表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/93

ある朝目覚めた俺は誰もいない世界に取り残された。漆黒の津波と死神から逃げ切り元の世界に帰れるのか?!

この小説も未完です笑笑。2010年8月頃から取り憑かれた様に書きました。ブログの読者が飼っているワンちゃんの名前を登場人物につけたりしてました。後々気がついてぞっとしたのですが、作品中に黒い津波と言う表現である意味モンスターを登場させているのですが、書かなくなってからすぐに東日本大震災で津波による甚大な被害が発生し戸惑いました。

 何のきっかけがあるでなし、朝起きてまた一日が始まる。

今日も若干のブレは在るにせよ、いつもと変わらない日常が繰り返されるのかと思うとベッドから這い出すのには勢いが必要だった。


カーテンを開け朝日を浴びる。

が、まだ目は覚めない。

階段をのっそりと降りリビングを抜けダイニングを通り越しキッチンから表へ出る。

勿論その間に煙草とライターはポケットに忍び込ませている。

寝ぼけながらもその辺にはぬかりない事に我ながら呆れる。


煙草に火をつけ煙を吸い込む。

ようやく朝が来ることの意義を見出したかのようにゆっくりと煙を吐き出すが、それはまるで溜息のようでもあった。


平凡な一日の始まり。

平凡であることの難しさ。

平凡たる事の力強さを実感せしめる年になってなおこの胸に渦巻く想いをなだめすかすには、『あまり目は覚めない方が良いのかもな』などとぼんやり考えれば一本の煙草の役目はあっけなく終える。


静かな朝。

静かな朝がなぜか苛立たせる。


なぜなんだろう。

ちっぽけな自分を偽りで装うかの如く生きる意味に固執し、殊更意識を高める。

それが何になったのだ?


静かな朝。

あまりにも静かな朝が不意に自分を顧みさせる。


耳を澄ますといつもの心地良い波音がかわらず響く。

少しホッとする。


それと同時にやはり静寂すぎる朝への不安がよぎる。

波音がいつもより澄んで聞こえるのだ。


違和感を覚えつつ短くなった煙草の火を消し部屋に戻る。

この時まだ感知していなかった事態を潜在下に抱きながら。


漠然とした不安を抱えながらもとりあえず目を覚ました私はテレビをつける。


が、どのチャンネルに合わせても映像が映し出されない。


特にみたい番組があるわけではなかったがとりあえず世の動向を頭の片隅に残すためにニュースでもと半


ば形骸的につける朝のテレビ。


時計替わりでもあるな。


なぜ映らないかはわからないが今から電気屋に電話して修理を頼むわけにもいかない。


仕方なくいつもなら出かける前に一緒に持ち歩く新聞を取りに行く。


ソファーに腰掛け一面の見出しに目をやると日本人の平均寿命についての記事に目がいく。


女性が86歳、男性が79歳・・・か。


少し男の寿命が延びたかな・・・。


本当かね・・・・。


ふと、夕べ飲み屋で友人とかわした会話が蘇る。


自殺者数年間3万人。


尋常ではない。


ひと頃交通死亡事故が問題となった時代でも年間1万人くらいだった。


日本の人口を1億人として1万人にひとりの人間が交通事故で亡くなっていた計算だ。


いわば万が一・・・・。


それが自殺者数は3万人。


約3千人に一人が自ら命を絶っている。


地方のちょっとした都市、例えば10万人くらいの地区ならば33人。


半分の5万人規模の地区ならば15人ほど。


もちろん地域格差や偏在性もあるだろうから一概に数字で延べられないがこのくらいの割合だと知り合い


ひとり2人を介すれば自殺者もしくは自殺者が出た家族との人間関係の環にひっかかりそうだ。


万が一どころの話しではない。


かなり日常的になってきている死亡原因、自殺。


酒を飲む肴としては、はなはだ趣味が悪いがそれだけ身近な話題となってきているのだ。


年間の死者の2.8%が自殺によるもので、癌や心疾患などに次いで6番目に多い死因となっている。


そんな状況にもかかわらず平均寿命が延びている?


それも男性の平均寿命が?


にわかに信じがたいな。


自殺率は男女差が激しく、自殺者の70%以上が男性である。


統計によると男性は女性より2.5倍自殺しやすい。


男性の方が自殺しやすい原因として、失業を含む勤務問題が挙げられる。


実際、遺書などから自殺原因を調べた場合、20台~60台では「勤務問題」、「経済・生活問題」を挙げ


る者の数が男女で実に10倍近くの開きがあるという。


男の平均寿命が延びているとは考えにくいな・・・。


大体男なんて生き物は弱いのさ・・・。


仕事や経済問題での自殺。


確かに男はプレッシャーの中にある。


だがそれ以上に、望むべき自分の姿と現実とのギャップを認識した時、男は女が考える以上の失望感を味


わう。


調べたことはないが百六十万人とも言われる『ヒキコモリ』も恐らくその大半が男であろう。


なぜ男は弱いのか。


自らを振り返るにつけその弱さは男が男たらん事から起因するものだとつくづく思う。


理想と現実の隙間を埋める事が下手だと言い換える事が出来るかもしれない。


およそ全ての男は、物心がつくや否や男の理想像を連日の様に植えつけられる。

正義のヒーロー、エースで四番、白馬に乗った王子様…。


少年雑誌でアニメでテレビドラマで…


毎日毎日…


寝ても覚めても…


誰でも出来る事なら男心は逸らない。


カーレーサ、パイロット、プロ野球選手…


また、か弱い上に幼い生き物である男はもうだいぶ成長したと思われる時期までかなり本気で、正義のヒーローになろうと心のどこかで燻ったりしている。


正義のヒーローに!


男の中の男に!


世界で一番の男に!


…と恋い焦がれるのである。


しかし現実はそううまくはいかない。


そりゃそうだよな・・・


ひとりの正義の味方を支えるために何人の悪者とヒーローを讃える一般市民が必要だって考えれば自ずと


その困難さは理解できる。


ヒーローは選ばれし特別な存在なんだよ。


でもね、理解は出来るが受け入れられないのが弱き男なんだよねぇ~。


つくづく滑稽な生き物だ・・・。


つらつらとそんなことを考えながらふと時計に目をやると、とんでもない時間になっていた。


慌てて身支度をして電車の待つ駅に向かう。


日々無駄な夢想に生きる俺を無機質に現実世界に運んでくれる頼もしい相棒だ・・・。


門を開け閉じる。


『カツーン』と金属音が鳴り響くのを背中に感じながら急ぎ足で進む。


静寂が金属音をいつまでも鳴り響かせていることにはすっかり気がつかない。


かろうじで小鳥のさえずりが聞こえてきた様な気がした。


息を荒げながらホームに駆け込み滑り込んできた電車に乗り込む。


周囲をゆっくりと見渡し何事もなかったように席に着く。


早い時刻の電車なので座席には必ず座れるが、少し様子が違う。


いつもなら5、6人は乗客がいるのに・・・。


俺以外誰も乗客がいない。


もしかして今日は祝日だったか?


などと訝しく思うが、心地良い振動にいつしか眠りにつく。


束の間に夢を見る。


幼い子供の頃の夢・・・。


なぜか幼少期のイメージはいつも曇り空だ。


小学校4年生の頃叔父さんからカメラを貰ったのだが主な被写体は青空だった。


真っ青な空。


青空にポッカリ浮かんだ雲も好きだったがやはりメインは青空だった。


憂鬱な曇り空は大嫌いだった。


幼い頃いつも空は曇っているように思えた。


だがそれは俺の鬱積した想いの反射的なイメージだったのかも知れない。


ぼんやりと靄のかかった幼少期の夢・・・。


俺は夢の中で神様に願い事をしている。


『神様!ちーちゃんをいじめっ子から守れるように正義の味方にしてください。』


小さな手を組み曇り空を見上げて願い事をする俺。


願い事は叶う事なく俺は正義の味方にはなれなかった。

そしてまた幼い恋心ではあったが、ちーちゃんにとっての一番にもなれなかったようだ。


『正義の味方になりたい!』


『正義の味方になってちーちゃんを守るんだ!』


『ちーちゃんの一番になるんだ!』


少年の願いは神様に届かなかった。


それから先も願い事はことごとく神様まで届かなかったようだ。


競争に継ぐ競争。


一点の中に百人がひしめくような受験戦争。


強烈な不景気。


将来への不安。


思い起こせば随分過酷な時代に生まれたものだ。


なかなか一番にはなれずやっとなったとしてもすぐに次なる一番がやって来る。

優秀な奴は沢山いるのだ。

小さなコミュニティの中でさえヒーローになるのは難しい。


生きている限り勝ち負けはしょうがない。


次のチャンスがあるさ。


『今が最悪、今が最高』なんてうそぶきながら生きてきた。


全ては言い訳に過ぎないと知りながら…


電車の揺れが心地好い。


まるで揺りかごだ…


それにしても静かだ。


いつもならそろそろ、ザワザワと乗客が乗り込んできてざわめきで目が覚めたりするのだが…。


あろうことか今日はあまりの静けさに目を覚ました。

様子がおかしい。

あたりを見回すまでもなくその違和感を察知することができた。



乗客が誰も乗っていない…。


正確には、俺以外に・・・。


例えば今日が祝日だったとしても、他に誰も乗客がいないなんてあり得ない。

漠然とした不安が、現実的な焦燥感となった時、乗り換えの為に下車する駅に到着した。


いつもよりゆっくりと扉が開く気がした。


俺は恐る恐るホームに降りた。


幼子でもなく、ましてや手を引いてくれる優しい手があるわけもなく、仕方無しにしっかりと目を見開きホームに降りる。




なんと言うことだ…


朝のラッシュアワーでごった返しているはずのホームに人っ子一人いない…


地方都市とは言えいつもであれば、前に進むのに多少の苛立ちを覚える位には人がいる。


だが目の前には全くの静寂が広がっていた。


誰も載せていないエスカレーターが虚しく動いている。


と、今まで俺が乗っていた電車が何事もないかの様に動き出す。


一体何が起きているんだ?

見飽きた駅の見慣れない光景に空恐ろしくなる。


しかし…


しかし会社へは行かねば…

何が起きているのか皆目見当もつかないが、何はともあれ自分のすべき仕事をせねば。


と言うよりはこの異常事態に対峙して正常を保つ為には狼狽えない事だ。


回りが何であれいつもの通りやるんだ。


経験上、慌てると、ろくな結果にならない。


俺はそう自分言い聞かせるととホームを渡りいつも乗る電車を待った。


誰の背中を見る事もなく立ち尽くしている俺の姿は誰がどう見ても朝のラッシュアワーに電車を待つ男の姿ではなかった。


もっとも誰が見る事もなかったわけだが…


来るかどうかもわからない電車を待つ間、俺は薄く目を閉じていた。



ひとつには、次に目を開いたらいつものありきたりの光景が広がっている事を期待して…


もうひとつには…


静寂の恐怖から目を背ける為に…


だがしかし静寂の恐怖はむしろ視覚よりも聴覚に襲いかかり,不意に背中から線路に突き飛ばされる妄想に支配され慌てて目を開いた。


身を振り替えしながら後ろを睨み付けるが誰もいない。


ただ風が体を通り抜けるだけだった。


ふと視線を上にやると、そこにはいつも乗る電車が既に到着している。


電車が近づいて来る音に全く気がつかなかった。


静寂への恐怖心から一時的に聴覚が失われたのかとも考えたがそうではないようだ。


肩にさげていた鞄がスルリと落ちバタリと音をたてた。

俺は数分間静寂の恐怖に全身全霊をかけて抗っていた事に気づかされた。


だがしかし、闘いはまだ始まったばかりだ。


俺は意を決して無人の電車に乗り込む。


静寂が支配する空間・・・。


当然どこも空席だか、いつもの車両のいつもの座席を目指して座る。


と座席にかすかな温もりを感じ不安に張りつめた気持ちに和らぎを感じる。


錯覚?


錯誤?


錯覚に決まっている・・・。


誰も乗っていない電車の座席に温もりがあるわけがない。


俺はハッとした。


もしかして俺は静寂という、現代社会においてほぼ自然の状態ではあり得ないこの事態に恐れおののき失禁してしまったか!


慌てて股間に手を当てるが心配していた有様にはなって居らずホッとする。


が、例え失禁してしまっていたとしてもそれがなんなのだ・・・・。


ここには誰ひとりそれを見とがめる者は存在しないではないか・・・。


口元がゆがみフッと鼻で笑う。


そして次の瞬間には笑うことを必死で押さえる。


正気を保たねば・・・。


静寂は冷たさを伴い張りつめた空気を創り出していた。


不意に電車が動き出す。


おかしい・・・。


時計に目をやると7:53分を指している。


やはりおかしい。


この電車はこの駅で5分間停車し7:48分に出発するのだ。


それが到着したと思ったらすぐに出発しそして時計は既に7:53分を示している。


つまり・・・電車が遅れていると言うことか・・・。


そんなに訝しがることもあるまい。


線路内に異物があったため、信号機が異常を示したため、車両に何かぶつかったため点検・・・様々な理由で電車は遅れるものだ。


それに・・・この誰も人間がいな事態に比べたらわずか5分ばかり電車が遅れるなど何だというのだ。


俺は再び湧き上がる狂気の笑いを必死で押さえた。


そうだ!冷静になるんだ。


ここで正気を失ったらどうしようもない。


誰も正気に戻してくれる人がいないんだからな。


考えろ。


この状態がなんなのか。


何が起きているのか考えるんだ。


思い出せ!思い出すんだ。


何か思いあたる過去の現象と経験を!


何でもいい!


小説、映画、荒唐無稽な夢物語の中からでも何かヒントを導き出すんだ・・・。


考える糸口を掴むための小さなきっかけを見いだすんだ。


夢物語?


夢?


