3.大事なものを失った気がした
目より先に鼻が覚めた。いい匂いのする空気が鼻の奥の感覚毛を揺らして、脳に情報を届ける。次第に意識が戻ってきて、僕はゆっくりと目を開けた。
真っ先に映ったのは見覚えのない木の天井だった。
どこだろうと思いながら瞬きをして、脳の運転を再開する。何か大切なことを忘れている気がする。思い出そうと頑張ってみるが、なかなか頭の中のエンジンは温まってくれない。
「~~~~~~。~~~?」
しばらく薄目のまま混乱していると顔の左から女性の声が聞こえた。
混線する思考回路はそのままに枕の上で首を回転させると、困ったように柔らかく微笑む若い女性と目が合った。
天井の木目より薄くて、優しい、ブラウンの瞳。長くて綺麗な金髪を、首のところでまとめて前に流している。
麻のような質感のワンピースと茶色い革のベストは質素だが、よく似合っている。思わず見とれつつ、その顔に見覚えがあるような気がして、クエスチョンマークを頭上に浮かべる。
と、その段になって急に頭に血が上り始めた。
「…………うわわわわ! あの、すみません」
状況が正しく認識できていない状況に変わりはなかったが、少なくともはっきりと意識が覚醒した。
悲鳴を上げながら慌てて起き上がると、女性も引っ張られるように動いて、驚いたような声を上げる。
左手が重い。力が入らないというか力が入ったままになっているというか、とにかく動かない。あと、柔らかい。
「柔らか……って、あ、あ、あああ! すみませんすみません!」
重い左手を見ると、白くてきれいな手が握られてあった。柔らかい感触の正体はこれか! と、小さなアハ体験をした僕だったが、自分が何をしているか、何をしていたかに気付かされて今朝二回目の悲鳴を上げた。再度謝り倒す。
「あれ? 離れない? え? なんで?」
一刻も早くこの嬉し恥ずかしい状況を改善すべく左手を開こうとしたが、肝心の左手は全く僕の命令を聞いてくれなかった。
お前の命令なんかよりお姉さんの感触を楽しむ方がよっぽどいい、と言わんばかりの左手。聞き分けのいい右手を使って必死に指を開こうとするがテコでも動こうとしない。
このスケベ! 頑固者! 誰に似たんだか!
慌てる僕の右手を、不意にお姉さんのもう片方の手が包んだ。びくりと震えて固まると、彼女はゆっくり瞬きをして落ち着くように僕に伝えてくる。
深呼吸をしてみせるお姉さんに続いて僕も深呼吸をする。何度か深呼吸を繰り返して僕が落ち着くのを確認すると、彼女は優しく僕の右手をどかした。
相変わらず断固としてお姉さんの手を離さない僕の左手の付け根を、その細い指で探るように触る。ある一か所で手の動きを止めると、柔らかく、それでいて力強くその部分を圧迫した。
気が付くと、僕の左手はお姉さんの右手を放していた。恐る恐る指を曲げ伸ばしすると、渋々ながらもちゃんと僕の言うことを聞いてくれる。ほっとして息を吐くのと、お姉さんが再び話しかけてきたのは、ほぼ同時だった。
「~~~~~?」
「あの、どうもすみませんでした。ありがとうございます」
「~~~~~、~~」
言葉は分からないが、何となく彼女が何を言っているかが分かる気がして、僕は顔を伏せた。恥ずかしさのあまりに顔が上気して、そのままこめかみから血を吹いてしまいそうだ。
この時になって気が付いたが、彼女は昨日食事を運んできてくれたお手伝いさんだった。多分僕の世話係を仰せつかっているのだろう。お姉さんは相変わらず優しく微笑んだまま、細めた目で僕を見つめてくる。
「あ、あの、お姉さん、一晩中? ずっとここに? 僕、ずっと手を?」
「~~~」
身振りを交えて尋ねると、お姉さんは肯定するように頷く。途端にまた恥ずかしくなって、僕は再び頷いた。これ以上熱くならないと思っていた顔がさらに熱くなる。
頬の内側にヒーターでも移植されたんじゃないか、と思ってしまうほどの恥ずかしさに耐えていると、笑い声が聞こえた。しゃらしゃらと、鈴が鳴るような笑い声の出どころは、もちろん目の前の椅子に腰かけているお姉さんだ。
「……そんなに笑わなくても」
「~~~……シエラ」
「え?」
「~~~、シ、エ、ラ」
「え? あ! 名前?」
一転して真剣な顔つきになってお姉さんが自分を指さして、何事か繰り返し始めた。
失礼だとは思いながら、お姉さんを指さして、“シエラ”と発音してみる。まあ、一晩中女性の手を握り締めておいて、今更失礼もへったくれもあったものではないが。
