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フェイト・ロスト  作者: 黒衣エネ
記憶の渇望者
1/2

1.喪失

少年は失った。

文字通りの『全て』を。


空っぽになった心と身体は、失ったものを求めて虚ろな彼を突き動かす。



「僕は、何だ?」


既に何度となく繰り返した答えの無い問いかけ。




時は真夜中。


月明かりを浴びて、静かな川で水浴びをしているのは一人の少年だった。



月光を弾く肩に触れる位まで伸びた金髪は水に濡れ、華奢で肌色の薄い身体は実在感に乏しい、妖しい印象を抱かせる。


深い青色の瞳を持つ少年は若く、まだ10代半ばにも達していないように見え、年齢故にか中性的な風貌を持ち、独特的な雰囲気を纏っている。





「…アズレイ。」


自分の問いかけに自分で答えるかのように、自分の名前を呟く少年。


だが、それは決して少年が期待する答えではない。



少年が知りたいのは『それ』では無かった。


「僕は何者、何処で生まれて何をしてきた人間なのか?」


再びの自問。


これに対しては、答える者は誰もいない。


『いなかった』と言うべきか。




少年アズレイは自分の記憶を失っていた。


自分の名前を除いては、ファミリーネームも含めて全て喪失している。


勿論、何故記憶を失ってしまったかすら、アズレイは覚えていない。



最初に自分が居た国のことすらわからずに、失った記憶を探して放浪の旅に身を投じている。






「よぉ、嬢ちゃ…いや、見分けづらいが男か。こんな夜更けに水浴びたぁ、無防備過ぎやしねぇか?」


「俺たちが護衛になってやるよ、代金はお前の持ち物全部な。」


話しかけられる前にアズレイは気配を察知し、傍らの剣に手が伸びていた。


優美な造形の鞘に納まったそれは片手剣としては刃渡りが長く、その年齢としては小柄なアズレイが振り回すには、少々向かなそうにも見える。


「…誰?」


「名乗る程の名前じゃねぇし、名乗る義理もねぇな。」


「その大層値打ちのありそうな剣も置いてけよ?」


男は2人組で、年上らしい男のセリフをまだ20歳そこそこの男が囃し立てるように言う。


つまり2人の男は追い剥ぎといったところだろう。





「やめて、ひどいことになる。」


アズレイはこの状況においても、表情を変えなかった。


『変えられない』のだ。


記憶と共に『楽しい』『悲しい』『怖い』などの感情を現す術や感じる心の大部分を失い、残りカスのようにほんの少しだけ残った感情が、彼に判断力を与えている。


もし全て失っていたのなら、放浪の旅に身を置くアズレイはここまで生き残っていないだろう。


特に恐怖や苦痛を全く感じない人間が居たとしたら、それはきっと長くは生きられない。





「待ったはナシだ。」


アズレイの言葉を無視して、2人の男はそれぞれ剣と手斧を構える。


どうやら力づくで奪おうというつもりだ。



「先に言うよ、ごめんなさい。」


「は?」


その言葉に訝しむ男たちに構わず、アズレイは剣の刃を自分が浸かっている川の水に浸す。


すると、にわかに川の水がうっすらと青く輝き始める。


「打ち払って『その形は刃、役割は撃退』」


アズレイは呟きながら水中から剣を抜き、そのまま水平に振る。


水滴が飛び散り、冷たい風が吹き抜ける。



「なっ!?お前それは!!」


剣は届かない距離なのに、狼狽える2人。


確かにアズレイの剣は2人のいる場所にはかすりもしないが、2人を強襲したのは、刃ではない。



刃のような形のそれは透明で、本来決まった形を持たないはずのもの『水』だった。


水の刃は虚空を飛び2人の手を打ち据えると、得物を弾き飛ばしてしまった後に、ただの水になって地に落ち地面を濡らす。



「ま、魔法だと!?」


打ち据えられた手を押さえ、目を疑う男たち。


『魔法』とは、その才能がある者が古代から伝わる一定の手順を踏むことで超常的な現象を引き起こすという、この世界では名の知れた秘術だ。


その利便性と生む利益から誰もが望む力であるのとは裏腹に、実際に魔法を扱える者はごく少数、実用可能な力を持つ者にまで範囲を狭めれば、大きさにもよるが1つの国に一桁から十数人しか居ない。




