石楠花の化身
私が彼女を自分だけのものにしておけるのは、彼女が、高嶺の花だからだろうか。
もし彼女が高嶺の花ならば、何故私は、彼女に寄り添うことが許されているのだろうか。
違う。本当は、許されてなどいないのだ。仮初めの独占。私はそれに甘んじていなければならない。それ以上を望んではいけない。今のこの、優しくて憎らしい関係を守り抜くためには。
彼女の透き通った双眸は常にあの人を捉えている。彼女の隣で彼女を囲う私ではなく、彼女以外の人間に笑いかける、遠くにいるあの人を。遠くにいて彼女に視線を合わせようともしないあの人は、だけど、その視界から彼女を消し去ることは決してしない。私はそれを知っている。でも彼女は、知らない。
今年も自宅の庭で石楠花が開花した。二階の自室の窓辺からそれを確認した私は、導かれるように部屋を出て階段を下りた。サンダルをつっかけ、白い花のもとを目指す。薄曇りの空は石楠花の白まで濁らせている気がした。灰色が、景色の全てに浸透していく。
その花弁の奥を覗きながら、咲いたんだ、と独り言のように呟いて、私は彼女の名前を思い浮かべた。
咲乃。
貴女は今この瞬間も、あの人のことを考えているの。
*
今から一年ほど前、私は彼女の姿を初めて認めた。それは高校に入学してすぐの頃、一階の廊下を歩いている時のことだった。一年の教室が規則的に六つ並ぶその廊下はいつもひんやりと静かで、女子独特の甘い香りが壁に染みついて匂っている。私の所属する一組は西側にある生徒玄関に最も近い位置にあったため廊下を歩き回る必要もなく、私はその日まで他のクラスの人間をほとんど見かけなかった。
その日、日直として職員室を訪ねる用事のあった私は放課後、一組から六組の方角へと廊下を歩いた。職員室は二階の東端にあり、東階段から上がる方が都合が良いと考えたためだった。西階段から行ってしまうと、上級の教室が立ち並ぶ廊下を通ることになる。入学したての私には、まだその勇気がなかった。
右手に日誌を持ち、窓の外に視線を投げながら私は歩を進めた。あ、と何かが目に止まり、立ち止まる。中庭に薄黄色の石楠花が咲いていた。学校にもあるんだ、と見惚れていた私の右側を、人影がすうと通り抜けた。刹那、焼きたてのクッキーのようなとろ甘く胸を焼く香りが鼻を掠めた。
私が振り返るのと人影が五組に入るのとはほぼ同時だった。でも、一瞬垣間見えたその横顔が私の心臓をきりりと締め付けた。
大きく見開かれた黒の瞳、真っ直ぐに伸びた鼻梁に、妖艶なまでに光る薄紅の唇。象牙のような肌と、腰より少し上の濡れ羽色の髪。気が付くと私の息は上がっていた。彼女の俤に支配された私は、その夜、眠ることさえままならなくなった。
私はそれまで、全く平凡な恋を経験してきていた。初恋は幼稚園の先生で、次は近所の友達、それから小学校の親友。中学では部活の先輩だった。平凡な想い人に彩られた平凡な恋は、しかしただ一点においては異質な恋だった。
私は女で、想い人もまた全て、女だった。
それが普通でないと悟ったのは小学生の早い時期だった。当たり前のように男子の噂話を楽しむ皆の様子を見て、私はおかしいのかもしれないと、幼いながらぼんやりと考えた。おかげで性癖が露見してしまうことはなかったけれど、恋もまた始まる前に終わった。高校で女子校を選択した理由は、女子校ならば私と同じ性癖を持つ人間がそれほど珍しくないと耳にしたからだった。同類と恋をすれば、これまで味わったほろ苦さとは無縁の温かな恋愛を謳歌出来ると思った。高校入学を機に私は髪をベリーショートにし、持ち物も男らしくした。小学生から続けていたバスケが効いたのか、私の背は女子の平均よりかなり高く、筋肉もしっかりと付いていた。顔も元来中性的で整っている方だったから、男のように振舞うことで同性という障壁を少しでも崩そうとしたのだった。努力は怠らなかったし、それは確かな結果として現れていた。入学直後から自分の噂は聞こえてきた。宝塚の男役に少女が向ける憧憬と、それは同質のものであると推測された。
それなのに。私は自分の計画も努力も、自分で壊してしまった。私は彼女に恋をした。一目惚れだった。彼女は決して同性愛者などではなく、また仮にそうであったとしても、彼女は私を見なかっただろう。
