5話 抵抗したのに
「はっ……!」
また死んだ。
部屋は真っ暗で見える物は、蛍光塗料で塗られた目覚まし時計の針だけだ。
「また二時かよ……」
また二時。
また死んだ。
「なんだんだよ。もう……。やめてよ。さっきから何度も何度もさあ」
都合四回死んだ夢を見たような気がする。そして死ぬたびに二時に起きて、また眠り、殺される。
そしてまた起き出るだろう。そして殺される。
これは夢? 現実?
いったいどこに境界線があるんだ。
俺は夢で死んだ。でもそれは夢だから生きている?
それとも違う?
突飛も無い発想だ。
俺は死ぬと、時間が巻き戻って、あたかも生き返ったように振舞っているとでもいうのか?
「それはないだろ……」
……ないよな?
あり得ないだろ。死んだら時間が巻き戻って、同じ時間をやり直しているなんて。
でも、それはあり得ないのか?
それを証明する事なんて本当に出来るのか?
出来ないよな。
なにしろ、俺は死んだ事が無いから、時間が巻き戻るという現象があるかないかなんて、どうやったって証明できっこない。
どんな哲学者でもこの無限ループは解けないし、研究者も頭を抱える羽目になる。
何しろ死なないと証明できないんだからさ。無理だって、そんなの。
けど、証明できなくたって、流石の阿呆の俺でも感覚的に分かってくる。あれだけリアルな痛み。殺される時の感覚。もう俺は死にマニアだ。この世で四回も死んだことのある奴はいない。
死ぬときの虚脱感。虚無感。寂寥感。ありとあらゆる負の感情をまぜこぜにした感情が押し寄せてくることを俺は知っている。
分かってる。拒絶しているに過ぎない。感覚的に、体感的に把握している。分かっているんだ。もう知っている。
「俺は死ぬと蘇っている」
何度殺されても、俺は時間が巻き戻り、この午前二時に帰還する。
理由は知らない。
もしかしたら全人類に備わった能力なのかもしれない。
でもそんな話は聞いた事が無い。これは俺特有の感覚だろうか。分からないが、事実して俺は夢を見て、その夢で死ぬと、絶対に午前二時に目が覚める。
「なんなら今死んでやっても……」
いいわけないだろ。駄目だ。それは。自殺じゃないか。未だ殺されているだけで、自殺したらどうなるかなんて知らない。もしかしたらこれは殺害された時に起こる現象かもしれない。同じ死だけどもしかしたら、万分の一の確率で巻き戻りが起こらないかもしれない。
そしていつでも付きまとう問題として、これは夢なのか現実なのか分からないという事だ。
問題だけど、精一杯生きるという点では夢でも現実でも変わらない。
「毎度毎度殺されてたまるかっつーの」
これが夢だろうが現実だろうが、それは変わらない。
夢ではどこに居ようが、猪野郎が俺を殺しに来る。俺と言うと語弊があるが、それでもいつでもどこでも猪野郎は俺の前に現れ、俺を殺してしまう。
午前二時十分。
「準備だ」
すぐに着替えて財布を持つ。
決まれば早い。
これはゲームだ。
人生というゲームだ。
もちろん死んだらゲームーオーバーだ。そしてその死が俺の目の前に迫っている可能性がある。ならば、それを排除しないと駄目だ。
そとは若干肌寒そうだから、一枚だけ上着を羽織って音を立てない様に部屋を出た。
午前二時だ。この時間に家を抜け出すなんて初めてだ。
親にばれない様にしないと。
「いや、実際何やってるんだろな、俺」
結構ヤバい事してると思う。
まあいいけど。猪野郎が存在しなければそれで良し。もしこの後、午前九時十五分に現れるなら戦うしかない。
階段を下りて、玄関を音をたてないように出た。緊張する。一回だけ振り返ったけど、誰もいなかった。気づかれていない。
玄関から出て、自転車を取り出し、門扉を開けて、公道に出る。
真っ暗だな。当たり前だけど。
自転車を漕ぎだして、大通りまで出る。五分もかからない。
シャーッと言い音を立てながらママチャリが夜の街を疾走する。
この時間だから流石に人は少ないが、チラホラと酒に酔っぱらった大人たちを見かける。
そういう人たちには関わらない様にしながら、総合ディスカウントストアへと行く。
この店は二十四時間営業でとても大きな店だ。その辺のコンビニへ行くなら、ここに来た方が品揃えが良い。
俺はちょっとおっかない兄ちゃん姉ちゃんがいる間を通り抜けて、店の中に入った。
高校生がこの時間に出ていると補導の対象になるので、何食わぬ顔をしていなければならない。俺は十八以上で、すでに高校を卒業していますよというアピールをする。
