大ではあるけれど不死ではないのではって考えたんです。」
「なるほどね・・・俺は見切れないって言う捉え方を別の側面から考えちゃったよ。確かに見切れないかも知れないよ。だって千代、1000年間『恵』を与えるって事はだ、一代50年と換算したとして20代、つまり初めに『恵』を受けた一個人から始まって最低二人は子供をつくたとしてその子供、孫、そのまた子供・・・と追っかけていくと1000年後には200万人を超える子孫に『恵』を与えなければならない。200万人って言ったら大都市一個分だぜ!さらにさっき言ったようにバカ正直に5万年って考えたら5万年後にはとんでもない数になっちゃうぜ?当然人類が神を言葉として認識してからまだ5万年も経ってないから厳密ではないけれど現在の地球全体の人口と比較したらほとんどの人間が恩恵を受けてるってことになりそうだよ・・。『恵』を与えられる人間だって一人じゃないだろうからね。まぁ『罰』を与えられる奴もいるけど期間が違いすぎるからなぁ。なんてこと考えると神が永久不滅だとしても見切れないから期限を区切るのもわからなくはないな。なんてね。」
奈々の感性に思わず感心してながらも俺自身の考えを伝える。
「うふふ、おもしろい~想定すると生き残っている人のほとんどが何らかの『恵』を受けているって事になりそうですね。」
「まぁ生まれ生きるって事だけでも充分『恵』を受けているとも捉えられるよな。」
「雅樹さん私にはまだ気にかかることがあるんです・・・」
「まだ何かあるのかい?」
「ええ、一番違和感を感じる部分があるんです。」