彼女への恋は熱情と欲望と純な想いとで構成され、それは私を内から破壊していった。唇に触れ体を暴きたいという肉欲は過去の恋にはないもので、自分がひどく穢れた人間に思えた。それでも私は脳内で幾度となく彼女を犯し、自分を慰め、その度後悔と罪悪感に打ちひしがれた。
彼女の名前は瀧川咲乃。一年五組、料理部所属。特定の友達はおらず、常に一人で行動している。それはいじめられていたのではなく、彼女の纏う雰囲気が余りにも近寄り難いせいだったのだろう。咲乃は美しすぎた。
私は咲乃に、せめて存在を知ってもらいたかった。体操服を着て校庭を走る咲乃、下駄箱で靴を履き替える咲乃、朝礼の時五組の列に混ざる咲乃。あらゆる咲乃の姿を、私の目は記憶に刻む込むように焼き付けた。それでも私という存在は、咲乃に届かなかった。私は祈った。
神様。私と彼女を、どうか結び付けて。
奇跡が起きたのは五月の終わり頃、初夏の風は既にべたりと体に纏わりつく嫌な暑さを孕んでいた。私は図書室利用説明会の時分に借りた小説を返却するため、放課後、図書室に向かった。カウンターを覗くと、私は反射的に書棚の陰に身を隠した。顔だけもう一度カウンターに向けると、見間違えでなく、そこには咲乃がいた。窓から射し込む夕日が彼女の髪を照らし、顔に影を落としていた。
咄嗟に辺りを見回した。図書室には私と咲乃以外、誰もいなかった。鼓動は益々速まる。ぎゅっと胸を掴む。痛い。静寂が耳鳴りを誘う。
唾を嚥下して喉を鳴らしてから、私は一歩を踏み出した。これは、神様が私の願いを叶えて与えてくれたチャンスなのかもしれない。
「た、瀧川さん」
咲乃は顔を上げ、驚いたように目を見開いた。それは不意に声をかけられたからなのか、見知らぬ人間が自分の名を知っていることを訝しく思ったからなのか。彼女の澄んだ瞳の奥は迷宮のようで、囚われる前に私は逃げ出した。
「本、返したくて」
「は、はいっ」
咲乃は立ち上がり、本に貼り付けられたバーコードをリーダーに通した。返却に必要な作業はそれだけのようだった。
「後は此方で預かりますね。……朝比奈さん」
今度は、私が驚く番だった。固まっていると、咲乃は柔く微笑んだ。恐る恐る問いかける。
「どうして、私の名前を?」
「一組の朝比奈さん。とっても素敵な人だって、皆言ってます」
クッキーの香りが私の思考を掻き乱して、足元から崩れ落ちそうになる。
咲乃が私を知っていた。一度だって私の視線は届いていないと思っていたのに、咲乃は、私の存在を知っていてくれたのだ。これ以上何を望めるというのだろう。
そう思うのに、私は欲深い。
もっと、もっと欲しい。
「でも、朝比奈さんはどうして――」
「見てたから。私、瀧川さんのこと」
咲乃は私を見つめた。しばらくして彼女は、再び頬を綻ばせた。咲乃の笑顔という蔓に絡め取られて、私はもう、咲乃以外の何をも目に入らなくなった。
それから、私と咲乃は密やかな交流を始めた。放課後、図書室や誰もいない教室で、静かに会話するだけで幸せだった。咲乃は大人しいけど明るくて、いつも花のような笑みを私に注いでくれた。そのうち、私は咲乃を咲乃と呼ぶ権利を得、咲乃には瑞紗という私の名前を呼ぶ権利を与えた。絹のような髪や、細い指先に触れることを許された。どんなに可愛らしい女の子に心からの告白を捧げられても、私の想いは揺らがなかった。咲乃だけ。咲乃以外があるはずがない。全てが、夢の日々だった。
でも、儚いという言葉に用いられるように、夢とは本当に脆くて不確かなものなのだと、後に私は実感させられた。それは、舞い上がっていた私に神様が突きつけた罰だった。
一、二ヶ月もすれば、私たちはもう人目を憚ることなく接触を繰り返していた。放課後まで待てない、もっと貴女といたい。そんな私の我儘を咲乃は受け入れてくれて、私は咲乃の教室をしばしば訪れた。背が高く男のような私と、巫女のように可憐で美麗な咲乃は並ぶだけで他の人間の注意を引いた。私の自尊心は満たされていた。もっと見て、私たちを認めて。
咲乃と談笑していると、彼女の瞳は時々、私を離れて宙を彷徨うことがあった。それはほんの瞬きほどの長さだったから、私はさして気にしていなかった。偶然、だったのだ。彼女の視線を追ってしまったのは。