「らっしゃせー」
やる気のない声が聞こえた。これは当たりだ。ちょっと難関かもしれないと思っていたので、これはラッキーかもしれない。
カゴを持って適当に店内をうろつく。
肉と野菜をカゴの中に突っ込んだ。これはカモフラージュだ。欲しいのは包丁だ。それと金槌も買って行こう。それに加え、ワイヤーとロープ。ペンチも無いと駄目か。くぎも買っていくか? もう要りそうなものは全部買って行こう。
溢れんばかりにカゴの中に色々突っ込んで、レジに赴いた。
レジの人も混沌としたカゴ商品を見てちょっと呻いたが、それでもちゃんと精算してくれた。
「23,567円になります」
買い過ぎた。いや、持ってきたけど。予算は三万円だったので、お金はある。
しかし痛い出費だ。
震える手で諭吉を三人渡した。
「6,433円のお釣りです。ありゃっしたー」
「どもっす」
かなり重そうな袋になってしまった。
ずしっと来る買い物袋を持って、外に出た。こんな変な買い物二度としたくない。
カゴの中にクソ重たい買い物袋を入れて、自転車を漕ぎだす。若干よろよろしながら、家路へつく。
自転車を家の敷地の置いて、ゆっくり玄関を開けた。
「誰もいませんよねー……?」
そっと隙間から覗いてみるが、俺を待ち構えている人は誰もいない。猪野郎だっていない。ホッとして家の中に入り、玄関を閉めた。
抜き足差し足で音をたてないように、そして怪しまれない様に自分の部屋へ。
廊下を歩くときやはり緊張したが、両親、妹共に熟睡のようだ。この分だったらもうちょっと力を抜いても良かったかもしれない。
自分の部屋で買ったものを並べる。
食材はどうでもいいとして。
まずは腹が痛くならない様に、腹痛薬を買ってきた。処方箋で買えるようなものじゃないから、そこまで期待しないけど、ないよりいい。腹が痛いまま何かする訳でもない。
あとは包丁を二本。金槌。ワイヤー。それにペンチ。ロープ。釘。色々机にぶちまけた。
これらを使って、あの猪野郎を殺す。やってみせよう。
吟味に吟味を重ねる。
どうすれば圧倒的膂力の差を覆せるか。一撃で仕留める最短効率。武器の損耗。果ては自分の怪我。
色々。考えに考えた。
猪野郎を殺すシミュレートを繰り返す。だが、中々真正面からは勝てる想像が出来ない。
だけど、後ろを取れば行けなくもない。背後から突き刺したりできれば、殺せる。
第一、今日見た夢では俺は猪野郎と刺し違えたのだ。
「殺せない相手じゃないんだ。やり方だ。それに全てがかかってる」
武器はある。道具もある。
勉強机に座って考えていると、突然部屋の中で大きな音が鳴った。
「な、なに……!?」
音の正体は目覚まし時計だった。六時半を告げる音を知らせている。
「もう六時半!?」
ほとんど考える事に費やしていた。あらゆる手を考え、使えるか使えないかを取捨選択していたら何時間も過ぎていたというのか。
しかも問題なのは一睡もしていないという事だ。
この状態で動くわけにもいかない。少し体が重いと自覚している。
仮眠だけでも取って、備えるべきだ。
ベッドに体を投げ出して、目を閉じる。仮眠だけでも七割寝ているとか言うから、全然大丈夫だろう。
睡魔と闘いながら、本気で寝ない様にしていると、一階から「梓! 早く下りてきなさい!」と声がした。七時だ。
まあ行けるだろう。大丈夫だ。なんとかなる。
体を起こし、ちょっとだけボーッとすると、隣の部屋の妹が部屋から出て行った。
それを合図に俺も着替え始める。
それが終わると一階に降りた。リビングに家族が勢ぞろいした。正直言えば、期待していない訳では無かったが、初っ端でそれも折られた。
「明日は雨みたいだな」
その一言は、俺が殺される未来につながっている。その一言さえなければ、俺の未来が違ってくるのかもしれないのに、親父は何気なくそう口にする。
「えぇー、面倒」
妹もその受け答えとして、何度も聞いた答えを口にした。
俺は自分の席に置かれたトーストに手を伸ばし、ジャムを塗りたくった。
これが最後の関門だ。
横目で妹をチラッと見た。視線を感じたからだ。
――駄目か。
「……兄貴さ。それやめてって言ってるじゃん。私へのあてつけ? ダイエットしてんのに、そんなに糖分多いもの目の前で食べないでよ」
「悪い」
何も言う事はない。ここまでプログラムされた会話だ。
確定した。
俺はこの後高確率で死ぬ。
だけど前の夢のように顔が真っ青になるようなことにはならなかった。
心構えが出来ているからだろうか?