そうだ!まずは今のこの状況が『夢』である可能性について考えよう。


この現象が『夢』である可能性は・・・。


50%


現状では50%に設定せざるを得ない。


異常事態に際しては『こんな事起こり得ない』という既成概念を捨てなければならない。


誰もが起こり得ないと考えていたにもかかわらず発生した異常な事態に対して否定的な観念で対峙しても解決など出来るわけがないからだ。


それに・・・量子力学的には、何が起きても不思議はないのだから・・・。


例えばテーブルの上に置いた手の平がテーブルを突き抜ける可能性は限りなくゼロに近い。


しかし絶対に起こらないとは言い切れないのだ。


今のこの状態はまさにそう言った価値観で捉えることが重要だと直感した。


仮に夢であればこのまま放っておけばよい。


いずれ目が覚め『あぁ嫌な夢だった』で済む。


しかし夢でなかった場合・・・


夢でない可能性が50%あるならば最悪の事態を想定し考え行動することが賢明だ。


夢であったのならそれでよい。


まずは現実としてこの事態と向き合う事。


俺が生き残る確率を引き上げる行動はそれしかない。


さぁもっと考えるんだ。


車窓にはいつもと変わらない景色が流れている。


港、高層ビル、マンション、公園…


無機質な高層ビルがいつにもましてそう感じられるのは、そこに誰も人間がいないと言う先入観の為なのか。


たった今『考えるんだ』と自分を鼓舞したばかりなのにボンヤリと景色を眺めてしまう。


フッ頭とをよぎる過去の記憶。


そう言えば数年前のハリウッド映画で似たような話があったな。


世界で一人だけ生き残った男の話。


映画は結局見なかったがたしか強力なウイルスで人類が滅びるってストーリーだったな。


結局最後はどうなったんだ?

もしかしたら映画の様に質の悪いウイルスが流行って外出禁止令が出ているのかな…


ここまで考えついたところで俺は不意に冷静さを取り戻した。


そして今度は涌き上がる思いを堪えられずに笑いだした。


それは狂気の笑いではなかった。


俺は何を悲観的になっているんだ。


これは映画じゃない。


ましてや俺は一人きりなんかじゃない。


あまりの異常な光景に冷静な判断がつけられずにいただけだ。


ただただ自分がおかしくて笑い続けた。


誰も乗客はいないんだかまうもんか。


しかし、我ながら情けない。


異常な光景を目の当たりにしたとは言えパニックになって根本的な事象を取りこぼすとは。



そう!


電車が動いていると言う事実を!


少なくとも俺は映画の主人公の様に世界で一人きりではない。


となれば話は早い!


後は、携帯で誰かに電話するなり、ニュースを見るなりして情報を得ればいい。

まぁ…初めからそうしろよって話だが…


何が何だかわからないと言う恐怖から解放された俺はいずれ笑い話になるであろうこの事態について頭の体操位の軽い気持ちで推理し始めた。


答えは直ぐにでもわかると言う安直な考えの反面、悪いウイルスだったらマズイとの思いもあったが何しろ電車の運転手は間違いなく存在するのだからと言う安心感が勝ったのだ。


後々話の種にもなるしな。

何の情報も無くしてこの状況がなぜ生じたのか推理して正解にたどり着いたとなればちょっと得意だ。


それに今は電車の中だからな。


誰もいないとは言えマナーとして電話は控えよう。


さっきの大爆笑はご愛嬌。

悪いウイルスだったら洒落にならないから一応マスクはした。


さぁ頭の体操のはじまりはじまり~


呑気な思いの奥底に厳然と居座る深い恐怖心を俺は無意識に押しやった。


さっきまで無機質に見えていたビルたちの印象が変わる。


まったく人間の感覚なんてのは当てにならないものだ。


想いが世界を変える。


悲しく想えば悲しくなる。


楽しく想えば楽しくなる。


また様々な科学や思想、哲学が正しきを求めるために高め合っているが結局のところ現実世界の中心的な判断材料はやはり主観なのだ。


いくら科学的倫理的に正しいことでも個人の主観がそれを受け入れられなければ全ては水泡に帰す。


我思う故に我ありって言うのは、我想う故に我成るってな感じに置き変えられるな。


物理的な力と同じ位、もしかしたらそれ以上に主観、思念が現実世界に大きな影響力を持っている。


そんなことを感じさせる出来事だったな。


さて、では考えよう。


なぜ人々が街から姿を消したのかを。


一番考えられやすいのは・・・


強力な感染力を持つウイルスが蔓延したことが発覚し急遽政府から外出禁止令が出された。


ってなところかな。


ではなぜ電車が動いているのかという疑問がわいてくるが最低限の公共交通機関は最新の注意を払って確保する必要があったのではないかと結論付ける。


とすると・・・


電車の運転手をウイルスの感染から守る必要がある。


運転中に体調が悪くなってしまえば重大事故につながってしまうからな。


ちょっと待てよ?


やっぱり俺は、いつでも答えはわかる!なんて呑気な事言ってる場合じゃないんじゃないか?


ただのウイルスだったらともかく、細菌兵器によるテロだったら・・・。


炭素菌騒動で全世界が震撼したのは記憶に新しい。


そうだよないくら感染力の強いウイルスっだって自然の状況下でそんなに急ピッチで蔓延はしないだろう。


第一そんなウイルスが流行しているなんて昨日までのニュースでは全然報道していなかったぞ。


まぁだからこそ俺は過剰に驚いたわけだけど。


するとやはり細菌兵器を使用したテロがこの異常事態の原因なのか?


もしそうであったとしたら電車が動いていることに合理的な理由は見つけづらくなるけれど、少なくとも運転手は最新の防護服を着て電車を稼動させていると考えられる。


やはり呑気な事を言っている場合ではなさそうだ。


早く情報を入手して然るべき対応を取らねば。


俺は急いで携帯電話を取り出しニュースをチェックする。


が接続ができない。


携帯のニュースが駄目なら直接電話をして聞くさ!


この際マナーはちょっと置いて友人知人に次々とダイヤルする。


やはりことごとくつながらない。


それもそのはず…


携帯の画面にはアンテナマークが一本も立っていなかった。


つまり圏外だったのである。


なぁんだ、そうか圏外か!


と妙に納得しようとするが収まらない。


このエリアで圏外なんてあり得ない。


しかし俺が納得しようがしまいが事実は変わらない。


携帯電話は不通なのである。


そうこうしている間に俺が降りる駅が近づいてきた。


そうだ!駅のホームに今では珍しくなった公衆電話があったはずだ!


有線の電話ならば何とかなるだろう。


ホームに降りたら公衆電話で連絡しするんだ。


まもなく電車が駅に到着した。


俺はホームに飛び降り公衆電話に向かう。


はやる気持ちを抑えながら財布から10円硬貨を出しダイヤルする。


・・・・・・。


駄目だ・・・。


誰にダイヤルしてもいっこうに出てくれない。


あせった俺は警察、消防、ダイヤル案内の局番にまでダイヤルするが・・・・


やはり誰も電話に出ない。


なぜだ?


外出禁止令が出ているとすれば皆家にいるはずだろう?


なぜコールしているのに誰も出ない?


脅威の細菌兵器は電話回線を通じて感染するとでもいうのか?


ばかな。


その時不意に無機質な存在感を背中に感じ俺は恐怖に振り返った。


何の事はない、さっき乗ってきた電車がまだ停車していたのである。


しかし・・・俺が下車してから既に15分は経過しているだろう。


ローカル線の待ち合わせならともかくこの路線でそんなに停車するなんてあり得ない。


何が起きている?


まてよ?


電車の運転手だ!


電車の運転手に何が起きているのかを聞けばいいじゃないか!


何でそんなことに気がつかなかったのか。


幸い電車は停車してくれていた。


なぜそんなにも長く停車していたのかはわからないがラッキーだった。


俺は先頭車両に向かって駆け出した。


するとあろうことかそれを待っていたかのように電車も動き出したのである。


俺は必死で走った。


「オーイ待ってくれ!止まってくれ!何が起きているのか教えてくれ!」


そう必死で叫びながら電車を追いかけるがあっけなくホームが途切れ電車はその先へと進んで行ってしまった。


無情にも電車は行ってしまった。


もう少し早く気が付いていれば・・・


でも待てよ・・・


すぐに次の電車が来るだろう?


そうしたらその電車の運転手に何が起きているのかを聞けばいい!


俺は次の電車が来るのを待つことにした。


10分・・・


15分・・・


30分・・・


永遠とも思われる30分間。


普段であればものの10分待てば次の電車が滑り込んでくるはずなのに30分待っても一本の電車も来ない。


なぜ電車が来ない?


もしかしたら細菌兵器の影響が予想以上に深刻で公共交通機関の運行も中止されたのかもしれない。


となればこうしてはいられない、俺も早く策を講じなければ。


こんな物で効果があるかは大いに疑問であったがマスクをかけ直し急いで階段を駆け降りる。


どうせ誰もいないのだからと自動改札を駆け抜けるとブザーが鳴り扉が閉まる。


俺は軽くそれを飛び越すと後ろをチラリと振り返った。


駅員が飛び出てきて俺の行動を咎めに来ることを期待していたが・・・。


やはり期待外れに終わったようだ。


振り返った先には駅員はおろか人影すら見えなかった。



駅のロータリーにいつものようにバスが止まっている。


が人影は全くない。


当然道行く人もない。


全く人のいない光景を見た俺は慌ててマスクの上から手を当てた。


無意味な行動だとわかってはいてもそうせずにいられなかった。


政令指定都でのあるこの地域のベットタウン的なエリアに全く人影がない。


これは相当に深刻な状況に違いない。


俺は直感的にそう感じた。


この状況ではきっと店舗には人はいないだろう。


駅から5分も歩けばマンション、公団住宅のあるエリアがある。


そこまで一気に走り住民に助けを求めるんだ。


俺はもう一度自らを鼓舞し走りに走った。


そして駅から一番近い団地に飛び込みインターホンを鳴らす。


ピンポーン


・・・


反応がない。


もう一度インターホンを鳴らす。


やはり無反応だ。


細菌に感染することを恐れてドアを開けないのだろうか。


だとしたらドアを開けなくてもいい、何が起こっているのかだけでも教えてくれれば。


俺は必死の思いで金属のドアを叩き訴える。


「すみません!何が起きているのか教えてください。ドアを開けなくても良いです。なぜ町に誰もいないんですか。」


ドアをドンドンと叩き大きな声で叫ぶがやはり全くの無反応。


冷静になって考えれば、いきなりドンドンとドアを叩かれ叫ばれたら通常時でも誰もドアなんか開けてくれないか。


警察に通報されても仕方ない状況だよな。


しかも今は、おそらく超緊急事態にあるのだから。


しかし俺も悠長な事を言っていられない。


自分の命がかかっているかもしれないのだ。


必死の俺は次の瞬間ドアノブに手をかけそれをひと回しする。


ドアが開くはずもないとわかっていてもそうせずにいられなかったのだ。


カチャン・・・。


予想に反してドアノブは軽くまわりそしてあっけなくドアが開いた。


俺は素早くドアを開け中に入った。


「すみません怪しいものではありません。何が起こっているのかがわかればすぐに出て行きます。」


マスクを取りながらドアを閉めつつそう叫ぶ。


いきなり他人の家に入ってきたんだどんな非難をされようが警察を呼ばれようが文句は言えない。


それにしてもなるべく紳士でいたいと願っていた。


・・・・。


部屋の中から返答がない。


細菌に感染したかもしれない人間が入ってきたことを恐れているのだろうか。


「すみません、誰かいませんか。」


俺はもう一度部屋の主に問いかける。


やはり返事はなく、それどころか全く人のいる気配がしない。


業を煮やした俺はゆっくりと部屋に向かう。


キッチン、ダイニング、リビングとまわっていくが誰もいない。


もしかしてトイレか。


慎重にノックして言葉をかけつつ中の様子を耳で伺う。


水洗トイレが流れ終わった後にタンクに水をためる音がする。


誰かいる?


そう言えば何となく人の気配がするようだ。


俺はもう一度確認の言葉をかけゆっくりとドアノブを回す。


鍵がかかっていない?


少しだけ隙間を作り中の様子を伺いその後ぶっきらぼうにドアを全開にする。


誰もいない。


タンクに水をためる音だけが虚しく続いている。


なんだ?誰もいないのか?


俺がドアを叩いた段階でベランダからでも逃げたって言うのか?


確かにここは1階だからそうやって外に逃げることも可能だが、それでは元の木阿弥ではないのか?


感染したかも知れない人間から逃げるために感染の恐れのある外に逃げる?


そんな不条理があるか?


そんな思いを確認するようにベランダへ向かう。


扉の鍵が閉まっている。


と言うことはここから外に逃げたわけではないのか・・・。


ではどこから?


部屋の中はどこもかしこもさっきまで人がいた気配に満ちていた。


キッチンの鍋の熱。


ダイニングのテレビ。


これは真っ黒な画面で何も映ってはいないがスイッチが入っていた。


俺は再び訳のわからない恐怖に包まれた。


そしてもしかしたらどこからか俺の様子をジッと伺っているのではないかと言う得も言われぬ恐怖に支配され出口へと駆けだした。



次の瞬間には入ってきた玄関に向けて猛烈に走り出していた。


『殺される・・・』


そうだきっと殺人ウイルスに感染した人間は他の安全を確保するために無条件に殺害しても良いことになったんだ。


まだウイルスに有効なワクチンが開発されていないことからやむなく超法規的措置が選択されたに違いない。


俺は殺される。


きっとここの住民はジッと物陰から俺を狙っているに違いない。


『待ってくれまだ感染しているかどうかもわからないじゃないか。』


と絶叫するが恐怖から声にならない。


俺はもんどり打って転びながら玄関にたどり着き必死でドアノブをまわす。


が、入ってきた時とうってかわって今度はドアノブがまわらない。


慌ててガチャガチャとノブを回す。


その間も命を狙ってくる住民に隙を与えないため背中は決して後ろを見せない。


ドアが開かない。


俺は入ってきた後鍵なんか掛けていない!


にも関わらずドアが開かない?


なぜだ?


焦った俺はドアに体当たりする。


何度も何度も・・・。


迫り来る刺客に怯えながら何度ドアに体当たりしただろう。


しかし、これだけの大騒ぎにもかかわらず刺客はやってこない。


俺はドアに背中をもたれながら肩で大きく息をする。


視覚に入る隙間という隙間から誰かが様子を伺っている様な気がする。


目を見開きその隙間のひとつひとつに注視する。


落ち着け


落ち着くんだ。


今のところどの隙間にも誰も潜んでいないようだ。


もしかしたら俺が弱ったところにとどめを刺すための道具を取りに行っているかも知れない。


今のうちだ!この隙に脱出の手段を考えるんだ。


必死に相手の動を読もうと考える。


落ち着け!