そこには一人の……いやその場には多くの人間がいたけれど、咲乃が見ているのはたった一人だった。華やかで存在感に溢れ、笑い声は離れた此方にまで聞こえてくる。厳かな咲乃とは正反対と言える子だった。でも、その子を見つめる咲乃の頬は仄紅く、細い糸できりきりと心臓を絞められるような切ない色を瞳に抱いていた。
あ、と思った。それまで必死に築いてきた咲乃との甘い思い出が、呆気なく砕け散っていった。
咲乃の目線に気付いたその子は、一瞬だけ咲乃と意識を通じ合わせた。でもすぐ咲乃から目を離して今度は私に目を移し、ふと微笑んだのだった。
咲乃にはもう、私よりも大切な人がいた。私がそばにいても咲乃にとってはあの人の方が大事なのだ。隣にいる私より、咲乃を想う私より。それを思い知らされた。
ねえ。好きだよ、咲乃。貴女に想われないのなら、どんな女の子に想われてたって仕方ない。貴女という存在がなければ私はきっと、呼吸すら出来なくなって窒息してしまう。
それでも咲乃は、あの人が良いの?
ねえ、あの人は誰なの。咲乃にとってどんな人なの。私はどんなに頑張っても、あの人には勝てないの。
好きな人を想うあまり泣くなんて、初めてだった。
両端を石楠花に飾られた小径の真ん中に、純白のレースワンピースを纏った咲乃がいた。一面匂いやかな白が広がる中で、咲乃だけが輝きを放っていた。私は咲乃に駆け寄った。
――何をしているの?
咲乃は答えない。ただ、寂しげに笑った。
――どうしたの?
やはり返答はない。私は堪らなくなった。
――そんなにあの人が良いの。私があの人だったら良かったの。ねえ咲乃、答えてよ。
咲乃の肩に掴みかかった。両手を乗せたそこは極端に薄くてか細くて、ハッとした。
――咲乃、
――瑞紗ちゃん。
太陽に背を向ける咲乃の表情は、はっきりと窺い知れない。
――ごめんね。
その囁きが耳に入ると同時に、咲乃は幻のように消え去った。石楠花が風にそよぐ中、私は取り残される。小径を満たす芳香に酔って眩暈を起こし、思わず蹲った。目の前に現れた石楠花を一輪、手折る。
ごめんねって、なに。
石楠花の葉には毒がある。体内に取り込んだ人間を吐き気や呼吸困難へ導くような、毒が。それは佳麗な自らを守るための、石楠花の防衛手段なのだろう。
まるで、咲乃そのものだ。
咲乃が私の傍にいてもいなくても、私の呼吸は彼女に掌握されている。咲乃に出会ったあの時から、私の命は咲乃のものなのだ。
現実に引き戻された時、私は自分の部屋のベッドに横たわっていた。夢か、と上手に働かない頭を回転させて納得し、体を起こす。咲乃との別れは、実際の出来事ではなかったのだ。何もかもが作られた世界だった。それなのに、瞼は湿っていた。
咲乃の意識を独占するあの人の正体が分かってきた。名前は鶴淵由香理、五組の中心的存在。明るい茶のショートヘアに金銀のネックレスやピアス、真っ赤なマニキュア。外面も内面も派手派手しい人だ。咲乃と鶴淵由香理は幼馴染らしい。
「今はもう、全然話さないんだ」
いつかの咲乃はそう言って苦笑した。幼稚園の頃からの親友だった鶴淵由香理とは小学校を卒業する辺りから疎遠になり、一切の会話もなくなったらしい。割り切っているかのごとく明朗に語った咲乃だったけれど、軽く追及してしまえばすぐにその砦は崩壊し、彼女は涙を零した。
いつの間にか避けられるようになった。何がきっかけかも分からない。嫌われていると理解していても、また以前のような仲良しに戻れるんじゃないかとどこかで期待している自分がいて、苦しい。忘れてしまいたい。
「忘れさせてあげようか」
無意識に、そう口走っていた。濡れた瞳で私を射抜く咲乃に欲情しそうになって、目を逸らす。
馬鹿で、滑稽な自分。咲乃が鶴淵由香理を忘れられるはずがないのに。
それでも、どんな手を使っても、私は咲乃が欲しい。手に入らないと分かると、もっともっと強く、私は咲乃に焦がれていた。
由香理ちゃん、よく皆と瑞紗ちゃんのこと話してるの。憧れ、だって。由香理ちゃんは、とっても良い子だよ。
ある時咲乃は言った。それはつまり、鶴淵由香理と友人になれということ? 世界一羨ましくて憎らしいあの人と、笑い合えということ?
