2話 殺してくれ
「ずぁぁぁっ!!」
死んだ。死んだ。死んで――。
「……夢……か……」
はぁぁとため息を吐いた。初めてだ。自分が死んでしまう夢。こんなに嫌な物なのか。
思い出しただけで背筋が震える。
自分の頭が割れた瞬間、世界の全てに絶望してしまうかのような痛み。ドアの間に指を挟むなんて比じゃない。あんなの喰らったら、それは死んでしまう。
咄嗟に頭を抱えた。怖い。あんなの二度と味わいたくない。落ち着け。夢だ。確かに感触はあったけど、あれは夢が作り出した偽物だ。大丈夫。俺は死んでない。あれは偽物。想像の産物だ。
「真っ暗じゃん。何時だよ……」
蛍光塗料が塗られた目覚まし時計を見た。午前二時。
眠ってから二時間も寝ていない。
「ああ、もう、最悪……」
こんな気分で寝ないといけないのか。嫌だな。もう。あの夢の続きを見ないと良いけど。
「あ、死んだから続きなんてないか」
一人で自虐しながら、もう一回目を閉じた。
案外眠いようで、すぐに眠気が俺の瞼を押し下げた。
眠りは一瞬で終わったように感じた。ジリリリと目覚まし時計が朝の六時半を告げている。
即座にそれを止めて、三十分の二度寝の時間だ。
まどろみの中で三十分を過ごすと、階下から「朝ご飯よ!」と声が聞こえた。もうか。俺はむくりと起き上がり、グーッと背筋を伸ばした。
さらにポケーッとしていると、隣の妹が部屋から出た音が聞こえた。それを合図に俺も着替える。
「梓! 早く下りてきなさい!」
少しゆっくりし過ぎたようだ。
制服に袖を通し、さっさと着替えて一階に降りた。すでに家族三人がそれぞれの事をしている。
「明日は雨みたいだな」
「えぇー、面倒」
親父と妹の何気ない一言。普通だ。
ていうか、明日雨かよ。体育潰れるんじゃ? サッカーなのに……。
「あれ……?」
なんか、デジャヴ?
この光景見たことあるかも。どこで見たのかは、分からないけど。
まあ、別に雨の日なんて珍しくないし、こんな光景が一回くらいあってもおかしくないか。
用意されたトーストにいつものようにジャムを塗りたくる。赤い場所だらけで、まったく空白の個所などない。それが俺流。
すると妹の視線を感じて、隣を見た。
「……兄貴さ。それやめてって言ってるじゃん。私へのあてつけ? ダイエットしてんのに、そんなに糖分多いもの目の前で食べないでよ」
俺はビックリして、妹をじっと見てしまったようだ。
「な、何……。人の顔ジッと見て」
「いや、お前。昨日と同じこと言ってないか?」
「はあ? 言うの初めてだけど。何言ってんだか」
フンッと妹は鼻を鳴らして、ガツガツとトーストを食べ終える。そのまま二階の自分の部屋に戻って、流れるような速さで家を出て行った。バスケ部の朝練だろう。
しかし、またデジャヴか。今日は良くこんなのが起こるな。
親父が新聞に目を落としながら、口を開いた。
「梓、学校はどうだ」
俺はどういう反応になっただろう。びっくりして、口があんぐり開いただろうか。それとも目を見開いている?
「……どうした。そんな顔して」
親父が口数少なく俺の心配をする。
「な、何でもない。ちょっと、ボーッとしてた……」
「そうか。まあいい。母さん。もう行く」
「あらそう。行ってらっしゃい」
親父の質問の意味を聞く事も出来ず、そのまま家を出て行ってしまった。「……いってらっしゃい」
三度目のデジャヴ。なんだこれ。夢と全く同じ……?
そういえば、昨日見た夢と同じだ。全てが。
やっているニュースも議員の献金問題。関係ねーとか思っていたのを思い出した。こんなことって、あるのか? 人生初だ。
そして、恐らくだが、次はお袋だ。ていうか、もうお袋しかこの家にいない。
「あんたもさっさと食べていきなさい」
やっぱり。そんな風なニュアンスの事を言うと思った。いや、普通だ。時間も差し迫っているし、指摘するのも問題ない。四度目のデジャヴでも何でもない。
すぐにトーストを食し、珈琲で押し込んだ。「ごちそうさん」
二階に戻って、カバンを持ち出す。変だ。おかしい。でも、別にそこまで変でもないか?
