虚像
紙の上に鉛筆を滑らせる音だけが響いていた。
放課後の美術室には他の音は存在しなかった。
夕暮れに馴染むそこに明かりが、灯ることはない。
「あぁ、綺麗だ。」
まるで恋しているかのように熱に浮かされた瞳は彼女を見つめていた。
その一つ一つを見逃すまいというような様子はある種の恐怖を覚えるほどの気迫があった。
しかし、彼はきっともう、彼女を見つめることなくスケッチすることは容易なのである。
それほど彼は彼女を知り尽くしていた。
彼が今、彼女を見つめているのは自身の欲求を満たすためなのだ。
彼女はただ彼に微笑むかけるだけであった。
その白磁の肌は一つの傷もシミも許さない。
彼の美の理想が彼女にあった。
彼はそっと彼女に手を伸ばそうとした。
しかし、己の指紋一つでさえ、彼女の美を損なうものでしかなかった。
スケッチブックをまためくる。
「今度はどの角度で描こうか。」
彼は彼女の周りを時間をかけて一周した。
コツコツと靴の音が響く。
束の間の静寂が生まれた。
彼はにっこりと彼女に笑いかけた。
彼女は身動きせずただじっとそこに在った。
ただまっすぐに前を見ていた。
幾時間が過ぎただろうか。
彼は満足げにスケッチブックを持って己の決めた位置へと腰をおろした。
再び、美術室には鉛筆の音だけが響く。
彼はそっと鉛筆を置いた。
完成した絵に興味はなかった。
彼は彼女を渇望していた。
思うがまま力いっぱい抱きしめて、いっそ壊してしまいたいと思っていた。
しかし、彼女に触れることは己の禁忌であった。
その禁忌は蜜の滴る林檎のように彼を魅了して狂わせていくだけだった。
触れられないから見つめ続けた。
見つめるだけでは満たされなくなったから鉛筆をとった。
しかし、彼女をスケッチすることではもう。
彼は何冊目かになるそのスケッチブックを机に放った。
そして、彼女をまた見つめた。
彼女の華奢な手に触れてみたかった。
彼女の細い腰を引き寄せてみたかった。
彼女の香しい髪に指を絡めてみたかった。
彼女の形のいい額にキスを贈りたかった。
彼女のふっくらとした唇の奥の隠された部分を拓いてみたかった。
彼の導火線はもうとっくに終わりを告げていた。
爆発してしまいそうなその緊迫の瞬間があまりにも間延びしていただけであった。
彼はふと室内を見渡した。
とうの昔に夜が訪れた美術室に違和感なく溶け込む一輪の花があった。
誰かがスケッチに使ったのだろうか。
そっと近寄って手にとった。
それは可愛らしくあったが、少し歪んでいて完璧とは程遠かった。
彼女には釣り合わない。
見るに明らかだった。
しかし、それがひどく自分に相応しく思えた。
この花を彼女に捧げることは許されるだろうか。
ふと彼女に視線をやると、変わらず微笑を称えていた。
彼女のそばにそっと立った。
きっと彼女はこの花を受け取ってくれないだろう。
それならその髪にさしてあげよう。
彼は彼女の後ろに回った。
その夢にまでみたその髪に触れようとする。
しかし、それはいけないと彼の中の何者かが警鐘を鳴らしていた。
それでも、彼のすべては彼女に向いていてそれは己の中の声でさえも耳を塞いでしまうほどだった。
彼の手は一度さまようように指を戦慄かせた。
一瞬後、彼の指はゆっくりと彼女の髪に触れた。
それは決定的に彼と彼女の関係を違えた瞬間であった。
彼はハッとして顔を上げた。
何かに取り憑かれたかのように彼女の正面に向かう。
いつも微笑みかけてくれたその瞳はしかし、温度などなく自分のことを映してもいなかった。
恐る恐る頬に触れると、そこにはただただ無機質な感触と冷たい温度があった。
彼の前に今までの彼女はいなかった。
彼女はただのモノになっていた。
彼はそれに対してもはや愛情を持ってはいなかった。
しかし、無関心でもいられなかったのだった。
それは夜半のこと。
誰もいなくなった美術室にはぐちゃぐちゃになって原型など分からなくなった彫刻と、その上に力なく横たわる萎れた一輪の花があった。