テレビを見る。○○議員の政治資金問題だ。
――そういえば。
前の夢ではあの猪野郎は全国規模で出現していたと言っていた。それが本当かは知らないが、ちょっと伝えておくことくらいしておいても良いだろう。
「最近物騒だから気を付けてね」
俺が突然そんな事を言うものだから、親父も妹も変な目で見てきた。
「なにそれ。意味不明なんですけど」
「っせーな。お前一応、辛うじて女なんだから色々気を付けろって言ってんだよ」
「一応とか辛うじてとかじゃなく、正真正銘女だし!」
「だろ? だから、気を付けろって言ってんの。あれじゃん? 殺人事件? とかに巻き込まれるなってことだよ。日ごろな、気を付ければそれだけでそんな事には巻き込まれないから。な? 兄貴からの忠告」
「……なんかキメーな。無駄に優しいのが鳥肌立つ」
妹は席を立って、自室に戻っていった。
これが忠告になるだろうか。分からない。直接猪野郎が来るかもしれないから、気を付けろと言った方がよかったか?
……それを言うと、精神科に連れて行かれそうだな。
「親父もね」
「わかった。気を付けよう」
聞き入れるんだ。こんな戯言を。社交辞令ってやつだろう。
親父も「もう出る」と言って、革のカバンを持って家を出て行った。
お袋が食器を片づけ始めたので、俺も急いでトーストを詰め込んだ。
ここで致命的に考えていない事に気付いた。
――どこで戦う……?
家? それとも違う場所? それってどこだ。待て待て待て。戦い方に固執し過ぎていた。いや、制服を着ている。俺は無意識に学校に行こうとしている。学校か。
そうだな。
まりもいる。
助けないと。
まあ一応彼女だし。陳腐だけど、大切な人だし。勝手に死なれると困る。
死ぬのは怖い。
あれを味わうのには、まりはまだ若すぎる。
「俺だってまだ十七歳だし。何言ってんだか」
俺も朝食の席から立って、自分の部屋に行く。
いつもはスッカスカのリュックに包丁やらなんやら色々詰める。
これ、見つかったら停学ものだな。夢の時点では学校で持ち物検査があったようには思えない。あったとしても、あの適当な担任だ。やらないに違いない。
「うしっ……。生き残ってやる」
気合を入れ、玄関から出ると、すでにまりが待っていた。
「あ、来た」
スマホを弄るのをやめた。
俺は自転車を取り出し、門扉から出る。
「行こうか」
「あれ? いつもの先に行ってていいのに、てやつ言わないの?」
「でもいつもいるし」
「そうだけど。なんかいつもの朝って感じがしない」
「先に行ってていいのに」
「一応、梓の彼女だし? 一緒に行こうかなって」
言いたいだけなら言えばいい。言わせてやる。
なんか、今日は必死だ。
いつもと違う。意味ある時間を生きている気がする。楽しいと言ったらあれだけど、若干心が躍っている。不安だ。確かにそうなのだけれど、良い緊張感だ。
それから「宿題やった?」といつものように訊かれた。
適当に受け答えする。
何度も聞いた会話になると、流石に雑になる。
それを感じ取ったのか、ちょっとまりの機嫌が悪かった。
「じゃあ、学校が終わったら待っててよ! あと帰り道で絶対何か埋め合わせしてよっ」
「うん」
帰る事ができれば、だが。
「ふぅー……」
出来るだろうか。俺に猪野郎を倒す事が出来るだろうか。
そもそも本当に猪野郎は現れるのだろうか。
あれは全て俺の妄想で、今日は全て既視感があるだけのただの日常なのではないか。俺の精神は何らかの異常をきたし、猪野郎という妄想を生み出しているのでは。そして何回も同じような夢を見ているような気になっている。