鶴淵由香理を前にして自分は平静でいられるのだろうか。自信はなかったけれど、咲乃の願いなら叶えないわけにいかなかった。咲乃を傷付けたくなかった。だから私は、鶴淵由香理に会った。一学期ももうじき終わる、とても暑い日の放課後だった。
「鶴淵さん」
五組の教室で一人日誌を書いていた鶴淵由香理は、私の姿を見ると慌てたように席を立った。
「え、え、朝比奈さん? どうしたの?」
鶴淵由香理はクッキーの香りではなく、薔薇のきつい匂いを振り撒いていた。その浮かれた雰囲気と瞳の煌めきをわざとらしいと感じてしまうのは、私が彼女に対して偏見を持っているからだろうか。下着が見えそうなほど短いスカート丈が翻り、目のやり場に困る。
「貴女、咲乃のことはどう思ってるの」
口にしてから後悔した。これではまるで、咲乃が私を利用して鶴淵由香理に探りを入れようとしたみたいだ。案の定誤解されたらしく、彼女は眉を顰める。
「咲乃。……あの子、朝比奈さんにべったりよね」
「…………」
「ねえ朝比奈さん。あの子とは付き合わない方が良いわよ。鬱陶しくて苛々して、碌なことがないもの」
そう吐き捨てた鶴淵由香理は醜悪な顔をしていた。でも何か、得体の知れない蟠りが私の中に落ちる。
「あの子なんてどうでもいい。それより朝比奈さん、たまにバスケ部の助っ人してるよね。今度試合を見学に行ってもいい? あ、背が高いのももしかしてバスケやってるから?」
中身のない会話。質問に二、三答えた。一緒に帰ろう、と鶴淵由香理が言い出したところで、私は再度咲乃の名前を出した。
「鶴淵さん。咲乃とは幼馴染なんでしょう?」
鞄を肩に背負った鶴淵由香理はまた顔を顰めて、手元の日誌を胸の前で抱き締めた。
「どうして咲乃を避けるの。何か理由があるの」
「……別に。避けてるわけじゃ」
「ならどうして咲乃を突き放すの。あの子、傷付いてるみたいなのよ」
傷付いてる、と私の言葉を反復した鶴淵由香理は、不愉快だという感情を隠すことなく露わにした。
「何それ、あたしのせいだって言いたいの」
「え、」
「朝比奈さん、この際だからあの子に言っといて。あたしはそうやってすぐ被害者面するあんたが、大嫌いだって」
大嫌い。
……本当に?
