沈黙の継承者たち
五 沈黙の継承者たち
夜の空が、白く燃えていた。
星々は消え、空気は静寂のように重い。
まるでこの世界全体が、呼吸を止めているかのようだった。
リーヴァは丘の上に立っていた。
崩れた白光会の神殿跡。
そこから見える王都は、薄い霧の中でゆっくりと滅びていくようだった。
――祈りが、世界を蝕んでいる。
その実感は、胸の奥深くにまで沁みていた。
人々は光を求め、沈黙の子らを崇め、
やがてその光の中で“自分自身”を失っていった。
「……また、同じ道を辿るのね。」
リーヴァの声は風に溶ける。
その声を聞く者は、もう誰もいなかった。
沈黙の子らは姿を消した。
白光会の崩壊後、彼らは各地から一斉に姿を消し、
代わりに残されたのは、光の欠片だった。
それを拾った者たちは、口々に言った。
「これは神の涙だ」と。
だがリーヴァには分かっていた。
あれは涙ではない。
“記録の断片”――神々の最期の祈りそのものだ。
そしてそれが今、人々の心を侵食している。
夢に現れ、囁き、誘う。
> 「祈れ。
> 言葉を失え。
> 沈黙に帰れ。」
人々は次々に沈黙に堕ち、
表情を消し、ただ空を仰ぐだけの“生ける祈祷者”となっていった。
リーヴァはその異変の中心へ向かった。
王都の地下、かつて神々が封じられた光の書架――アーカイブ・ヘヴン。
そこから微かに光が漏れていた。
「……やはり、ここね。」
階段を降りるたびに、空気が冷たくなる。
石の壁には、無数の祈りの文様が刻まれていた。
それは人の手によるものではない。
沈黙の子らが去った夜、自然と浮かび上がった文字。
> ――祈りは沈黙を生み、沈黙は祈りを記す。
リーヴァは指で触れ、その意味を読み取った。
まるで自分の記憶を辿るように。
彼女は知っていた。
ここは“記録”の墓であり、“再生”の胎でもあることを。
最深部にたどり着いた時、光が揺れた。
そこに、ひとりの少女が立っていた。
年の頃は十歳ほど。
金の瞳に、夜明けのような光を宿している。
リーヴァがかつて救おうとした“最初の沈黙の子”。
「……あなた、ここにいたのね。」
少女は微笑んだ。
「リーヴァ。」
その声を聞いた瞬間、
リーヴァの中の記憶が一気に開いた。
過去の神々の声。
沈黙の書庫。
イリスの微笑み。
滅びを選んだ神々の祈り。
すべてが渦を巻いて、
彼女の心を包んだ。
「あなたは……誰?」
「わたしは、“あなた”。」
少女は胸に手を当て、ゆっくりと言った。
「あなたの祈りが形になったの。
沈黙を愛し、声なき者を救おうとした願い。
それが、わたしたち――沈黙の子ら。」
リーヴァは息を呑む。
「じゃあ……あなたたちは神々じゃない。」
「ええ。
神々が残した“祈りの残響”を、
あなたの魂が呼び戻したの。」
少女の瞳がやさしく光る。
「でも、人々はそれを“神”と呼んだ。
だから、世界はまた祈りを支配に変えた。」
リーヴァは目を伏せた。
「……私の罪ね。」
「罪じゃない。」
少女は首を振った。
「祈りは罪にも祝福にもなる。
それを選ぶのは、あなたたち人間。」
光の中で、壁に刻まれた文様が動き出した。
無数の記録が浮かび、空中を漂う。
リーヴァはその中心に立ち、
祈るように目を閉じた。
> 「どうすれば、祈りは再び“言葉”を取り戻すの?」
少女は答えた。
「あなたが、沈黙を終わらせること。
“沈黙の継承者”として、
祈りに最後の名前を与えるの。」
「名前……?」
「ええ。
わたしたちはずっと、名を持たなかった。
それが“沈黙”の意味だったから。
でもあなたが名を与えれば、
この連鎖は終わる。」
リーヴァはゆっくり頷いた。
胸の中に、小さな光が灯る。
それは、かつてイリスから託された“沈黙の花”の種。
「……なら、私はこう名づけるわ。」
リーヴァは光の中で手を掲げた。
その声は震えていたが、確かだった。
「“祈り”。
沈黙の名は――祈り。
それは誰かに捧げるものじゃない。
世界そのものが、自分を見つめるための言葉。」
瞬間、世界が音を立てて動いた。
光が弾け、空気が震える。
少女の身体が透けていく。
「ありがとう、リーヴァ。
これで、わたしたちは自由になれる。」
「行くの?」
「ええ。
でも、祈りは消えない。
沈黙の花が咲くたびに、
あなたの言葉が世界に流れる。」
少女は微笑み、光の粒となって消えた。
その光がリーヴァの胸に吸い込まれる。
静寂。
光の書架が完全に閉じ、
空に新しい頁が生まれた。
リーヴァは崩れ落ちるように膝をつき、
その頁を見上げた。
> “祈りは声を持たずとも、生きている。”
涙が頬を伝った。
彼女はその涙を指先ですくい、地に落とす。
その瞬間、床から一輪の花が咲いた。
白く、静かで、あの日の“沈黙の花”と同じ姿。
数年後。
王都アストリアには、新しい祈りの場所ができた。
神殿でもなく、書架でもない。
名もない丘の上に、ただ一本の木が立っている。
その根元には、石碑がある。
> “ここに祈りの名を記す。”
そこへ訪れる者は、
言葉を捧げるのではなく、静かに“耳を澄ます”。
風の音、木のざわめき、鳥の声。
そのすべてが祈りの代わりだった。
人々はそれを「沈黙の丘」と呼んだ。
その丘には、いつも一輪の花が咲いている。
誰が植えたのかは、誰も知らない。
だが、夜になるとその花は淡く光り、
まるで世界全体が呼吸しているように見えた。
そして、その丘の上。
リーヴァは老いた身体で筆を取っていた。
彼女の周囲には、かつての弟子たち――
ニナをはじめ、沈黙読師となった若者たちが集っている。
「先生、何を書いているんですか?」
リーヴァは微笑んで言った。
「“終わりの記録”よ。」
「終わり?」
「いいえ、“始まり”かもしれないわね。」
筆先が震えながら、最後の一文を刻む。
> 『沈黙は、祈りの母である。
> そして祈りは、沈黙の子である。
> その循環の中で、世界は生まれ続ける。』
風が吹き、花が揺れる。
その光が、彼女の頬を照らした。
リーヴァは静かに目を閉じ、
そのまま微笑んだ。
世界は沈黙していた。
だが、その沈黙の奥には――
確かな生命のざわめきがあった。
――そして、“沈黙の継承者たち”は、
言葉なき祈りとして永遠に世界をめぐる。