「! ~~~!」
お姉さん、改め、シエラさんは、嬉しそうに大きく頷いた。次いで指先をそろえて僕に向け、首を傾げてくる。名前を知りたいのだと直感した僕は、自分を指さしながらゆっくりと発音して聞かせてみた。
「りゅ、う、と」
「リュ、ウ、ト?」
「りゅうと」
「リュート!!」
とても流暢で、もしかしたら僕よりも美しい発音だった。親指を立てると、首を傾げつつシエラさんも親指を立ててウインクしてくる。うわ、めっちゃ可愛い。ていうかこの村の人たち、ノリ良すぎ。
人に名前を覚えてもらう、というのがこんなに嬉しいことなのだとは知らなかった。ポンコツなナビゲートをぶちかましてくださいやがった天の声さんにも名前を呼ばれたが、その時より何倍も嬉しい。潤みそうになった僕の目を、シエラさんのブラウンの目がのぞき込む。
「リュート?」
「シエラさん?」
照れ隠しに名前を呼び合って、二人でころころと笑った。
ぎゅ~、とおなかの音が鳴ったのはその時だった。目を丸くしたシエラさんが、下を指さす。多分ご飯ができているのだろう。
再び笑い声をあげるシエラさんを見て、僕は知れず左手を握り締めた。手に残った暖かさを逃がすまいとするように。
***
下の階に下りると、案内された部屋で別の女性が給仕をしていた。昨日応対をしてくれた村長らしき老人が上座に座っていた。僕を待っているのか、目の前の食事には手を付けていない。シエラさんに導かれた席に座ると、村長は口を開いた。
「~~~~~」
目をつむり、手を合わせてからスプーンを持ち上げ、僕にも食べるように勧めてくる。
僕も目をつむって手を合わせてから、パンらしきものに手を伸ばした。
スープも恐る恐るすくったが、とくに怪しい物体は入っていない。そしてうまい。菜っぱと根菜のようなものだけを煮込んだシンプルなスープだったが、何のものかわからない肉が入っているよりよっぽど安心できる。
コップの飲み物は何かの乳だろう。匂いは強いが、思い切って飲んでみたら牛乳より深い味わいで結構おいしかった。
シエラさんも給仕に徹するらしく、座って食事をしているのは僕と村長だけだ。シエラさんたちが時々飲み物を注ぎ足したりする音以外は、静かに食事が進む。
マナーなんかがさっぱりわからず緊張しながら食べたが、何も言われなかったので特に気になるところもなかったのだろう。
食べ終わってナプキンの内側で口を拭くと、待っていたように村長が席を立ち、シエラさんに何事か指示を出す。シエラさんは頷くと、僕を外に連れ出した。
付いていくと、そこは小さな木造の小屋だった。シエラさんに従って入ると、中には明るい茶色の木で組まれた大きな直方体が待ち構えていた。上の方が開いていて、中には澄んだ水が張ってある。
まさに、これは明らかに。
「お風呂だ」
ふと自分の身体をくんくんと嗅いでみる。全力疾走した後もシャワーなどを浴びなかったので、少し臭うような気もする。
シエラさんが声を上げて笑ったところで、恥ずかしくなって頭を掻いた。ふけが落ちてこなかったのが幸いと言えば幸いだ。
脱衣を手伝おうとするシエラさんをなんとか退けて、服を脱いで畳んだ僕は、浴室に入り、恐る恐る湯船の水を桶で掬った。意を決して身体にかける。
「冷たっ……くない? あれ? 温い」
驚くことに湯船の水は、温かいとまではいかないまでも冷たくはなかった。熱源はどうなっているのだろう。
「あ、気持ちいい」
汗でべとついた身体をぬるま湯で流すと、思いのほか爽快感があった。本当に気持ちがいい。心まで洗われた気がして、次は頭に、と湯をかけようとした時だった。
「~~~~~~~?( ´∀` )」
ノックのあと、突然引き戸が開いてシエラさんが入ってきた。腕まくりをし、裾を結び、髪を結っていて、柔らかいほほえみを浮かべ何かを尋ねてくる。
「うわ、っえ? なんで? わっ」
動揺した僕は、頭の上に掲げていた桶を取り落としてしまった。無理に空中キャッチしようとしたのが、ハプニングを更に加速させる。
ばっしゃー。
「~~~!!!Σ(・δ・ノ)ノ!」
僕が取り損ねた桶はくるくると回転しながら、それはそれは美しい放物線を描きシエラさんの元へ飛んで行く。
咄嗟に避けようとした彼女の肩を硬い木の桶が見事に捉えた瞬間、何故か僕が「痛い!」と叫んでしまった。いやいやいや、痛いのはシエラさん!!
