慕情
『 慕 情 』(2007年5月)
メキシコシティから少し離れた南方の街に、クエルナバカという閑静な街がある。
そのクエルナバカのカテドラルの内部の壁に、一枚の壁画が描かれている。
五十年前に、上を覆っていた白く厚い漆喰が剥がれ、その壁画は忽然と現れた。
豊臣秀吉の時代に日本で殉教したフランシスコ会派の二十六人の殉教の画である。
いつ誰がどのような理由で描かせたのか、なぜ厚い漆喰で隠されたのか、一切判っていない。
極東の小さな国で起こった殉教がどのようにしてこの国に伝わり、このカテドラルの壁に描かれたのか、今も判然としてはいない。
注1:カテドラル:カトリックの大聖堂(司教座聖堂)
注2:日本二十六聖人殉教:豊臣秀吉の命によって長崎で処刑された
外国人宣教師と日本人カトリック教徒の二十六人
1597年2月15日に長崎の西坂で磔となった。
1862年に時のローマ法王ピオ9世によって列聖
この殉教を題材にした殉教壁画が1959年に発見された。
壁画は幾重にも塗り重ねられた石灰を取り除いた後に発見された。
なぜ、この壁画が描かれたのか正確な理由は分からないが、殉教者の中にメキシコ人宣教師フェリペ・デ・ヘススが居たことに起因するのだろうと云われている。
また、メキシコでは疫病が流行ると公共の建物を石灰で塗りつぶしたので、この壁画もそのような理由で、石灰で塗りつぶしたのだろうと云われている。
「旅行の案内書にも書かれていますが、これは面白い謎ですよねぇ」
辻内正晴が私に話しかけてきた。
私は少し冷めたコーヒーに手をのばしながら、彼に答えた。
「描かれた経緯はともかく、漆喰が塗られたことには、ある程度説明が付いているよ」
志野純子が私を視た。
「メキシコの習慣では、疫病が流行ると壁を漆喰で塗る習慣があったらしいんだ。おそらく、消毒のつもりかな」
「ええ、その記載は案内書にも書かれていますが、本当にそれだけの理由なのですかねえ」
辻内がフルーツ皿に盛られた艶やかなマンゴーに手をのばしながら、少し不満そうに言った。
「しかし、いずれにしても、漆喰が脱落し、下から壁画が忽然と現れたという事実はさぞかし教会関係者をびっくりさせたことだろうね。僕はこの日本二十六聖人殉教に関してはほとんど知識がない。日本に帰ったら少し調べてみようと思っているんだ」
「遅くなってごめんなさーい」
三人が座っているテーブルに辻内の妻の美加が近づいてきた。
「貴女を待ちきれず、もう戴いているのよ」
純子が微笑みながら美加に言った。
私たちはクエルナバカの郊外のホテル・アリストス・ミラドールのレストランでコンチネンタル風の軽い朝食を摂っていた。
「陸奥さん、突然のご連絡で恐縮ですが、メキシコ旅行をしませんか?」
携帯電話に辻内がかけてきた。
「おや、これはまた、突然だね」
私は少し驚いて言った。
「実は、会社の勤続三十周年で金と休暇が貰えるんです。三十周年には去年達していたんですが、去年は何かと暇がなくて、見送っていたんです。家内に話したら、陸奥さんもお誘いしたらどうか、と言われまして、この電話となった次第です。」
「美加さんの発案か。でも、メキシコ旅行か、いいねえ」
「二十数年振りですよ」
「僕らが行ったのは、昭和53年、1978年だから、もうかれこれ、三十年近くになるよ。」
「それでも、陸奥さんは三年ばかり前にカンクーンに行ったんでしょう?」
「うん、一週間たらずだったけど。同じホテルでのんびりと一週間」
「今度は、メキシコシティ、タスコ、クエルナバカ、グアナフアトといったシティ近郊の綺麗な街巡りを考えているんです」
「クエルナバカ? ああ、オアステペックに近いところか」
「シティの金持ちのリゾート地ですよ。常春の街、ラ・シュウダッ・デ・ラ・エテルナ・プリマベラと言われる街だそうです」
「そう言えば、僕はグアナフアトにも行ったことがない」
「十日間程度の旅を考えています。純子さんにも、美加の方から声をかけています」
「純子さん。吉川純子さんだろう。いや、現在は、志野純子さんか。懐かしいなあ」
「そう、我々のマドンナ、麗わしの純子さんですよ」
「彼女はご主人を亡くしたんだっけ」
「もう、かれこれ十年になります」
「日にちが決まったら、前広に知らせてくれよ」
「ということは、陸奥さんはOKの可能性大ということですね」
「何とか都合をつけてみるよ」
辻内と私は日墨交換研修制度で会社からメキシコに派遣された企業研修生で、メリダ・グループに配属され、昭和53年の夏から翌54年の春までの9ヶ月間をメリダというマヤ文明の色濃いユカタン半島の街で暮らした仲だった。
企業から派遣された企業研修生は5人であったが、大学生も10人ほど居り、越出美加も学生の一人で辻内と親しくなり、日本に帰って数年後に結婚した。
その時、吉川純子はメキシコシティ・グループであったが、大学では美加の同級生ということもあって、時々はメリダに遊びに来たり、私たちがシティに遊びに行く時は道案内をしてくれる間柄となっていた。
「陸奥さん、お久し振り」
「純子さん、もう三十年振りですよ」
成田空港で私と純子の会話はこんな感じで始まった。
「純子さんはあまり変わっていない」
「陸奥さんも」
「いやぁ、ずいぶんと変わりましたよ。白髪も増えてご覧の通りです」
「いえ、素敵なロマンスグレイの紳士です」
「紳士はともかく、年齢ばかり取りました。純子さんとは確か、シティでのコナスィットによる日墨交換研修生の解散式でお別れして以来ですね」
「そう、あの時はシティの日本レストランで気の合った仲間同士でお別れ会を持ったんですよね」
「確か、大黒レストランの座敷で。辻内さんも居ましたよ」
「もちろん、美加も」
「メキシコを離れる淋しさと、日本に帰れる安堵感で複雑な心境でした」
「あの時、陸奥さんがあのレストランで歌った歌が未だ耳に残っているのよ」
「えっ、どんな歌でした? 僕は覚えていないなぁ」
「惜別のうた、でした。島崎藤村作詞の」
私が忘れていた歌を純子が覚えていてくれた。
少し甘酸っぱい感傷が私を包んだ。
あれから、三十年ほど経ってしまった。
ふと、後悔にも似た感情が私を襲った。
日本に戻った時、純子に会うつもりだったら、いつでも連絡できたのに、私はしなかった。或いは、・・・、純子と結婚できたかも知れないのに。
彼女と結婚できていたら、彼女はともかく、少なくとも私は幸せだったに違いない。
男の身勝手な思いか。
私は純子のほっそりとしたうなじを見ながら、そう思った。
「陸奥さんが結婚された話は美加から伺っていますが、お子様は?」
「五年前に離婚しました。子供は一人できましたが、病気で小さい頃亡くしました。今、別れた妻は実家の商売を手伝っています。」
「あらっ、そうでしたの。すみません、プライベートなことを訊いてしまって」
「いえ、別にかまいません。いずれ、辻内あたりから耳に入るでしょうから」