そして、少年アズレイは魔法を扱う珍しい存在『魔術師』であった。



「警告だよ、一応。これ以上のことはやめて。」


アズレイはおののく2人に剣先を向けたまま、ただ機械的に告げる。


手加減していたらしい先程とは違い、恐らく次は致命傷を与えかねないような威力の魔法、それこそ水なら人体を切断してしまいかねないような水の刃を顕現させるだろう。



「ぐ…引き上げだ。」


「お、おう兄貴…」


いかにも、腕っぷしに自信がありそうな2人も堪らず引き下がる。


いくら力があろうが『魔術師』を相手にするのは、例え弱い者だろうが軍隊の一軍を相手にするのに匹敵するとされる。


それに『たった2人』で挑むのは、無謀だ。





「…待って。」


しかし、後退を始めた2人を引き留めたのは、他ならないアズレイだった。


川から上がり純白の布を裸の身体にかけると布の小袋を持って2人に近づく。



「聞きたいことがあるの…僕は『何者』か知らない?」


「は?」


いきなり引き留められ、自分から近づいて来たアズレイに驚いた2人だが、その質問の内容は更に意味不明だった。


アズレイは『自分が誰か』を知りもしないただの追い剥ぎに聞いたのだ。



「僕は記憶が『無い』んだ…失ってしまった。もし僕について何か知ってるなら、教えて欲しい。お礼はちゃんとするから。」


そう言って、アズレイは小袋を兄貴分の男に握らせる。


ずっしりと重いそれには、結構な枚数の金貨が入っている。



「いや、知らねぇな。」


しっかり懐に金貨袋をしまいながら男は否定する。


金貨は手間賃も含めてらしく、アズレイは特に返却を求めなかった。


「…じゃあ質問を変えるよ。」


しかし、はまだ聞きたいことがあるらしい。




「親指の爪位の大きさのぼんやり光る青い宝石を見たりしなかった?」


「ん?これのことか?森で拾った奴でな、売れば高そうな宝石だったから取っておいたんだ。」


こちらには心当たりがあった。


兄貴分の男は腰のポーチから青く輝く小さな宝石を取り出した。





それを見た瞬間、今までどこかくすんだような様子だったアズレイの目が見開かれ、釘付けになる。


「ください…いや、それを僕に『返して』!!」


「な、何だいきなり!?」


初めて必死な様子を見せながら手を伸ばすアズレイを不気味に思い、男は思わずそれを渡す。



「…やっと、これで『4つ目』が帰ってきた。」


アズレイは宝石を胸に抱き、目を閉じながら感慨深げにそう呟く。



「それ、お前の持ち物だったのかよ?」


事態がよく飲み込めない若い方の男が、尋ねる。


すると、アズレイは目を開きながら男たちを見る。



「これは、宝石じゃないんだ。」


「あぁ…?どう見ても宝石じゃねぇか。見たことねぇ代物だが。」



「違う…これは宝石じゃない。『世界中に散らばった僕の記憶のカケラ』なんだ。」


そう言い切った。


この宝石はアズレイの記憶のカケラだと。



「何を言って…」


「見てて。」


男たちの言葉を遮りながら、アズレイが胸に宝石を押し当てると、まるで雪原に杭を押し込んだかのように宝石はアズレイの身体に入って行き、ほんの一瞬だけアズレイの身体を青く輝かせて沈黙した。


もう、宝石は無い。



「…僕の記憶は砕けて、宝石『記憶のラピスラズリ』になって、世界中に散らばってしまったらしいんだ。だから、僕はそれを探して旅をしている。この『記憶のラピスラズリ』を取り戻す度、僕は少しずつ記憶を取り戻す。これは、1つ目を取り戻した時に得た僕の記憶らしい。」


