滅びを夢見る者たち
三 滅びを夢見る者たち
――その報せは、風のように静かに広まった。
「“風の神”アイリアが死を望んでいるらしい」
人々は囁いた。
神々が人となり、世界に新たな秩序が芽吹き始めたばかりだというのに。
ひとりの神が、再び“消滅”を選ぼうとしている。
その名を聞いたとき、リーヴァの胸は小さく震えた。
アイリア――あの透明な声で歌う風の巫女。
神々の中でも最も自由で、最も儚い存在。
彼女は今、村の北にある崖の上に住んでいた。
“風の廃塔”と呼ばれる古い塔。
かつて嵐を鎮めるために建てられ、今は鳥すら近づかない場所。
リーヴァはひとりでその塔を訪れた。
雲が低く垂れ込め、風が霧を裂く。
草は泣き、石畳は凍りついている。
塔の上では、白い髪の女が風を掬っていた。
掌の上で風を丸め、空へ放つ。
そのたびに小さな音がした――まるで壊れた鈴の音のように。
「アイリア……」
リーヴァが名を呼ぶと、女は振り返った。
その瞳は空そのものだった。
色がないのに、深さだけがあった。
「リーヴァ……あなたが来ると思ってたわ。」
「死を望んでいると聞きました。」
「望んでいるわ。けれど、死にたくはないの。」
リーヴァは眉をひそめた。
「それは、どういう意味です?」
アイリアは塔の窓際に立ち、風に髪をなびかせながら言った。
「風は、形を持たない。
だから人になったとき、息をするたびに“重さ”を感じた。
息が苦しくて、体が痛くて、思考が遅くて……
でも、それでも“生きている”のだと思った。
なのに最近、その重さが消えていくの。
まるで私の中の“風”が、もう動くのをやめたみたいに。」
彼女の声は風とともに震えた。
「リーヴァ、ねえ、あなたは死を怖いと思う?」
リーヴァはしばらく考えた。
「怖いとは、少し違うかもしれません。
“終わる”ことは悲しいけれど、
“何かを終わらせる自由”があるのは、人間だけです。」
「そう……自由、ね。」
アイリアは微笑んだが、その笑みは壊れそうに儚かった。
「私たち神は、永遠という牢に閉じ込められていた。
でも今、私は“有限”を感じている。
いつか終わるからこそ、世界が美しいと気づいた。
それでも、私は……風として生きたい。
流れて、消えて、どこにも留まらずにいたいの。」
リーヴァは静かに言った。
「それは“死”ではなく、“還り”です。
あなたが世界に戻るだけのこと。
でも――この世界には、まだあなたの風が必要なのです。」
アイリアは俯いた。
「必要とされることが、こんなにも重いなんて知らなかった。」
その言葉のあと、長い沈黙が流れた。
風が塔の中を巡り、古い鐘を鳴らした。
どこか遠くで雷の音がした。
◆
塔を降りたリーヴァの前に、フェルスが立っていた。
琥珀の瞳が薄暗い霧を裂くように光っている。
「彼女の願いを、どう見る?」
「死を恐れていない。けれど、生にも執着していない。」
「――つまり、均衡を失った。」
フェルスは短く息を吐いた。
「ほかにも、同じような兆候が出ている。
“炎の神”は火を点けるのをやめ、
“海の神”は水に沈もうとしている。
人としての苦痛が、彼らを蝕んでいる。」
「滅びを、夢見ているのね。」
「そうだ。彼らにとって死は“浄化”だ。
けれど、あの花――薔薇の墓標が彼らを繋いでいる限り、
真の死は訪れない。」
リーヴァは歩みを止め、丘の方角を見た。
そこにあるのは、自らが植えた“神々の記憶”。
花が散れば、世界は揺らぐ。
「私が……彼らを生かしてしまったのね。」
フェルスが首を振る。
「違う。お前は、彼らに“選択肢”を与えた。
生きるか、滅びるか。
――それは、神々ですら持てなかった権利だ。」
リーヴァは拳を握った。
「けれど、その自由が、彼らを壊していくのなら……」
「自由はいつだって代償を伴う。
人間がそれを知ってなお生き続けるように、
神々もまた、苦しみの中で答えを探さなければならない。」
◆
数日後、村で奇妙な儀式が行われた。
アイリアを中心に、神々が集まった。
“滅びの祈り”――彼らが自らの神性を解き放つ儀式。
その場にリーヴァも呼ばれた。
広場の中央には古い石碑があり、そこに風・火・水・大地の象徴が刻まれている。
神々は手をつなぎ、歌うように祈った。
声が風に乗り、夜空を震わせた。
> 「われらは、終焉を夢見る者。
> 光の外に立ち、闇を恐れず。
> 滅びにこそ、真の自由を見いだす。」
リーヴァは唇を噛んだ。
その光景は美しかった。
けれど――美しすぎるものは、いつも死の匂いがする。
「やめて!」
彼女の声が響いた。
神々が一斉に振り向く。
アイリアが微笑んだ。
「リーヴァ。あなたが私たちを生み、
あなたが今、私たちの“終わり”を止めようとしている。
でもそれは矛盾よ。
創造と滅びは同じ円の中にある。」
リーヴァは首を振った。
「違う。
終わることは怖くない。
でも、“生きる途中で自らを捨てること”は、悲しい。」
アイリアの瞳に、一瞬だけ迷いが宿った。
「あなたが言う“生きる”とは、痛みに耐えること?」
「痛みに触れながら、それでも誰かを想うことです。」
沈黙。
風が止まった。
神々の輪が崩れ、祈りが途切れた。
アイリアはゆっくりと手を下ろした。
涙が一粒、風に乗って消えた。
「……そうね。
もしかしたら、私は滅びではなく、“安らぎ”を求めていたのかもしれない。」
彼女はリーヴァに近づき、そっと抱きしめた。
その身体は冷たく、軽かった。
まるで風そのものを抱いているようだった。
「ありがとう、リーヴァ。
あなたの言葉は、私に“生の痛み”を思い出させてくれた。」
そう言って、彼女は空を見上げた。
星々が砕けるように輝く。
次の瞬間、風が爆ぜ、塔の方向から光が走った。
アイリアの身体が風に溶けていく。
その笑顔は、確かに“救われた人”のものだった。
リーヴァは泣かなかった。
ただ、風に向かって静かに言葉を紡いだ。
> 「あなたの滅びは、終わりではなく始まり。
> 風は消えず、息として誰かの胸に残る。」
その夜、村には優しい風が吹いた。
人々はそれを“神の赦し”と呼んだが、
リーヴァは知っていた――
それは“人の祈り”が生み出した、新しい風だった。
◆
朝。
丘の上の薔薇がひとつだけ散っていた。
その花弁は、まるで風の翼のように舞い、
空の彼方へと消えていった。
フェルスが静かに言った。
「これで、ひとりの神が本当に“死んだ”。」
「いいえ。彼女は生きています。」
「……風の中に、か?」
リーヴァは頷いた。
「滅びを夢見た者こそ、
“生きることの意味”を最後まで見つめたのです。」
フェルスはしばらく黙り、
やがて小さく笑った。
「お前も、少し神に似てきたな。」
リーヴァは首を振った。
「いいえ。
私はただ、人として――彼らを愛しているだけです。」
風が吹いた。
薔薇の香りが、朝の空気に溶けた。
そして世界は、またひとつ静かに再生を始めた。




