10話 失敗は唐突に
俺は死んだら時間が巻き戻り、午前二時に帰還する。
それが今まで死んだ中で経験したことであり、動かざる事実だったのだ。
それなのに……。
「馬鹿な……」
自殺した瞬間、俺の意識は確かに途絶えた。取り返しのつかない怪我だったはずだ。脳へと続く二本のうちの一本――頸動脈を掻っ切った。即死ものの致命傷だったはずだ。
俺は確かに死んだ。
薄れゆく意識の中で確かに俺は巻き戻ることを確信していた。
だというのに。それなのに。俺がいる場所は変わらない。
「おい、織田。どうだ。いたか」
黒崎先輩が屋上から降りてきて、二年四組の教室の中に飛び入った。同じだ。さっきと同じ。
誰も生きていない教室。血の海で彩られた教室。むせ返るような血の匂い。きつい。きつすぎるよ。こんなのってない。酷い。
それ以上に酷いのは、俺の処遇だって。
まさか、こんなことになるなんて。
「織田? どうした? まだここにまりちゃんはいなかったか?」
「……いますよ。そこに」
俺は足元の肉塊を指さした。
そこには、無残に散らかされた肉があった。腸が飛び出し、とても人間の尊厳を保っていない。これが人の死の最後なのか。現代社会における死が、こんな風であっていいのか。
黒崎先輩は何か言おうとして、それを止めた気配があった。言えよ。残念だったな。しょうがない。そんな風にさ。そんな事言ってもしょうがないって? そうだな。まったくそうだ。
「もう一回だけ」
「なんだ?」
「もう一回だけ死んでやる」
「おい、何やって……!? やめ――」
俺の命は、軽い。
――――――――――――――――――――――――――――――――だというのに。
「おい、織田。どうだ。いたか」
黒崎先輩が屋上からこの教室に入ってきた。俺とは違って静かに着地した。玄人を思わせる。いや、実際玄人なのだ。俺とは次元が違う。この惨状を見ても、何も言わない。凄い胆力だ。可愛い悲鳴の一つでもあげたら、まだ可愛げがあるというものなのに。
「やっぱり死んでるな。どうだ。まりちゃんはいたか?」
何回訊くんだよ。いるよ。そこにさ。無残に転がってるよ。俺は何もできなかったようだ。無駄だったようだ。俺がやってきたこの短い時間では、まりを助けることなどできなかった。無理にでも一緒にいるべきだったのだ。終わりだ。終わった。全て終わった。
……終わった?
何を馬鹿な。俺は生きている。終わっていない。前に行くしかない。止まっていたら、殺されるだけだ。時間は待ってくれない。後悔しても遅い。何を言っている。後悔とかそういう問題でもない。確かにこれは後悔だ。ああしておけば。こうしておけばよかった。そういう風に思う。なにもかも後悔だらけだ。
死してなお生きる自分に酔っていた。
失敗しても死ねばいい。そう思った。何度も何度でもやりなおして、まりを助けようと思った。
失敗なんて考えていなかった。
だって失敗しても死んでしまうなら、最後に残されるのは成功しかない。
そう、これは最初から勝利が約束されているのだ。
――俺の心が折れなければの話だが。
「……もういませんよ。あの世です」
まりの死体に近づいて、まぶたを閉じさせた。スッと顔を撫でる。まぶたを下ろした。安らかな寝顔に見える。ああ。死んだのだと。最後にすら立ち会えなかった。
何を思った? 痛かった? 苦しかった? 助けて欲しかった? 何をして欲しかった?