「朝比奈さんは優しいから、仕方なくあの子に付き合ってんでしょ? でもあんな奴放っておけばいいのよ。甘やかすと付け上がるタイプの子だし」
鶴淵由香理が歪む。醜穢に塗れた表情に、幾許かの悲哀が入り混じる。制御不能となった唇は彼女の意思を無視して動いているかのようだった。
鶴淵由香理は確かに本心を語っていた。声の調子でそれは伝わってきた。でも、その本心は、厳密に言えば偽物の本心だった。彼女が自分の本心だと思い込んでいる、或いは思い込もうとしている感情だった。
鶴淵由香理は咲乃に私を盗られたと思っている。心の奥底では、私に咲乃を盗られたと思っている。
「あたし本当に大嫌いなのよ、あの子。ねえ、朝比奈さんもそうだよね」
嗚呼この子は、私と同じなんだ。咲乃が欲しくて、手に入らなくて、もがいている。この子の想いのあり方は私のような恋愛のそれではないけれど、だからこそもっと深くて、泥沼で、ある種狂気めいている。そんな自分と向き合うのは怖いから、咲乃を嫌いなのだとして想いを覆い隠そうとしているのだ。
でも、私には手に取るように全部見えている。だって同じ人を想っているから。私と鶴淵由香理の違いと言えば、その感情の表現方法だけだ。彼女は大嫌いだと突き放すことで、無意識に咲乃の視線を自分に向けようとしている。そして、私はと言えば。
「私は好き」
私は、素直な気持ちを咲乃にぶつける。せめてそうすることで、鶴淵由香理と同じ土俵に立とうとしている。
「私は、好きだよ。咲乃のこと」
それを聞いた鶴淵由香理は目を見開いて、舌打ちをして、教室を飛び出していった。私は残されて途方に暮れた。
あの子は、憐れで可哀想な人。たぶん私以上に。
鶴淵由香理は咲乃を想っている。咲乃も、鶴淵由香理を想っている。不器用な擦れ違いが、二人を繋ぐ緒を複雑に絡めてしまっているのだ。その事実を知ってしまった私なら、それを解くことも可能だろう。
でも、解いてしまったら。咲乃は鶴淵由香理に夢中になって、彼女だけを慕って、私のことなど顧みなくなる。そうなったら私は確実に壊れる。今のままなら私は咲乃のそばにいられるけれど、咲乃は鶴淵由香理のことで傷付く一方だ。
神様は私に残酷な選択を迫った。咲乃の幸せか、自分の幸せか。何方かしか選べない。両方を得ることは出来ない。咲乃の幸せ、自分の幸せ。
咲乃、ごめんね。
私は。
「鶴淵さんに会ったよ。良い子だね、仲良くなれそう」
その翌日、咲乃に報告した。咲乃は少し泣きそうになってから、はにかんだ。
鶴淵由香理と親しくなるために参考にしたいから、との口実で、私は咲乃から鶴淵由香理との思い出を事細かに聞き出した。それは卑怯な作戦だったかもしれない。それでも私が咲乃の心に介入するには、運命に抵抗するには、そうする他なかった。
鶴淵由香理の記憶を、私の記憶に塗り替える。
鶴淵由香理と近所の公園で遊んだことがある、と言われればそこへ私を連れて行ってもらい、ショッピングモールでアイスを食べたことがある、と言われれば学校帰りに二人で立ち寄った。楽しくて嬉しくて、幸せだった。
私が手中に収めようとしたのは結局、自分の幸せだった。
「由香理ちゃんとは、私の部屋で遊ぶことが一番多かったかな」
咲乃は母子家庭だった。父親は幼い頃交通事故で亡くなったらしい。母親は上場企業の上層部に属しているため帰りは常に深夜を過ぎ、家庭のことは咲乃が一手に引き受けていた。咲乃の料理の腕がかなりのものである理由はそこにあった。
初めて咲乃の家を訪問したその日は、彼女の母親が帰宅しない曜日だった。私はそのまま一泊した。洋風の広い庭を持ち合わせた三階建ての一軒家には所々レトロな細工が施され、静かでどことなく寂寥としていた。
私はダイニングで咲乃の手作りオムライスを食べた。卵がふわりと口内で溶けた。凄く美味しい、そう言うと咲乃は照れ臭そうにした。食後にはリビングでオルゴールを聴いた。花模様の木製オルゴールだった。「星に願いを」の繊細な旋律に微睡み、夢見心地となる。咲乃は頬杖を付きながら、蕩けた淡い瞳に睫毛を伏せていた。
過去、鶴淵由香理ともこうして二人きりの時間を過ごしていたのだろうか。