痛い奴だ。
包丁とか金槌とか持ってきている生徒なんて他には居ない。
怖いなぁ。猪野郎が現れても怖い。そうじゃなくて、俺の精神が破たんしているのも恐ろしい。
どっちに転んでも怖いのか。
一周回って怖くないというのもある。
突っ立っている訳にもいかず、昇降口で履き替え、教室へ。
二年なので教室は二階だ。
教室に入ると、あまり怪しまれない様に席に座る。今日のリュックは重厚感がある。何もってきたんだ? とか訊かれても、答えに窮する。
ま、でもこういうとき、クラスでいてもいなくても良い存在というのは、かなり役に立つステータスだ。俺が何しようと、周りは関心を示さない。
そうやって誰とも喋らず過ごす。
担任がやってきて即行出て行って、他の生徒達がくっちゃべっていても俺は動かない。
いつものようにゲーマーの石井に話しかけにもいかない。
大人しくしている。
授業まではすぐだ。すぐにチャイムが鳴る。
でも今日に限って夢の通りに教師は数分遅れた。
そうして授業が始まった瞬間、俺は腹痛薬を飲んだ。水なし一錠だ。スッと口の中で溶けた。
これで腹痛が幾らかマシになる事を祈る。
そうして授業を聞き流しながら、自分の心拍数の高鳴りを感じていた。
来るのか。本当に。あんな化け物がこの世界に存在するのか。どこから現れる? 一体何が目的だ。そもそも目的なんていう高尚なことをあの猪は考えているのか。考えれば考えるだけ、頭が混乱する。
もはやどう動くのが正解なのか不正解なのか分からない。
じっとしていていいのか。動くべきでは。このまま机に座っていても、仮に、もし仮に猪野郎が来やがったら、一巻の終わりじゃないか?
どうだ。どうなんだ。
強引にでも教室を出るべきか? しかし何もなかった時、凄まじい羞恥が俺に襲い掛かるだろう。その前に、荷物を持ったままでは、流石にトイレにも行けないし、外に出るなんて不可能だ。そんな変な格好では、先生も不審に思って俺が教室の外に出るのを止めるはずだ。そうなれば、リュックの中に入っている刃物や鈍器を見られてしまう。
すでにミスを犯していたか――!
何もできない時間が過ぎていく。
行くべきだ。待て。恥ずかし過ぎる。そんな事言っている場合か。でも、違った時……。
その時、教室の後ろの扉が開いた。
次いで、隣の教室からとんでもない悲鳴が聞こえた。金切り声だ。
いや。
断末魔だ。
来た。来てしまった。本当にいるのかよ。ビックリだよ。なんでお前らみたいな化け物が存在しているんだ。
猪野郎は逞しい体をしていて、とても精悍な体つきをしている。手にはボロボロの刃物を持ち、腰に布を巻いただけの超ラフスタイルを貫き通している。
すると前の扉も開いて、教室にもう一体の猪野郎がのっしのっしと入ってきて、即座に教師を撲殺した。
「ブッホ! ブッホ! ブッホォォォォ!!」
ガツンガツンと切れ味の乏しい刃物で教師の頭を殴り続ける。教師は教卓の後ろに隠れてしまい、脚しか見えなくなった。猪野郎の体が躍動するたびに、教師の脚がびくんっと震えて、気持ち悪い。
「ブッヒョッヒョッヒョッヒョ」
後ろの扉に陣取っている猪野郎が俺たちを見て嘲笑った。
生徒たちは誰一人動く事が出来ない。
唯一の大人である熟練の教師が今、抹殺されている。
それを見ている事しかできない。
教師を壊しきった猪野郎が、返り血で真っ赤になった姿を晒した。
なんて、恰好だ。
あれが、本気かよ。
あれが、殺しという本質か。あれを夢でやられていた訳だ。なるほど。
「胸糞悪い」