「私はウィドーになりました。あんまり、メリーな感じではありませんが、子供もなく、のんびりとした暮らしを楽しんでいます」
「スペイン語で言うと、ビューダ(未亡人)ですね」
「スペイン語を未だ覚えていらっしゃるのね。もう三十年も経っているのに」
「メリダで、ミ・カシータというアパートに住んでいました。そこの管理人が七十歳を過ぎたお爺ちゃんでしたが、奥さんを亡くしたビュード(男やもめ)でした。時々はアパート探しに来る女性との世間話の中で、結婚相手に誰かいい人がいないかといった話になると、お爺ちゃんは必ず言ったものです。アキ・エスタ・ウン・ビュード」
「ここに、ひとりの男やもめが居ります、ということ。ほほえましいお話ですねぇ」
純子は夫と死別し寡婦となり、私は離婚し独身に戻った。
三十年という時間の長さと重みを痛切に感じた。
時は残酷なものだな、と思った。
しかし、大分昔のこと、純子が結婚したという噂を聞いてなぜかがっかりしたことを私は思
い出す。
と同時に、純子が寡婦となったことに対して、少し嬉しい気分になったことも事実である。
他人の不幸を喜んでいる。
俺はつまらない男だな、と自嘲した。
その後、当初予定していたタスコを旅程から外すとかいろいろとあったが、私たちは、五月
七日の夕方の便で成田を発った。時差の関係で同日の夕方にメキシコシティ国際空港に着いた。
「メキシコに来る時は一日儲け、日本に帰る時は一日損をするんだよねぇ」
辻内のおどけた口調に私は思わず吹き出して笑った。
「差し引き、勘定は合うということだよ、辻内さん」
「さあ、中年男女四人組、これからメキシコ旅行をエンジョイしましょう」
「賛成、美加と私、昔の学生気分に戻って、大いにメキシコを堪能しましょう」
純子が珍しくはしゃいだ様子を見せた。
空港で、タクシー・チケットを買って、私たちはソカロ近くのホテルに向かった。
ホテルはタクシー地域としては第3ゾーンに在り、127ペソというチケット料金であった。交通の流れは比較的スムースで、三十分ほどでホテルに着いた。
助手席に座っていた私がチップを運転手に渡した。
運転手が言う言葉は決まっている。
グラスィアス、ブエン・ビアッヘ! (サンキュー、良い旅を!)
ホテルの部屋は三部屋取っており、辻内夫婦、純子、私とそれぞれの部屋に荷物を置いてから、軽い夕食を摂りにホテルを出た。
丁度、ホテルの前がパン屋も兼ねたカフェテリアとなっており、私たちはそのカフェテリアの片隅の席に座った。
「さて、と。何を食べましょうか?」
辻内が言い、私はメニューを見ながら呟いた。
「僕は、軽く済ませることとするよ。どうも、飛行機の中で食べた機内食が未だ腹にもたれているんだ」
「食欲のない陸奥さんはご自由になさって。私はこのタコスを戴きますわ」
美加が牛肉タコスを注文した。
「おい、美加、大丈夫? 今は夜だから、肉は腹にもたれるよ」
と言いながらも、辻内は海老入りのタコスを注文した。
「じゃあ、私はカフェ・コン・レチェとフルーツサラダにしますわ」
純子が流暢なスペイン語でウエイターに注文した。
「いつもながら、純子さんと美加さんのスペイン語には敬服します。辻内さんとか、僕のスペイン語とは全然質が違う」
「純子と私はスペイン語科専攻で四年間みっちりと勉強しましたから。勉強させられたと言った方が正確かな」
美加が器用にトルティージャ(タコスの皮)に肉を挟んで巻きながら私に言った。
「でも、卒業後はあまりスペイン語とは関係の無い暮らしをしておりましたから、実は今回の旅行の話が出てから、少し復習をしましたの」
と、純子がパパイヤを切り分けながら言った。
「それはそうと、今一度、今回の旅行日程を確認することとしましょう」
辻内が話を切り出した。
「今夜を含めてシティには三泊、その後はクエルナバカに三泊、グアナフアトに三泊という旅程になっています。九泊十一日間の旅の始まりです。残念ながら、タスコは見送りとしましたが」
「シティからクエルナバカにはバス、クエルナバカからシティもバス、シティからグアナフアトには飛行機だったよね」
「そうです。シティからグアナフアトにはバスの便もありますが、何と言っても時間が長すぎます。五時間程度はかかりますから。そんなわけで、飛行機にしました」
「バスで五時間か。少し長すぎるねぇ」
「グアナフアトには空港がなく、隣のレオンとの中間にあります。バスかタクシーで空港に行き、飛行機に乗るといったことになります」
「飛行機はどんな飛行機なんだろう。おそらく、三十人か五十人乗りの小さな飛行機なんだろうけど」
「おそらく、そんなところでしょう。少し、こわいですが」
「ところで、バスの切符はどのように手配するの?」
「ご心配なく。明日、切符関係は純子さんと美加が二人で手配することとなっています。純子さんにはお手数をかけますが」
「そんなことはございません。かつて、シティに居た私ですから、バスとか飛行機の切符の買い方は承知しております。明日は美加と地下鉄を利用しながら、バス・ターミナルに行き、必要な切符を買って来ます」
純子が微笑みながら言った。
「この店はなかなか感じがいいですね。明日もこの店で朝食を摂りませんか。勿論、ホテルでの朝食も結構だけれど」
「そうですわねぇ、この店はメニューの数も多そうだし、コンチネンタル風の軽い朝食もメニューの中に含まれていますわ」
「純子さん、僕は米国風の卵の入った朝食スタイルが好きなんです。いわゆる、アメリカンスタイルの朝食もありますか」
「ええ、辻内さん、メニューにありますよ。卵の分だけ、少し高くはなりますけど」
「でも、あなた、卵料理は控えるようにお医者さまから言われているのでしょう。コレステロールに注意しなさいと。メキシコで羽根を伸ばそうとしても、それは駄目、駄目」
美加から釘を押されて、辻内が頭を掻いた。
店を出ると、雨が降っていた。
傍に居たウエイターに訊くと、4月から雨季に入っているとのことだった。
私たちは目の前のホテルに駆け足で戻った。
皆と別れ、私はホテルのレセプションの脇にあったインターネットサービスで自分宛の個人メールを確認した。
会社の事務員から会社行事に関する連絡メールが一通入っていた。
その後、しばらくロビーでくつろいだ。
どうせ、今夜は眠れない。
日本とメキシコの時差は14時間ほどあり、いわば昼と夜が完全に逆転する。
どうせ、一、二時間程度で眼が覚めてしまうのだ、そう思いながらロビーのソファーに座っていた。
しかし、それにしても純子は変わっていない。
相変わらず、ほっそりとしていて綺麗だ
。少し、顎のあたりに肉が付いたようにも思えるが、昔とほとんど変わっていない。
きっと、幸せな結婚生活を送ったのに違いない。
亡くなったご主人はきっと純子を大切にしたのだろう。
それに引き換え、私の結婚生活は結果的には失敗に終わった。