やや早口で言うアズレイだが、男たちがその内容をどれだけ理解できたかは、察するにあまりある。


ただ、明らかな『超常の世界』に足を踏み入れてしまったのだけは理解できているらしく、その目はまるで人の形をした何かを見るような眼差しでアズレイを見ていた。




『魔術師に関わると恐ろしいことになる』



これは有名な言葉だが、国に仕える魔術師もいる現状の中で、信じる人はほとんどいない。


だが、人は恐怖を感じるとそういった迷信を信じるものである。




踏み潰されたヒキガエルの断末魔のような悲鳴をあげながら、2人は川のある森の外へと逃げていった。


方角から、どうやら森に近い街に向かったらしい。



「…?」


アズレイはそれを小首を傾げながら、氷のように冷めた瞳で見送った。






しかし男たちへの興味はすぐに消え失せ、アズレイは身体と髪を拭くと、服を着る。


『魔術師』の好む皮膚の露出の少ないローブではなく、白いシャツに紺色の膝上丈のズボン、黒いロングブーツに濃藍色のマントを羽織る旅装だ。



「今日取り戻した記憶は…僕は『13年前に生まれた』『魔術師』か。」


そして、傍らの樹に腰掛け独り言葉を反芻する。


自分の取り戻した記憶を、忘れぬように心に刻み直しながら。


「あとどれだけの記憶が、世界に散らばってしまったのだろう…?」




夜は更に更ける。






***********





山と海に挟まれた故に食の豊かな国『ボロミア王国』の交易の街『ガザラ』の朝は人々の活気溢れる朝市に始まる。


気候と土地の両方に恵まれたこの国では、海の幸と山の幸は豊富に採れ、一面の麦畑からは毎年沢山の小麦が採れ人々は飢えを知らずに毎日を過ごしている。


近隣国(と言っても、一番近い国で馬で3日もかかるが)と比べたとしても、これだけ幸せな国はそう無いだろう。





「…パンをひとつ。」


「あいよ銅貨3枚だ。」


市場の露店でパンを買いながら、アズレイはガザラの街を歩く。


昨日『記憶のラピスラズリ』つまり自分の記憶のカケラをまた1つ取り戻したアズレイは、今度は街でそれを探している。


勿論、昨日追い剥ぎにやったように金貨をちらつかせながらだ。



だが今回は噂話すら無く、どうやらアテは完全に外れたらしい。



「なら、もうこの街に用事は無いかな?」


パンを一口かじりながら呟き、市場を見る。


活気に道溢れた人々は、心の底から楽しそうで人生を謳歌している。


アズレイが訪れた国の中には貧富の差が激しく街には餓死した人々の遺体が転がっているような所もあった。


中には飢饉で、既に全滅し廃墟と化していた国もあった位だ。



それに比べてボロミア王国は皆幸せそうだった。


追い剥ぎがいるのがある意味不自然な位に。







「あ、旅の魔術師様!!」


「僕…?」


不意に話し掛ける声が聞こえ、そちらを向くと焼き菓子の入ったバスケットを抱えた少女がにこにこしながらアズレイの前に立っていた。



「どうして、僕が魔術師だってわかったの?」


アズレイは魔術師らしくない格好をしている。