もう一度状況を確認するんだ!


俺はこのドアから入ってきた。


鍵は閉めていない。


だけど今このドアは開かない。


鍵?


そうだ!


俺は何を慌てているんだ?


落ち着け!


と何度も自分に言い聞かせあらためてドアに目をやる。


鍵が掛かっている!


俺が入ってきた後に誰かが鍵を掛けたのか?


そんなことは今はどうでもいい!とにかく逃げるんだ!


俺は急いで鍵を開けるとドアを押し開け外に飛び出した。


そして後ろもふり返らずに一気に建物の外に走り出た。


感染の恐怖よりも、今この場でなぶり殺しにされる恐怖の方が現実的だったのだ。



申し合わせたように一階の全てのドアが同時に開く。

手に手に武装した住民が躍り出てくる。


リアルな光景が脳裡に浮かぶ。


きっと彼らは俺を殺しに来たに違いない。



後ろも振り返らず必死で走る俺の耳にバタバタとけたたましい足音が聞こえてくる。


足音は俺のすぐ横から聞こえる。


回り込まれたか。


こんな感じの映画ずっと昔に見たことあるぞ。


ゾンビ物だ。


あいつらに捕まるとかじられて自分もゾンビになっちゃうんだ。


もっとも今は俺の方がゾンビの役回りなんだろうな。

こんな時に何を悠長な事考えてるんだ俺は…




しかしなぜだ?


街には人っ子一人いなかった。


それは強烈なウイルスか細菌に感染しないために屋内にいたからではないのか?


ならばなぜ今、その危険を省みず俺を追う?




もしかしたら、感染者の死肉を食べると抗体ができるかのデマが流れているのか?


こういった緊張状態に置かれた人間は容易に間違った情報を受け入れる。


それは正義か?


そんな綺麗事通用しないのもまた充分理解しつつ背後に訴える。


正義なんて変幻自在さ…


変わらない事実は…


このまま行けばほぼ確実に彼らに殺される…って事。


多勢に無勢だ。


それに…俺のこれまでの人生を振り返るに映画の様にはうまく行くまい。


ならば…


最期くらい正しきを叫んで命を賭けて立ち向かってやろう。


くだらない価値観かもしれないが最期くらい格好をつけたいもんだ。


って言うか…


もう走れそうにないしな。

ぶっ倒れたところを何も抵抗出来ずに殺されるなんてまっぴらだ。


何なら最期の大ハッタリで『俺は排菌してるぞ、近寄ると感染するぞ~』何てのも以外に効果的かもな。


何にしてもこのまま、ただなぶり殺されるのはごめんだ。


そんな事を考える俺の頭の中は妙に冷静だ。


人は死を覚悟すると、かくも穏やかな心境になるものなのか?


いやいや、まだ死なないとどこかで計算しての余裕かな?


いずれにしてもやっぱり人は一人で死んでいくしかないんだな…


寂しくも心細いものだが仕方がない。


俺は覚悟をきめて大きく振り返り両足を踏ん張った。


ここから先は一歩も引き下がらないと言う決意をしっかりと視線の先に投げ掛けた。


決死の覚悟で振り返り地面に穴が開くほど踏ん張った。

だがしかし…


俺は投げ掛けた視線の先に想像以上の衝撃を与えられ愕然とせざるを得なかった。


目の前にはただ空々しく風が吹くだけだったのだ…


言い様の無い恐怖は直後からやって来た。


やはり俺は一人きり…


追いすがるゾンビのごとき足音に聞こえたのは、コンビニの広告旗が風にバタバタと、たなびいている音に過ぎなかったのである…


茫然自失の俺を突然凄まじい風が押す。


踏ん張っていた足がガクガクと崩れ落ち地面に両手をついた。


強い風が行ってしまった後にはまた音もない静寂の世界が広がった。


その静寂は、さっきまでの具体的な死なんか比べ物にならないくらい、静かに強烈に俺を蝕んだ。


真の静寂とは死の静寂を模する。


人は直感的にそこに恐怖を感じとるのだろう。


愕然と地面に突っ伏す俺の耳に懐かしくも頼もしく、静寂の恐怖を打ち砕く音が聞こえてきた…


電車の走る音だ!


俺は絶望的な気持ちで地面に落としていた視線を急いで上げた。


その様子をもしも誰かが見ていたのなら、きっと天に神を求めるかの様相であっただろう。


期せずして駅の方角に逆戻りするかたちで逃げ走った俺の目に映ったのは、高架の線路を下り方面、つまり東京方面から走ってくる電車だった。


喜び勇み渾身の力を振り絞り立ち上がった俺は高くなった視線の先、つまり走り来る電車の遥か後方に信じがたい光景を見る。


電車の遥か後方には暗黒が迫って来ていた。


それはまるで漆黒の津波だった。


漆黒の津波は、街を飲み込みながらこちらに近づいて来る。


俺は暗黒に飲み込まれる恐怖よりも誰かが乗っているであろう電車に駆け寄る事を選らんだ。


人が人を求める想いがこんなにも強い事を今になって知るとは…


人は孤独よりも死を選ぶのかも知れない。


そんな想いを抱きつつ、俺は再びもといた駅に走り出した。


電車は間もなく駅に差し掛かろうとしている。


漆黒の津波はまだ遥か後方だ。


その進みはかなりゆっくりとした物に見える。


必死に走りながらも耳を澄ますとガラ、ガラ、ガラと小さく聞こえる。


とてもゆっくりとした間隔でガラ、ガラ、ガラと街を飲み込むたびに聞こえてくる音。


いや・・・


街だけではない。


漆黒の津波は空をも飲み込んでいる。


まるで壁面に描かれた絵がバラバラと崩されるように風景がのみ込まれている。


壮大な自然現象を目の当たりにした時のように食い入りながらも駅の改札をさっきとは逆方向から飛び越す。


猛烈な勢いで階段を駆け上りホームに足をかけるとその瞬間先頭車両が俺を追い越した。


一瞬そのまま通過されてしまうかと不安がよぎったがとりこし苦労に終わった。


電車はゆっくりと速度を落としはじめた。


やった!


今度こそ電車の運転手を捕まえるぞ!


先頭車両に勇み足で近づく。


車両の真ん中程まで歩を進めたところで扉が開いた。


『どうせ誰も乗ってやしない』とわき目も振らず運転手を目指して進む俺の目の前に下車する人影が飛び込んできた。


その瞬間、俺は一人きりではなくなった。


孤独から解き放たれた瞬間俺の頭の中は視界が白くボンヤリとするくらいに真っ白になった。


聞きたいことは山ほどあったが何をどこから聞けばいいのか皆目見当がつかなくなっていた。


そして次の瞬間、目の前の人影を逃がすまいと両手を伸ばし掴みかかっていた。


本能的に孤独を回避しようと必死だったのである。


しかしその手はヒラリとかわされ逆に白く美しい腕に両肩をつかまれ電車の中に引き込まれそうになる。


人影が男か女かも判断がつかない中ただ白く美しい手だと言うことだけは感じとることが出来たが突然の出来事に慌てた俺はホームに這いつくばり抗った。


這いつくばる俺の頬を白い手が打ち叫ぶ。


「早く乗って!暗黒の津波に飲み込まれる前に!私達に気づいた死神達もやって来ます!」


打たれた頬はたいして痛くはなかったが、その言葉にハッと我に返った俺は慌てて電車に転がり込んだ。


俺が乗り込むと同時に扉が閉まりそして慌てふためくように電車が走り出した。


電車は一気にフルスピードまで速度を上げているようだった。


今だ床に這いつくばっている俺は、ガタンゴトンと途切れなく続く無機質な連なりに温かささえ感じていた。


やっと自分以外の人間を見つけたのだから、積み重なる疑問を晴らせば良さそうなそうなものだが、今はそれよりも眠りに落ちそうな微睡みを楽しみたかった。


この状態に陥ってからどの位の時間が経ったのか正直なところ時計を見る余裕もなかったのでわからないが少なくともまだ夜には程遠いはずだ。


にも関わらず虚像の殺戮集団から逃げ惑いながらも、死を覚悟で振り返った時の俺は、孤独な眠りを恐れていたのだ。


何もそんなに畏れることもあるまいと笑うなかれ…


確かに独りで眠る事が無いかと言えばそんな事はない。

また独りで眠れない程の臆病者でもない。


しかし真に独り切りの眠り、それは死との差異が余りにも無さ過ぎる。


静寂のなかで独り切りのうちに死は暗黒をもたらすと、リアルに感じたのだ。


俺は独り切りの夜に怯えたのだ。


今の俺は独り切りから解放された。


それは突きつけられた死の恐怖からの解放でもあったのだ。


渾身の力を振り絞りシートに横たわる。


眠りに落ちていく俺を美しい瞳が覗き込んだのがわかった。


眠りに落ちる寸前、その瞳に懇願する。


『お願いだから眠りから醒めるまで側にいてくれ…

その懇願が声になっていたのかは、定かではない。


が次の瞬間、柔らかくもしっかりと握る手の温もりに全てを委ねた俺は、深い眠りについた。


心地良い揺れと単調な音に包まれながら俺は束の間に夢を見た。


夢?


なのか?


俺は眠っている自分を斜め上から眺めている。


ちょうど電車の荷台の上あたりから俯瞰的に自分を眺めているのだ。


幽体離脱ってやつか?


いやどうもそんな感じでもなさそうだ・・・。


俺の他にも乗客がたくさん乗ってる。


やっぱり夢だ。


それにしても・・・


あ~あ~でかい口あけてガーガー眠って・・・。


みっともない・・・。


いつもだったら電車寝の必須アイテム『マスク』をしてから寝るのに。


あれさえあればどんなに大口あけて眠ってよだれ垂らしたって大丈夫だもんね。


しかし・・・


幸せそうな顔して眠ってら。


おっと、乗客が嫌な顔で俺の事見てるぞ。


オイオイ!よく見りゃ7人掛けの座席に横になって寝ちゃってんじゃん・・・。


そりゃあ・・・マナー違反だろ・・・。


酔っぱらってるのか?俺?


ん?なんだかニヤニヤしながら俺の方見てるやつもいるな?


なんだ?


俺は荷台の上から目を凝らした。


膝枕?


膝枕してもらってるぞ俺!


手を握られておまけに頭なんか撫で撫でしてもらっちゃったりして・・・。


誰だろこの子?


髪のきれいな女の子だな。


顔が見たいけど・・・


上からじゃよく見えない。


でも・・・


上から見ても可愛いっぽい感じだぞ。


なんだよ、なんだか知らないけどラッキーじゃん俺~。


あ~駄目だ!


俺!寝返りうっちゃだめだ!


お前の口の周りのよだれが可愛子ちゃんについちゃうだろ!


あ・あぁ~やっちゃった。


足によだれつけちゃったよ・・・


見ようによっちゃ変態だぞ?


嫌われたな完璧に。


膝の上から落とされんぞ!


あ~あ天国から地獄だよ・・・


まぁ夢なんてこんなもんか。


ってハンカチ出して俺の口の周り拭いてくれてんじゃんか。


なんていい子なんだ・・・


こんないい子になんて事してんだ俺!


おっ?


オイオイやめろ!


急にいいもの見つけた!みたいに頬ずりすんのは!


確かに・・・


すべすべしてて気持ちよさそうだけど・・・


あ~あ駄目だ!


ついに手が出てしまった・・・。


もう完全に変態だぞ?


何だと思って触ってんだ一体?


ほら・・・


女の子の右手がゆっくり上がった。


落ち着く先は・・・


当然・・・


バチーン!


「痛って~」


俺は叫びながら目を覚ました。


すると目の前に、大きく目を見開いてポカンと俺を見つめる顔が飛び込んできた。


「どうしたの?やっぱりどこかひどく打ってたの?」


顔の主は・・・


心配気な顔で俺をのぞきこんでいる。


俺は・・・これが夢なのか現実なのかわからなくなっていた。


「どこが痛いの?」


のぞき込む顔が段々ハッキリ見えてくる。


そしてその瞳がハッキリと見える頃、俺は胸に不思議な疼きを覚えていた。


しかしこの子は、なんて心配気な顔をするんだ。


もしこの瞳が嘘や建て前だとしたら、俺はこの子の嘘は見抜けないだろう。



だが、何だろうこの感覚・・・。


デジャブにも似た感覚。


俺はたまらず口を開いた。


「あの・・・どこかでお会いしたことありましたっけ?」


しまった・・・


目覚めの第一声なのにアホみたいに拍子抜けしたセリフを吐いてしまった。


バツ悪そうにする俺に彼女はキッパリ答えた。


「知らない! 知ってても教えない」


さっきまでの慈しみに満ちた瞳に少し影が落ち心なしか語調が強い。


「いつもそんな風に女の子に言うんですか?」


なんだかとても都合の悪い方向に話が進んできているようだ。


満月のように柔らかい光に包まれた瞳が段々と三日月のように鋭くなってきている。


そんなつもりは全然なかったのだが、彼女の気分を害してしまったようだ。


この状況では考えにくいが、もしかしてナンパしてる見たいな下衆な印象を与えてしまったのだろうか。


俺は慌てて弁明する。


「いや、そう言う意味じゃなくて本当になんだかどこかであった気がしたんだ」


「ふ~ん・・・その子はどんな子なんですか?」


なお一層鋭くなった瞳は、まるで昼間に獲物を見つけた猫の瞳の様だったがその質問はどこか的がずれていた。


「いや誰って事ではなくて何となく印象というか感覚というか・・・」


なんだか筋違いな質問に俺はしどろもどろになって答える。


「かわいいんですか? それとも可愛くなくて憎たらしいんですか? それとも全然興味が持てない子なんですか?」


彼女はそんな俺の事などものともせずに更に語尾を強めて質問してくる。


俺はそんな彼女に気押されて何が趣旨なのか良くわからないまま答える。


「えっと可愛いです。と言うか美しいです」


俺はもう何が何だか良くわからなくなっていたが、恐らく彼女が喜んでくれると思われるフレーズが無意識のうちに口から出た。


と、彼女の言葉がとぎれる。


答えている俺ですら何言ってんだか訳わかんないんだから、きっと呆れられたんだろうなと彼女の顔をこっそり伺う。


なぜか頬が紅潮している。


猫だった瞳は柔らかく閉じられ口元には軽く微笑みさえ携えていた。


うつ向いていた彼女がハッと我にかえる。


「いけない、どこか痛いところがあったんですよね。どこが痛いの?」


再び聖母の眼差しに戻った彼女にホッとした俺はさっきまでの夢の内容を話した。


なんと暢気な夢を見ているのかと呆れられるのを覚悟していたが予想に反して彼女は軽やかに笑いそして言った。


「可哀想に私だったら好きな人に触られたくらいで叩いたりしないのに」


おかし気にでもその言葉の最期の方では実に哀愁のある顔をする。


感情表現が豊かな子は可愛いな、なんて想いが頭をよぎる。


こんな子はちょっといじめたくなる…大概はやり込められるとわかっていてもね。

「どうして好きな人だってわかるの?」


俺はそう彼女に聞いた。


「その子膝枕してくれてたんでしょう?」


「してくれてたけど?それがどうして好きな人って事になるの?」


「だって私だったら好きでもない人に膝枕なんてしてあげないもの」


悪びれるでもなし明るく清々しく答える彼女に返す言葉を失った。


しばし沈黙が続く…


オイオイ…この子は今の状況を理解した上で言ってんのか?