私と咲乃、二人だけの小径に鶴淵由香理の風が吹き抜ける。安らぎは虚無の白砂となって、風に散る。
入浴を済ませた。スウェットでいい、と思っていたのに、咲乃に半ば強引にネグリジェを着せられてしまった。咲乃のサイズの服は私にとってやっぱり少し小さくて、余計に恥ずかしくて落ち着かない。向日葵色で着飾った私を見て、咲乃は満足したように笑ってシャワールームへ行ってしまった。
咲乃の部屋は三階の南側に位置した。私はそこで咲乃の帰りを待った。室内はシンプルながらクマのぬいぐるみや小鳥の壁掛け時計が彩を添えている。本棚には吉屋信子や尾崎翠の小説、中原淳一や高畠華宵の画集があった。少女というよりは寧ろ大人の色気を漂わせている咲乃だけれど、趣味は乙女そのもののようだ。私は咲乃が出してくれたお手製クッキーを摘みながら様々に本を開いてみた。クッキーからは咲乃の香りがした。咲乃を体内に取り込んでいるかのような感覚だった。
本を仕舞うとふと勉強机が目に止まって、近寄る。参考書や教科書が整然と並んでいる中で、スタンドの裏に写真立てが置かれていた。人目を避けてひっそりと。
手に取ると、微かに埃を被ったそこには一枚の写真が挿入されていた。胸にゼッケンを付けた体操服の少女二人。五年二組瀧川、というゼッケンを付けた少女と、五年二組鶴淵、というゼッケンを付けた少女。二人は額に青のハチマキを巻いて片手におにぎりを持ち、顔に泥を付着させたまま此方に笑いかけていた。
言葉が出なかった。代わりに漏れそうになる嗚咽を、何とか飲み込んだ。
そこにいる咲乃の笑顔は、私が見たことのないものだった。無邪気で、純粋で。私が見る咲乃の笑顔は、いつもどこかに憂いを湛えているのに。私には一度だって向けられない最高の笑顔の、咲乃。隣にいるのは鶴淵由香理。
慌てて写真立てを元に戻した。いつまでも見つめていたら気が変になりそうだった。改めて部屋を見渡すと、そこはもう先程までの甘美な空間ではなくなっていた。ぬいぐるみも壁掛け時計も、置物もアクセサリーも、どれもこれもに鶴淵由香理との軌跡が詰まっているように思えた。どれもこれもに、鶴淵由香理との繋がりが秘められているように思えた。
壊したい、めちゃくちゃに。何もかも全部ぐちゃぐちゃに壊せば鶴淵由香理は咲乃の中から消えて、残るのは私だけなのに。私は、嫉妬していた。唇を噛むと鉄の味がした。
消えて。消えてよ。私以外の誰も、咲乃の中に住まないで。咲乃は、私のものなの。
絶対に、誰にも渡さない。
「瑞紗ちゃん」
振り返ると、桜色のネグリジェを着た咲乃がドア口に立っていた。部屋の中央で棒立ちになっていた私に首を傾げている。汚い自分を咲乃に見られてしまった気がして、私は曖昧に笑んだ。
咲乃。
「瑞紗ちゃん、明日はどこに行きたい?」
ベッドに二人で潜り込んで照明を落として、他愛もない話をした後で咲乃は言った。明日は日曜日で、一日中咲乃といられる。
「うんと……咲乃は?」
「私は、瑞紗ちゃんの行きたいところ」
「ええっ」
二人でくすくすと笑う。咲乃の笑顔が心からのものなのか、そこに憂いはないか。噛み締めて観察するのは怖い。怖いから、目を背ける。
「じゃあ私も、咲乃の行きたいところ」
「もう。それはズルいよ、瑞紗ちゃん」
唇を尖らせたと思ったら、咲乃はすぐにまた吹き出していた。
本当にズルいのは、咲乃だよ。私は貴女を愛してしまうばかりなのに、貴女は全然私を見てくれないじゃない。
咲乃。
「それじゃあ、行き先はまた明日考えようか」
「そうだね。私は、咲乃の部屋でダラけるだけでもいいけど」
「本当? 退屈にならないかな」
「そんなことないって」
貴女さえいれば、退屈なんてあり得ない。
会話が止まった。話題は一通り尽きてしまった。手の甲に顎を乗せた体勢で寝転がったまま、沈黙に身を預ける。部屋の窓向きの都合上、月光も朧げにしか降り注がない。
ふと、あの写真のことを聞いてみようかと思った。鶴淵由香理との写真。恐らくあれは小学校の運動会の一幕だろう。学年からすると、もしかしたら鶴淵由香理と疎遠になる直前期のものかもしれない。口を開きかけて、思い直した。今は、私といる時だけは、咲乃を支配するのは鶴淵由香理でなく、私なのだから。