それが呼び水になってしまったのか、教室はパニック状態に陥った。
きゃああ、きゃああと叫び、喚きながら一歩でも、一ミリでも猪野郎から遠ざかろうとする。猪野郎は出入り口を塞いでいるから、誰も教室外に出る事が出来ない。
前と後ろの扉に挟まれるように曇りガラスが設置されていて、それは開閉式だ。開けようと思えば、開けて、そこから逃げ出す事が出来る。
そして一番席の近い連中がそれを実行しようとしたが、猪野郎はそれをさせない。
見事曇りガラスを開けた男子生徒が外に出た瞬間、廊下に待ち構えていた三体目の猪野郎が男子生徒の腹部を刃物で貫いた。「ぎゃあああああっ」と男子生徒は血を吐き出し、汚物をまき散らしながら死に絶えていく。
出れない。
全ての出入り口を抑えられてしまった。ここは二階だ。飛び降りでもしない限り、この教室から出る方法はない。
三体目の猪野郎が曇りガラスから教室の中に入ってきた。
これで教室内には三体の猪野郎がいる事になった。
出入り口をすべて抑えられ、逃げる事は出来ない。
窓から飛び降りれば行けるだろう。だが、そんな勇気はない。結構な高さだ。骨が折れるかもしれない。
まあここにいたら死ぬだろうが。
一人の女生徒が飛び降りようとしたが「ひぅ……!」と尻込みした。
その時、何人もの生徒が飛び降りようとした。死ぬよりかマシだと判断したのだ。
しかし猪野郎も同時に三体も突っ込んできた。
まずは手近に居た男性生徒が三人ぶった切られた。
太い腕で女生徒が殴られ、首の骨がイった。
どんどん殺されていく。
押し込まれるようにして窓に移動していく。
俺はリュックを漁って、さっさと包丁を取り出した。まだ封を切っていない。ちょっと手間取る。
その間にも猪野郎は殺戮を繰り返しながら、こっちに近づく。
もう恐慌状態に陥っていて、誰も冷静な判断を下していない。
やけくそになって猪野郎の横を通り過ぎようとした奴がいた。すぐに捕まって、刃物で貫かれた。
猪野郎はそいつを引っ掴んで、ぶんぶん振り回した。
その死体はありとあらゆるものを無慈悲に破壊する鈍器になった。
頭蓋骨と頭蓋骨が激突して、生きていた生徒が死ぬ。どんどん死ぬ。誰も生き残らない。
駄目だ。人が押し合いへし合いして、まったく作業できない。前にも後ろにも進めない。ぐいぐい押し込まれる。「どけ、どけッッ!」「助けてぇえ!!」
もはやこの国の誇り高い民族意識はどこにもなくなり、我先に逃げようとして秩序が無くなっている。
俺もその流れにもみくちゃにされる。
そしてついに俺の番になった。
流れに負けて俺が猪野郎の前に出た。
「ブッホォォ!!」
猪野郎が男子生徒の死体を振り廻した。俺はどうにかこうにかしゃがんで、それをやり過ごした。そしてしゃがんだまま、即効で包丁の包装を剥いだ。
そしてそのまま机と机の間を縫うように移動した。これで攻撃は当たらない。
猪野郎は俺を無視する気だ。
一人くらい逃がしてもしょうがないか、みたいな感じだ。
「誰が逃げるか……!」
殺してやる。そのために武器を調達したんだ。
猪野郎が俺から目を離した瞬間を見計らい、俺はすぐに背後を取った。
「ずぉらぁぁああ!!」
包丁を猪野郎の腹のちょっと横当たり、多分腎臓辺りに突き刺した。腎臓は滅茶苦茶血が流れている。そこを破壊されると凄い痛みが出ると、何かで聞いた事がある。これはシミューレーションの一つだ。上手く行った。
「ブギョォォォォォオオオオオオオオオオオオオ…………!!」
猪野郎は両手に握っていた刃物と男子生徒の死体を手放した。びくんびくんっ体が痙攣している。俺は密着してもう一回、包丁を突き刺した。「どぉらぁぁぁあ!!」