俺の頭は彼女の膝の上にあって、彼女の膝の上には俺の頭があるんだぞ?


聖母みたいな印象はフェイクで実はとんでもない小悪魔か?


柔らかな膝の上で微睡む俺の脳裏に死神の文字が浮かび上がり急速に覚醒する。


ガラ・・・ガラ・・・ガラという音が大きく響いてきたのである。


跳ね起きるように立ち上がると車窓にかぶりつく。


「どうしたんですか急に起きあがったりして?」


彼女は至って暢気な様子だが窓の外にはあの漆黒の津波が広がっていた。


「どうしたのって・・・君の言うあの死神!アレは何なんだ?」


微睡みから一気に覚醒した俺はたちまち気持ちが高まる。


「あらアレならもう大丈夫ですよ。」


彼女は事も無げに大丈夫だと言う。


しかしもう既に電車の遙か後方に小さくなっていても良いはずの死神?は益々大きくなっていた。


つまりさっきよりも大きく広がっていたのである。


「大丈夫って・・・さっきよりも巨大化しているぞ!」


俺は白目をむかんばかりの勢いで窓に顔をはり付けながら叫んだ。


「もう大丈夫です。ここまでは追いつかない。それにもう少ししたら元の駅に戻りましょうね」


彼女がやんわりと言う。


「戻るって・・・時間的に言ったらあの駅はもう死神に飲み込まれているはずだ!」


「そうですね、今頃完全に飲み込まれていると思いますわ。でも慌てなくても戻るのはもう少し経ってですから」


「ゆっくり休むって・・・のんびりしていて大丈夫なのか」


「もう一眠り膝の上でお休みになっていて大丈夫です。それとも私の膝のは居心地が悪かったですか?」


冗談とも本気ともつかないようなことを平然と言う。


この子は・・・俺をからかっているのか?


しかしその表情に人をからかう様子は伺えない。


窓の外の光景はとても安穏とした様相ではなかった。


さっきより巨大化したことでより細部が見えるようになっていた。


漆黒の津波はその周囲にまるで水しぶきを上げるかのような小さな暗黒をまき散らしていた。


しかし、もっと良く見るとその小さな暗黒は各々に動き回っているようにも見えた。


「あの動き回っている黒い物は何だ?」


俺はたまらず彼女に問いかける。


「ですからアレが死に神です。」


ガラ、ガラ、ガラと音を立てて漆黒の津波が街を飲み込み死神が飛び交っている。


戻るったって・・・


線路も飲み込まれてるけど・・・


「君はどうしてそんなに落ち着き払っていられるの?」


俺は半ばあきれたように言った。


「あら、こんな状況でも1年も居れば慣れるわ。」


「一年?一年もこんな状況にいたら普通頭おかしくなるだろ?」


むきになって問いかけるが


「そうですね、そういう風になってしまう人もたっくさん見てきました。」


と平然と言って返してくる。


1年?


なんだか妙に引っ掛かるな…1年前…何かあった気が・・・。


いや!そうじゃないだろ!


そんことよりもその表現の意味する事はもっと違う意味で重要だろ?


「一年もって?君は一年前からこの状況におかれているって言うのか?」


「そうですよ。」


「おかしいだろ?君は一年前からこの状況下にいると言うけど俺は昨日までこんなおかしな話聞いたこともないし実際昨日までは平穏無事に暮らしていたぞ!」


彼女の発言に対して猛烈に反発する。


「・・・・・・・。」


「どうした?なんで黙ってる?」


「昨日まで平穏無事だったんですか…。」


なぜか不満そうに、と言うよりも拗ねたように言う彼女。


「あぁ平穏無事に暮らしていたよ!」


俺はことさら強調してそう言った。


「じゃあその昨日までで平穏が終わったんですよ・・・きっと。でも・・・平穏無事だったんですね…」


目も合わさず煙に巻くような・・・そして非難がましいニュアンスを込めた言い方をする。


「なんだよ、煙に巻くような言い方はやめろよ!平穏無事のどこか悪いって言うのか?」


「悪くなんかありません…私が悪いんです。」


今度は急に泣き出しそうな雰囲気になる。


「あのな?君が悪いとか俺が悪いとかじゃなくて俺が知りたいのはこの状況がなぜ起きているかってことなんだよ?君は一年前からこの状況だと言う、俺はそうじゃないと言う、だが俺は間違ったことは言っていない。確かに昨日まではこんなんじゃなかったと断言できる。と言う事は君が嘘を言っているということか?」


涙の雰囲気に飲まれないぞという気迫を込めて言う。


「ひどい・・・私は嘘なんか言っていません。」


しまった・・・


少し強く言いすぎたか・・・


泣かせてしまった。


駄目だ、こんなんじゃ何時までたってもこの状況を理解できないぞ…。


「ごめん・・ひどい言い方をしたよ。謝る。」


とはい言うもののそれ以上にはへつらって謝れない。


こんな時もっと器用に振る舞えたら…。


「謝らないで…でも、もう少し泣かせてください。その間に考えて・・・私が嘘を言っているのではなくて、発想を変えてこの状況を考察すれば・・・何が自分の身に起きているのか理解できると思います。あなたの言っている事も正しいし、私が言っている事も嘘ではないの…。」


俺の頭は益々混乱し始めた。


しかし・・・


この子はなぜ泣いているんだろう・・・。


平穏無事という言葉に嫌に反応していたようだが・・・。


確かに彼女の言うことが本当で、この状況に一年もいるのなら平穏なんて感じる暇もなかったにしろ・・・。


泣いているこの子は俺に発想を変えろと言う。


発想を変える・・・って?



一年前からここにいる彼女。


あなたはたった今ここに来たばかりだからと言わんばかりだ…。


だが…一年前って言うのがどうもひっかかってもどかしい。



窓の外の光景も気にかかる。


暗黒の津波はだいぶ後方ではあるが電車の通ってきた線路も次々に飲み込んでいる。


見慣れた光景が壊されていくのはあまり気分のいいもんじゃないな・・・。



車中に視線を戻すと未だ泣き続ける彼女の姿が嫌が応にも目に入ってくる。


これも・・・


あんまり気分のいいもんじゃないな・・・



どうしたら機嫌を戻してくれるかな。


発想を変えろったってこの猛烈に異常な光景を目の当たりにしてそんな余裕ないよ・・・。


やっぱりこの子に教えて貰うのが一番手っ取り早いんだけどな。


それにしても、この異常事態は細菌兵器によってもたらされたと言う俺の予測はハズレだったようだな。


確信は持てないけれど彼女も特に防菌しているわけでもないし、それどころじゃない異常事態が窓の外では繰り広げられているし・・・。


って事は何なんだ?


なんで誰もいなくなっちゃったって言うんだよ?


第一あの暗黒の津波は何だ?


気象現象でもあんなの見たことも聞いたこともないぞ?


竜巻の亜種か?


では死神は?


やはり単純な自然現象では片付きそうもない・・・。


と、もう一度泣いている彼女に目視線を落とす。


座席に座り込んで泣いている。


横顔が美しい。


出逢ってからまだ数分。


しかもあのバタバタ。


彼女のことをゆっくり見るゆとりもなかったが・・・。


良く見りゃすごく可愛い子じゃんか。


こんな可愛い子泣かしちゃったのか・・・。


益々罪悪感が増長する。


考えて見りゃ命の恩人だもんな・・・。


俺は思いきって彼女に声を掛けた。


「あの・・・嘘ついてるなんて酷いこと言ってごめん。俺も混乱していたんだ、許して欲しい・・・それからお礼を言わせてもらえないか?」


うつむき泣き続ける横顔が微妙に動きそして顔を上げた。


「お礼?お礼って?」


訝しげに問いかけてくる彼女の美しさに見とれる。


涙に濡れる瞳が美しい、なんて感じさせられたのは初めての経験だ。


美しい瞳に見入ってしまい変な間が空いてしまった。


ボウっとする俺を見かねて彼女が聞き返す。


「お礼って何?」


「あ・お礼って、そりゃ命を救ってもらったお礼だよ。あのままあそこにいたら俺は今頃死神?達にやられてただろうしね。本当にありがとう。」


変な間は開いてしまったが、極自然にお礼が言えたと思う。


「そんな・・・お礼だなんて・・・そんな事されたら逆に私は・・・。」


「え?私は・・何?」


消え入ってしまった彼女の言葉を聞き返す。


「いえ、何でもないです。お礼なんて言わないでください。当たり前の・・・当たり前のことをしただけです。」


彼女は真っ直ぐに向けていた顔を横に向けながらそう言った。


「あの・・・それから・・・」


俺は彼女の目の前に移動して続けて言う。


「嘘をついてるなんて言ったこと・・・許してもらえるかな?」


「もう気にしないで下さい。私もこの状況をうまく伝えられなかった訳だし・・・。それに、あなたは確かに昨日までは平穏な生活をされていたんだし・・・。」


「許してくれてありがとう・・・。」


そう言った後俺は彼女の言葉に違和感を覚える。


『あなたは確かに昨日まで平穏無事な生活をされていたんだし・・・』


彼女は発想の転換をしろと言った。


彼女は俺が昨日まで平穏無事な生活をしていたことを認めた。


そして彼女はこの状況下に既に一年間いる・・・。


発想の転換・・・


俺はもしかしてとんでもない事になっている?


彼女のこれまでの発言からシンプルに発想すると・・・細菌兵器どころの話しではない?


俺は彼女に確認せずにいられなかった。


「あの・・・もしかしてここは俺が昨日までいた世界と違う場所・・・?なのか?」


頭がおかしくなったと思われはしないかと、おずおずという。


「いえ・・場所は一緒です・・・。」


「場所は一緒って・・・どういう事?」


「場所も、世界も昨日まであなたがいた所と一緒です。ただ・・・。」


「ただ?」


彼女の方に身を乗り出して答えを催促した。


「私にもハッキリとしたことはわからないんですけど・・・」


言葉を濁す彼女。


「いや何でもいい!少しでもこの状況を理解したいんだ。」


俺はつい興奮して彼女の肩を掴んで答えを急かす。


彼女がハッとして俺の方にふり返った時フワリと甘い香りが漂った。


その途端、またしてもデジャブのような感覚が俺を取り巻いた。


『この香りどこかで嗅いだことがあるような・・・俺はこの香りをとても愛おしく感じていたような』


そんな想いが頭をよぎり胸が苦しくなる。


俺の脳裏に様々な情景が行き交ったが、ピタリと当てはまる絵は出てこなかった。


「どうしたんですか?」


しばし呆然とする俺に彼女が言う。


「いや・・なんだかとても変な感じがしたんだ・・とても大切なことを思い出しそうな気感覚って言うか・・うまく言葉で表現できないけど・・。」


「どんなこと?」


今度は彼女が身を乗り出して俺に聞く。


その瞳のなんと愛くるしいことか。


「わからない・・たぶん・・気のせいさ。それより何でもいいから教えてくれ!」


俺はまた彼女の肩を強く掴んで言った。


「嫌!教えてあげない・・」


「は?」


「その大切なことを思いだしてくれなきゃ教えてあげない。」


再び顔を背ける彼女。


「何言ってるんだよ、それとこれとは関係ないだろ?」


「そうかしら・・・。」


素っ気なく言う。


「そうだろ!」


「だとしても、そんな大切なことを忘れられた女の子がかわいそうだから思い出すまで教えてあげません。」


嫌にキッパリと言い切る。


「オイオイ!誰も女の子のことなんて言ってないだろう?」


「女の子の事です!」


背けていた顔を俺にぶつからんばかりの勢いで近づけながら言う。


彼女はキッと口をつぐんでいる。


「わかったよ…思い出すよ…」


そう言いながらこめかみに人差し指を当て考え込む仕草を作る。


とは言っても何も思い出せる訳でもない…


ただ彼女からフッと香った匂いを感じた途端に目眩にも似た感覚があったのは事実だ。


「どう?何か思い出しました?」


彼女が俺の顔を覗き込みながら言う。


何も思い出せないなんて言ったらまた頑なに口をつぐむんだろうな…


ここはひとつ…


「ああ…もう少しで…あと一息で思い出せそうなんだけど…ダメだ…」


俺は然もあと少しで思い出せそうな素振りをする。


何も思い出せるはずがない…


別に記憶を失ったわけじゃないさ…


「どうして?何がダメなの?」


俺の猿芝居に食いついてくる。


全てがわからない事だらけだがこの娘がこんなにもムキになる意味もさっぱりわからん…


「あの死神達が気になって…それから自分がどこにいるのかわからない事が不安過ぎて…わかるだろ?君だってこんな気持ちのままじゃきっと何も思い出したり出来やしないさ…」