憎みあって、或いは諦めあって熟年離婚という惨憺たる結果に終わってしまった。
最後の頃には、妻の人相もすっかり変わってしまった。
おそらく、私の人相も変わっていたに違いない。
今は、彼女はどんな顔をしているのだろうか。
元の顔に戻っているのだろうか。
純子のご主人はどのような人柄だったのだろうか。
私は未だ見たこともない男に軽い嫉妬を覚えた。
どうも、今夜は眠れそうにない。
時差ばかりではなく、純子のせいもあると思った。
翌朝、私たちは昨夜のカフェテリアに居た。開店と共に現れた私たち中年四人組をウエイターが笑顔で迎えた。オレンジジュース、フルーツ、パン、コーヒーといったコンチネンタル朝食を摂った。
「どうです、昨夜は眠れましたか? 僕はあんまり眠れませんでしたが」
私の言葉に全員が同調した。
「やはり、眠れませんでしたよ。それでも、美加は眠っていた様子でしたが」
「いいえ、眠れませんでした。あなたのいびきがうるさくて」
「いや、そんなことはない、僕はいびきをかかないよ」
「いいえ、あなたはかきます。昨夜もいびきをかいていました」
美加の断定的な口調に私たちは笑った。
「純子さんはどうでしたか?」
「駄目でした。眠っても眠りが浅く、一、二時間毎に目が覚めていました」
「僕もそうです。本当に眠りが浅く、すぐ目が覚めてしまいます」
私が言い、純子も頷いた。
「さて、今日は、これからどうしましょう」
私の問いに純子が答えた。
「午前中にバスの切符とか飛行機の予約をしてきます。陸奥さんたちとは午後にどこかで会うことにしましょう」
「会う場所はホテルでも良いし、この店でもいいですよ」
「女性軍が切符を買っている間、僕たちはソカロとかソナ・ロッサをぶらつくこととしましょうよ、陸奥さん」
「昨日、シティの地図を見ていたら、日本食の『みかど』とか『スシ・イットー』といったレストランの名前が載っていた。昼食、夕食あたりで一回食べてみるのも話の種になるかも知れない。午前中、ソナ・ロッサをぶらついて場所を確かめておきたいな」
「あらっ、もう日本食なんですか。陸奥さん、ここはメキシコなんですよ。メキシコ料理を堪能しなくては」
「美加さん、分かっていますよ。ただ、メキシコの日本レストランの状況というのも気になるし、日本に帰ってから、少し話の種になるかなと思ったまで」
「そう、『スシ・イットー』という名前は結構有名みたいだし、陸奥さん同様、私も気になりますわ」
純子が助け舟を出してくれた。
「じゃあ、陸奥さんとぶらついて食事の店を偵察しておくことにするよ」
辻内が言い、午後にソナ・ロッサの独立記念塔の前で落ち合うこととした。
ソナ・ロッサ(英語で言うと、ピンク・ゾーン。銀座みたいな華やかな地域という意味で使われており、決して風俗営業で華やかな地域ということではない)を辻内と私は歩いた。
「スシ・イットー」も「みかど」も簡単に見つかった。
「スシ・イットー」の方は宅配もやっていそうな感じの店だった。
金色に輝く天使のモニュメント、独立記念塔の周辺を歩いていたら、「オテル・デル・アンヘル」という文字が目に飛び込んできた。
「辻内さん、あのビルの側面にオテル・デル・アンヘルという文字が書いてあるだろう」
「ええ、大きな文字で書いてありますね」
「僕にはとてもなつかしいホテルなんだ。僕がメリダからシティに来る時の定宿だったんだ」
「ああ、思い出しました。確か、同業他社の名前を告げれば、10%程度安くなるといったホテルですよねぇ」
「そうなんだ、その会社の人間だと言うと、10%割り引いてくれた、ありがたいホテルなんだ。でも、先年の、確か1985年だったと思うけど、あのメキシコシティ大地震で崩壊したとばっかり思っていたけど、大丈夫だったんだね。とにかく、無事な姿を見て、何となくうれしいね」
「僕はオテル・ヘノバが定宿だったけど、今もあるのかなぁ」
そんなことを言いながら、私たちはぶらぶらと独立記念塔の周辺を歩きまわった。
信号が赤になり、車が停まるとその車の間を新聞とかお菓子の箱をぶらさげて売り子がゆらゆらとまわって売り歩いていく光景が眼に入った。
売り子は老若男女さまざまな年齢層から成り立っており、少なからず私たちを驚かせた。
「昔から、こんな感じだったかい、シティは?」
辻内に尋ねた。
「いえ、かつては、これほど売り子は多くなかったように記憶していますが」
メリダ滞在中、月に一度は会社の関係でシティに行っていた辻内でさえ、シティの変貌振りには面食らったようであった。
「今、シティは人口1800万人だそうです。東京は確か、1200万人程度でしたよねぇ」
「メリダだって、かつては20万人程度の街だったけど、今や50万から60万人の街に拡大しているとの話だよ」
「農村では飯が食えず、職を求めて都市に集中する傾向は日本よりも顕著なんですかねぇ」
「日本だって、同じようなものさ。今、地方の小都市は駅前だってゴーストタウン化しているさ」
「そうですよね。かつて、地方の都市で、何とか銀座とか称して賑わっていた街の中心部も今はやたら駐車場となっていたり、或いは閉店休業といった状態ですから」
「しかし、それにしてもこの排気ガスの臭いには閉口するね。眼もチカチカしてきたよ」
「シティ名物のスモッグもぼちぼち空に現われてくるかも知れませんね」
「お待ちどうさま。ずいぶん待ちました?」
明るい声に振り返ると、そこに純子と美加が笑って立っていた。
「日本人って、遠くから見ててもすぐ判るわ。こんな雑踏の中でも一種独特だから」
美加が私たちを冷やかすような眼で見ながら言った。
「切符は無事買えたの?」
「ええ、クエルナバカ往復のバスの切符、シティからレオン空港までの飛行機の切符、全て順調に買えました」
純子がハンドバッグを軽く叩きながら答えた。
「ああ、お腹が空いた。何か、食べましょうよ」
美加が言った。
「あの店で食べようか」
私は「みかど」を指した。
「ここに来る途中、「東京」レストランは見たけど、「大黒」は見なかった。あの「大黒」はなくなってしまったのかなぁ」
「みかど」に入り、メニューを見ながら私が言った。
「さあ、どうでしょう。私は大黒の味の方が好きだったけど」
純子が言い、私も彼女に同調して言った。
「より日本的な味がしたね。一膳飯屋というか、一杯飲み屋風な店構えも気に入っていたけれど」
「僕は、ラーメンとかしょうが焼き定食とか、よく食べていたなあ」
と、辻内もなつかしそうに言った。
私たちは日本食レストランのないメリダにまる九ヶ月滞在した。
その間、数回シティに遊びに行ったが、その都度大黒或いは東京といった日本レストランに足を運び、思う存分日本の味を楽しんだ。
シティ滞在中は朝食は除き、昼食と夕食は必ず日本レストランに通ったものだった。
そして、米、醤油、糸コン、長葱などの食材を日本食材の店で買ってメリダに戻るのが常だった。