魔術師の多くは偏屈で気難しく何故か(プライドなのか)旅行にも動きづらいローブなど姿を隠す服装を好むらしい。


しかしアズレイはそんな姿ではなく、動きやすい普通の旅装だ。




「商売上です!!あたし、すぐにわかるんです!」


アズレイがそれを尋ねると、少女は無い胸を張って得意げに言う。


要は観察眼らしい。



「あ、あたしはニーシャっていいます!魔術師様、お名前をお聞きしてもいいですか?」


「…アズレイだよ。」


にこにこする少女に少しだけ押されがちになりながも、名前を名乗る。


普通の魔術師なら鬱陶しそうにするだろうが、アズレイには残念ながら『鬱陶しく思う』心と記憶は残されていない。



「アズレイ様ですか!綺麗な響きのお名前ですね!!あ、これはウチの自慢のマフィンです!おひとついかがですか?」


しっかりと商売話も加える所を見る限り、根っからの商売上の家の子どもなのだろう。


その商売根性には尊敬すべき点もある。



「一つ貰うよ、甘いものは精神を落ち着かせる。所で…ニーシャ、一つ聞きたいことがあるんだ。」


「はい?なんですか?」


ニーシャに代金を払い、受け取ったマフィンをかじりながらアズレイは話を切り出す。


まだ彼女みたいな年齢層の人間にはこの話をしていないことに、ふと気づいたのだ。


「親指の爪位の大きさのうっすら光る青い宝石をどこかで見たことはない?」


自分の記憶のカケラである『記憶のラピスラズリ』のことだ。


もしかしたら見ているかもしれないし、おそらく商売人の彼女なら、一見金目のものにも見える『記憶のラピスラズリ』を拾って所持していることも十分有り得る。



「えーと…あ、はいはい!!あれのことですね!」


どうやらアズレイのカンは当たったらしい。


ニーシャは何か知っている素振りを見せる。



「知ってるの?なんでもいいから、知ってることを教えて欲しいんだ。お礼は弾むからさ。」


前にもやったように金貨を取り出し、他の人々には見えないようにニーシャに握らせる。


いわゆる情報科だ。





「あ、アズレイ様!?」


「いいんだ、僕にとってはそれだけ価値のあることだからね…教えて。」


いきなり金貨を渡されて驚いたニーシャだったが、アズレイに促されて懐にそれをしまう。



「じ、じゃあお話します!!あたしが隣街モズに行った時のお話ですが、モズの領主シュドナイ様が御首にかけられていたネックレスに、アズレイ様の仰っていた宝石がそっくりなんですよ!」


その言葉に、アズレイの身体がピクリと反応する。


それは、確かに探している『記憶のラピスラズリ』の可能性がある。



そこで、アズレイはもう一つ質問をする。


「…そのモズの街で、最近変わったことはなかったか聞いてないかな?」


「はぁ…そう言われてみれば、一つだけ変な噂が流れています。」


どうやら、こちらにも心当たりがあるらしい。



「モズの街はボロミアでは珍しく、農業に適さない土地で交易で成り立っていた街なのですが、少し前から急に麦がよく獲れるようになりまして…良いことではあるんですけど、あまりに急なので『モズで何か新薬が発明された』とか、騒がれたりしました。」