「咲乃、」
右隣の咲乃に目を移すと、いつの間にか彼女は寝息を立てていた。私の方へ顔を向けたままだ。呼びかけても反応はなかった。白いベッドに咲乃の黒髪が広がって散らばっていた。
微笑んでいるようにも見える、可愛らしい寝顔。愛しさが加速する。手を伸ばして頬に触れても、咲乃は動かないし、拒まなかった。
咲乃。
咲乃、咲乃、咲乃。
笑って。抱き締めて。好きだと言って。私だけを愛して。
「咲、乃」
頬を撫でる。咲乃は笑んだまま。静かに笑んだまま。
私の震える唇が、咲乃の艶やかな唇に吸い寄せられるように近付く。咲乃からは普段のクッキーの香りではなく、石鹸の馨香が飛んできた。
「咲乃……」
だけど結局、口付けてしまうことは出来なかった。咲乃の知らないところで彼女の大事なものを強奪してしまうのは、許されないことだった。調和しそびれた体温を持て余して、私はせめてと咲乃の手を取り、自分の指と彼女のそれを絡める。そしてそのまま、目を閉じた。
咲乃。
咲乃の部屋、咲乃のベッド、咲乃の服に、傍に存在する本物の咲乃。一杯の咲乃に囲まれているはずなのに、幸福を感じられるはずなのに、どうして切ないの。
どうして、こんなにも寂しいの。
――ねえ咲乃。
――どうしたの、瑞紗ちゃん。
――私……私ね、咲乃が好きなの。ねえそばにいて。
――うん、いるよ。私も好きだよ、瑞紗ちゃん。
好き? 咲乃が、私を?
違う、違う違う。
――違うの、そうじゃないの。私は、私はそうじゃなくて、咲乃が、
何故だか上手く言葉を紡げない。咲乃はきょとんとして私を見ていた。私は咲乃に縋り付く。
――咲乃、あのね。咲乃。
私は堪えられなくなって、咲乃の唇を奪った。
――私だけを見て。
*
石楠花が夜闇に染まる。庭に咲き誇る石楠花はもうすぐ、その花の季節を終えようとしている。もがき苦しむ私を置き去りにして、自分だけ先に、消えてなくなってしまう。
私は彼女を愛している。これほどの人は後にも先にも現れないのではないかと思うほど、自分の身さえ雁字搦めに縛り付けるほど強く、私は彼女を想っている。いつまでも、いつまでも。
でも、彼女は。
彼女はあの人を欲している。そしてあの人も彼女を欲している。二人が引き合わないのは、私が障害となっているからなのだろうか。私は邪魔者なのだろうか。きっと、邪魔者なのだ。邪魔者だと分かっていても、私は、邪魔者になり続けないといけないのだ。自分のために。自分の恋のために。
白色の石楠花は、じきに私の元を旅立っていく。白色の石楠花は、彼女の化身だ。
壮厳な高嶺の花に対する警戒を怠った私は、そのまま、石楠花の持つ危険な毒に侵されて、死ぬのだろう。
花弁を一枚、千切った。爪でバラバラに切り裂く。はらはらと私の両手から欠片が零れ落ちる。いずれそれは土に還る。
私もそうやって、消えてしまえればいいのに。土の中で永遠に、彼女と同化してしまえればいいのに。
「咲乃」
私の恋は、決して成就しない。分かりきっている。彼女を想い続けていれば、そう遠くないうちに私はこれまでの人生で最大の絶望を味わうことだろう。しかし、それならばと簡単に想いを捨て去ることが出来るなら、どうして世の中に悲恋が蔓延するだろうか。
「咲乃」
私は、どうなってしまうのだろう。高嶺の花の隣で、じわじわと猛毒に蝕まれている私は。
いっそ彼女の毒であの人も死ねばいい。私は死ぬけれど、あの人も死ぬ。彼女を誰にも盗られずに済む。
先に死ぬのは、私かあの人か。
「咲乃」
たった一つの愛しい名を、自らの喉を震わせ唇から紡ぐ歓喜。自然に、声を上げて笑っていた。
ねえ咲乃、愛してる。嘘じゃない、冗談なんかじゃない、真実なの。気が狂いそうになるほど、私は、貴女が好き。
こうやって貴女を捕らえて拘束して、支配することが出来ればいいのに。そう思いながら私は、もう一枚、石楠花の花弁を毟り取った。
この設定は元々、由香理を主人公とした長編用に作られました。いつか書けたら……良いな。
片想い最高です。