人の中の神々
二 人の中の神々
――神々が人として生まれ落ちてから、七十七日が過ぎた。
村はざわめきに満ちていた。
誰もが、彼らを“奇跡の子”と呼んだ。
病を癒やし、風を読む者。
未来を言い当て、雨を呼ぶ者。
人々は再び「神の面影」を信じ始めていた。
だが、リーヴァは知っていた。
彼らはもう神ではない。
“人の姿をした神”ではなく、
“神の記憶を持った人”にすぎないということを。
――そして、その矛盾こそが、世界の新たな火種になる。
◆
その日、リーヴァは再び丘の上の教会を訪れていた。
薔薇の花は枯れず、むしろ前よりも濃い紅を宿している。
花弁の奥には、微かに光が揺れていた。
「……まだ、あなたが見ているのね」
彼女は薔薇の根元に水を注ぎながら呟いた。
この花は“神々の魂の残響”だ。
リーヴァが書いた物語によって人間として再生した神々の、
原型をつなぎとめている。
そして――その花の数は、日ごとに増えていた。
「世界が、少しずつ“神に戻ろう”としているのかもしれないわね……」
遠くから笑い声が聞こえる。
丘の下の広場で、子どもたちが遊んでいた。
その中に、ひとりの青年がいた。
黒髪を後ろで束ね、穏やかな眼差しを持つ青年。
かつての“理性の神”レオル。
今は村の学校で、子どもたちに読み書きを教えていた。
彼はリーヴァの存在を知っており、ときどき丘へ来ては短い会話を交わしていた。
だが、今日の彼は少し違って見えた。
足音もなく近づき、静かに言った。
「あなたが書いた“物語”の中に、僕はまだ囚われている気がする」
「囚われている?」
「そう。
僕は理性を教える。
けれど、怒りも嫉妬も覚える。
人間の子どもたちを愛おしいと思う反面、
彼らが愚かに見える瞬間がある。
そのたびに、胸の奥で何かが軋む。
――これが“人間”だと、あなたは言うのですか?」
リーヴァは微笑んだ。
「それこそが人間です。
愛しながら、憎む。
理解しながら、裏切る。
あなたがそれを感じているなら、もう神ではありません。」
レオルは目を伏せた。
「ならば、僕は堕ちたということですか?」
「堕ちるとは、落ちることではありません。
“触れる”ことです。
あなたは、ようやく世界に触れたのです。」
沈黙。
遠くで子どもたちの声が響く。
レオルはふっと息をつき、空を見上げた。
その目に映るのは、もう“理性の神”の冷たい光ではなく、
どこか迷いと優しさを宿した人間の瞳だった。
「……少し、わかった気がします。」
「何を?」
「理性とは、正しさではなく、選び続ける痛みのことですね。」
リーヴァは微かに笑った。
「あなたは本当に良い生徒ですわ、レオル。」
◆
その夜、リーヴァは村の外れの小屋で筆を取っていた。
机の上には、古びた紙束とランプ。
風が吹き込み、紙の端を揺らす。
――彼女が今、記しているのは「神々の人間譚」。
神々が人として生きる姿を、彼女自身の観測として書き残している。
ページの端に書かれた言葉が、ふと光を放つ。
> 「神は人となり、人は神を憶う。」
その瞬間、窓の外で声がした。
「書く音が、まるで祈りのようだね。」
振り向くと、そこには“信仰の神”だった男――リサンドルが立っていた。
今は村で医師をしている。
白衣の代わりに、麻の上着をまとい、
手には薬草を包んだ布を持っている。
「夜更けまで、また“世界”を書いているのかい?」
「ええ。
でもこれは、神々のためではありません。
人々が“信仰のない時代”にどう生きるかの記録です。」
リサンドルは微笑んだ。
「だが、彼らはまた祈り始めた。
病を癒したこの手を見て、皆が言うんだ。
“あの人はきっと、神の遣いだ”と。」
「否定しないのですか?」
「最初は否定したよ。
でもね、彼らが祈る時の顔を見ると、どうしても言えなかった。
祈りが彼らを救うなら、それを奪う権利が僕にあるのか?」
リーヴァはランプの火を見つめた。
「信仰は薬にも毒にもなります。
けれど、あなたがそれを与えるなら、
それはもう“神の奇跡”ではなく“人の優しさ”です。」
