1話 初めての死
目覚まし時計が鳴る。
朝、当然のように目覚める。
おれはそれを止めて、再度眠りの世界に入る。
二度寝は至高である。それを味わい、たっぷり三十分後には起きる。わざと目覚ましを三十分早くしているくらいだ。
その頃になると、親が下の階から「朝ご飯よ!」と大声張り上げて伝えてくる。
そうすると一分後くらいに隣の部屋の住人である妹が起きる。そして扉を開けて一階に降りるのが日常だ。
今日も普通の日だ。何の変哲もない。
「梓! 早く下りてきなさい!」
呼ばれたのでさっさと制服に着替えて、1階に降りた。荷物は後で良い。
1階のリビングではすでにスーツを着た親父とまだパジャマ姿の妹。台所でなにかしているお袋がいる。
テーブルにはすでにトーストやらサラダが置いてあり、朝食とさっさと食えと言っている。
「明日は雨みたいだな」
「えぇー、面倒」
何気ない一言だが、結構重要だ。明日雨かよ。体育潰れるんじゃないか? サッカーなのに。まあそれはいいか。
俺はトーストに用意されたイチゴジャムを塗る。それはもう万遍なく。1ミリの隙もなく赤いジャムを塗りたくる。
「……兄貴さ。それやめてって言ってるじゃん。私へのあてつけ? ダイエットしてんのに、そんなに糖分多いもの目の前で食べないでよ」
妹がそんな意味不明理論を振りかざし、俺の朝食の時間の邪魔をする。
「ジャム無かったら、なあんにも味のしないパンだろうが。ジャム塗ってこそのパンだろ。それにダイエットとかお前には一億光年早いから」
「光年は距離です」
「例えだろ。たとえ。ユーモアが分からん奴め」
ジャムを塗ったパンを頬張る。妹はただ文句を良いたいだけのようで、それ以上は何も言わなかった。本人もジャム塗ってるし。なんだ、それ。
「ごちそうさま」
妹はそのまま着替えて学校に行くだろう。
二歳離れているので、まだあいつは中学生だ。バスケット部なるちょっと生意気なものに所属している。そのせいか分からないが、兄の身長に迫ろうとしている。不遜な奴だ。
俺はダラダラとテレビのニュースを見る。
議員の汚職が色々取りただされている。違法献金がどうのこうのと言う話題だ。高校二年の俺――織田梓には関係がないことだ。
「梓、学校はどうだ」
親父はそんなテンプレ質問して何をしようというのか。
「まあ普通」
「そうか」
親父は新聞を畳んで、お袋と俺に「行ってくる」と言って、そのまま出勤していった。相変わらず訳の分からない人だ。
お袋がテーブルに置かれた食器を片づける。「あんたもさっさと食べていきなさい」
時間を見ると、いつのまにか結構過ぎていた。
俺は最後の一口になったトーストを食べ、二階に上がり荷物の準備をした。
教科書類は学校に置いてある。カバンの中はスカスカだ。
一階に降りるとお袋から弁当を受け取り、出発準備完了。
「てきまーす」
聞こえないだろうが、玄関から適当な挨拶だけしておく。儀式みたいなものだ。
玄関を出ると、予想通りと言うか、別に先に行っていいと毎日言っているのに。
玄関前には自転車にまたがって、スマホを弄っている髪の長い女がいた。女と言うかお隣さんだ。もっと言うなら幼馴染だ。
その幼馴染が俺に気付いて、振り返る。「あ、来た」
「まり、先に行っていいのに」
「一応彼女だし? 一緒に行くのが普通なんじゃないの?」
「どうなんだろうな。その辺、普通とか良く分かんない」
「まあ、私もなんだけど」
まりはスマホをポケットに入れた。
俺は自転車を取り出して、門ともいえない小さな扉を開け、敷地内から出た。
「じゃ、行こうか」
「うぃ」
自転車を漕いで、学校に向かう。
「宿題やった?」
「たぶん」
「なにそれ」
「やったんじゃない? やらなくても死なないから、やってないかも」
「私の写す? もちろん今度のデートで何か奢ってもらうけど」
「それで」
「高くておいしいデザートのあるところで」
「考えとく。どっか行きたいところある?」
「梓と一緒ならどこでもいい」
「なんだそれ」
「いいじゃん。それだけ好きってことでしょ」
いいけど。ていうか、こっぱずかしいからやめてほしい。
「あ、顔赤い」
「うるさいな」
春だから熱いなんて言い訳もできないじゃないか。
まあ、後は他愛無い話だ。並行して自転車を漕ぎながら、十五分程度。学校に着くまでお喋りしながら、一緒に登校する。それだけ。別に変なところはない。ちょっとおかしいのは俺に彼女がいる事だけだ。なんでだろう。別に俺なんてかっこよくないし。特別なところはない。好きでも嫌いでもない。そんな感じになるのが俺だと思っていたのに――。