包丁を差した部分で動かしまくって、サッと離れた。
もういい。
これ以上近くにいると、最後の反撃を食らう恐れがある。
そのことは前回の夢で分かっている。
猪野郎は出血が激しく、そのまま倒れた。やった。倒した。やってやった。どうだ。見たかよ。
他の二体の猪野郎がそのことに気付いた。
俺が手に持っている凶器を見てすぐさまこっちに駆け出してきた。くそ。やっぱりそうなるのか。
そうなると、他の連中は俺の事なんてどうでもいいので、隙を見て逃げ出す。窓から飛び降りなくても教室の出入り口から出ていく。
しかし俺の方には二体もの猪野郎が来ている。どうにか切り抜けないと。だけど、リュックは持っていない。攻撃されたときに手放してしまった。
猪野郎が二体来る。俺は先程と同じように姿勢を低くして、机の陰に隠れる。
猪野郎は机を吹き飛ばしながらこっちに来る。どんどん隠れる場所が無くなる。足場が悪くなる。こっちに机が飛んできて、頭を庇う。
そうやってどんどん距離が縮んでくる。駄目だ。ジリ貧だ。勝てない。負ける。勝つビジョンが全くない。
俺も群衆に紛れて逃げよう。
戦略的撤退だ。
他の全ての道具を失うのは痛いが、今は仕方がない。
しかし逃げようとした時、また新たな局面を迎えた。
増援だ。
教室の扉から逃げ出そうとしていた生徒たちが立ち止った。
扉の前にまた猪野郎がいるのだ。
誰も出る事が出来ない。
猪野郎は近くにいた生徒の頭を叩き割って、腹部を貫いた。オーバーキルだ。あそこまでしなくても。
そんな事言っても仕方がないが。
一旦終息しかけていた混乱が再び暴発した。
逃げ出そうとした生徒たちは挟まれる格好になり、右往左往するばかりだ。
猪野郎も状況が変わって、数瞬止まった。
俺はその気を見逃さなかった。俺だけは心構えが出来ている。お前らの存在を知っているんだ。今更、数が増えた程度で取り乱す事はない。
俺はなんとか片手で机の脚を持って、それを盾代わりにして一体の猪野郎の巨体に体当たりした。
猪野郎は自らばら撒いた机に脚を取られ、避ける事が出来なかった。まんまと突撃を食らって、猪野郎は転んだ。
俺はのしかかって、包丁を猪野郎の首に突き刺した。
すぐに離れようとしたが、猪野郎は反撃しやがったのだ。俺のわき腹を刃物で抉った。「ぐぁ……!」
その痛みでさらに動きが鈍った。
教室にいた最後の一体の猪野郎が俺の腹を思い切り蹴り飛ばした。
声すら出ない。衝撃が全身を貫き、朝食べたご飯を嘔吐した。
吐いている場合じゃない。立て。立って逃げないと……。
しかし反射からか、勝手に体が吐き気を催す。ゲーゲー吐いていると、猪野郎が俺の胸ぐらを掴んだ。そして持ち上げて、俺を宙ぶらりんにする。
誰か助けろよなあ。俺がせっかく頑張ってるのに。
いつもあんだけ偉そうにしながら、こういう時は何もしないのかよ。カースト上位が笑わせてくれるよ。まったく。
「ブッホッォ!」
猪野郎が思い切り握った拳で俺の顔面を殴った。殴って、殴って、殴りまくる。
俺は為すがままにされる。もう駄目だろう。こうなったら、終わりだ。いつの間にか握っていた包丁も落としている。
十数発は殴られた。顔面がボコボコになっているだろう。すごい顔が熱い。
「うっ……ガッ……はぁ、はぁ……」
呻く事しかできない。
そして猪野郎はそのままポイッとゴミでも投げ捨てる様に、二階の窓から俺を投げ捨てた。
頭から真っ逆さまだ。
まり。
終わりみたいだ。
生きてくれ――。
ご感想などお待ちしています