リサンドルは少し考え、静かに頷いた。
「……人の優しさ、か。
なら、僕はようやく“神”をやめられるかもしれない。」
リーヴァは笑った。
その笑みには、どこか母のような温かさがあった。
「あなたたちは皆、“人としての神”を演じている。
けれど、本当の神は“迷う”のだと思います。
迷うことこそ、生きることだから。」
◆
翌朝、リーヴァは市場を歩いていた。
人々の顔が明るい。
豊作の知らせがあり、子どもたちは歌を歌っている。
その中に、白髪の老人がいた。
杖をつきながら、ゆっくりと石畳を歩く。
“時間の神”オルド。
今は「オルド爺」と呼ばれ、
誰からも慕われていた。
「やあ、リーヴァ嬢。今日も薔薇は咲いておるかね?」
「ええ。あなたが見守ってくださるからでしょう。」
「わしではないよ。
あの花は“時間”を食べて咲いておる。
わしが生きている間だけ、美しく咲けるのだ。」
老人の笑い声が風に溶ける。
リーヴァはその横顔を見つめた。
しわの深い顔に、かつての神の影がほんの少し残っている。
「……オルド。あなたは、死を恐れますか?」
老人は立ち止まり、空を見上げた。
白い雲が流れていく。
「恐れておるとも。
神であった頃は、永遠に退屈していた。
だが今は違う。
この世界の一秒一秒が、あまりに愛おしい。」
「なら、あなたはもう完全に“人間”ですわ。」
オルドは微笑んだ。
「そうかもしれんな。
――だが、わしにはひとつ願いがある。」
「願い?」
「死ぬ時、神ではなく“人”として死にたい。
誰にも祈られず、誰にも崇められず、
ただ、この世界の風の音を聞きながら、静かに消えたい。」
リーヴァはその言葉を聞いて、胸の奥が熱くなった。
神であった者が、ここまで人間を愛するようになるとは。
「あなたの死は、“終わり”ではありません。
それは“記憶”として残ります。
そして、あなたがいた時間が、世界を前へ進める。」
オルドはゆっくりと頷いた。
「ありがとう、リーヴァ嬢。
わしは、ようやく“時間”の意味を理解できた気がする。」
老人の目に、うっすらと涙が光る。
それは、神が初めて流す“人間の涙”だった。
◆
夜。
リーヴァは再び書斎に戻った。
机の上には、今日出会った神々の姿が、淡い筆跡で並んでいる。
> 「理性は迷いを知り、信仰は赦しを知り、時間は涙を覚える。」
書き終えた瞬間、薔薇の花が小さく鳴った。
音もないのに、確かに“響いた”。
リーヴァは筆を止め、窓の外を見た。
夜空の星がゆっくりと流れていく。
その星々の中に、彼女はもう一度“神々の視線”を感じた。
「見ているのね……」
微笑みながら、静かに目を閉じた。
そのとき、背後から声がした。
「リーヴァ。」
振り向くと、そこに立っていたのは――フェルス。
かつて消えたはずの観測者が、再び姿を見せていた。
だが、その瞳はもう銀ではなかった。
人間の色――柔らかな琥珀の光を宿している。
「フェルス……あなた、生きていたの?」
「いや、正確には“再生された”。
お前が書いた“神々の人間譚”の中で、
観測者の役割が再び必要になったからだ。」
「あなたも……神々のひとりとして戻ったのね。」
フェルスは小さく笑った。
「だが、今度は違う。
私は神ではない。
“お前を見守る人間”として生きる。」
リーヴァはその言葉を聞き、
胸の奥に温かいものが広がるのを感じた。
世界は再び回り始めている。
神々は人となり、観測者もまた人として戻った。
――そして彼女は、その中心で、
“物語を書く人間”として呼吸している。
薔薇が咲く。
花弁が開くたびに、世界が少しだけ広がる。
それはもう、神々の奇跡ではない。
人が人を想うことで生まれる、“言葉の奇跡”だった。
リーヴァは微笑み、静かに筆を走らせた。
> 「神々は再び人となり、人は再び祈りを覚える。
> けれど、その祈りは誰に向けられるものでもない。
> それは“生きること”そのものへの祈りである。」
風がページをめくる。
夜が明ける。
薔薇の墓標の上に、光が落ちた。
――そして、物語は、また次の朝を迎える。