もうわからない。遅かった。何もかも。安全策しか考えていなかった俺の失敗だ。希望的観測で動いていた俺の失策だ。
「まあ、しゃーねーんじゃねーの? こういう状況だし。殺し殺されの野生に戻った。弱いから死んだ。それだけだろ?」
「……そうっすね。やっぱり、そうなのかな」
「それしかねーだろ。織田が強ーかは知らねーけど。要領は良いんじゃねーの? それも武器の一つ? て感じだと思うし。武器とか? 必要じゃん。弱い奴には。それを調達したお前は、まあ勝ったんじゃねーの? 今のところな」
「意味なかったですけどね」
「慰めねーよ? そんなの言ったところで、何にもなんねーからな。さっきの言葉を慰めと受け取っても良いけど。他人を助けようなんて言う高尚な事思ってる時点で、難易度がグンと上昇してるんだって。ムーリムリ。そんなの無理だって」
俺は立ち上がって、織田先輩を見た。小さい先輩だ。でも大きく見る。
「短い人生だったけど、今この数分で何人見殺しにしたかわかんねー。アタシなら、あの猪を殺す事も、まあできたぜ? 無明流は殺人術だからな。戦闘術に名前は変わってるけど。お前には関係ないか。まああれだ。最強のアタシですら他人を見殺しにしてるのに、お前なんつー小さい奴が誰かを助けようなんて、相当におこがましい」
「……本当に容赦ないや」
「嘘言ってもダメだと思うんだよ。なに? じゃあ言ってやろうか? スゲーよ。お前。この状況で誰かを助けようなんて、そんな心を持っているなんてどこの聖人君子だよ。この地に降り立った神だ。この日本を統一するのにふさわしい名字だしな。ま、そこは関係ないな。駄目だ。全然言葉が出てこねー」
「もういいですよ。分かってますし」
「なーにが分かったんだ?」
なにを、分かったんだろう。もう聞くのが面倒くさいから口を挟んだ。この人ベラベラと喋るし。鬱陶しいし。人を慰めようとかいう考えが微塵もなさそうだし。けど、しょうがないよな。見知らぬ他人だ。誰が赤の他人を慰めるんだよ。俺だってしない。
でもさ。俺だったら、大丈夫? くらいは声をかけるかもしれない。それが優しさってものじゃないか。ま、いらないかもしれない。言われても困るか。大丈夫? 訊かれたら大丈夫ですっていうしかない。意味ないか。
結局、黒崎先輩が言うように何もわかってないんだ。
一回の人生を精一杯生きるという当たり前の前提が崩れたことに、いい気になっていたのかもしれない。自分には特別な力がある。他人とは違う。この優越感が、この失敗を引き起こしたんだ。
本当に、おこがましい。
他人を助けようなんて。
死すべくして死んだ。
それだけだ。
まりはここで死ぬ運命だっただけだ。
運命を信じているわけじゃない。でもそういう考え方があるのは知っている。それを許容できないほど小さくはない。小さくはない、だってさ。笑っちゃうよ。お笑いものだ。
「何も。別に何もわかってないですよ。黒崎先輩がベラベラ喋るから、口挟んだだけです」
「良く言われるよ。五月蠅いってな」
「まさしく五月蠅かったです」
心は熱く、頭は冷たく。
何も冷静でいたい訳じゃない。
今にも発狂しそうだ。
まりが死んでしまったのだ。
旧知の間柄の親友が死んだ。彼女だ。死んだのだ。許さない。許さない。絶対に何があっても許さない。殺してやる。ぶっ殺してやる。死んでも殺す。死ぬまで殺す。殺す。殺す。殺す。
だからと言って小さい俺が一人で向かって行ったところで虫けらのように殺されてまたやり直すだけで意味なくてそんな事するくらいなら無理やり冷静になって生き残って一匹でも多く害虫を駆除してやってその内全部ぶっ殺してやって復讐してやる。
まとまりのない考えがドバーッと頭に流れ込んで、冷静さが無くなっていく。でもそうやったら死んじゃうだけだ。
心は熱く、頭は冷静に。
何かで聞いた言葉だ。
ことのほか気に入っている。
俺の胸は熱く燃えたぎっているが、頭は冷水を浴びせかけられたようだ。
猪野郎を殺してやりたい感情が俺に渦巻いているのに、それに待ったをかけている自分もいる。自問自答を繰り返している。
今行っても絶対に殺さてしまう。
混乱してる。同じことを何度も考えている。冷静じゃないのか……? これは俺が勝手に想像しているだけで、俺は完全に取り乱している……?
