風の中の綴り手たち
第五章 黎明の書
一 風の中の綴り手たち
百年の時が過ぎた。
沈黙の丘は、今も変わらずそこにあった。
けれど、あの頃と違っていたのは——
祈りがもう「声」ではなく「風」になっていたことだ。
風が吹くたび、丘の上の樹が低く唸る。
その音を、人々は「世界の記録」と呼ぶ。
そして、そこに耳を傾ける者たちを——
綴り手と呼んでいた。
少年の名は、ユリウス・エルン。
沈黙の丘の麓に生まれた孤児で、
幼い頃から風の音に異常なほど敏感だった。
誰もが聞こえないという「囁き」が、
彼にはいつも聞こえていた。
> ――記せ。
> 祈りの果てを、言葉にせよ。
それはまるで、夢の中で神が命じるような声。
けれどこの世界には、もう神はいないはずだった。
神殿も崩れ、聖典も灰に帰し、
「信仰」という言葉は、人々の語彙から消えて久しい。
代わりに人々が信じたのは“記録”だった。
誰もが日々の出来事を綴り、
それを記憶庁が収集している。
国家は祈りではなく“情報”によって支配され、
人々はそれを「合理の時代」と呼んだ。
だがユリウスは知っていた。
その合理の底には、
まだ“沈黙”が眠っていることを。
彼が初めて丘を登ったのは、十三歳の春だった。
薄曇りの空の下、風が巻き上がり、
枝の隙間から白い花びらが舞い散っていた。
花は、リーヴァが残したという沈黙の花。
百年前の記録に、こう記されている。
> 「この花は、言葉の代わりに世界を記す。」
ユリウスは手を伸ばし、
花弁に触れた瞬間、眩い光が脳裏を貫いた。
——記憶。
見たことのない光景が流れ込む。
古代の神殿、崩れ落ちる祈りの都、
そして“沈黙の継承者”と呼ばれた女の姿。
リーヴァ。
彼女の声が、確かに聞こえた。
> 「祈りは終わらない。
> それは言葉が続く限り、世界とともに生きる。」
ユリウスは息を呑み、花から手を離した。
汗ばむ指先が震えている。
風は止まり、丘の上に静寂が訪れた。
だがその沈黙は、恐怖ではなかった。
むしろ、胸の奥に温かいものが灯るようだった。
「……これが、祈り?」
その呟きは、誰にも届かない。
けれど、丘の樹が一度だけ低く鳴った。
数日後。
ユリウスは王都メモリアに向かう馬車の中にいた。
彼の目的はただ一つ——
沈黙の丘で見た“映像”を、記録庁に届けること。
記憶庁は「言葉の保存」を司る唯一の機関だった。
人の夢、思想、感情までも“記録媒体”として登録し、
国家の「集合意識」として管理している。
しかし、ユリウスが持ち込もうとしているのは
そのいずれにも分類されないもの——
“沈黙そのものの記憶”だった。
庁舎に着くと、すぐに長官室に通された。
重厚な机の向こうで、白衣の男がユリウスを見つめる。
「君が、風を聞く子か。」
「はい。丘で見たことを、記録にしてほしいんです。」
男は眉をひそめた。
「君の言う“祈りの映像”は、科学的に説明できる現象ではない。
私たちは宗教的な夢想を記録する機関ではないのだよ。」
ユリウスは拳を握った。
「でも、それは現実にありました!
リーヴァという女性の記憶です!
あなたたちの書庫にだって、彼女の名があるはずです!」
「……リーヴァ?」
長官の表情が一瞬揺れた。
「その名を、どこで聞いた?」
「沈黙の丘で。
花が、彼女の言葉を見せたんです。」
男はしばらく沈黙し、
机の引き出しから一枚の古びた羊皮紙を取り出した。
> “リーヴァ・アストル。
> 沈黙の継承者。
> 祈りの終焉を記した最後の書記。”
「百年前、この都市が“祈りの時代”から脱したとき、
我々の先代は、リーヴァの記録を封印した。
“祈り”という言葉が再び人を縛るのを恐れたからだ。」
ユリウスは静かに言った。
「でも、祈りは人を縛るためのものじゃない。
リーヴァはそう言っていました。」
男は目を細めた。
「……君は、リーヴァの記録を“聞いた”のか?」
「はい。風が語ってくれました。」
長官は立ち上がり、窓の外の風を見た。
その顔には、かすかな畏れが浮かんでいた。
「ならば、彼女の言葉が再び世界に流れ出しているのかもしれない。」
その夜、ユリウスは記録庁の書庫に案内された。
数千年分の文字が封じられた部屋。
空気は重く、まるで生きているようにうねっている。
長官は一冊の書を取り出した。
黒革の表紙。刻印は消えかけている。
> 《The Book of Dawn》
> ――黎明の書。
「これは、リーヴァが最後に残した書。
だが誰も読むことができない。
文字が“音”を持たないからだ。」
ユリウスは震える手でそれを受け取った。
ページを開くと、風が吹いた。
書庫の灯が一斉に揺らぎ、
古い文字が光り始める。
——聞こえる。
リーヴァの声。
> 「もしこの書を読む者が現れるなら、
> その者こそ、沈黙の果てに立つ継承者。」
長官が驚愕の声を上げる。
「馬鹿な……書が、話している!」
だがユリウスには、それが自然に感じられた。
彼はゆっくりと読み上げた。
> 「世界は沈黙の果てで再び言葉を見つける。
> それは神の声ではなく、人の記憶から生まれる。
> その言葉が“黎明”を呼ぶ。」
光が彼の身体を包む。
書庫中の記録が震え、ページが舞う。
壁に刻まれた古い祈りが音を取り戻す。
> ――ルクス・メモリア。光は記憶の中に。
長官は跪き、呟いた。
「君は……新しい綴り手だ。」
翌朝。
王都の空が、再び光り始めた。
だがそれは神々の光ではない。
風に乗って流れる、言葉の光。
人々が互いに語り合い、
忘れていた思い出を口にするたび、
世界の空気が柔らかく変わっていった。
「ねぇ、覚えてる? あの丘の花の香りを。」
「風の音、まるで誰かが歌ってるみたい。」
そう、歌だ。
祈りが再び、歌になったのだ。
ユリウスは丘の上に立っていた。
夜明けの空は薄い橙色。
足元には沈黙の花が咲き、
その花弁が風に乗って舞っていく。
彼は小さく呟いた。
「リーヴァ、聞こえますか。
あなたの祈りは、まだここにあります。」
すると、風が優しく頬を撫でた。
耳元で、懐かしい声が囁く。
> 「祈りは続く。
> でも、今度はあなたたちの言葉で。」
ユリウスは笑った。
それは涙に似た笑みだった。
「ええ、僕たちは記します。
沈黙の終わりを——新しい言葉で。」
太陽が昇る。
光が丘を満たし、風が歌う。
世界は、再び語り始めた。
――そして黎明の書は開かれた。
それは“神々の再生”ではなく、
“人の祈り”が言葉として目覚める物語の始まりだった。