メリダに戻ると、グループ仲間を呼んで日本食宴会を開いた。
カレーライスとか、すき焼きを作って宴会をするのが私たちのささやかな楽しみだった。
時には、シティからシティグループが遊びに来た。
純子も二度ほど来たはずだった。
今でも純子たちが来て私のアパートで作ってふるまってくれたカレーライスの味は忘れら
れない。
たくさん作ってくれたので、純子たちが去ってからも私は数日そのカレーを食べ続けた。
食べながら、知らず目頭が熱くなったこともあった。
当時の私にとって、カレーは祖国日本の味だった。
外国に居ると、人は愛国者になるものだ。
「みかど」ではウエイターに薦められるままに、さくら定食という名のコロッケ定食を食べ
た。丁度、二時頃でお昼の時間でもあり、駐在している日本人も五、六名連れ立って入ってきた。中年の日本人男女は珍しいのか、彼らは一様に好奇の目を私たちに向けてきた。
「今、思い出しているんだけど、昔、純子さんたちがメリダに来て、僕のアパートでカレー
ライスを作ってくれたことがあったよね。あの時のカレーはとても美味しかった。いっぱい作ってくれたので、僕は純子さんたちが去ってからも三日間ほどカレーを食べ続けたよ。美味しかったなあ」
「確か、シティで研修中の看護婦さんたちとメリダに行った時のことね。シティからカレー
粉とお米を持参して作ったことがあったわねぇ。あの時のカレー、そんなに美味しかったの?」
「陸奥さんの言う通り、僕もその時ごちそうになったけど、すごく美味しかった」
「カレーライスは立派な日本食なんだ。お米は確かカリフォルニア米だと思ったけど」
「シティの日本食材の店にあったお米はカリフォルニア米よ。冷めると少し粘り気がなくな
るきらいはあったけど、暖かいうちは日本のお米と比べ、遜色はなかったわ」
「メリダにはなかった。あるのは、ロンググレインのお米で、日本のお米のようなショート
グレインのお米はなかった」
「そう、確か、ユカタン大学の担当教授を呼んですき焼きパーティを開いたこともあったわ
ねえ。陸奥さんも覚えていらっしゃるでしょう。純子たちが持ってきてくれたお米を炊いて、おにぎりを皆さんにふるまったこと。ボラ・デ・アルロース(ライス・ボール、おにぎり)。パサパサしていなくて粘り気のあるお米に皆さん、びっくりしていたわ」
美加もなつかしそうな口調で言った。
メリダはメキシコの中では蒸し暑く、快適とは言えぬ気候の地域であったが、雨季のシーズ
ンが去る10月以降は、日本で言えば夏か秋の季節となった。
メリダに冬の季節はなかった。
そして、憂鬱な雨季が始まる4月には私たちは日本に帰っていた。
7月から翌年の4月初めまでの研修期間であった。
語学研修或いは専門分野の勉強に来ていた学生とは異なり、辻内、私といった企業研修生はユカタン州立大学の人類学教室の聴講生となり、気楽な大学生生活を送ることができた。
この九ヶ月の暮らしを私は秘かに「人生の楽園の時」と自分では名付けている。
日本に帰ってからは、このような「人生の楽園の時」は残念ながら一度も味わうことはなかった。
当時のメリダ・グループは十五人ほど居た。
企業研修生が五人、学生の交換留学生が十人であった。
私がリーダー、辻内がサブ・リーダーであった。
特に理由はなく、ただ年齢の順で決まっただけの話であったが。
「現役」の学生はともかく、企業研修生は全員学卒ばかりで今更勉強中心の大学生生活に戻れるはずもなく、興味と言えば、スペイン語を効率よく習得すること、旅行をすること、セニョリータと適当に遊ぶこと、夜はバル(酒場)で流しのバンドの音楽を聴きながら適度に酔うこと、昼間は郊外のゴルフコースで2ラウンドのゴルフをして汗を流すことなどであった。
怠惰な暮らしをおくるつもりならば、いくらでも怠惰な暮らしをすることができた。
多少、引き締めるつもりで行うのが、フィエスタと称するパーティであった。
いろいろな情報交換の場であったが、主として確認するのは研修生それぞれの状況の把握であった。
健康、金銭、恋愛、旅行などの動向を定期的に把握することはリーダーとしての重要な役割であった。
二週間毎に私のアパートで開いた。
各自、酒とかつまみを持参する形のパーティでメキシコ人を連れてくるのも自由であった。中に、フィリップという名の米国人の大学院生も居た。
スペイン語風に言えば、フェリーペで、彼はベトナムに兵士として行って、米国に帰り、
すぐにこのメリダのユカタン大学の人類学教室に大学院生として奨学金を貰って入ってきたという変わり者だった。
フェリーペも私のフィエスタの常連であった。
酒は、ビール、テキーラ、ブランデー、ウイスキー、ワイン、カルーワ・リキュールなど実に多彩なアルコールを私たちは飲んだ。
つまみで、人気があったのはやはり何といっても日本から持ってきた、或いは送られてきたつまみで、イカの燻製、サキイカ、ちくわ、おせんべい、柿の種、羊羹といった類のものであった。
幸いにして、十五人全員、とりたてて特筆すべきこともなく、研修生活を無事に終えることができた。
私はフィエスタ・リーダーと少し陰口は叩かれたが、これはこれで良かったと私は思っている。
残念ながら、日本に戻ってからは、メリダでのようなフィエスタは一度も開くことができなかった。
各自、学生は就職活動或いは大学院進学、企業研修生は企業戦士としての日々に埋もれていった。
辻内正晴と越出美加の結婚式の時、五、六人のメリダ・グループが集まったのが最後であった。
その後、私もけっこう多忙な歳月を送り、いつしかメキシコのことは自分の中で封印してしまった。
遅い結婚をして、子供が生まれたものの、その子供を病気で亡くし、いつしか妻との間に亀裂が生じ、離婚という状況に至り、今はマンションに独り暮らしという日々を送っている。
こんなはずではない、と思いながらも会社人間のはしくれとして懸命に生きてきた。
ふと、見渡すと自分のまわりには誰も居なくなっていた。
父は早く死に、母の死も見送ってきた。
索漠とした人生で終りかとつくづく思うことが多くなってきた。
「みかど」を出て、私たち四人はソナ・ロッサの雑踏の中を歩いた。
時々、立ち止まってウインドウ・ショッピングというか、陳列しているものを覗き込む。
このような時間は実に久しぶりだった。
ふと、じっと覗き込んでいる純子の横顔を見た。
無邪気にキラキラと輝く眼で見ていた。
何のことはない陶器だった。
俺はもうこのような輝きを持って、好奇心でものを見るということも失くしたのかも知れない。淋しく、そう思った。
やはり、純子という女性に俺はふさわしくなかったのだ。唐突にそう思った。
翌日はテオティワカン遺跡のツアーに出かけた。
三十年振りのテオティワカンであった。
ツアーのバスは『太陽のピラミッド』と『月のピラミッド』の間の駐車場に着き、私たちは