バランスを崩してしりもちをつくシエラさん。やばいやばいやばい。
「す、すみません! お、桶が……お怪我はありませんか?」
「~~」
慌てて駆け寄った僕はあたふたとするばかり。シエラさんはまるで好きでもない男に一晩中手を握られたような困った笑顔でこちらを見上げて……っ!!
「!!」
僕の目が思わず吸い寄せられたのは、桶がぶつかった右肩ではなく、桶に入っていたお湯でズブ濡れになった服の方だった。
…………。
すみません、語弊がありました。誤魔化しました。正確には、濡れた服がボディスーツのように張り付いた胸部に目が引き寄せられました。
すみません。でも悪気はなかったんです。
上気する肌、息遣いに合わせて上下する肩と意外に豊かな双丘、結んで短くしている裾の端からはみ出た、強烈な主張の大腿部。うっかり臀部の形もわかってしまいそうで……。
ェ、エロい。シエラさん、着やせするタイプだったんだ。顔に血が上ってぼーっとする。
「~~ (〃▽〃)ポッ」
シエラさんが短く声を上げて、口元を手で押さえた。
彼女の視線をゆっくりと追っていくと、致命的な光景が眼前に突きつけられる。
顔以外で唯一血が上って元気になったチビ助がチビ助ではなくなっていた。ちなみに僕は裸。つまり、そういうことだった。
「ひゃあ!」
身体のどこから出したのか、自分でもわからないような奇妙な悲鳴を上げて、僕は股間を両手で隠した。隠れてくれない。
逃げ場を探すと、おあつらえ向きの直方体が口を開けているではないか。僕は湯船に思いっきりダイブした。
「~~~(´艸`*)」
「すみません……で、でもなんでシエラさんが!?」
湯につかったばかりなのにすっかりのぼせている僕は、表情を目まぐるしく変えながら、つやつやした笑顔の闖入者に尋ねる。その笑顔、やめて。恥ずかしい。
シエラさんは困惑する僕に吸水性のよさそうな布切れを見せて、こする仕草をする。
多分壁の汚れを落としに来たわけではないだろうから、僕の背中の汚れを落としに来てくれたのだろう。純粋なお世話だ。
それを僕ときたら、いやらしい目で見たりして、我ながら情けない。恥ずかしい。
「穴があったら入りたい……」
もう入ってるけど。湯船に。
シエラさんが微笑んで手招きをする。僕はしばらく顔を半分沈めて泡をブクブク出しながら、色々と落ち着くのを待った。色々は色々だよ。それ以上でも以下でもないよ。
シエラさんが呆れて去るのを少し期待したが、諦める気はないらしい。
根負けした僕は、失活した股間を両手で隠しながら湯船から上がった。どぎまぎしながら、シエラさんに背中を向けて丸太椅子に座る。
すると、程よい力加減で背中がこすられ始めた。
「ふわぁ」
ものすごく気持ちがよかった。痛くはないが、余剰な角質をそぎ落とす絶妙な具合は今まで味わったことのないものだった。
再び変な声が漏れたが、そんなこともどうでもよくなるくらい気持ちよかった。肩の力が抜けていく。全てが心地いい。
たまにお湯がかけられて肌を撫でるように落ちていくのも、だらしなく開いた口から流れ込んでくる湯けむりも、首筋に当たる鼻息も。
「ん?」
「(ΦωΦ)フ~」
ふと横を見ると爛々と目を輝かせたシエラさんが僕の前面を見つめていた。
「ひぁ! ど、どこ見てるんですか!!」
女の子のような、男の娘のようなセリフを思わず吐いて、前かがみになる僕。妖しい輝きをさらに強くしながら、シエラさんの目は僕に反転するように要請してくる。
自分でやります! とタオルを奪おうとした僕を器用にかわし、彼女は細腕に似合わない力で僕を押し倒した。
悲鳴を上げる僕を無視して、というより僕が悲鳴を上げれば上げるほど楽しそうにしながら、シエラさんは僕の身体の前面をこすりまくる。
「い、いやぁぁぁぁ!」
狭い床を転げまわる僕には、逃げ場も、救いの手も、ありはしなかった。
「~~~~~(*´▽`*)フ~」
数分後、疲れ果てて床にうずくまる僕と、腰に手を当てて満足げに息を吐くシエラさんの姿があった。
もうお嫁にいけない。元々行く予定なんてなかったけど、そんな言葉が頭に浮かぶ。涙が一滴頬を落ちて、床に飛び散ったお湯と混ざって消えていった。
大事なものを失った気がした。
第三話をお読みくださり、ありがとうございます
(*´ω`)
ここから、ペースアップして物語を進めていきます
しばらくは基本的に一日一回、7:00か12:00付近に更新しようと思いますので、よろしくお願いします