デジャヴだって、偶にはある。全く無い訳じゃない。それが複数回連続で起こっているだけだ。
それがなんだっていう話だ。
「行こう」
スッカスカのカバンを持ち、一階に降りて、お袋から弁当を受け取った。
「てきまーす」
ドアノブを回して、外に出ると、やはりまりがいた。「あ、来た」
その発言にも聞き覚えがある。でも問題ない範囲だ。いつもこんなもんだろう。
「先に行ってていいのに」
「一応、梓の彼女だし。まあ一緒に行こうかなって。それが付き合うってもんじゃない?」
「どうだろ。初めて人と付き合ってるし」
「まあ、私も初めてだから、良く分かんないけどさ。私はこうしたい」
「そう」
似たような会話だ。まったく同じという訳でもない。ほらね。違うよ。普通の会話の範囲だって。だいたい、毎日同じようなことしか話していない。
宿題やった? とかデートどこ行く? とか。そんなのだ。
「宿題やった?」
ほらね。
「違うクラスなのに、あんま心配しないでも……」
「そこはね。彼女として?」
「そんなこともしないといけないんだ」
「わかんないけど」
「わかんないんだ」
「うん。なんとなく? ちょっと、大丈夫かなーって。――それでやった? 数学」
「やってない」
「先生同じだし、私の写す?」
「お願い」
「じゃあ、今度のデート何か奢ってね」
「分かった」
毎日こんなもんだって。おかしくない。見たことあるな、とか思う必要はない。
けど、十五分も同じことが続く。聞いた事があるような会話が繰り広げられる。
流石に、気味が悪い。
駐輪場に自転車を止めて、まりと別れた。
「それじゃあね。また帰りに連絡するから」
「……分かった」
俺はへとへとだった。精神的に疲れていた。びっくりし過ぎているのだ。
まあ、昨日見た夢と同じなのだ。細部は違うが、だいたい同じようなことを繰り返している。
あのおっさん、みたことあるな。いや、同じような場所を通るんだ。見たこと位あるだろう。
まりは友達の方に行って、なにやら話し込んでいる。
「いつも通りだって」
おかしいことはない。あの友達にも見覚えがあるとか、普通だから。同じ学校だし、見たことくらいあるだろう。
昇降口で上靴に履き替え、教室に向かう。
中では多くの生徒達ががやがやと喋ったりしていて、忙しない。自分の席に着くと同じくらいに、チャイムが鳴り、先生が来た。
生徒たちはそれを見て、自分の席に着く。
「今日のホームルームも別に連絡する事はない。以上」
いつも通り。先生は一言言って出て行った。
そして生徒たちは授業までの短い時間を有効活用して、喋り込む。騒ぐ。遊ぶ。
俺の方にも「おっす」とか「よう」とか言ってくる男子生徒もいて、それに俺も挨拶を返し、ちょっとたむろしている男子のグループへ。
「あのゲームやってる?」
俺があいさつした男子生徒――石井が出し抜けにそう聞いた。
「MMO? わりーけど、まだやってないわ」
「やれってー。あれ面白いからさ」
「嵌まったらヤバいかもと思うとさ。ちょっと手が出ないかなって」
「大丈夫だって。そこは自分を自制してさ。やり込みながら、それでも自分を保つんだよ。織田」
「まあ、気が向いたらやるよ」
「それ、やらないやつだろー」
ひとしきり落ちが付いたところで、笑った。
――今の会話、夢でやった。
確かにこんな感じの会話だった。ちょっと曖昧だけど、話していくうちに――あ、これ知ってる、って思った。
まあでも、石井からは毎日MMOの話しか聞かない。毎日、俺にゲームを勧めてくるのが日課になってる。おかしくない。普通だ。日常だ。
そこから五分程度気味の悪い感覚に襲われながら、四人の男子生徒と喋った。
事ここに至って、流石におかしいと思い始めた。
確信を得たのは、授業中の腹痛だ。
「……痛ったぁ……」
やっぱりお腹が痛くなった。時間もぴったり九時十五分。くそぉぉ。マジかよ。なんだよ、これ。デジャヴとかそういう話じゃない。同じだ。まったく夢と同じ行動をしている。細部は違うものの、やっていることが変わらない。
でも、もう限界だって。痛い。本当に痛い。トイレに行かないと。でも、本当にこれが夢通り――正夢だったら。
あの化け物がいるかも――。
「いやいやいや……」
大丈夫だって。そんな事がある訳が無い。あんな猪の化け物みたいな奴がこの世に存在していていい訳が無い。いない。ありえない。あれは夢。決定。
「じゃあ、全員この問題を解いて」
先生がそう言って、教卓に教科書を置いて一息ついている。
俺は手を挙げた。
「どうした、織田」
「ちょっとトイレに」
「行って来い」
「どもっす」
急ぎながらも余裕そうに振舞いつつ、後ろのドアから出た。
廊下を高速で歩きながら、不安を打ち消すように呟いた。
「大丈夫、大丈夫、大丈夫だって……」
でもさ。聞こえるんだって。ぺたぺたとさ。素足でリノリウムの床を歩く時の音が。
誰だよ。本当にやめてくれ。ふざけているなら、本当にやめてください。お願いします。今すぐにどこかに行ってください。やめて。来ないで。来るな。現れるな。俺の幻聴であってくれ。聞こえない。ぺたぺた。やめて。ぺたぺた。ああ。ぺたぺた。来る。ぺたぺた。
それは、来た。
茶色の被毛に覆われ、途轍もなく大柄な生物。下顎から二本の大きな特徴のある牙をはやし、二足歩行をしている。手には錆びた刃物を持っていて、ほとんど着ている物はない。腰に布を巻いているだけで、ほとんど裸だ。
「幻覚だ……。こんなのあり得ない……」
それでも勝手に一歩下がる。生存本能がこいつから離れろと告げている。
「あぁぁ……」
一歩離れるのが悪いのか。そいつはぶるるっと震えて、俺に歩み寄ってきた。
やめて。痛いんだ。それは。死の痛みだ。死んでしまう。俺は逃げようとする。踵を返して逃げる。精一杯逃げようとする。倒れる様にして逃げる。
「あがっ……!!」
腹。腹が凄い熱い。いや、痛いいぃいああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ。
「あががっがががががががっがっがっがっがががっががが!!」
痛い痛い痛い。痛いよぉぉおオオオオ。助けて。お袋。親父。駄目だ。ああああ。痛い。死ぬ。死んでしまう。ちがう。違うぞ。こんなの。おかしい。ぐりぐりしないでぇぇぇえええええ!! 痛いィいいいいぃ!! お腹が! 裂けるっ!
「ぐえぇぇぇぇえええええええぇぇぇっえええ!!」
もう無理ぃぃいいい!! 殺してくれ! もう駄目だ。死にたい。駄目だって。こんなの。
その時、教室のドアが開きまくって、多くの人間の視線が俺に突き刺さった。
「だずげっ――」
手を伸ばした。
頭に衝撃が走った。
即死だった。