ガイドと一緒に『死者の道』と呼ばれる広い道を歩いて、みやげ物売りを振り払いながら、『太陽のピラミッド』に向かった。
照りつける日差しはきつく、大分汗をかきながらピラミッドを登った。
「ああ、きついなぁ。昔はここを駆け上ったものだよねぇ、陸奥さん」
「二十台と五十台の違いだよ。辻内さん。それにしても、急勾配だね」
「でも、ウシュマルよりは勾配が緩やかかなぁ」
と美加が言った。
「もうすぐ、頂上です。さぁ、みんな頑張って」
純子が振り返って、ともすれば遅れがちな辻内と私を励ました。
「チチェンイッツァ並みの勾配かなぁ、それでもご飯前で良かった。ご飯を食べた後ではと
てもこの勾配は無理だよ」
私が喘ぎながら言った。
「陸奥さん、それは言えますよ。ご飯の後では、とても登る気にはなれませんよ」
やはり、辻内も私同様喘ぎながら声を振り絞るように言った。
「あなた、もう少し減量しなくては。純子さんに笑われてしまいますわよ」
「そうは言っても、美加、ここ二、三日ほど食べ過ぎて、減量できる状態じゃないよ」
テオティワカンは「神々の都市」と言われる。
『死者の道』という大通りがあり、正面に『月のピラミッド』、右側に『太陽のピラミッド』
と大小二つの階段状ピラミッドがある。
『太陽のピラミッド』の高さは65m、『月のピラミッド』の高さは46mと云われている。
このテオティワカン遺跡には昭和53年の7月にシティに到着して全員で近郊の保養地、オ
アステペックで集合研修を受けていた時、一度全員でバスを連ねて訪れた。
全員で百人という大所帯でここを訪れた。
確か、集合研修も最後の段階で、近々それぞれの研修地に分散することとなっていた時期だ
ったと思う。
最年長でも三十歳、最年少が二十歳という企業研修生・学生の集団であった。
当時、私が二十八歳、辻内が二十七歳、純子と美加は大学四年を休学してここに来ており、未だ二十二歳の少女のあどけなさが残る女の子だった。
美加がしゃきしゃきした感じで、純子はどちらかと言えば、はにかみやの女の子だった。
オアステペックの講義から解放され、テオティワカンではみんなが浮かれていた。
若い学生の中にはビラミッドの階段に備え付けられている鎖の綱に触れることもなく、頂上目がけて走って登っていくものも見受けられた。
「辻内さんも走って、このピラミッドの階段を登った方じゃあないのかい」
「そうでしたっけね、もう記憶にございませんが。柾木とか辻といった若くて生きのいい学
生はそうでしたね」
「あの連中は今どうしているのかな。僕より六歳若かったから、今五十一歳といったところ
か。企業ならばまさに働き盛りの年齢だ」
「陸奥さん、年齢のことは女の前ではタブーよ。柾木さんらと私、美加は同じ年齢ですから」
純子がこちらを振り向き、軽く睨んだ。
「当時、柾木さんは就職難を避けてこのメキシコ留学に応募したと言っていた。昭和54年
に帰って、無事就職できたのかなぁ」
「○○商事に就職したと聞いています」
純子が言った。
「今、元気なのかな。いつか、会いたいもんだな」
「陸奥さんはメリダグループのリーダー、柾木さんはメリダの学生グループのリーダーとい
うことで仲良しでしたものね」
美加がハンカチで額の汗を押さえながら言った。
頂上で私たちはお互いに写真を撮った。
新婚夫婦と思われる日本人の男女が寄ってきて、シャッターを押してくれという。
私が押してやると、お礼に純子と私の写真を撮りますよと言う。
どうも、純子と私を夫婦と間違えているようだった。
断ろうとした矢先、純子が戸惑っている私の傍に来て、その若者に「お願いします」、と言
った。
辻内と美加は笑いながら私たちを見ていた。
自然と寄り添う形で写真を撮ってもらうこととなった。
少し胸がときめき、私はぎごちなく笑う始末となった。
ふと見ると、純子はすました顔で腕を組んできた。
私はかなり混乱した。
その時の写真には赤く紅潮した顔で写っている私がいるに違いない。
その夜は四人で国立芸術劇場に行き、メキシコの民族舞踊を観た。
クライマックスは鹿のかぶりものを被った男性が一人で踊る「鹿踊り」である。
これは昔も今も変わらず、男性踊り手のエースがこの役を務めることとなっている。
意外に思ったのは、フラッシュ撮影も許可されていることだった。
客席のそこかしこからフラッシュ撮影がなされ、少し目障りに感じるほどであった。
私たちはいずれもデジカメをホテルに置いてきたことを後悔するほどであった。
私個人としては、三回目の観劇であった。
メリダ滞在の時に二回観ており、今回が三回目となった。
「昔、ここでゴヤの展覧会があり、僕はあの有名な『着衣のマハ』と『裸体のマハ』を観ま
した。スペインのプラド美術館から借り出され、ここに展示された時です。その時も実は今日観たような民族舞踊を観に来たのですが、あいにく民族舞踊公演の日ではなく、いわば無駄足を踏みました。しかし、その時丁度ゴヤの展覧会が開かれており、偶然に観ることができました」
「陸奥さん、僕はスペインのプラドで観ました。どちらが良かったですか。着衣と裸体と?」
「あっ、辻内さん、いじわるだなぁ。女性軍の前では言いづらいけど、『裸体のマハ』の方がずっと良かったよ」
「『着衣のマハ』はおすまし顔の眼をしていますが、『裸体のマハ』は見る者を誘惑するような眼をしていると云われていますものね」
純子がお茶目な目をして言った。
その通り、あの時、私は『裸体のマハ』のあの挑むような眼、表情に魅了された。
日本と異なり、人もいない閑散とした展覧会で、『裸体のマハ』の前で暫く茫然と立ちつくしていた自分をなつかしく思い出した。
五月十日。私たちはメキシコシティの南方面バス・ターミナルからバスに乗り、クエルナバ
カに向かった。
乗車時間としては一時間程度でクエルナバカのバス・ターミナルに到着した。
そこから、タクシーに乗り、アリストス・ミラドールというリゾートホテルに向かった。
セントロ(街の中心街)から北の郊外にあるホテルで広大な敷地を持つホテルだった。
チェックインを済ませ、荷物を部屋に置いた私たちは早速タクシーを呼んでもらってクエル
ナバカのセントロに向かった。
少し歩いて、カテドラルに向かった。
カテドラルは一見したところ城のように見えた。
外壁が異常に高く、敵に対する防衛能力も高そうに見えた。
一体、誰から自らを守ろうとしたのか、そう思いながら私はカテドラルに入った。
そして、内部の壁に描かれている『日本二十六聖人殉教』の壁画を観た。
しばらく、私たちは声もなく、壁画を見上げていた。
極東の一辺境で起こった殉教がどのような形でメキシコに伝わり、このクエルナバカの大聖
堂の壁に描かれたのか、そしてその後、厚い漆喰に塗りこめられて数百年を過ぎたのか、謎が多すぎる。
「すごい、圧倒的な壁画だ」