「……」


沈黙してジッと俺の目を見つめる彼女。


「ずるい…そんな事言って私を騙そうとしてる…」


「騙そうとしてなんかないよ…本当に辛いんだ…この何もわからない状況と…思い出せそうで思い出せない…大切な事。」


俺は切々と訴える。


「大切な事?」


「ん?あぁすごく大切な事!」


彼女の頬が紅潮するのが目に見えてわかった。


「ごめんなさい…そうですよね、何もかもわからない状況って辛いですよね。私忘れてました。」


なんだ?忘れてたって…


「そろそろ死神達が消える頃だから、元の駅に戻って見ましょ。百聞は一見にしかずって言うでしょ。」


彼女がそう言うと不意に電車が止まった。


「あれを見て!」


そう言うと彼女は窓の外を指さした。


暗黒の津波がまるで煙の様に薄れて消えていく・・・。


「暗黒の津波はお腹いっぱいになって・・死神は獲物を捕らえられなくて不服そうね。」


その光景を目にしながら彼女は謎めいた事を言う。


茫然とする俺を彼女が促す。


「さあ、戻りましょう。」


彼女がそう言うと止まっていた電車がさっきまでと逆方向、つまり元来た方へ走りだす。


それはまるで主人に従い動く馬の様だった。


「なぜ電車は動いている?なんで君の言うとおりに動く?」


あまりにも具体的な疑問だ。


目の前で起こっていること全てがわからない事ばかりになった時は、こうして一つ一つ愚直に理解していくしかないのだろうな。


「わからないわ・・でももう一度あの駅に戻ればあなたにも分かるかもしれないけれど、ここでは単純に電車が一番効率が良い移動手段なの。」


「電車が?」


「そう電車が。」


「どう言う事なの?」


「う~ん・・言葉で言うのは簡単だけどそれだと真実が見えてこないかも・・それに私の理解がすべて正しいかどうかなんてわからないし・・だからこそあなたにも自分の目で見て感じてほしいんです。そしてこの状況が何なのか捉えてほしいの。」


彼女が懇願するかのように言う。


「また煙に巻くような事を・・」


俺は半ばあきらめた風に言う。


「そうじゃないの・・でも、そうね電車が一番効率が良いって言うのはつまり車は走りにくいんです。」


「なんで?」


「もう!だからそれは自分で見て考えてってお願いしてるのに!」


少しイライラしたように言う。


「そこがとても重要な要素になると思うんです・・つまり・・」


「つまり?」


「今私たちがいる場所の性質と言うか、実状と言うか・・」


彼女が自信無さ気に言う。


そうこうしている間に元いた駅に到着した様だ。


何のアナウンスもなくドアが開く。


俺は電車から降りて辺りを見回すが、さっきまでと何ら変わった様子はない。


その時俺はハッと気がつく。


駅は・・津波に飲み込まれたはずなのに・・・。


そう言えばここに来るまでの線路だってそうだ!


津波に飲み込まれてガラガラと崩れ落ちていたはずなのに。


俺の顔つきの変化に気がついた彼女が言う。


「不思議でしょ?ガラガラと崩れ落ちたはずなのにね。」


「これはどういうことだ?さっきの津波は・・死神は・・あれは幻覚か?」


「幻覚ではないです。あれは紛れもなく現実なんです。私も理解する迄にだいぶ時間がかかったけれど・・私の解釈に間違いがなければあの津波はこの世界では太陽?とはちょっとニュアンス違うけれど・・つまり・・古代エジプト世界で言う復活の象徴と言うか・・一見破滅的な光景なんだけど実はそうじゃなくて・・ごめんなさいうまく表現できないんです・・」


「まったくだ・・何の事やらさっぱりわからないよ・・。」


「街に出ましょう!実際に見てもらいながら説明しますわ。」


彼女が俺の手を引いて走り出す。


俺はもう一度街へ戻った。


だが今度は独りきりじゃない。


ほんの数時間前と同様に階段を下り自動改札を通る。


暗黒の津波に飲み込まれガラガラと音を立てて崩れていたはずの街が変わらずしっかりと存在している。


全く変化を感じられない。


ただ心理的には大きく変わった。


街の様子も誰も人がいない事にも何ら変わりはないが独りきりでないと言うだけで何もかもがハッキリ見えてくるのだ。


おかしなものだ。


独りきりの方が他に意識がいかないのだから集中できそうなものだが実際はそうではない。


人は一人では生きていけない。


主観的なものの見方ですら完全な主観ではないのだ。


やはりそこには比較対象となる視点、客観的な存在が不可欠なのである。


実際さっきは「いつものように止まっているバス」としか視覚的に認識していなかったがよく見ると道路には車がぎっしりと停車していた。


まるで一斉に車を降りて逃げ出したかの様だ。


彼女が『車では移動が困難』と言った意味が良く理解できた。


これでは道路をまともに走れない。


どう言うことだ?


車は交差点だけでなくほぼ全域に停車している。


まるでさっきまで走っていた車がそのまま置き去りにされたみたいだ。


「車で移動するのは効率良くなさそうでしょ?」


道路をしげしげと見る俺に気づいた彼女が言う。


「そうだね、まともに走らせるのは無理だね。これじゃあまるで乗り捨てだ・・」


「そうですね。ある意味その捉え方は真理に近いと思います。」


感慨深げに言う。


「真理ねぇ・・・。」


「それはそうとお腹すきませんか?」


そう言えば朝起きてから今までに何も口にしていない。


冷静になってみれば喉もカラカラだ。


「腹・・減ったな・・・」


空腹を実感できたのもまた他者である彼女の存在のおかげかな、などと妙に考えてしまう。


「それじゃあ・・とりあえずあのコンビニに行きましょう。」


彼女が指さした先には、俺も何度となく行った事のあるコンビニがあった。


「コンビニか・・しかし誰もいないんじゃあ保存食くらいしかないだろ?まぁ何かしら飲み物もあるか・・」


「行ってみましょ、あそこにもヒントがあるの。」


「ヒントってなんの?」


彼女が言う事にピントこない俺が尋ねる。


「なにがって、今私たちが置かれている状況についてのですわ。さぁ行きましょ。それにお腹が減っていては良い考えも浮かびませんわ。」


彼女が俺の手を引いて走り出す。


俺はその手に自分を委ね共に走り出した。


彼女に手を引かれコンビニの前に着く。


自動ドアが何事もなかったように左右に開く。


「この時間は開くのよねぇ~。」


何気ない彼女の言葉がひっかかる。


『この時間はって?』


開かない時間もあるのか?


そもそも電車が走っているんだから電力は供給されているって事だろう?


途上国じゃああるまいし電力供給が途絶える時間なんてこの日本ではあり得ないだろう?


あまりにも気になった俺はコンビニに入るや否や彼女に問う。


「この時間は開くって、開かない時間もあるのか?」


「ええ、大体夜間はダメですね。電力のほとんどは電車の方に回るみたいです。」


事も無げに言う彼女。


その言葉が何を意味するのか理解できずにいる俺の顔を見て彼女が続ける。


「この事態になった時きっとあなたも誰かのお家に飛び込みましたよね?」


俺を見透かすように言う。


「ああ、その通りだ。初めは・・今も多少その可能性は持っているけど細菌兵器かなんかで外出禁止令がでていると思っていたからね。あの団地に飛び込んでその一室に入ったよ。」


「みんな同じようなことを考えて同じような行動をとっていますわ。」


「みんなって?俺たち以外にもこの状況に陥ったやつがいるのか?」


「います・・と言うか今この時点ではいましたと言う方が正しいのかしら。」


また謎めいたことを言う・・・。


俺が突っ込んだ質問をするのを回避するかのように彼女が次々問いかける。


「お部屋の中はどうでしたか?」


「さっきまで人がいたような気配に満ちていたよ。」


「でしょう、テレビとか放送はされていないけど付けっぱなしとか。」


「その通りだ。なぜか放送はされていないのにテレビは付いたままだった・・。」


「電気も。」


「そう言えば電気も付けっぱなしだったな・・」


俺は脳裏にある光景を必死で思い出してそう言った。


「どの部屋も同じような感じです。だから電力が足りなくなっちゃうんですよね。それで夜にはほとんどの電化製品が動かなくなりますわ。」


「どういうことだ?電力が継続的に供給されていないと言うことか?あり得ないだろう今の日本で・・。」


「私も詳しくはわからないんだけどちょっと前まで一緒にいた女の子が・・京子ちゃんって言う子なんですけど電気のことに凄く詳しくてそう言ってました。」


ちょっと前まで一緒だった?


今はどこにいる?


何がその子に起きたんだ?


聞きたいことは山ほどあったが敢えて飲み込む。


「いけない、食べる物を探しに来たんでしたね。何が良いかなぁ・・」


そう言うと彼女は店内を見渡し始めた。


店内は・・・


何事もないかのようにいつもの通りだ。


ただそこに店員がいないだけ。


おでんのコーナーに近づく。


温かくしかも腐敗した様子など全くない。


団地の部屋と同じようにさっきまで人がいたような感じだ。


暗黒の津波に飲み込まれたんじゃないのか?


それよりなにより彼女はこの状況に一年もいると言っていた。


一年前からこのままだとして、物が腐らないわけがないだろう?


俺は試しにおでんをひとつ摘んで匂いを嗅いでみる。


腐敗臭などしない。


思い切って口にする。


うまい!


食欲が刺激される。


混乱の中にあっても食べられればまだ大丈夫か・・。


なんて想いが頭をよぎる。


彼女はと言うとお弁当コーナーで品定めをしている。


缶コーヒーが飲みたくなった俺は彼女の方へ近づき缶コーヒーを手に取る。


そして弁当をひとつ手に取ってみた。


腐っているどころか全く完璧な製品だ・・・。


日付・・・


なんとなく習慣的に賞味期限をチェックする俺。


賞味期限平成22年10月2日午後5時?


明日が賞味期限?


また頭が混乱するようだった。


と言うことは、この弁当はついさっき配送されたばかりなはずだぞ?


どういう事だ?


やはり彼女は嘘をついている?


1年前からこの状況だなんて嘘だ?


誰かがこの弁当をここの場所についさっき配送しているんだからな。


だとすれば彼女はなぜ嘘をついている?


なんの目的で俺に1年前からこの状況にいるなんて言ったんだ?


他の人間は一体どこに隠れているって言うんだ?


なぜ俺たちだけを取り残して隠れるように行動している?


彼女がなんのために俺に嘘を言っているのか全く見当が付かない俺は急に空恐ろしさを感じチラリと目をやる。


なんの屈託もなくただ弁当を手に取りあれこれ悩んでいる彼女の姿に悪意は見られない。


俺に何かを悟られないようにしている?


もしかして狂気なのか?


弁当を手にしながら俺の頭には様々な憶測が逡巡した。


「は?って?あなたは気がついたんでしょう?ここにはもうこれ以上の食べ物が当面送られてこないって。さすがだわ!」


真顔で言い放つ彼女に俺をバカにしている感触はない。


本気で何か気づいたと思っているらしい。


「俺には何もわからないよ。既成概念を捨ててこの事態を見つめることで真実が見えてくるって君は言ったよね?しかし俺にはそんな洞察力なんてないんだ・・買被らないでくれ。俺はこの異常な事態に怯えているただの男だよ。今だって君の事を疑った。」


飾ることなく今の自分を語った。


「私を疑うって?」


「君はこの人っ子ひとりいない事態に1年以上置かれているって言ったよな?」


「言ったわ。」


「じゃあなぜこのコンビニには明日の賞味期限の弁当がある?明日の賞味期限って言う事はこの弁当がついさっきここに配送されたってことになるんじゃないのか?と言う事は1年前から人っ子ひとりいないって言う事が嘘になる・・つまり君の言っている事が嘘だってことだよ。」


包み隠さず感じたままを言う。


「嘘なんかついていないしあなたが見ている事も事実だわ。」


悪びれる素振りもなく言う。


「もう・・勘弁してくれ。何でもいいから知っている事を教えてくれ。そしたらそこからこの状態を分析していくから・・そのくらいなら俺にでも多少はできるだろう・・。」


もう観念したという思いを切々と語る。


「嫌よ!」


情けない思いを吐露することで多少は仏心がついてくれると期待したが無駄だった様だ。


「なぜだ?もう俺には頭の中が整理できないっていているんだ。このままじゃあ君の存在自体を疑ってしまう・・。」


「嫌よ・・」


「何が嫌なんだ?」


「あたしの存在を疑っちゃ嫌だし、なんにも教えてあげないもん!だって・・」


彼女の語尾が弱まった?


「だって・・だって何だ?」


「だって・・私とあなたは・・・。」


「俺と君が何だって言うんだ?」



「あなたと私は・・・ずーっとお互いの名前も知らないのよ。今この局面に至っても!」


今度は語尾が強まった?


この局面に至っても!ってなんだ?


暗黒の津波や死神たちの存在を知ったという意味で危機を共有しているって局面って事か?


それとも暗黒の津波から命を救ってあげたって言う局面に対して命の恩人に名前も名乗らず、また恩人の名前すら聞こうとしないって言う意味でか?


細かい事はまぁいい・・と言うよりこの精神状態ではこれ以上のイマジネーションをそこに割けない。


それにどちらにしても名前も名乗らず名前も聞かなかったって言うのは・・失礼だった。


現実的に二人きりしかいないこの事態でしかも女性に対して・・。


内省が俺を落ち着かせる。


「そうだったね・・お互い名前も知らなかったね。すまなかった。俺は・・雅樹・・梅野雅樹・・だ。」


俺は素直に非を認め名乗る。


思えばいくら混乱していたとは言えども本当に失礼だった。


「雅樹さん・・雅樹さんって言う名前だったのね!」


彼女の顔が一気にほころぶ。


そんなに感慨深げに言う程の事ではないだろ?


自己紹介でこんなに感激されたのは生まれて初めてだよ・・。


「あの・・君の名前は?」


何となく彼女の様子に気押されておずおずと聞く。


「私は・・私の名前は・・」


あからさまにもじもじし始める彼女。


何をそんなに赤くなってる?


二人しかいないんだぜ?


って言うか君の前にはたった一人、俺しかいないって言うのに何をそんなに恥ずかしがっている?


