新しい自転車
A氏の家の扉が、コンコンとノックされた。A氏は新聞屋かセールスマンだろうと思いながら扉を開けた。そこには、スーツ姿の男がにこやかな笑顔で立っていた。
「わたくし、このようなものですが」
男は名刺を差し出してくる。自転車総合販売所のB氏という男らしい。やはりセールスマンだったか、とA氏はうんざりした。呼んでもないのに勝手に他人の家を訪ねる彼らを、A氏は好まないのだ。最近、やたらと家に来るようになったような気がする。定年退職して間もないから、退職金目当てなのだろうか。
「自転車なんぞいらん。帰れ」
A氏はしっしっと手を振って、扉を閉めようとした。しかし扉は完全には閉まらず、途中で止められた。B氏が足を挟んできたのだ。
「ちょっと待ってください。話だけでも聞いていきませんか?」
「聞かんと言ったら聞かん。自転車ならもう持ってるんだ。ほら、そこにあるだろう」
A氏は玄関先を指さした。そこには、使い込まれた自転車が置いてあった。A氏が何年もの間、毎日乗っている自転車である。B氏はちらりとそれを見てから、またA氏に向き直った。
「ええ、分かっています。しかし見たところ、かなり古いようですが」
「そりゃそうだ。何年も前に買ったのだからな」
「それだけ古いと、いろいろとガタが来ていたりはしませんか?」
「そんなことあるか。昨日もあれに乗ってC川のほうまで行ったのだ」
A氏は得意げに言った。彼はサイクリングをするのが趣味で、毎日いろいろなところに向かって自転車を走らせる。
「それはそれは、お元気なことで」
「年寄りだからと言って馬鹿にしているのか」
「そうではございません。しかしですね、自転車と言うのはいつ壊れるか分かったものではないのです。そこで、どうでしょう。これを機に買い替えるというのは」
「そんなことは壊れてから考えればいいことだ」
「いいえ。事故に遭ってからでは遅いのです。もし走っている最中にタイヤが外れて、そのタイヤが車の事故を引き起こしてしまったらどうするのですか? 何人もの人が死んでしまってからでは遅いのですよ」
「ううむ……」
B氏の言っていることはもっともである。A氏は黙ってしまった。ここぞとばかりにB氏は喋りたてる。
「もしブレーキが壊れてしまったらどうするのです。目の前に人が突然現れても、そのまま轢いてしまうのですか? そういうわけにはいかないでしょう」
A氏は自転車に目をやった。彼はサイクリングは好きだが、メンテナンスは好きではない。その証拠に、ところどころがさびついているし、タイヤの溝も擦り減ってしまっている。A氏は、しぶしぶこう言った。
「そうだな、お前の言うことももっともだ。だが私は高いものを買うつもりはない」
「承知しております。うちの商品は安いものばかりです。それに、ほかではちょっと買えないものなのです」
「ほかでは買えないもの?」
「はい。ナビゲーション機能がついているのです」
「ナビゲーション……。ということは案内してくれるということか」
「さよう。どんな場所でも案内できます。しかもそれだけではありません。最短で行くか、風景を楽しむか、それを選択することもできます」
「なるほど、それはいい。サイクリングは目的地に行くことが大事なわけじゃないからな。しかし、そんな機能がついているのなら、やはり高いのではないか?」
A氏が訊くと、B氏は電卓を鞄から取り出して叩き始めた。そしてすぐにA氏に電卓の表示を見せる。値段を示しているらしい。A氏はその値段を見て驚いた。
「なんと、普通の自転車よりも安いではないか」
「はい。うちは材料の取得・収集から製造、販売まですべて自社で行っております。なので、これほどまでに安くできるのです」
「なるほど。それくらいなら買ってやらんこともない。しかしデザインを見ないうちから買うと決めるのは早計だな」
「そう思いまして、実はここに一つ持ってきているのです」
B氏はそう言うと、A氏の目の前に自転車を出した。A氏からは死角になる場所に置いていたようだ。用意のいい奴だ、とA氏は思った。
「どうでしょう。色は派手でもなければ地味でもない。形状はいたってシンプル。乗り心地は……お客様が自身で試していただいたほうが早いかもしれません」
「ふむ、では乗ってみよう」
A氏はさっそく、自転車にまたがってみる。なるほど、サドルは固くなく、いい感じに反発する。ペダルは若干大きめに作られているようで、なんとも漕ぎやすい。そしてハンドルも握りやすいグリップになっている。A氏は思わず顔をほころばせた。
「これは素晴らしい。よし、気にいった。買ってやろう」
「それはそれは、ありがとうございます」
A氏はB氏に金を払い、その自転車を購入した。B氏が帰った後、A氏はしばらく買ったばかりの自転車を眺めていた。が、そこでやっと気づいた。
「おや、スピーカーがないぞ」
B氏が言うにはナビゲーション機能がついているというのだが、どこにもスピーカーが見当たらない。声以外でナビゲーションするにしても、画面もなにもない。普通の自転車とそう変わらないのだ。まさか、詐欺だろうか。まあ、そうだとしても、安い買い物だし、自転車を買い替えたんだと考えればいいか。
「とにかく乗ってみよう」
A氏は自転車にまたがってみた。すると、どこからともなく声が聞こえてきた。
「行き先を指定してください」
詐欺ではなかったか、とA氏はほっとした。さて、とりあえずどこへ行こうか。ナビゲーション機能がどこまで精密なのかを試してみたいが……。よし、ならば――。
「D山に行こう」
D山はA氏の家から遠い場所にある。しかしA氏はD山に何度も行ったことがあり、最短の道をすでに知っているのだ。もしナビゲーション機能が本物ならば、当然同じルートを通ることになるだろう。
「D山――発車します」
A氏はペダルをこぎ始める。買ったばかりの自転車は、どこにも不満なかった。進んでいくと、分かれ道が見えてきた。すると、またどこからともなく「右へ曲がってください」と声がした。
「うむうむ」
A氏はにっこりとする。どうやらナビゲーション機能はうまく作動しているようだ。
そのまま、A氏の知っている通りの道筋を通って、D山の頂上に到着した。A氏はD山から見える絶景を前に、自転車のサドルをポンポンと笑顔で叩いた。
「本当にいい買い物をしたなあ。よし、これからはどこに行くにもこいつを使うぞ」
その日から、A氏は本当にどんな所へ行くにも、その自転車をこいでいくことにした。近くのスーパーに行くときも、あるいは遠くの湖へと行くときも……。
しかしある日、A氏は気が付いた。その自転車をこいで街中を走っていると、妙に視線を感じるのだ。なぜだろう、と考える。すぐに答えが出た。
「ああ、そうか。自転車にナビゲーション機能がついているなんて珍しいからな。みんなが見てしまうのも無理はない。あのBとかいう男も、ほかでは買えないものだと言っていたしな」
A氏は気分がよくなった。こんな自転車、持っている人は少ないだろう。実際に、他人が使っているのを見たことがない。
だが、その翌日だった。A氏がスーパーに買い物に出かけていたとき、見てしまったのだ。スーパーの近くに停めてある、彼の持っている自転車と同じものを。
「やや、やはり買っている人がいたか。そりゃあ便利だものな」
A氏がその自転車を見ていると、ひとりの男が自転車に近づいた。どうやら彼のものらしい。男は自転車に跨った。
そして次の瞬間、A氏はとんでもない光景を目にした。
なんと男は、大きく口を開けてこう言ったのだ。
「行き先を指定してください」
7/18 二次改稿