まあいいか。
十五分でこの時間も終わる。
まりと一緒に駐輪所に自転車を止めれば、あとはお別れだ。
俺は理系。まりは文系なので、校舎が違う。
「それじゃあね。また帰りに連絡するから」
「ん、分かった」
まりは走って誰かに突撃していった。友達だろう。見覚えがある。対して俺にはいない。居なくはないが、そこまで喋りはしない。クラスではいてもいなくても良い存在。まさに下の存在だ。カーストが低い俺に対して、まりは俺のどこが好きなんだろう。分からない。俺と一緒にいていい事なんて、これっぽっちも無い気がする。
俺もゆっくり昇降口に向かって歩き、上履きに変えた。
誰にも喋りかける事も無く、誰にも喋りかけられず教室に入った。
こんなもんだ。普通か知らないけど。ギリギリに教室に入ったから、先生もすぐに来る。誰かと喋るなんて行動しなくてもいいのだ。それで学校ギリギリに来るのだから、まりも先に行って友達としゃべってればいいのに。毎度毎度、俺を待つ必要なんてない。
「今日のホームルームも別に連絡する事はない。以上」
先生はやる気のない人で、何か連絡が無いとすぐに出て行ってしまう。生徒としてはありがたい。何か連絡があっても無くても、べらべら喋られても困る。
先生もいなくなれば、さっさと生徒達も席を立って仲の良い人と喋りに行く。
俺の方にもちょこちょこ人が来て、一言二言交わし、さようならする。一人でいても寂しい奴と思われるので、ちょっと喋る奴らの方に行って「おっす」とか言いながら、混ざればいい。
小さいプライドだ。
カーストが低めだが、それでも残念に思われたくないという小さな感情がどこかあるんだ。だったら、大声叫んで注目でも浴びるような事でもすればいい。できないけど。恥ずかしくてさ。
そこから男子四人程度で五分程度だべると、一時間目が始まった。
先生が若干遅れて、授業時間が縮まることを期待する。
「――であるから、ここは……」
授業も半分程度過ぎたころ。
「……マジかよ……」
猛烈な腹痛が俺に襲い掛かっていた。さっきからビックウェーブが来ている。引いたり押したりして来て、とてもじゃないが耐えられない。だと言っても、授業を中断するまでもないような?
「……いやー、それは……」
ないかも。それで漏らしたら、残りの一年半どうやって学校を過ごせばいいのだろう。
「じゃあ、全員この問題を解いて」
ラッキだー。一旦授業が止まった。生徒達も指示に従って、問題を解き始めている。
「先生」
「なんだ、織田」
「ちょっとトイレに……」
「ん、行ってこい」
「すんません」
こんなもんだ。自分が危惧するより、物事は早く進む。それに誰も俺に注目していない。俺がトイレに行こうが、茶化す人もいない。別に高校生になってまで、トイレで騒ぐような劣等民族にはなりたくないが。
後ろの扉から出て、トイレに向かう。
無駄に人が多いこのマンモス校だ。トイレに行くのも少し遠い。
静かな廊下を歩き、トイレに向かう。
自分の足音しかしない。
「……ような気がしたけど、誰かいるんだ」
ぺたぺたリノリウムの床を素足で歩く音がする。素足って。なんで素足なんだよ。
「上履き、履け、よ……?」
階段の方から来たそいつは、明らかに人間じゃなかった。
茶色の被毛。下顎から生えた二本の大きな牙。かなり大きい体格をしている。百八十はあるし、筋肉の鎧をまとっている。何故か手には所々錆びた刃物を持っている。
いや? いやいやいや? そんなことじゃなく? これ、なに? 仮装? これが? このリアリティーで。すごくね?
「な、なにやってるんですか……?」
咄嗟に出た一言がそれだった。
ソイツは俺の言葉を無視して、ぶるるっと体を震わせると、一歩俺に近づいてきた。
無意識のうちに俺は一歩下がった。
何。なになになんなの。
そいつは刃物を持っているし、デカイし、明らかに人間じゃないし。メッチャ怖いし。逃げたいけど、全然動かないし。歯はガチガチなっているし。小便も大便も漏れちゃった。どうしよ。あとでなんて言い訳すれば……?
そんなこと、しなくてもいい?
そうかもね。メッチャ世界がゆっくりだし。そいつは何か刃物を俺に向けて振り下ろしてるし。それがやけにスローに見えるんだ。それなのに、俺の体は全く動かないし。微動だにしない。ピクリとも動かない。
――ああ、終わった。
「――まり」
ぐしゃっと俺の頭が割られた。
即死だった。