その証拠に目の前にいる猪野郎はいつからそこにいた。知らないぞ。猪野郎が刃物を振り上げている。
「織田ァ!!」
黒崎先輩に引っ張られていなかったら、頭を割られていた。
「ボヤっとしてんじゃねぇ。死ぬぞ」
「そんなこと……」
無い、なんて言えるか? 言えないだろ。実際今の今まで猪野郎に気付かなかったんだ。心ここにあらずだ。駄目だ。呼吸も変に浅い。動揺してる。
まりが死んでいる。
ああ。死んでいるよ。なんでだよ。俺はここまでしたのに。それじゃ駄目だってこと……? 足りないってか。そうか。そうかよ。
猪野郎がこっちに来る。
鬱陶しい。存在が。お前らさえ出てこなければ、こんな事にならなかったんだ。
憎い。憎たらしい。殺してやらないと、気が済まない。
「ぶっ殺して――」
「無明流古式戦闘術――」
同時だった。向かってくる猪野郎に走り出したのが同じタイミングだったから、普通に体同士がぶつかった。ぶつかったというか、俺が一方的に吹っ飛ばされた。小さい体のどこにこんな力があるんだ。
その俺とぶつかった黒崎先輩は、攻撃を中断して、刃物を躱す事に注力している。
「クソがッ。邪魔すんなっつただろうがよ」
サックでガツンと刃物を弾く。あれ、痛いだろうに。でもあれはわざとだ。
攻撃を防ぐと見せかけて、その威力を体を回転させるのに使って、攻撃に転じている。
「無明流古式戦闘術――」
黒崎先輩の体が右回りに一回転する。そのまま右足の内回し蹴りが炸裂した。猪野郎の側頭部を痛打している。
「“旋風脚”ッ!」
破壊的な音がした。何かが破壊された。いや、頭蓋だろう。猪野郎の頭蓋骨は今の蹴りで破壊された。
猪野郎の体が崩れ落ちた。糸の切れた人形のようにして、四肢から力が抜けている。ズズンッと大きな音を立てて、猪野郎が床に倒れた。
なんで蹴り一発で生物が殺せるんだよ。意味不明だよ。もう。助けて。この意味不明な世界で、俺は生きて行かないといけないのかよ。
「“旋風脚”はなあ。ちょっとあれか……? こいつらアホそうだし。いけるか」
一撃で殺したことに、何か不満でもあるのだろうか。それにしても、技の名前が……。
言わないでおこう。
黒崎先輩は振り返って、唐突に俺の胸ぐらを掴んだ。
「な、なんスか……」
「しょぼくれてんじゃねーぞ。織田」
グイッと力を込めている。胸ぐらを掴まれているだけなのに、体中を拘束されているようだ。
「まりちゃんは死んでた。確かに悲しい。でもまだお前は生きてる。お前は前に進まないと駄目だろうが。まりちゃんが何を思って死んだのか、今何を思っているのかなんてアタシには分からねー。間違っても分かるなんて言えない。でもこれだけは言える」
鋭い目をさらに細くして、黒崎先輩が睨んできた。
「好きだった男に死んでほしいなんて、絶対に考えてる訳が無い。お前が今最優先でやらないといけないのは、生きる事だ。間違ってもボーッとして、命を粗末にすることじゃない。分かってんのか、その辺をよ」
黒崎先輩は俺を睨む。睨み続ける。
なんだって、そんな事を言うんだ。分からないじゃないか。寂しがってるかもしれない。
「なんで、そんな事言えるんだよ」
「アタシが女だからだ」
黒崎先輩が俺を突き飛ばした。「いいか。二度と言わねぇ。死ぬな。死のうとするな。もうお前の命はお前だけの物じゃなくなった。まりちゃんの分も生きなくちゃならねえ。だるいけどな。託すなって言いてぇだろ。駄目だ。お前は生きなくちゃいけない。死のうとしたら、その前にあたしが殺してやる」
「それ、死んでるじゃないですか」
「あんな訳わかんねー野郎に殺されるより、五億倍はマシだ」
なんだよ、それ。自分勝手すぎる。黒崎先輩は廊下に行く。教室を出ようとしている。警戒していない。いや、必要ないのだろう。あんだけ強いんだ。俺とは見ている世界が違う。だからあんなことが言えるんだ。
何が俺一人の命じゃないだ。
「――分かってるよ、そんな事……」
もう救うことはできない。その温かみに触れる事も出来ない。会話する事も……。
だけど、俺はそれを置いて行ってでも、前に進まないといけない。
何故なら、俺は生きているから。
生き続ける限り、前に進まないといけない。停滞は死を意味する。
「ごめん。行くよ」
倒れ伏せるまりにそう告げ、俺は一歩を踏み出した。