「見えている磔には十二人、残りの十四人の磔の図は未だ漆喰に覆われて見えないというこ
とでしょうか。おそらく、この側面の壁いっぱいに描かれているのでしょうね」
「或る意図を持って漆喰で塗り込めたのか、分かりませんが、漆喰が剥がれて内に隠された
壁画が発見されるなんて、すごくロマンチック。何か、知られざる物語がありますね、きっと」
純子が私の傍らで呟いた。
「壁画を描いた記録、壁画を塗り込めたという記録。何も残っていないのかねえ」
「描かれた当初は色も鮮やかだったんでしょうね。今でこそ、このようにくすんだ色となっ
ていますが」
「どうして、このクエルナバカのカテドラルの壁画となったんでしょうか」
日頃は陽気な辻内夫妻も感慨深そうに壁画に目を凝らしていた。
「ここに、マタイによる福音書の有名な言葉が書かれているわ」
純子が壁の一部を指差しながら言った。
壁の一部が浅く窪んでおり、金色の下地に黒文字でスペイン語が書かれていた。
「『幸い』と呼ばれている文章よ。美加、来て。ほら、覚えているでしょう」
「もちろん。試験に出たもの。一番目は、心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人た
ちのものである。」
続いて、純子が静かに言った。
「悲しむ人々は幸いである、その人たちは慰められる」
私も拙い語学力でそれらの文字を目で追って読んでいった。
最終の八番目には、『義のために迫害される人々は幸いである、天の国はその人たちのもの
である』、と書かれていた。
殉教していく者の心の内を思った。
現世の生を捨て、殉教により永遠の命を得ると云う。
他にも、『荒れ野で叫ぶ者の声がする。主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ』という
マルコによる福音書の一節も壁に書かれていた。
カテドラルを後にして、私たちはボルダ庭園を見物し、セントロに戻ってコルテス宮殿を観
た。
中庭を持つコロニアル形式のこの豪壮な建築の二階のバルコニーに座って私は暫く前方のセントロの風景を眺めていた。
雲一つない青空が広がり、遠くに、カテドラルの尖塔が見えていた。
気がつくと、傍らの椅子に純子が座っていた。
「今回のメキシコの旅は僕にとってはセンチメンタル・ジャーニーです。一人で思い出の地をまわるのも、それはそれなりに良いものですが、今回のように思い出を共有できる方と一緒にまわるというのも一層味わい深いものですね。実は、三年前に一人でカンクーンのホテルに一週間ほど滞在しました。その間、一日ずつ日帰りで、メリダ、イスラ・ムヘーレスに行ってきました。いずれもなつかしく、昔を思い出させる風景は残っていましたが、和みはしましたが、楽しくはありませんでした。一人というのは、楽しくはないんですね。日本ではこの頃、癒しという言葉が氾濫しています。僕は、人は風景によっては決して癒されることはないと思っています。人は人によってしか、癒されることはない、という思いを持っています」
「企業でバリバリ働いていらっしゃる陸奥さんが癒しを求めていらっしゃるというのは予想外でした。今回の旅で少しは癒されました」
「もちろんです。第一、同伴者が最高ですから。純子さん、辻内、美加さんと、最高の同伴者ですよ。ゴルフで言えば、ゴルフコンペの優勝者は優勝者のスピーチで必ず言う言葉があります。曰く、『同伴者の方にも恵まれまして優勝することが出来ました。同伴者の方にお礼を申し上げなければなりません』と必ずと言っていいほど、スピーチに盛り込まれます。今回のメキシコの旅は僕にとって最高の同伴者に恵まれています」
「癒しの方も、順調に?」
純子は少しからかい気味に私に尋ねた。
「順調と言いたいところですが、・・・。有り体に言えば、今の自分を反省し、過去を後悔することが多い旅となっています。純子さんたちに責任は全くありません。メキシコから戻った昭和54年から現在までの僕の生き方の問題ですから」
本当のところは、純子、貴女という存在のせいだ、と言いたかった。
貴女はちっとも変わっていない、僕がこんなに変わっているのに。
ふと、自分の心の中で得体の知れない壁が崩れていくのを感じた。
「こんなことを訊いて、いいですか」
「えっ、どんなことですの」
「つまり、純子さんの、・・・、昭和54年に日本に戻ってからの暮らしのことなんですが」
「・・・、学校に復学して卒業し、貿易会社に就職しました。そこで、上司にあたる方と結婚しました。昭和24年生まれでしたから、陸奥さんと同年代だったと思います。子供には恵まれず、志野は10年前に肝臓癌で亡くなりました。現在は、東京郊外で志野が残してくれた家で猫と暮らしています。猫は、今お隣に預かって戴いていますの」
「今回、辻内からメキシコ旅行の話があった時、純子さんは即OKだったんですか」
私は、辻内から話があった時、実はあまり乗り気ではなかった。
決め手になったことは、正直に言うと、純子も行くということが判った時期だった。
「私は、即OKでした。気の置けない方々との旅行ですもの。別に忙しい暮らしを送っているわけでもないし」
純子は微笑んだ。
そこに、辻内夫妻が現われ、私たちの会話は途絶えた。
その晩、私は辻内とホテルのバーで飲んだ。
辻内は相変わらずコロナビールを飲み、私は相変わらずのボエミアだった。
「陸奥さんはいつもボエミア。三十年前といっしょ」
「辻内さんも、スィエンプレ(いつも)、コロナ。変わっていないなぁ」
「旅も今までのところは順調ですねぇ。企画した者としては大満足です。陸奥さんも純子さんも満足されている様子ですし」
「いや、本当にありがとう。リラックスした良い旅となっているよ。時に、美加さんは?」
「純子さんの部屋でおしゃべりをしています。二人とも、学生気分に帰って、あれこれと話しています。」
「確か、辻内さんのところは二人お子さんをお持ちだったよね」
「娘と息子が居ます。二人とも学校を卒業し、社会人となっていますが、結婚は未だで鉄砲玉のように暮らしています。家には寝る時だけ帰ってくるような状態で」
「僕のところも子供が生きていれば、同じような年齢になっている」
私たちはビールをお代わりした。
つまみは、ワカモーレ(トルティージャ・チップを潰したアボカドにからめて食べる)でたっぷりとチレ(タバスコ)をかけて食べた。
「時に、陸奥さん。今回の旅の目的をお話しします。怒らないで聴いて下さい」
辻内が態度を改めて、こう切り出した。
「・・・」
「実は、今回の旅は、美加と僕の企みで、陸奥さんと純子さんをノビオス(恋人たち)にするための旅なんです」
「・・・」
