風律神殿(テンペル・オブ・ヴェイル)
四 風律神殿
風は、彼を導いていた。
まるで一本の糸のように、絶えずその頬を撫で、進む方向を示す。
ユリウスは風の流れに逆らわず、ただ歩き続けていた。
行く先に、灰色の山脈が連なっている。
“沈黙の山域”と呼ばれる場所――そこに風律神殿があるという。
リーヴァがかつて最後の祈りを捧げた場所であり、
神々の声が完全に途絶した“境界”だった。
彼の手には一冊の書がある。
黎明の書――今はもう、何も書かれていない。
塔で全てを解放したあの瞬間以来、
ページは白紙のまま沈黙を保っている。
「記録を……解放する。」
リーヴァの声が、夢の中で告げた言葉。
それが何を意味するのか、彼はまだ理解していなかった。
山の入口に辿り着くと、
冷たい風が全身を包んだ。
その風には、微かな音が混ざっている。
――声。
低く、かすかで、しかし確かに存在する。
ユリウスは目を閉じた。
風が彼の周囲を巡り、囁いた。
> 「ここは祈りの残響。
> 記録されざる言葉たちの眠る場所。」
ユリウスは答えた。
「あなたは……誰ですか?」
> 「私は“風律の守り手”。
> 沈黙を超えた者よ、何を求めに来た?」
「記録を、自由にしたい。」
> 「自由とは、形を持たぬもの。
> 記録すれば、囚われる。
> お前は、その矛盾を抱えられるか?」
ユリウスはしばらく黙っていた。
塔で、祈りを“放った”ときのことを思い出す。
あの瞬間、世界は一度沈黙し、そして再び歌い出した。
「抱えるよ。
沈黙も、祈りも、風も――全部記録する。
でも、それを開かれた記録にしたいんだ。」
風が揺れた。
まるで笑ったかのように。
> 「ならば進め。
> お前の声が、最後の鍵となる。」
神殿は山肌に埋もれていた。
岩と風の交わる場所に、白い石造りの回廊が覗いている。
柱には古代の文字が刻まれ、
その一つひとつが風を受けて淡く光っていた。
中へ入ると、空気の重さが変わる。
音が吸い込まれるような静寂。
まるで“世界が息を止めている”ようだった。
祭壇の中央には、古びた鏡のような装置があった。
それは“風律の鏡”――
言葉の波を光として反射する、神々の残した記録機。
ユリウスは黎明の書をその前に置いた。
ページが震え、光の文字が浮かび上がる。
> 「……やっと来たのね。」
その声に、彼は顔を上げた。
リーヴァがいた。
彼女は以前よりも淡く、
まるで風そのもののような存在になっていた。
しかしその瞳には、確かに“人”としての光が宿っている。
「リーヴァ……あなたは、まだここに?」
「ここは、記録の終わりと始まりの間。
私は“沈黙の種”として残された存在。」
「沈黙の種……」
リーヴァは頷く。
「かつて私は、“神々の声”を封じた。
それは人々を守るためだった。
でも、それは同時に“祈りを閉じる”ことでもあった。」
ユリウスは静かに聞いていた。
彼女の声には、悲しみと安らぎが混ざっている。
「あなたはそれを、解き放った。
だから今、世界はもう一度“風”として語り始めた。
けれど、まだ一つだけ欠けている。」
「……何が?」
「記録者の祈り。」
リーヴァは風律の鏡に手をかざした。
すると、鏡の表面に映像が広がった。
それは、かつての塔――メモリア・スパイア。
崩壊前の記録庁の光景だった。
人々が同じ祈りを唱え、同じ方向に跪いている。
「この世界は、祈りを“共有する”ことで統一された。
でも、共有は時に“支配”を生む。
だから沈黙が必要だった。
けれど、あなたがもたらした“風”は違う。
それは一人ひとりの祈りを響かせる。」
リーヴァは微笑んだ。
「けれどそのためには、“記録”が開かれなければならない。