少し顔を曇らせながら、ニーシャは話を終える。


ニーシャ自身、少し不振に思っているようだ。



「…ありがとう。行き先が決まったかなこれは。」


対するアズレイは、もうただの仮定は確信に変わっていた。


そのモズの街に己の記憶のカケラがあることを確信していた。





「あ、あのっ!アズレイ様はモズの街に行かれるのですか?」


「うん、どうしても確認しないといけないんだ。」


アズレイにとって、それはとても大事なこと。


勿論、よく知らない少女に語れる話でもなく、信じがたい話なので目的までは話さなかったが。



「実はあたし、明日からモズに行商に行く予定でしたので、あたしの家の馬車に乗りませんか?」


突然ニーシャはそんなことを切り出す。



「…いいの?僕はただの旅人だよ?」


「いえいえ!お母さんが『一度でいいから魔術師様を一目見たい』って言ってましたので、きっと歓迎してくれると思います!」


馬車手配の手間が省けるのは、アズレイとしても確かに大きい。



「ありがとう、お願いするよ。」


少しの黙考の後、アズレイは承諾した。




取り敢えず、その日はミーシャの家に泊まるように薦められ、アズレイはその言葉に甘えることにした。


野宿しても、魔術師という存在故に『個』として強すぎるアズレイは全く怖くなければ特に問題もなかったが、落ち着ける場所があるならそれに越したことはないだろう。




「お母さん、お客様だよ!!旅の魔術師様っ!」


街の一角、自宅兼一家の仕事場らしい2階建ての宿屋のドアを開けながら、ニーシャは母を呼ぶ。


すると、ニーシャに似た姿のいかにも商売人らしい雰囲気の女性が奥から姿を現した。



「はじめまして魔術師様!ようこそ私の宿屋においでくださいました!私が宿主のマーレです。」


やはり商売人らしい、滑舌の良いセリフ。



「はじめまして、僕の名前はアズレイです。明日モズの街に行く馬車に同行できると聞きまして。」


軽く頭を下げつつ、本題も同時に切り出す。


「はい、明日からモズで行商の予定がございます。モズの街にご用ですか?」


「はい、僕にとってとても大事な用事なんです。モズまで馬車に乗らせていただけませんか?」



『用事』内容はマーレにも答えない。


もしかしたら、アズレイは今から非情なことをしなければならないかもしれないし、そうなれば内容を知っていたらマーレやミーシャに迷惑がかかると判断したからだ。



「わかりました!魔術師様のご依頼とあっては無下には出来ません。手配致します。あ、その代わりと言ってはなんですが…」


「お代はちゃんと払います。」


旅費の他にも先程もやっていたように、情報収集の為にもお金は欠かせない。


幸い『魔術師』アズレイは魔法を使って様々な超常を発揮できるため、その力を使って定期的に資金を稼いでいる。


魔術師の力はどの局面でも望まれているものであり、仕事には事欠かない。


つい最近稼いだばかりなのでまだまだ懐も暖かい為、今なら馬車一台を貸し切りにしても大丈夫だ。




「あ、料金はいいのでその代わりに行商団の護衛をお願いしたいのですが…いかがでしょう?今なら3食付きですが。」


マーレはそう申し出る。


モズの街まで馬車なら2日といったところだが、その間盗賊や山賊に会わない可能性は無い。


要はその移動の間、行商団の護衛をして欲しいということである。



確かに、魔術師はたった一人でも軍隊一つに匹敵すると言われる力がある。


それに気の荒い傭兵を雇うよりも、偏屈でいまいち他人と感覚や価値観がずれているとは言え、基本的に物静かな者が多い魔術師の方が、軍隊ならともかく商人の護衛としては人気がある。


傭兵代も浮くので、向こうとしても美味しくアズレイも馬車代が無料となるので、互いに得をする提案と言えるだろう。


そこまでの計算を瞬時に行ったとするなら、やはりマーレという女性は商売人として確かな腕を持つ。




「わかりました、僕でいいなら引き受けます。」


断る理由も特に無い。



「ありがとうございます。では、今日はごゆるりと我が宿屋でお寛ぎください。すぐに部屋を手配致しますので!ニーシャ、お願いできる!」


「うん!さ、魔術師様!お部屋にご案内します。」


ニーシャはすぐに言うとアズレイの手を引く。





マーレに言われる前に既に準備を終わらせていたらしく、ニーシャはアズレイを2階にある客室へと案内する。


部屋は簡素な作りながらも狭くなく、掃除はしっかりと行き届いており、決して豪華ではないが汚さや粗末さは一切感じさせない。


「気に入った、ありがとう。」


「いえいえ、お役に立てて幸いですっ!」


そうは言いつつ、胸を張り得意げな様子から察するに、掃除をしたのはミーシャで誉められたのが誇らしい限りらしい。


「…?