「僕たちにとって、陸奥さんと純子さんは昔から似合いのカップルなんです。メリダの頃から、少なくとも僕はそう思っていました。ほら、あのアメリカ人の大学院生のフェリーペもブエナ・パレーハ(似合いのカップル)と言っていました。日本に戻ってから、僕は陸奥さんが純子さんに結婚を前提としてアタックするとばっかり思っていました。しかし、僕たちの期待に反して、陸奥さんはそうしなかった。美加の話では、純子さんは陸奥さんからの連絡をずっと待っていたとのことです。でも今ここで、陸奥さんをなじるつもりはありません。陸奥さんには陸奥さんのご都合があったと思っていますから。でも、今は陸奥さんも純子さんもお互い大人で自由な立場なんです。」
「・・・」
「今日はメキシコ旅行四日目です。明日から未だ五日間あります。陸奥さん、僕たちの意図を汲んで、純子さんをそういう目で見て下さい」
「・・・」
何も言えなかった。
辻内と美加がそのような目で、純子と私を見ていたなんて。
私は気づかなかった。
いや、気づかなかった、はずは無かった。
今更、自分に嘘をついても仕方がない。
メリダ・グループで、私と純子の仲を疑う者は居なかった。
言葉としては不適切かも知れないが、みんなの期待を裏切ったのは、他ならぬ、私自身であった。
今は素直になろう。
もう、うじうじと後悔するのは嫌だ。
純子の今の気持ちを確かめ、まだその気があるならば、これからの人生はやり直すべきだ、と私は思った。
人生は一回限りだ。
二度と後悔はしたくない。
トライしてみよう。
私は黙ったまま、グラスを掲げ、ぎごちなく微笑して辻内に承諾の意を伝えた。
辻内と美加の好意が身に沁みて、目頭が熱くなるのを感じた。
翌朝、ホテルのレストランで朝食を済ませた後、私たちはホテルの中庭にある小さなプール・サイドで日光浴をしてのんびりと過ごした。
空は雲一つなく、澄み渡っていた。遠くで小鳥の鳴き声がした。そろそろ暑くなる時間だった。
私と辻内は海水パンツ姿、純子と美加はジーパンにTシャツという軽装だった。
「先ほどの話の続きだけど、二十六聖人の殉教はどのようにして外国に伝わったのかな」
「昔、学校で聞いたことがあります」
美加が言った。
「ルイス・フロイスというイエズス会のポルトガル宣教師が当時日本に居て、いろいろと殉教に至った過程を書いてローマ法王に送ったとか」
「美加さん、純子さんはカトリック系の大学だったから、そのあたり授業の一環で聞いているんだろうね」
「美加の言う通り、ローマ法王庁から当然スペインにも情報が流れたことだし、スペイン副王領であったメキシコ、当時はヌエバ・エスパーニャ(新スペイン)か、にもある程度の時間を置いて伝えられた」
「その殉教者の中に、一人のメキシコ人の宣教師が居たということで、彼の出身地であったかも知れない、このクエルナバカのカテドラルにメモリアルとして壁画が描かれた。その時期は、殉教から間もない時期だったかも知れないし、ローマ法王から聖人として列聖された時期かも知れない。その後、何回か疫病が流行り、都度消毒のため漆喰で塗り込められていった。時がゆるやかに流れ、五十年前、一部の漆喰が剥がれ、脱落し、色鮮やかな壁画が忽然と現われ、教会にいた人を驚かした。その後、漆喰を上手に剥がしていったところ、今日見られるような壁画の出現となった」
「上手い、上手い。陸奥さん、十分語り部の資格がありますよ」
辻内が私の長口上を冷やかした。
その後も私たちの旅は大きなトラブルもなく、順調だった。
クエルナバカからシティに戻り、アエロメヒコの飛行機でレオン空港に降り立ち、タクシーでグアナフアトのホテルに向かった。
ホテルはオテル・ミシオン・グアナフアトというコロニアル風のホテルでクエルナバカ同様、郊外にあった。
「ここは、かつて僕と同じ銀行の宮野が滞在していたところです。グアナフアト大学に通っていた。随分と、彼からはグアナフアトに遊びに来るよう言われたんだが、どうも来る機会がなく、・・・、僕にとってグアナフアトは今日が始めてです」
「僕は二回目かな。宮野さんとは随分と懇意にしていましたよ」
辻内が答えた。
「宮野さんは今、どうしています?」
純子が私に尋ねた。
「五年前に出向していた会社を辞めました。いろいろと家庭の事情があったそうです」
「お辞めになっていらしたの。よく、グアナフアトからシティに遊びに来られ、食事などいろいろとご馳走になりました」
「彼は、僕と違って、銀行の仕事の都合でスペインに長期出向で行っていました。十年振りに日本に帰ってきたと思ったら、急に会社を辞めてしまって。残念でした」
私は宮野が純子を好きだったことを知っていた。
それがストレートに純子にアプローチしなかった私の理由かも知れない。
宮野に愛を譲ったなどとは思いたくはないが、結果的に日本に帰ってからも純子に連絡をしなかった理由の一つにはなったのだろう。
宮野も或いは薄々と私が純子に想いを寄せているのを知っていたのかも知れない。
日本に帰ってから暫くして彼と会った時、純子のことが共通の話題となり、彼は純子と連絡を取り合っているのか、私に訊ねたことがあった。
いや、別に、と言う私に彼が少し非難の眼を向けたことを思い出す。
その時は、妙に感じたが、宮野の反応はそうであったのか。
宮野は宮野で敏感に私の純子に対する想いを知り、当然私が純子に連絡を取っているものとばかり思っていたのか。
その日はグアナフアトのセントロに行き、イダルゴ市場とかカテドラルを観た。イダルゴ市場では二階の陶器を売る店で飯茶碗になりそうな陶器を二個ばかり買った。
一個で十分であるが、店主から二個勧められ、弾みで二個買ってしまった。
傍に、純子が居たことも手伝って買ってしまったのかも知れない。
その後、辻内夫妻とは別行動となり、純子と私はキホーテ肖像博物館を観た後で、ラ・ウニオン広場に面したレストランに入り、遅い昼食を摂った。
コミーダ・コリーダ(日替わりの定食)を食べ、純子と今回の旅のちょっとした失敗話などをして暫く談笑した。
「さっきも、純子さん、僕はトラベラーズ・チェックの両替で失敗してしまいましたよ」
「えっ、どんな」
「パスポートを銀行の担当者に見せたところ、コピーがどうのこうの、と言うんですね。僕はてっきり、コピーをさせてくれと言っているのだろうと思いまして、どうぞどうぞ、と言いました。それまで、両替の都度、相手が勝手にコピーしていましたから、今回もコピーをさせてくれと言っているとばっかり思っていたんです。暫くして、どうも話が通じないと思ったらしく、先方がわざわざ紙に書いて私に寄こしました。見ると、英語でこんなことが書いてありました。I want copy.コピーをして渡してくれ、ということだったんですね。丁度、コピーを持っていたんで、先方に渡しました。それで、一件落着となった次第です。おかげで少し時間を無駄にしました」