言葉が流れるように、記録もまた流れるべきなの。」
「……それが、“記録を解放する”ってこと?」
「ええ。
固定された書ではなく、“風そのもの”として残すの。
つまり――あなたが“書”になるのよ。」
ユリウスは息を呑んだ。
「僕が……?」
「あなたの身体も心も、祈りの記録媒体になる。
あなたが感じ、聞き、見た全てが、
“風律”として世界に記録されるの。」
「そんなことをしたら、僕という存在が……」
「消えるわ。
でも、風になる。
あなたの言葉は、どこまでも流れ続ける。」
沈黙が落ちた。
神殿の中で、風がほんの少し震えた。
ユリウスは黎明の書を見つめた。
白紙のページが、まるで彼を映す鏡のように輝いている。
「……それが、あなたの願い?」
リーヴァは静かに首を振った。
「違う。
それは、この世界があなたに求めている祈り。」
ユリウスは目を閉じた。
ノアの笑顔、塔の崩壊、風の巡礼者たち――
すべてが頭の中で交錯した。
「なら、受け入れるよ。
僕は“記録者”として、風になる。」
リーヴァがそっと彼の頬に触れた。
風がその指先から流れ込み、光が身体を包んでいく。
「あなたの中にある“沈黙”が、世界の声になる。
その時、真の黎明が訪れる。」
ユリウスは目を開けた。
「リーヴァ、あなたは?」
「私はもう十分。
私の祈りは、あなたの中で続いていく。」
光が強くなり、
リーヴァの姿が風に溶けていく。
> 「ありがとう、ユリウス。
> あなたが“沈黙の継承者”として、
> この世界を見守ってくれることを。」
次の瞬間、神殿全体が震えた。
石壁に刻まれた古文字が一斉に光り出し、
空気が震える。
風律の鏡が砕け、
そこから無数の光の帯が放たれた。
それは、リーヴァの声、人々の記憶、そして祈りの断片。
ユリウスの身体が宙に浮かび、
ページが一枚ずつ剥がれるように光へと変わっていく。
「……これが、記録の解放。」
風が彼の名を呼んだ。
ノアの声、リュカの声、無数の民の声――。
全ての声が一つの旋律となり、神殿を満たす。
ユリウスはその中で微笑んだ。
「ありがとう、みんな。
僕は、もう一度“言葉”として生きるよ。」
そして彼は、風になった。
神殿の外。
ノアが、丘の上で風鈴を鳴らしていた。
風が彼女の髪を揺らし、
空の向こうから、柔らかな声が届いた。
> 「ノア。」
「ユリウス……?」
> 「風を聞いて。
> それが、僕の記録だ。」
ノアは涙をこぼしながら微笑んだ。
「うん。ずっと聞いてる。
あなたの声は、どこにでもあるから。」
風が吹く。
それはまるで、世界全体が息をしているようだった。
黎明樹の葉が揺れ、光が滴る。
その一滴が地に落ち、芽を出した。
——新しい風の種。
その夜、ノアは焚き火のそばで一冊の本を開いた。
白紙の書。
だが、ページをめくるたびに、
風が言葉を描いていく。
> 「風律第零章――沈黙の果てに祈りあり。」
ノアはペンを取り、静かに一行を書き加えた。
> 「ユリウス・エルン、記録者として風に帰す。」
ページの端に、淡い光が灯る。
それは、彼がまだこの世界に“記録されている”証。
空には、満天の星。
だがその星々は、もう単なる光ではなかった。
ひとつひとつが、誰かの祈りであり、言葉であり、風だった。
ノアは空を見上げて呟いた。
「この世界は、風でできてる。
風は言葉、言葉は祈り。
そして祈りは……生きること。」
遠くで風が応えた。
> 「その通りだよ、ノア。」
彼女は笑った。
黎明の夜明けが近づいている。
――風律神殿は崩れたが、その記録は世界に満ちた。
そして、風の中で誰かが語り続けている。
「言葉は終わらない。
祈りがある限り、世界は語り続ける。」