取り敢えず、明日はお願いね、ミーシャ。」


それを解する心と記憶が、アズレイに戻っていれば、よかったのだろうが。



「はい、何かありましたらいつでもお呼びくださいね!夕食になりましたらお知らせします。」


そう言って、ミーシャは元気一杯で部屋を後にして1階へ降りていった。



再び、独りになる。



「…まだ時間はある。」


完全に周囲に誰も居ないことを確認し、アズレイは剣を抜く。


昨日魔法に使った剣だが、その刃は拭いていないにも関わらず濡れていない。



「『結界よ、我が身に害成さんとする者の存在を警告として告げよ。』」


剣の先で床に軽く触れると、一瞬だけ床に複雑な赤い紋様が現れるが、すぐに何事もなかったかのように消え失せる。



アズレイの魔法の一つで、部屋にアズレイに何らかの危害を与えようとするモノの接近を感じ取り、アズレイに伝えるという防御用の魔法だ。


昨日、森で追い剥ぎの存在に気付き、声をかけられた時には既に剣を握っていたのは、この魔法を近くの樹にかけていたからだ。


記憶喪失からか、アズレイはかなり用心深い。


その為、この魔法で警戒するのはいつものことだった。



ニーシャとマーレは、取り敢えず商人気質でアズレイに悪さをするとは考えられないが、他の客にもそれが当てはまるかと言えば、そうではないのだ。




「ふう…まさか、同じ国で2つも見つけられるなんて、僕もまだ運命に見放されていないらしい。」


術をかけ終え、マントを脱いで椅子に腰掛けながら、独り呟く。


それ、とは『記憶のラピスラズリ』のことである。


2つの『記憶のラピスラズリ』が同じ国の中にあったのはこれが初めてで、他はいずれも1つの国に1つだけ、それも全く無かった国に混じってだった。


これは、アズレイにとっては不幸の中にある小さな幸運だった。



「…じきに、なんでこうなってしまったかの記憶も戻るのかな?」


自分の手を何気なく見て、胸に当ててみる。


やはり『記憶のラピスラズリ』が無ければ、反応は無い。






アズレイが旅を始めたのはおよそ1年前になる。



初めて、彼が眼を覚ましたのは雨の夜で、ぼろ布一枚を纏った姿でつい最近滅びたばかりだと思われる国の外、城壁のすぐ近くに倒れていた。


それ以前の記憶は全く存在せず、自分の名前すらわからない有り様だった。



雨を避けるように滅びた国に入り、国王の居城に足を踏み入れ暖をとっていた時に、最初の『記憶のラピスラズリ』を見つけ、魔法を使う方法を思い出し、自分が魔術師であることを知ったのだ。


同時に、自分の背負った運命についても知ることになる。



アズレイの記憶は『記憶のラピスラズリ』という無数の小さな宝石となってあらゆる場所に散らばり、それを探さない限り記憶は戻らないこと。


1つ目の宝石は『どうしてそうなったのか』『何者の仕業なのか』『何個に散らばってしまったのか』までは教えてくれず、今まで集めた記憶のカケラも、それを教えてくれたものは一つも無い。



以来、アズレイはそれを探し続けている。



記憶と同時に思う力も失ったアズレイだが、唯一彼を突き動かすのは、失ったものを取り戻そうとする渇望の心で、その思いだけがアズレイを前へと歩かせている。


『記憶を取り戻す』と言う思いだけが、記憶を失い心さえも散らばった空洞で虚ろなアズレイを繋ぎ止めている。


何故、そこまでして記憶を取り戻したいのかはアズレイ自身にもわからないが、唯一残ったものとしてアズレイはその思いに従っている。





旅は決して楽ではなく、むしろ厳しい。


特にまだ歩み始めた頃は、何度も死の危険に晒されながらそれでも生き延び、寒さに震え空腹に倒れそうになりながら進む毎日だった。



旅のノウハウを覚えた今だからこそ、状況に上手く対応しながら渡り歩いているが、今までにいつ死んでもおかしくはなかったのである。


魔術師といっても魔法が使える以外は普通の人々と同じ。


いくら魔法が使えても、それだけで生き抜けるほど、旅は甘くない。



それでも前に進めたのは、ある意味大部分を失った感情と、記憶への渇望のおかげなのかもしれない。





アズレイは窓から街を見るが、記憶と心を失ったその瞳は、一体何を映しているのだろうか。


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