「そんなことがあったんですか。そう言えば、今回の旅で気付いたことですが、昔と違って、トラベラーズ・チェックに対する扱いが変わっていますよねぇ。昔はホテルでも簡単にトラベラーズ・チェックの両替ができたんですが、シティのホテルでは両替してくれませんでしたし、また、銀行の両替でも、パスポートのコピー、トラベラーズ・チェック番号の電話での問い合わせなど、随分と厳重な管理となっています。何か、トラブルでもあったのでしょうか。米ドル・キャッシュならば簡単に両替できるんですが」
「おそらく、トラベラーズ・チェックで何かあったんでしょうね。それ以降、メキシコではトラベラーズ・チェックの両替が厳しくなったとか」
「・・・」
純子が少し黙り込んだ。私も冷めたコーヒーを手に、時間を持て余した。
気の利いたことを喋らなければならないとは思ったものの、適当な話題が頭に浮かばず、純子の細い指先ばかり見ていた。
ふと、純子が決心したように、私の目を見ながら話を始めた。
「女の口から、このようなことを言うのは恥ずかしいことなんですが、・・・」
純子の言葉を聞いて、私の心の中で何かが爆発した。
言わなければならない。
今、男として、言わなければならないと思った。
純子に言わせてはならない。
その衝動が私の心の中にあった垣根を破壊した。
「純子さん、待って下さい」
「・・・、?」
「僕の方から、言わせて下さい」
純子は微笑んで、私の話を待った。
「告白には夜が似合うことは知っています。今のような昼にこれから話す告白はふさわしくないことは十分承知していますし、今の僕は57歳になった、いわば初老の男で貴女のような魅力のある女の方に一方的な告白を行うことがどんなに馬鹿げたことかも知っています。三十年前ならばいざ知らず、三十年後の告白が貴女にどのような意味を持つのか、甚だ僕自身、疑問に感じています」
純子は私の話に聴き入った。
「クエルナバカ滞在の最終日、辻内とホテルのバーで少し飲みました。辻内からかなりショッキングな話を聞いて、動揺しました。実を言うと、今も動揺しているのです。間違っていたら、訂正して下さい。その場で、訂正して下さい。話を終えますから。昭和54年に僕たちは日本に帰りました。僕は貴女に連絡をしませんでした。当時の僕の率直な気持ちは、貴女にすぐ連絡をして、交際を求めることでした。それしか、考えられませんでした」
純子は私をじっと見詰めていた。
「しかし、僕は連絡することを思いとどまりました。実は、宮野が貴女を好きだということを知っていたのです。心のどこかに、貴女への想いを封印し、宮野が貴女と交際することを秘かに望んでいたのかも知れません。その内、人の気持ちというのは案外いい加減なもので、仕事が多忙になるにつれて、貴女のことはだんだん遠い存在、過去の良い思い出の一つとなってきました」
純子は少し悲しそうな眼をした。
「数年経ち、銀行の研修で宮野と一緒になる機会がありました。当然、貴女のことも話題になりました。今の家内だよ、という宮野の言葉を実は期待していました。それが、僕にとっては片思いの終り、貴女と宮野にとってはハッピーエンドとなる言葉でした。彼から期待した言葉はそれだったんですが、宮野は意外そうに、私に連絡していないのか、と逆に私に訊いたのです。勝手に思い込んでいた僕は驚きました。また、数日前のホテルでのバーで辻内から、美加さんの話で日本に戻ってから、貴女が私からの連絡を待ち続けたという話も聞きました。訂正があれば、すぐ訂正して下さい。・・・」
純子の唇が動いた。
「美加の言う通り、私は陸奥さんからの連絡を待っていました」
純子は遠い昔をじっと想い出すかのように、静かな口調で呟いた。
やはり、そうだったのか。
私は愚かな男だった。
「・・・、何というすれ違いだったんだ。三十年、思い違いをしていたとは」
「陸奥さん。私も心に封印をしてきました。丁度、あのクエルナバカのカテドラルで見た殉教壁画のように、私は自分の心に漆喰を何回も塗り込めてきました。今回、美加からメキシコ旅行の誘いの電話があった時、陸奥さんが行くという話を聞いて、私は即座に参加する気になったのです。陸奥さん、という名前は私にはとても重い名前でしたから。成田で陸奥さんに再会した瞬間から、私の心の中で塗り込めていた漆喰は剥がれ始めたのです」
純子は微かに微笑んだ。
「陸奥さんが辻内さんとホテルのバーで飲んでいらした時、私は部屋で美加と話していました。美加ったら、今回の旅行で身軽になった私たちをくっつける愛のキューピッドの役割を果たすつもりだったんですって」
私も気持ちが徐々に和らいでいくのを覚えた。
「僕も純子さんが行くということを辻内から聞いて、実は旅行に参加する気になったんです」
私たちは顔を見合わせた。
純子はにっこりと微笑んだ。
微笑んだ純子の瞳を見つめながら、私の心は静かに、しかし確実に満たされていった。
「純子さん。僕はこの日を三十年、・・・、待ちました。今、僕の心はメリダで貴女のことを想っていたあの頃に戻っています。あなたさえ良ければ、・・・」
「私も三十年、待ちました。貴方の心の漆喰の壁を完全に取り除くのは私の役目、私の心の漆喰の壁を完全に取り除くのは陸奥さん、貴方の役目よ」
こう言って、純子は私の手を取った。
次第に、純子の顔がぼやけていった。
メキシコシティから少し離れた南方の街にクエルナバカという閑静な街がある。
そのクエルナバカのカテドラルの内部の壁に一枚の壁画が描かれている。
五十年前に、上を覆っていた白く厚い漆喰が剥がれ、その壁画が忽然と現れた。
豊臣秀吉の時代に日本で殉教したフランシスコ会派の二十六人の殉教の画である。
いつ誰がどのような理由で描かせたのか、なぜ厚い漆喰で隠されたのか、判っていない。
極東の小さな国で起こった殉教がどのようにしてこの国に伝わり、このカテドラルの壁に描かれたのか、今も判然としてはいない。
殉教者の一人、メキシコ人のフェリペ・デ・ヘススは殉教の30年後の1627年に列福(福者)され、列福後235年を経て、1862年にメキシコ人としては最初の聖人となった。
サン・フェリペ・デ・ヘススとしてメキシコシティの守護聖人となっている。
壁画は18世紀前半に画かれたと云う説もある。
クエルナバカのカテドラルはフランシスコ会の大聖堂とも呼ばれ、1521年のエルナン・コルテスによるメキシコ征服後、サン・フランシスコ修道院という前身を経て1552年に完成した。
1597年の日本で起こったフランシスコ会派の殉教は数年を経て、このカテドラルに伝わったことであろう。
フェリペ・デ・ヘススが列福された以降に描かれたものか。
まだ、判然としていない。
壁画は壁を清掃していた時に一部の漆喰が剥がれ、偶然発見されたと云う。
その時、剥がれ落ちなければ、壁画はその存在を知られることもなく、まだ幾世紀も眠り続けたかも知れない。
辻内と美加が企図したこのメキシコ旅行がなければ、三十年前に描いた私と純子の心の壁画は幾重にも塗られた厚い漆喰に覆われたままであったに違いない。
完