「私の名前は・・奈々、梅野・・奈々・・。」


彼女がか細い声でおずおずと言う。


「は?奈々?なに奈々さん?」


あまりに小さな声なので聞き返す。


「ううん・・三井、三井奈々です。」


今度はハッキリ聴きとれた。


「三井奈々さんか、良い名前だ。なんて呼んだらいい?」


「奈々でいいです。」


「呼びつけってわけにはいかないだろう・・奈々ちゃんで良い?」


「奈々が良いんです。だって雅樹さんは私よりずっと年上でしょう?」


「まぁ・・俺の方が年上なのは間違いないだろうけど・・ずっとって・・どんだけオジサンだと思われてる?」


俺は少し意地悪い微笑みを浮かべながら言う。


「そんな、オジサンだなんて思ってません・・ただ・・奈々って呼んでほしいんです・・ほら奈々は、ななで7!ラッキーセブンみたいでいいでしょ?幸運がやって来ますようにって想いをこめて奈々って呼んでください。」


なんだか変な理屈をつけるな・・。


「じゃあ・・まぁ・・奈々って呼ばせてもらうよ。」


「はい!奈々って呼んでください。」


なんていい顔をするんだ。


こんな時のこの子は、本当に人を惹きつける良い表情をする。


「あの・・私は雅樹さんって呼んでいいですよね?」


もうすでにそう呼んでいるだろうにわざわざ確認して来る。


可愛いというか、育ちの良さを感じさせるな。


でも、どうもこう素直だといじめたくなってくるよな。


悪い癖だがやめられない。


例えばこの場面なら・・。


「ダメだな。」


「どうして?」


やっぱり素直だ。


すぐに食いつく。


「だって俺は奈々って呼び捨てなんだぜ?だったら奈々にも雅樹って呼び捨てにしてもらわないとな・・。」


わざと意地悪く言う。


「そんな・・できません、男の人の・・それも年上の男性を呼び捨てにするなんて・・。」


本当に困っている様子だ。


最近の若い子たちは、そんなの全然平気だろ?


きっとしっかりした家庭できちんと育てられたんだね。


服装も清楚で上品だもんな。


こういう子にあんまり意地悪な事言っちゃいけないな。


と言いつつ悪い性分は抑えられないのであった。


「そうだよなぁ~オジサンを呼びつけにするなんて変だもんなぁ~。」


「違います!雅樹さんの事オジサンだなんて思ったこと一度もありません!雅樹さんって呼びたいんです・・」


「わかったじゃあ俺も奈々さんって呼ぶよ。」


あまりに素直な反応に、もうやめようと思っていたのについ悪のりしてしまう。


「嫌っ奈々って呼んで・・私・・ずっとそう呼んでもらいたかったの・・」


「ずっとって?・・誰に?」


なんだかまたややこしい言い方をする。


もう一つっ込み・・っと思ってふと奈々の方を見た俺は悪のりが過ぎたことを反省した。


瞳に浮かべた涙が今にもこぼれ落ちそうだったのだ・・。


「わかった、ごめん奈々って呼ぶ、ちょっと悪のりが過ぎた。謝るから泣かないでくれ。」


アホな悪ふざけで泣かせるまでしちゃったらまるで小学生の悪ガキ見たくなっちまう。


それに今度泣かせたら2度目だ・・


こんな素直でいい子泣かせて喜ぶほど悪人じゃないし・・。


っと言う想いで必死に謝る。


「じゃあ・・雅樹さんって呼んでもいい?」


瞳にためた涙はそのままに俺を見上げて聞く。


「呼んで呼んで!雅樹っていやいや、雅樹さんってどんどん呼んで~。」


必死でそいう俺はまるでニューハーフみたいな口調になっていた。


きっと奈々もそんな風に感じたのだろう、プッと吹くような仕草をして笑顔を作る。


「ありがとう雅樹さん!」


取り留めのないやり取りの中で二人の距離がぐっと近づいた気がした。


しかし涙腺の加減がわかりにくい子だな・・。


ここ泣く場面か?ってとこで泣いてるよな・・・。


俺ががさつ過ぎるのか?


もう少しデリカシーを持って接しないとな。


「ところで奈々ちゃん?」


そろそろ本題に入ろうと彼女に話しかける。


「・・・・・・・。」


無視?


「あの?奈々ちゃん?」


「・・・・・・・・。」


オイオイそっぽを向いちゃったよ。


しかしここでまた大きな声でも出してまた泣かしちゃいけない。


デリカシーを持って優しくね。


「奈々ちゃん聞こえてる?」


そっぽを向いてしまった彼女の顔を回り込んでのぞき込む。


優しげで上品な顔があからさまに気に入らない顔つきになっている。


「どうしたの?何か気に入らないことでもあった?」


「奈々ちゃんじゃない・・・。」


「は?」


「奈々ちゃんじゃない1もん・・。」


ただ繰り返し幼子のように言う彼女。


「え?でもさっき名前は奈々って・・・」


俺は慌ててそう言う。


「奈々って呼んでって言ったのに・・」


しまったそうだった!


俺はハッとしてもう一度彼女の顔をのぞき込む。


まずい・・また泣きそうだよ・・・。


「奈々ごめん、ごめんそうだった奈々だよね。奈々があんまり可愛いから思わず奈々ちゃんって呼んじゃったよ。」


泣かせちゃいけないと焦って言う。


「可愛いってどういう意味・・・?」


かろうじで涙はこぼさなかったが、今までに聞いたことの無いようなトーンで問いかけてくる。


その声と視線はちょっとした迫力まで感じさせる。


「可愛いって言うのは可愛いって言うことだよ・・・アッ子供っぽいって言う事じゃないからね。」


焦りまくって言い訳するが通じるか・・。


「じゃあどういうところが可愛いの・・。」


相変わらず声のトーンは低く重い。


「え?どういう所って・・・。」


こんな時スラスラとおべんちゃらが言えたらいいのに・・・。


若干の間を彼女は許さない。


「嘘!可愛いなんて思ってない癖に・・・。」


「嘘じゃないよ奈々は可愛いよ。初めて会った時から本当にそう思ってたよ。」


思いついた精一杯気の言葉だ・・・。


「初めて会った時から?」


予想外に食いついてきたぞ?


この期を逃してなるものか。


「そう!初めてあった時から!」


どうだ?


「うれしい!初めてあった時から奈々のこと可愛いって思ってくれてたんですね!」


なんだこの素早いテンションの切り替わり方は・・・。


「そ、そうだよ初めてあった時から・・・。」


あまりの切り替わりの早さにちょっと引く俺・・・。


どうも・・・


この子と俺とは話しの軸がブレて来るな・・・。


年の差のせいなのか?


性差か?


いや、どうもそういった感じでもなさそうだ。


もっと根本的なところで俺と奈々との間にズレがある。


俺にはそのズレが認識できないでいるのだ。


しかし…本当だったらこんな時間に、こんなところで若い女の子泣かしたりしてたら、いい見世物だよ。

痴話喧嘩してるカップル?いやいや、歳の差からいって不倫のカップルがもめてるなんてまだましで下手すると痴漢扱いされたっておかしくない。

だけど今ここには俺達二人以外は誰もいない。


こんな可愛い女の子連れてたらちょっと自慢なんだけどな。


なんて暢気な思いも頭をよぎったりする。


少し気持ちが鎮まってきたかな。


食べ物を無事調達した俺達は、落ち着いて食べる事ができる場所に移動する事にした。


さすがにここでは落ち着いて話しも出来ない。


空腹が一段落したらいよいよ核心的な話をしたいのだから。


「雅樹さん、コーヒーはお好きですか?」


奈々が楽し気に言う。


「まぁ…好きだけど?」


「よかった!この近くに美味しいお店があるの!落ち着いた雰囲気の喫茶店だから雅樹さんともゆっくりお話しができると思うんです。」


美味しいコーヒーったってこの状況じゃあ…とも思ったがこの際細かい事はどうでもいい。はやく腹を満たして、そして知りたいと言う欲求も満たしたい。


俺は奈々に任せる事を伝え彼女と歩き出した。


ほどなく目的の喫茶店に着く。


『カフェリンダ』


なんだか見覚えがある風景だと思っていたがこの店は俺も何度か足を運んだ事がある。


感じの良い夫婦らしき二人が経営している店だ。


落ち着いた店内の雰囲気ととびきり良い匂いで香るコーヒーの味も気に入っていたが、俺がここに足を運ぶ本当の目的は店内のそここで交わされる興味深い話しに聞き耳をたてる事にあった。


この喫茶店はいわゆる知識階級と言うか研究者達のちょっとしたサロンみたいな場所の様だった。


ここに集う面々は宇宙の果てやら難解な物理学の話題を論議していたかと思えば、なぜ人は生きるのかなんて哲学的な話しに飛躍したりそこから神秘的な話にまで発展したりといつまでも飽きる事なく話続ける。


そしてまた俺も飽きることなくその話に聞き耳をたてていた。


奈々がドアを開けて店内に導く。


入った途端に淹れたてのコーヒーの香りが鼻に届く。


いい匂いだ。


「このお店は私の学校の先生夫婦が経営しているんです。私が直接教わっているのは奥様の方なんですけどね。それでここへはよく通ってたんです。。」


奈々は、そう言いながら俺にカウンターの席に座るよう促すと自分はコーヒーを淹れ始める。


カウンターの中にはまさに淹れたてのコーヒーが香っている・・・。


「はいどうぞ。」


奈々に差し出されたカップを口に運ぶ・・・。


やはり淹れたてだ・・・。


以前ここで飲んだ味わいそのものだ・・・。


「先生はとても優しくて、美しくてこのお店でも私にいろんなお話をしてくれましたわ。だから私淋しくなると時々このお店に来て先生の淹れたコーヒーを飲みに来るんです。時々って言っても条件がそろわなければ淹れたてのコーヒーは飲めませんけどね。」


条件?


また謎めいた言い方をする奈々だが敢えてその点を聞き返さない。


奈々は何も勿体をつけてわざわざ謎めいた言い方をしているわけではなさそうだ。


俺が想像するに、この子は・・かなり知能が高い。


それが他者と共有認識を持つ場面でかえって仇となっているんじゃないか?


つまり自分が理解している事が他人には理解し難い程、非常にハイレベルなものであると言う認識に欠けると言った類の・・・。


当然自分と同じ知的レベルの人間とでは、問題ないのだろうが・・。


しかし何はともあれここまで来たんだ焦る事はない。


それにさっきのコンビニでの弁当の件と、この喫茶店での様子、そして『条件』と言うキーワードからおぼろげながらもこの世界の一角が見えてきた気がするのだ。


奈々から回答を得る前に、もう少し自分なりに考えて見たくなった俺はさっきコンビニから持ち出してきたサンドウイッチをほお張りながら奈々に言う。


「奈々、俺もこの店何度か来たことあるよ。」


「えっ・・本当ですか?いつ?何年の何月何日?時間は?どの辺の席に座ったんですか?」


びっくりするくらい過剰に反応する奈々。


「え?え?信じられない~。私と雅樹さんがこのお店で一緒の時間を共有していたかもしれないなんて・・どうして?どうして私雅樹さんに気がつかなかったんだろう?」


「オイオイいつ来たかなんていちいち覚えてないよ・・それに気がつくはずないだろう?お互いに認識しあったのはついさっきなんだから。」


俺が軽くそう言うと奈々が反論する。


「そんなことありません!私は雅樹さんがいればすぐにわかります。」


「まさか・・超能力者や霊能者じゃあるまいし・・・。」


「私には絶対にわかるんです!」


いやに確信めいた言い方をする。


「どうやって?会った事もない当時の俺がわかるって言うんだ?」


「・・・・・。」


無言?


「奈々?どうした?」


「それは・・」


「ん?」


「それは教えてあげません・・。」


まずいまた声のトーンが変わってきた。


このパターンは回避しないと話がややこしくなって肝心な議論が遠のく。


「わかった奈々の言うとおりだ!そうだよな!わかる!きっと奈々になら俺がわかるよな!そうだ!たぶんたまたま一緒の日に来てなかったんだと思うよ!そうだそうに違いない!」


必死になって弁解する。


「雅樹さんがいたら、奈々絶対にわかるもん・・・。」


やばいまた泣き出す勢いだ・・・。


「そう!俺だってこの店に奈々がいたら絶対にわかる!」


俺、めちゃくちゃな事を言ってるな。


さすがにいい加減な事言わないでってな感じで怒り出すかな?


ドキドキしながらチラリと奈々の方に目をやった俺は予想反してに良い効果があった事に気がつく。


「本当!雅樹さんも奈々を見つけてくれた?」


満面の笑顔だ・・・。


「も、勿論です。」


「うれしい・・・」


と今度は涙ぐみ始める。


「オイオイ奈々泣かないでくれよ。楽しく食事しよう。」


「ごめんなさい。でもうれしくって・・。」


奈々はその高いであろう知能と比例するように感情の起伏が激しくなる場面がある様だ・・・。


と言うよりも何らかの要因から一過的にそう言った心理状況にあると見た方がいいかもしれない。


理性的、知的な一面と幼子の様な直情的な一面のギャップは通常時であれば可愛いとも言えなくないが。


さすがにこの異常事態に際しては、俺に若干の恐怖感を与える。


それにやはり俺と奈々との間には何らかのズレがあると言わざるを得ない。


「雅樹さん、こちらへはお一人でいらしてたんですか?」


冷静さを取り戻した奈々が言う。


「あぁ一人だよ・・。」


「本当に?」


「本当だけど・・何か?」


奈々が穴が開くほど見つめてくる。


なんだ?


ヤキモチ妬きか?


って別に奈々にヤキモチ妬かれるいわれはないか・・・。


でも・・


この会話の流れでこんな可愛い子にそんな風にされると、大概なバカ男は勘違いするぞ・・・。


「ふ~ん・・本当かなぁ~。」


しげしげと俺の顔を見ながら奈々が言う。


まぁヤキモチ妬かれる筋合いはないにしてもこんな子にヤキモチ妬かせたら、さぞかし可愛いんだろうななんてくだらないことを考える・・・。


そして・・・


「おしえてあげない!」


俺は唐突に奈々のお株を奪う。


なぜか奈々の反応を見たくなったのだ。


「どうして?どうして教えてくれないの?本当はきれいな女の人と来てたんでしょ!白状しなさい!」


奈々がカウンターからガバッと身を乗り出してきた。


ん?想像以上の反応だな。


もう一息?


「嫌っ!教えてあげないもん。」


俺は調子にのってまた奈々の口癖をまねる。


「私の口まねなんかしてふざけても許してあげない!白状しないならこうよ!」


そう言うとサッと手を伸ばし俺の右耳をひねり上げる。


「痛ててっ!何すんだよ奈々!やめろ!」


思いがけない行動に焦って叫ぶ。


「やめない!白状しなさい!」


その鬼気迫る勢いに気押され情けなく降参する。


「わかった白状する!白状するから手を離してくれ!」


「ダメ!本当のこと言うまで離さないんだから。」


奈々は手の力を緩めるがその手は離さない。


「さぁ早く白状して!」


オイオイ・・ちょっとしたイタズラ心だったのにひどいことになってきたぞ?


