沈黙の中の微笑
五 沈黙の中の微笑
――朝が、降りてきた。
それは夜明けではなかった。
闇の向こうから光が差すのではなく、
世界のすべてが静かに光そのものへ変わっていくような、そんな朝だった。
風が吹かない。
鳥も鳴かない。
人々のざわめきすら、まだこの世界には戻ってきていない。
ただ、空気の中に漂うのは、焼け落ちた神々の灰と、
生まれたばかりの世界の鼓動。
リヴィアは廃墟の中央に立っていた。
足元には、昨日まで“王都”と呼ばれていた場所が広がっている。
塔は折れ、石畳は割れ、川は空を流れていた。
けれど、不思議と恐ろしさはなかった。
それは「破壊」ではなく、「再生の途中」に見えたからだ。
――神々が沈黙し、世界が息を潜めている。
その“間”こそが、新しい言葉の生まれる場所。
リヴィアは静かに目を閉じた。
風のように、声がした。
フェルスの声。けれど、それはどこからともなく響いてくる。
「……リヴィア。神々は去った。
だが、世界はまだお前を見ている。どうするつもりだ?」
リヴィアは微笑んだ。
それはこれまでのどの笑みよりも穏やかで、
しかしどこか、悲しみを帯びていた。
「書きますわ。
この“静寂”の物語を。
滅びのあとにも、世界がまだ生きていることを。」
「それは“創造”だ。神々が恐れた行為だぞ。」
「だからこそ、わたくしがやるのです。」
指先が動く。
空気の中に、ひとつの羽根ペンが浮かび上がる。
かつて鏡の神が渡した黒い羽根。
その先端がわずかに光り、まるで息をしているように脈打っていた。
リヴィアは地面にしゃがみ込み、瓦礫の上にそっと指を置く。
ペン先を滑らせると、石の破片の上に文字が刻まれた。
> 「世界は終わりではなく、沈黙を学ぶ場所である。」
その文字が、柔らかく光を放つ。
やがて瓦礫の隙間から、小さな草の芽が顔を出した。
それを見て、リヴィアは息をのむ。
「……生きている……」
「お前が書いたんだ。」
フェルスの声が風の中で囁く。
「言葉が世界を生み、命を呼び覚ました。
だが、リヴィア。これを続ければ――お前は神になる。」
「神にはなりたくありません。
ただ、“物語の中で生きる人間”でありたいのです。」
「それが一番、神に近い答えだな。」
リヴィアは笑った。
空を仰ぐと、青の奥に金色の光が滲んでいる。
それは太陽ではなかった。
神々が残した“創造の残光”――最後の余韻だった。
その光の中に、彼女は幻を見る。
鏡の神フェルスが、静かに立っている。
その姿は以前よりも透けて、まるで風に溶けそうだった。
「あなたも……消えるのですね」
「観測者に終わりはない。ただ、見えなくなるだけだ。
お前が“書く側”に立った今、私は記録の彼方へ戻る。」
「それでも、寂しいですわね。」
「寂しさは、世界が続く証拠だ。」
フェルスの輪郭が淡く滲む。
リヴィアは彼に近づき、ほんの一瞬だけ手を伸ばした。
指先が触れる寸前――彼の姿は光の粒となり、空に溶けた。
風が吹く。
静かな風。
それは神々がいなくなった世界の“最初の風”だった。
リヴィアは一人、広場の中央に立つ。
風に髪が揺れ、ドレスの裾が翻る。
その姿は、もう“悪役令嬢”ではなかった。
王子の寵愛を奪われ、民衆に断罪された“悲劇の飾り”でもない。
今そこにいるのは、ひとりの“書き手”。
名をリーヴァと呼ばれる、世界の再生者。
空を見上げると、割れた雲の隙間から無数の文字が降ってくる。
文字は花の形をとり、地に落ちると光に変わる。
それはまるで、神々の代わりに世界が祈っているようだった。
「……あなたたち、まだ見ているのね。」
リヴィアは微笑み、筆を走らせた。
空に、文字が刻まれていく。
> 「沈黙の中に、声がある。
> 終わりのあとに、始まりがある。
> 死のあとに、わたしは笑う。」
その瞬間、光が彼女を包んだ。
風が巻き上がり、街の瓦礫が舞う。
人々の影が浮かび上がり、ひとり、またひとりと形を取り戻していく。
老いた商人。泣きじゃくる子ども。恋人を探す娘。
みんなが目を開け、空を見上げていた。
「世界が……戻っていく……」
リヴィアは胸の奥で呟いた。
その瞬間、彼女の足元に柔らかな影が差した。
「……リヴィア?」
声の方を見ると、そこにはレオンがいた。
かつて彼女を断罪した男。
けれど今、その瞳には迷いも憎しみもなかった。
ただ、深い後悔と、静かな祈りだけがあった。
「なぜ……あなたが……?」
「夢の中で見たんだ。
君が泣いていた。だから……戻らなきゃと思った。」
リヴィアは一瞬だけ息を呑んだ。
心臓がわずかに痛む。
それは、長い夢の終わりを告げる痛み。
「あなたは、もう神々の夢から解かれたのですね」
「夢か現実か、もうわからない。
でも……今はただ、君に謝りたい。」
レオンがゆっくりと膝をついた。
瓦礫の上で、彼はまっすぐリヴィアを見上げる。
「君を断罪したあの日、俺は神々の声を信じていた。
けれど今はわかる。あれは神々の声じゃなかった。
俺の中の“恐怖”の声だった。」
「恐怖……?」
「そう。君が自由に生きようとすることが怖かったんだ。
君が神々をも疑うその瞳が、まぶしかった。」
リヴィアは、ほんの少しだけ微笑んだ。
その笑みは優しくも、どこか遠い。
「あなたが恐れていたものを、わたくしも恐れていました。
だからこそ、八度も死を繰り返した。
でも今はもう……恐くありません。」
レオンが顔を上げる。
その瞬間、彼の背後で朝日が昇った。
まるで二人の対話を祝福するように、世界が光に満たされていく。
「リヴィア……君はこれから、どこへ行くんだ?」
「書きに行きますわ。この世界の新しい物語を。」
「誰のために?」
「誰のためでもなく。
けれど、もし誰かが“読む”のなら、
それはきっと、この世界の新しい神になるでしょう。」
レオンは静かに頷いた。
そして、まるで少年のように微笑んだ。
「じゃあ……また会えるかもしれないな。」
「ええ。
――物語の中で。」
二人の間に風が吹く。
その風の中に、神々の囁きが微かに混じっていた。
> 『彼女は沈黙を破り、沈黙を創った。
> 彼女の笑みの中に、我らは安らぐ。』
世界が、完全に目を覚ました。
鐘が鳴る。
光が降る。
そして、リヴィアは再びペンを握った。
瓦礫の上に座り、ゆっくりと書き始める。
> 「これは、悪役令嬢の物語ではない。
> これは、“神々の終焉”のあとに生まれた、
> ひとりの女の微笑の記録である。」
ペン先が止まる。
最後の一文字を描くと、風が吹いた。
文字が空へ舞い上がり、やがて光の粒となって消える。
空は、もう灰色ではなかった。
澄んだ青。
新しい始まりの色。
リヴィアは立ち上がる。
遠くに広がる、まだ形を持たない大地を見つめて微笑んだ。
その笑みは、神々のいない世界で初めて咲いた花のように、
静かで、強く、美しかった。
――沈黙の中に、彼女の微笑があった。
そして、その微笑こそが、
この世界の“最初の祈り”になった。




