ご主人様は確信犯か。
豊城 杏は、とある家の末っ子長女として生まれ落ちた。
公設第一秘書という肩書きをもつ父。
施設秘書という名の家政婦を務める母。
2人の雇い主である、現在は某国の駐在大使の位置にある「男」。
年の離れた双子の兄や、一緒くたに育てられた「男」の「息子たち」。
数年おきに住む国が変わる環境の中、周りに居た彼らにはむしろ目の中に入れたいという程溺愛された。
大輪の華とも、妖精とも評される美貌。
各国の言葉を、滞在7日目には自在に操る知性。
物怖じする事のない懐っこさ。
いく先々で周囲を魅了し。
手の内腕の中に囲い込むようにされながら、育った。
某国大統領の極私的なパーティーで、彼や夫人の膝の上に座って過ごした事もある。
油田大国の元首は、いつでもおいでと宮殿まがいの豪華さで杏用の邸宅を建てたし、
某民族を束ねる老人は、所有するプライベートジェットの一機を杏専用として、電話一本で呼べるようにした。
そんな風に18年を過ごした杏が、日本の大学に行きたいと希望した時。
誰が保護者として同行するかで一悶着がおこる。
両親は杏を愛しながらも自分の仕事に誇りを持っており、
「男」は生憎と某国の駐在大使の任に就いたところだった。
双子の兄たちもそれぞれに「男」を支える歯車のひとつとなっており、
「息子たち」は後継者教育の真っ最中だった。
各国のお歴々がこぞって名乗りをあげたが、場は日本。
自由がきく、という一点を理由に。
「男」の父が勝利した。
「御大」とか「御前」とかものものしい呼称をもつ人物なのだが、杏にかかれば「おじーちゃん」である。
そう呼ばせてやにさがっているところを見た側近は、杏用の茶菓子をいついかなる時も用意しておく事を決めた。
杏は、生活基盤においてのみお膳立てを受け入れ、真っ当に実力で日本最高峰の大学を受験し、
素晴らしい事に主席で合格した。
新入生総代として挨拶し、希望した学部の希望した教授のもとで学び始める。
友達も出来た。
順風満帆である。
そして恋に落ちる。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「あんずちゃんお昼まだでしょ?」
「ちょっと歩くけどいい洋食屋見つけたんだ」
「おねえさんが奢ってあげるから」
ガチで硬派なはずの報道研究会の先輩諸氏に囲まれながら、
豊城 杏はニコニコ笑って首を振る。
「かいちにーさんにレポートを見てもらうので、待ってるんです」
また崎か!!
なんで崎ばっかり!!
杏ちゃん待たして授業出る崎のどこがいいんだ!!
憤然とする先輩諸氏をあしらい、杏は言いつけ通りに崎を待つ。
『用がある時はメールなり電話なりで一報を入れて、部室で待つ』
『突然の誘いには、むやみやたらと乗らない』
周りをうろちょろし続ける杏に、崎が約束させた事。
初めて会った時。
杏は大学の正門前で待ち伏せていた男に絡まれていた。
愛される事には慣れ切っている杏ではあるが、その男の言っている事は理解出来なかった。
いつ、この見た事もない男と自分が婚約したというのか。
普通に授業を受けただけの今日の行動のどれが不貞を働いた事になるのか。
後日友人から「アレが電波よ」と解説を受けることになるのだが、その時の杏には、本気でわからなかった。
とりあえず『傷ついた』と繰り返すこの男には謝るべきなのか、警備員を呼ぶべきなのか。
悩みに悩んでいると男は「もういいよ」と言った。
とりあえず今回は赦すと。
赦してくれるのなら良かった。しかし自分は気付かないうちに記憶を喪失してでもいるのか。
落ち着いて悩もうとする杏の腕を掴んで、男が歩き出す。
経験した事のない強引さに驚いて杏が問うと、約束した映画の上映時間が迫っていると言う。
約束した覚えはない。
告げられた映画のタイトルも、杏が見たいと思うものではなかった。
これは本気で記憶がとんでいるのか、いや待てまさかの人違いか?
ついて行っていいのか、とっさの判断をしそびれた自覚が芽生えたのとほぼ同時に、
後ろから声がかけられた。
「いいかげんにしなさい」
それが杏が初めて聞いた崎 海知の声だった。
〜〜〜〜〜〜〜
「いやーっ!王子様!!」
「少女漫画か!」
「それでそれで!?」
「お説教されました」
「「「は?」」」
「『わからないのにわかったふりをしない。黙っていれば察してもらえるとか、窮地に陥る前には助けてもらえるとか傲慢にも程がある。』って」
「「「崎何様」」」
「いえ、その通りなんです。知らないとか記憶にないとか言うと失礼だなんて、自分の保身ですから。
アナタを知らないんですがってはやく言うべきだったんです」
「いや、そんな電波下手に刺激できないでしょ」
「警備員さんもかいちにーさんも割と始めの方から見てたらしくて。私が逆らわないから止めに入っていいのか判断出来なかったって言われたんです。『助けて欲しいなら口に出しなさい』って」
「……じゃあなんで呼ばれる前に登場したわけ?」
「あんずちゃん助けてって言ってないんでしょ?」
「それは「あず」
膝詰めの勢いで出会いを聞き出されていた場を、普段は人の言葉を遮る事などない崎がぶった切った。
「かいちにーさん♡」
途端にへにゃんと笑み崩れた美貌に撃ち抜かれ、先輩諸氏が撃沈する。
ポンと頭に載せられた飼い主の右手に、幻影のシッポが振り切れんばかりの様を見て、勝てるわけがないと思い知るのだ。
飼い主、いや崎は、杏が鞄から出したレポートを左手で受け取りながら、右手をするりと頬にすべらせた。
「顔色が良くない。昼食は食べてないんですか」
「かいちにーさんと食べたくて待ってました」
「教授のお手伝いで遅くなるから先に食べるように言ったでしょう」
「ごめんなさい…」
途端にしゅんとうなだれる耳までが見えてきて、羨ましさ倍増である。
その飼い主ポジション譲ってくれ!!!と叫ぶ声が外に漏れないよう、先輩諸氏の口が歪んでいた。
「午後からもお手伝いがあるので、遠出はできません。学食ですよ」
「はい!」
世界の美食を食べて育った杏にとって、安値が最大の売りである学食メニューはけして好ましいものではない。
それでも崎と一緒なら、パサパサのオムライスも具のないカレーも化学調味料の味しかしないラーメンもどんとこいである。
ニコニコ笑いながら崎についていく杏を見送り、先輩諸氏はため息を交わした。
「…あれさー。絶対そいつが杏ちゃんの腕掴んだのが赦せなくて割って入ったんだと思わない?」
「…杏ちゃんがうちの研究会に入った時さー。その場でアドレス交換したじゃん?他のやつらの時は連絡網に書かせるだけなのに」
「わざと放し飼いにして、つまづくたんびに躾てさー…。事あるごとに飼い主アピールしてるよな」
「真顔でな」
「なんであんなのがいいんだ杏ちゃん…」
愛ゆえである。
愛されて愛されて愛されて。
真っ直ぐに真っ直ぐに育ったがゆえ。
見ず知らずの他人からお説教されるような場面に陥った事がなかったのだ。
困り切ったところを救われて、お説教されて。
家族以外から躾られたのが初めてだった。
ひとはそれをすりこみという。
「待て」は躾済み。
飼い主が仕込めば、きっと「お手」だって。