俺はもっと可愛らしいリアクションを期待していたのに・・・。


「本当に一人で来てたって!ここは俺のお気に入りの隠れ家なんだからさ!」


俺は必死でそう言う。


「本当に?」


「本当だって!」


ようやく奈々が手を離す。


ちょっと待て?


なんで俺がこんな目に遭わなきゃいけないんだ?


確かにこんな可愛い子にヤキモチ妬かれたら可愛いな、なんて考えはしたけどやっぱりどう考えたって奈々にヤキモチ妬かれる筋合いはない。


こう言っちゃなんだが別段いい男でもなければさして魅力的な男でもない。


出逢ってからまだ数時間のこの若い女の子にこんな目に遭わされるいわれがない。


何だ?


さっきからずっと感じているこのズレはいったい何なんだ?


俺は一体どうなっている?


「ごめんなさい私ひどいことしちゃった・・大丈夫・・痛かった?」


今度は一転して俺のことを心配気に見る奈々。


まさに豹変である。


「いや・・悪ふざけした俺が悪いんだよ、ゴメンもう大丈夫だよ・・・。」


俺が謝るのはどうにも理不尽だが、何となく空恐ろしさから謝る。


しばし無言が続くが、なんとかこのうそ寒い自分の気持ちを払拭すべく口を開く。


「奈々は誰とここに来ていたの?」


当たり障りのない会話で空気を変えたかったのだ。


「私はお友達の椿って言う女の子と・・それから最近では前にもお話しした京子ちゃんもここに連れて来ましたわ。京子ちゃんはあの奥の席が気に入ったみたいで・・あれ?」


奈々が奥の席に目をやった時何かに気づく。


カウンターを出て京子という子のお気に入りの席に近づく奈々。


「おかしいわ。こんな所にノートが・・。」


訝しげな顔をしてテーブルに置かれたノートを手に取る奈々。


「どうしたの?そのノートは何だい?」


ノートを手に取り見入っていた奈々がにハッとしてふり返る。


「このノートはお店のお客さん達がメッーセージを残すノートなんですけど、いつもはカウンターの横にかけてあるんです。どうしてこんな所にあるのかしら。」


奈々はそう言いながらノートをカウンターに戻す。


「誰かが置きっぱなしにしたんだろう。」


俺は何となくそう答えた。


「おかしいな・・リンダさんとてもきれい好きだからこんな事今までに一度も無いのに・・」


「リンダさんって?」


「私の先生なんです。」


「いくらリンダさんがきれい好きって言ったって他のお客が出しっぱなしにするって事もあるだろう。」


「でも・・こっちに来てからも京子ちゃんと何回もここに来たけど・・ノートが出しっぱなしになってるなんて事無かったのに・・。」


こっちに来てから・・・か。


そろそろ本題に入ろう・・。


俺は奈々に切り出した。


「奈々?こっちに来てからって表現をしたけどやっぱりここは別の場所なのかい?」


「場所は同じなんです・・私もハッキリとは言えないんですけど・・。」


「場所は同じって事を事実だと仮定して検証したとして俺にはいくつか疑問がある。例えば一番の疑問は、街に俺達以外誰もいないって言うことだ。」


「その点については私はこう考えているんです。みんながいなくなったのではなくて、私達が取り残されたんじゃないかって・・・。」


「俺達が取り残された・・?」


「そうです。本題に入る前に雅樹さん?神の存在についてどうお考えですか?」


「神・・の存在?」


「そうです、神の存在です。」


また煙に巻かれるようだが奈々は本題に入る前にと前置きした。


ならばこの神についての問いかけも真実への重要なエッセンスなのだろう。


「実在としては捉えられないが・・この世が何の秩序も目的もなくただ漠然と沸いて出来たとはどうしても思えない。何らかの意志が働いてこの世界が生まれたと考えている。その意志って言うのが神というならば俺は神の存在を否定しない。」


「素晴らしいわ。私も同じように考えていました。そしてこの事態はまさに神が存在することを証明しているんです。」


「この事態が・・神の存在を証明してるって・・?」


どういう事だ。


奈々は恍惚ともとれる表情で辺りを見回す。


「奈々?悪いがもっとわかりやすく説明してくれないか。」


難関な言い回しに少し疲れてきた。


「う~ん・・それじゃあ、雅樹さん神様に願い事ってしたことあります?」


「願い事?」


唐突な質問が続く。


「そう!願い事!」


「そりゃ神頼み見たいな事はしたことあるけど・・・。」


「願い事・・叶いました?」


「いや・・叶ったためし無いなぁ・・・」


頭の中に幼い時のたわいない願い事から受験、恋愛、就職・・それぞれの時期の願い事が過ぎる。


「私も以前はそうでした。」


「以前はそうでしたって事は・・今は願いが叶ったのかい?」


「そうなんです!願い事が叶ったんです!しかも今のところ三つも!」


奈々の顔がパッと明るくなった。


「オイオイ・・それとこの状況が神がいる証明って言うのがどうつながるんだ?」


「雅樹さんは認識していないだけです。」


奈々が断定的に言うが何を指しているのかさっぱりわからない。


「俺が何を認識していないって?」


「雅樹さんも願い事を叶えてるって事に!」


奈々の顔が更に明るくなる。


だが俺は表情を曇らさずにはいられなかった。


「奈々?俺が知りたいのはなぜこの状況が神のいる証明になるかって事で・・いや、それ以上になぜこの状況が発生してなぜ俺がここにいるかって事なんだけどな・・・」


俺は焦る気持ちを抑えなるべく奈々を刺激しないように言う。


「雅樹さん?私がこれから言うことはとても科学的とは思えないかも知れません。だけど逆説的に考えていくとそう言う結論に至るんです。また科学の発端が実はまるで科学的でない発想から生まれてくることもあると言うことも覚えておいてください。」


奈々の表情が硬くなる。


「あぁ、わかったよ。」


俺はその変化に少し緊張する。


「雅樹さん?雅樹さんも心当たりがあると思います。雅樹さんは、必ず私と同じ願い事をしています。これから私が叶った願い事のひとつを言いますから良く思い出してみて下さい。そしてその事実をしっかりと受け止めることが出来ればまず第一に神の存在がかなり確定的な物として捉えることができるはずです。そこからこの状況に神のどんな意志が働いているのかを一緒に考えて下さい。」


奈々の顔つきが明らかに今までと違ってきた。


「奈々と俺が同じ願い事をしている?」


「そうです。」


「俺は願い事をした覚えはないんだが・・わかった良く思いだしてみよう。それで?奈々はどんな願い事をしたんだ?」


「雅樹さん・・私の願い事は・・・。」


俺は奈々の口元をジッと見据えた。


「私の初めの願い事は…ミンナイナクナッチャエです。」


「みんないなくなっちゃえ?」


「そうです。みんないなくなっちゃえ、です。」


これまでの奈々の言動からしてかなり突拍子もない願い事が飛び出すだろうとは覚悟していたが…。


予想以上の突拍子のなさに俺は、次に言うべき言葉を探すのに手間取った。


「雅樹さん…もしかしたら奈々がそんな事言ったからこんな目に合ってるって思ってるでしょ?だって私とても辛かったんです…と会えなくなって…だから…だから、みんないなくなっちゃえって神様にお願いしたの。」


奈々が途切れ途切れ弱々しく言う。


奈々が言っていることがよく聞き取れなかったが、どうやら誰かに会えなくなった事で自暴自棄になったということらしい。


しかし…みんないなくなっちゃえって願ったからこの異常な事態に陥ったなどと誰が信じられようか…


「奈々?その願い事が今この状況を創り出しているのかい?」


「そうです。」


「そうすると今は願い事が叶っていないよな?」


「どうしてですか?」


奈々がキョトンとした顔をする。


「だってみんないなくなって一人きりになりたかったんだろう?今は俺がいるじゃないか?それに、以前は京子ちゃんって子もいたんだろう?」


「私の願い事はひとつじゃないもん。それに京子ちゃんも言ってたもん・・」


さっきまでの威厳さえ感じさせる様相は消え失せ幼子のように言う奈々。


「京子ちゃんがなんて言ったんだい?」


「京子ちゃんも、『みんないなくなっちゃえばいい!』って願って気がついたらここにいたって・・。」


「でもその場合京子ちゃんは願いが叶ったとは言えないよな?」


「どうして?」


「だって既に奈々がいたわけだろう?こっちにさ。つまりは『みんないなくなって無かった』わけだ。」


「そうだけど・・・。」


「となると願い事をしたからこうなったって言うのはちょっと無理がないか?」


本当はだいぶ無理があると思っているが控えめに表現する。


「そんなことないもん!初めは京子ちゃんも私も一人っきりだったけど食べ物を探して移動しているうちに暗黒の津波が出てきて、逃げまとっているうちに出逢ったんだもん!」


奈々が興奮して言う。


「わかったわかった、そうだよなこの広い世の中にたった二人じゃあ一人っきりと同じだよな。」


これ以上興奮させて議論が混ぜっ返されるより、少し譲歩した方が良さそうだ。


「そうよ!出逢えたのが奇跡なんだから!」


「ところで京子ちゃんはどうしていなくなっちゃたんだ?」


「・・・・・・・。」


奈々はうつむき黙りこくってしまう。


「ゴメン奈々。言いたくなかったら言わなくても良いよ。いずれ時が来たら話してくれるんだろう?」


今にも泣き出しそうな奈々にそう言うと彼女はコクリと頷いた。


「雅樹さん?」


顔を上げた奈々に涙はなくそれが俺の気持ちをホッとさせる。


「なんだい奈々?」


「雅樹さんも思い出してみて・・京子ちゃんも私も願い事をして眠った後目覚めたらこの状態だったという点で一致していたの・・だから雅樹さんも夕べのことを良く思いだしてみて。」


「わかった思い出してみるよ・・・」


奈々の理論が正しいかどうかはわからない。


だけど奈々も今はここにいない京子ちゃんという子も同じ願い事でこの状態になったという。


俺はそんな願い事をした覚えはないが・・・。


ちょっと意味合い違うけど、2度あることは3度あるとも言うし。


もし俺も同じ願い事をしていて、やはりこの状態に陥ったとしたら因果関係が全くないとも言い切れないかも知れないしな・・・。


俺は夕べのことを思い出そうと目を閉じた。


俺の側に奈々が来る気配を感じた。


俺は目を開き奈々に声をかけた。


「奈々?」


「なぁに雅樹さん?」


「奈々の二つめの願い事ってさ、『誰かこの事態を理解できる人来て~』じゃなかった?」


「うん・・・なんでわかったの?。」


「ハハッやっぱりね・・淋しくなっちゃったんだろ?」


「・・うん。」


「三つ目の願い事は・・・」


「教えてあげない・・・。」


「あ、やっぱりね・・・。」


「そんなことより、早く思い出して!」


「わかったよ・・。」


俺は再び目を閉じ記憶を思い起こす。


昨日の晩俺は・・・


高校時代の友人である小島と矢口と一緒に飲んでたんだっけ・・・。


気の置けない旧友との久しぶりの再会。


しかし・・こいつらと一緒にいて『願い事』なんてロマンチックな発想はどうにも想像し難いな・・。


酒の肴は・・


そうそう!


男性の平均寿命が延びたって話しと自殺者が連続3万人を超えたって話しだ。


ほら!


やっぱりロマンチックな話しとはほど遠い。


・・・・


「大体なぁ自殺者が3万人越えてて男の平均寿命が上がるなんて考えられないだろ?」


ほろ酔い加減と言うか結構酔っぱらった俺がそう言う。


「まぁそれはそうだけど、男も長生きになったってんだから良いだろ。」


そんな俺に矢口が答える。


「大体雅樹は何が気に入らないってんだよ?」


小島が続く。


「気に入らないだろ?おまえら知ってるか?自殺者の70%が男なんだぞ?」


「まぁ男は仕事やらなんやら悩みが多いからしゃーないやろ?」


俺にビールを注ぎながら矢口が言う。


「ってかそれがなんだってんだよ。」


小島が俺につっかかかってくる。


「なにがってな!俺達は日々闘ってんだよ。それを暢気に長生きしているみたくだなぁ~。」


かなり酔っていたのかむちゃくちゃなことを言っていたな・・・。


「誰もそんな風に言ってねーだろ?」


「小島は俺が言いたいことわかってねーんだよ。俺が言いたいのはだな、受験、就職、恋愛、結婚・・・すべからく俺達は苦労してきたよな?そんで不景気だのリストラだの・・でも俺達は踏ん張って来ただろ?」


「だからなんだってんだよ。」


「オイオイ小島、雅樹は酔っぱらってんだからよ。それにこいつ仕事でもかなりきついみたいだし。」


矢口が俺と小島の間に割って入る。


「矢口は甘いんだよ。そんなの雅樹だけじゃねーだろ?俺だっておまえだって同じじゃねーか?」


「まぁそりゃそうだけどよ。」


「そうだろ?そうだ!みんなきついんだよ!なんでかわかるか?」


全く我ながら酔っぱらいは始末に負えない。



「なんだよ、言ってみろよ。」


「小島あんまり煽るなって。」


「俺達男はみんな一等賞になるために頑張ってんだろ?正義の味方になれってガキの頃から毎日毎日漫画やアニメですりこまれてさ。」


「なに言ってんだ雅樹はよ?」


「まぁまぁ小島聞いてやろうぜ。」


「そうだ!聞け!だけど現実はどうだ?一等賞になんかなれねーじゃねーか?正義なんてとおらねーじゃねーか?」


「だからなんだってんだよ?」


小島は手を緩めない。


「雅樹~それが現実じゃねーか?小島も俺もおまえの気持ちよくわかるよ。」


「本当か?本当~にわかってんのか?」


今度は矢口に絡む・・・。


「わかってるよ、な?小島。」


「わかんねーよこのバカの言ってる事なんて。」


「なんだ?小島?まったく何が一等賞だ!な~にが正義だ?み~んなくだらねぇ。」


「おめーが一番くだらねーよアホ。」


「うるせーバカ野郎み~んないなくなっちまえば良いんだ!」


「オイオイ雅樹あんまり荒れるなよ・・・。」


「おお!バカ野郎のおまえにしては良い考えだな!そうだなみんないなくなっちゃえばおまえが一等賞だおまえが正義だ!だけどなそんな一等賞意味あんのか?おい!雅樹!」


小島が俺に向かって叫ぶように言う。


「ぐぅ~・・・。」


「あ?」


「だめだ小島、雅樹ねちまったよ・・。」


「こいつなんかあったのか?やたら一等賞やら正義やら・・・」


「それこそみんな一緒だろ?雅樹もきっと辛いことあんだろよ・・・。」


眠りに落ちる俺の耳に二人の会話が流れてきた。



俺は目を開き奈々の方を見る。


「奈々・・やっぱり俺も言ってたみたい・・・」


「でしょう~これでわかってもらえましたか?神様が存在するって!」


奈々が得意気に言う。


「ちょっと待てよ。俺は別にこんな状況を願ってなんてかないぞ?それにこんなひどい願い事叶えるなんてそんなの神様じゃなくて悪魔の悪戯じゃないのか?」


俺は半ば本気に言う。


「どっちでも良いんです。元々神も悪魔も一元的な存在だと私は捉えていますし、要は大いなる意志が存在するって事が証明されたんですもの。」


「そう言うもんか?」


「そう言うものなんです。」


「そうだ!そしたら元の世界に帰りたいって願ったら帰れるんじゃないか?」


俺は名案を思いついたと張り切って言う。


「そんなの何回もお願いしましたけどダメでした。」


奈々がキッパリと言い切る。


その口調は諦めを通りすごして常識と化しているかのようだった


しかし・・どうせ願いを叶えてくれるならもっと良い願いごとしとけば良かった。


ってそもそも俺の他の願い事なんて今までの人生の中で全然スルーだった癖になぜこの願いだけは叶えるんだっつーの!


やりきれない思いで空を見上げ気持ちを落ち着かせる。


「わかったよ100歩譲って願い事が叶って一人っきりになったとしよう・・。」


俺は合点のいかない顔で奈々に言う。


「100歩譲らなくても事実は事実です・・。」


奈々は1歩も譲らない感じだ。


「わかったこの際そこはどうでも良い・・でもな、この状況は一体何なんだ?」


吐き捨てるように言う。


「そうだ!奈々?奈々はこの状況が理解したくて京子ちゃんを・・って言うかこの状況が理解できる人

をって願ったんだろう?」


「そうです。」


「そしたら京子ちゃんが来た!」


「そうですけど?」


なぜそんなに興奮するの?とでも言いた気に奈々が言う。


「で?京子ちゃんはなんて言ってたんだ?」


俺ははやる気持ちを抑えるのがやっとという思いで奈々に言う。


「京子ちゃんはこの状況についてどう解釈したんだ?」


「京子ちゃんも雅樹さんと同じように電車で来たんだけど・・・。」


奈々がポツリポツリと話しはじめる。


「初めからおかしいって思ってたんですって。」


「何がおかしかったんだ?」


「時間・・・。」


「時間?」


「そう時間です。京子ちゃん電車に乗った時も降りた時も・・それから乗り換えの電車が来る時間もおかしいって・・。それ以前に誰も人がいないのも当然変だと思ってたけどとにかく時間のズレが気になったって…。」


そう言えば俺も同じような事感じた場面があったっけ・・・。


「それで京子ちゃんはどんな見解を出したんだ?」


俺は結論を急ぐように奈々に言う。


「京子ちゃんは、物理学を勉強している子だったんですけど、私と一緒にいる時、常に時計を気にしていました。」


「時間をチェックしていたと言う事かな?」


「そうです。京子ちゃんはあらゆる場面で時間を計測しそしてはある仮説をたてました。」


いよいよ核心的な部分に差し掛かったと緊張が走る。


「その仮説とは・・・」


奈々がまるで勿体をつけるかのように間を開ける。


「この空間は5分間から最大7日間の間隔で時間の流れが遅れているかもしくは止まっている。と言うものでした。」


「時間の流れが遅れている?」


「京子ちゃんは時間が遅れているか止まっているって言い方してました。」


俺は京子という子の仮説と今まで自分が体験してきた現象とを照らし合わせて考えてみる。


乗り換えの電車が遅れていた事、団地での生活の気配、コンビニの弁当、そしてカフェリンダの淹れたてのコーヒー・・・。


「奈々?京子ちゃんの仮説と俺が今まで体験してきた事を照らし合わせてこの状況を説明すると・・・この空間は俺たちが通常存在する世界より最低5分後の世界、つまり過去の世界と言う事か?奈々は俺たちが置き去りにされたって言ったがそれは要するに過去に置き去りにされたってことだな?」


足早に言う俺に奈々があっさりと答える。


「その通りです雅樹さん!」


奈々が嬉しそうに言う。


が、俺はとてもそんな気分になれない。


そんな俺の気持ちを知ってか知らずか奈々が続ける。


「京子ちゃんは時間についてこんな事も言っていました。」


どんな事を言っていたんだい?っと突っ込むべき場面なのだろうがそんな気も起きない。


「こっちの世界の時間は場所によってばらつきがあってとても不安定だと。それから最大7日間の遅れと言うのは京子ちゃんが実測した中での最大値で実際はどこまでが最大値なのかは、はっきりしないとも。」


そんな事どうでもいいだろう、問題は置き去りにされた俺たちが元の世界に帰る事ができる可能性についてだ・・・。


「あとは・・時間のばらつきについてそのばらつきは暗黒の津波が大きく関連しているとも言っていましたわ。」


沈黙を続ける俺の様子に気づいたのか次々と京子と言う子の説を取り上げていた奈々が言葉を止める。


「雅樹さん?どうかしましたか?」


奈々が心配そうに俺の顔を見る。


「過去ってのは過ぎ去りし存在しない世界じゃなかったのか?唯一俺たちの記憶の中だけに存在する・・」


俺は力無く呟くのが精一杯だった。


「私もそう思っていましたわ。確実に存在し感覚として捉えられるのは今この一瞬だけ。過去は消え去り未来は未だ来ないもの。でも過去はこうして実在した。信じられないけれどこれも事実ですわ。」


信じようが信じまいがどうやらそれは事実らしい。


その真実が俺を絶望の淵に追いやる。


たった5分。


わずか300秒。


しかしこのほんのわずかな時間的隔たりを乗り越える手段など俺にはとても思いつきそうにない。


本来過去は置き去りにし現在に立ちそして未来に向けて時間は過ぎる。


しかし今俺は消え去り存在しないはずの過去と言う空間にいる。


過去から現在へは時は流れない。


現在からの離脱に際して過去が発生するのだから。


有史以来誰一人として過去にその身を置いた人間を俺は知らない。


いるはずもない。


過去に身を置く人間とはつまり・・・。


生きる事の継続が困難となりその場にとどまった人間だからだ。


つまり死せる者がそれに該当する。


止まってしまった時間の中で俺は途方に暮れる。


「俺はもう死んだも同然ってわけか…。」


絶望の中でポツリと呟く。


「どうしてですか?私たちはこうしてちゃんと生きているじゃないですか!」


奈々は相変わらずの調子だ。


「死んだも同然だって言っているんだよ・・人は過去に生きることはできない。過去には存在できない。過去に残れるのは…死者だけだ。」


俺は力無く言う。


「アッそれ!京子ちゃんも同じ様なこと言ってました!だから死神は私たちを殺しに来るんだって!人は過去に生きていちゃいけないからだって。それから・・過去に生きる人間なんて存在したのではバランスが崩れるからそれを淘汰する為に狩りに来るんだって・・雅樹さんすごい!京子ちゃんと同じ事考えてたんですね!」


奈々の無邪気な笑顔を受け入れる余裕は今の俺にはない。


「奈々?何でお前はそんなに無邪気でいられるんだ?俺たちはここでは生きていてはいけない存在なんだぞ?それが証拠に死神に命を狙われているんだろう?」


俺はどうしようもない焦燥感の中で奈々に問いかけた。


「でも私達は生きているじゃないですか!。存在してはいけない人間なんていない証拠だわ!雅樹さん?現に私はここで一年も生き続けているわ。私も京子ちゃんも何にもあきらめていなかったし京子ちゃんは死神とだって戦ったし私にも戦い方を教えてくれたわ。私はどこであろうと生きる事をやめない。過去であろうと現在であろうと未来であろうとどこでもいい!私は私の命がついえるその日まであきらめないし求める事も与える事もやめない!」


俺を奮起させるかの如く奈々の口調が激しくなる。


「どうしてこんな空間が必要なのか?どうして私はここに来たのか?何を見て何を感じて何をすべきなのか。私は全てを知りたい。私の周りで起こりうる全ての事が必然的に起きていると信じているから。」


奈々は過去にあって過去にいない。


まさに今を生きている。


奈々の中に燃え盛る命の炎が俺の心にも火をつけ始めるのを感じていた。


「そうだよな・・奈々!俺達はまだ生きているんだもんな。」


「そうです!私達はまだこうして生きています。」


「必然・・・か。そうかも知れないな。物事には必ず訳があるはずだもんな。この異常事態だってそこに俺達がいる事だってきっと何か理由があるはずだ!もしかしたらその理由がわかれば元の世界に戻れるかも知れないしな!」


奈々の言葉に俺の心が奮い立つ。


結局男なんていつでもどこでも同じだな、なんて一人ほくそ笑む。


俺の中で奈々の存在が段々と大きくなってきていることを感じていた。


「元の世界へ帰る?」


奈々がキョトンとした顔で言う。


「そうだよ?元の世界に変える方法を考えるんだろ?ってか京子ちゃんともそうだったろ?」


奈々が何が言いたいのかいまいち伝わってこない。


「元の世界に帰って何か良いことでもあるんですか・・・」


なんだかまた風向きが悪くなってきたようだ。


奈々の顔つきと声の調子が微妙に変わってくる。


「いや、別に良いことなんかないしだからこそ『みんないなくなっちまえ』なんてやけっぱちで言ったんだけどここよりはましだろ?」


奈々の様子を見ながら恐る恐る言う。


なぜそうするのかは自分でも良くわからないが・・・。


「奈々は別にこのままでも良いけど・・。」


「は?いつ暗黒の津波に飲み込まれるか死神に狩られるかわからない世界だぞここは?」


「暗黒の津波なんか怖くないもん。それに死に神とだって戦えばいいし・・・」


「暗黒の津波が怖くないって・・あれに飲み込まれたらさすがに終わりだろ?」


「雅樹さんも見たでしょあれはそんなに速く進まないわ。それに前兆があるし・・。」


「前兆って?」


「例えばあれが来る前は強い風が吹き始めるの。それも進行方向に向かって。それから津波がどの地点で終了するのかも大体わかるし。」


「強い風が進行方向に向かって吹く・・そして津波の止まる場所もわかるのか。」


「そうです。津波は大体周期的にやってきます。ですから前回津波に飲まれたところまで来ると終わりです。ただ場所によって時間の流れが微妙に違うから完全ではないし新たな流れが生まれた場合にはこの限りではありません。何しろ時間の流れはとても不安定なんです。それから・・・」


暗黒の津波の様子が段々と明らかになる。


「新しくこの世界に人が来た時も暗黒の津波が死神を引き連れてやってくるみたいです。津波の周期は大体7日間なんですけど雅樹さんが来たからこの地域は3日目で新たな津波がやって来ました。」


「あの津波はやっぱり俺を殺しに来ていたのか・・・」


奈々がいなかったらどうなっていたかと思うとゾッとする。


「津波は街を壊していたけど、また元通りになっているのはどういう訳だ?」


「津波は過去を壊しに来るんです。そしてまた新たな過去を運んでくるんです。」


「どういうわけだ?」


「過去が過去のままずっと存在していたら・・・」


「存在していたら?」


俺は答えを急かす。


「ここにあるものみんな腐っちゃって臭いでしょ?」


そんな単純な理由か?


「ごめんなさい私にはうまく説明できないけれど京子ちゃんはそんな感じにわかりやすく説明してくれました。」


「暗黒の津波が過去を壊し新たな過去を運んで来たから新しい弁当や挽きたてのコーヒーがあったんだな。」


「そう言うことです。」


「でも待てよ・・とするとあの弁当の賞味期限から行って奈々はこの空間において3日間元の世界の人間よりも長く時を過ごしていることになるよな


「そうなりますね。」


「そうすると津波が定期的に7日間ごとにここに来たとして俺達はこの空間で元の世界の人間よりもより長く過ごす・・・つまり同じ時間の経過の中で俺達の方が早く年をとるって事になるんじゃないか?」


「普通に考えるとそうなりますよね・・・。でもそう単純でもないんです。雅樹さんこの写真を見て下さい。」


そう言うと奈々は学生証を俺に手渡してきた。


証明書の写真はもちろん奈々だが・・・なんだか印象が違う・・。


それに・・写真を見た瞬間のこの感覚はなんだ?


俺は目眩のような感覚を悟られまいと必死に堪えながら奈々に尋ねる。


「これは奈々だよな?」


「そうです。ほぼ1年前の私の写真です。」


「気のせいか今の方が若く見えるような気が・・・それに・・」


俺は写真を見た瞬間、初めて奈々に会った時と同じデジャブにも似た感覚を得たが敢えて言下には表さなかった。


「気のせいではありません。先ほどもお伝えした様にこの空間の時間の流れはとても不安定です。過去が消滅していく課程での時間の流れは通常の世界と一緒ですがその世界に置かれた人の内的時間は逆行しているようなのです。」


「内的時間が逆行・・・つまり若返っていくと言うことか?」


「その通りです。」


「まさか・・・そんなことが・・・」


「京子ちゃんもこの現象については説明しかねていました。でも・・重要な要件だと言っていました。」


「そうだね・・京子ちゃんが指摘するとおり俺達にとって重大な要件だ。早いとこ何とかしないとまずいな・・・。」


「どうして?若くなったらうれしいですわ。」


奈々が小首をかしげて言う。


その姿のなんと愛らしいことか・・・。


しかしそんな暢気なことは言っていられない。


時間の逆行がどの程度なのかを何らかの指標で確かめなければならない。


さもなければ遠からず俺達は為す術もなく死神に狩られる事になるだろう。


47まで掲載 48から

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