神々の饗宴
二 神々の饗宴
――静寂。
それは音が止んだのではなく、音そのものが初めから存在しなかったような静けさだった。
耳を澄ませても、風のない庭の中では、自分の心音だけが現実だと告げている。
鏡の神に導かれたその場所――神々の庭は、夜空に似た“裏側”の世界だった。
黒い大地に白い花が咲き、花弁は光を放つ。けれど光源はない。
まるで、闇が自分自身を照らしているようだった。
足元に触れるたび、土の代わりに文字がざらりと動いた。
小さな文節。祈りの断片。
──「どうか幸福を」「彼を助けて」「もう一度だけ」──
読もうとすると文字は形を変え、すぐに砂のように崩れる。
それは、祈りが届かなかった証のようにも思えた。
リヴィアは赤いドレスの裾を持ち上げて歩いた。
音が吸われる世界では、自分の呼吸すら他人のもののように感じる。
遠くに光の輪が見えた。
まるで夜空の中に浮かぶテーブル――いや、それは円形の宴会場だった。
十二の椅子があり、その中央には、白く燃える大皿が置かれている。
皿の中には炎ではなく、流れる水が揺れていた。
その水面に、人々の顔が映る。誰もいないのに、無数の表情が浮かんでは消えた。
「ようこそ、神々の饗宴へ」
声は、あの鏡の神のものだった。
月光のような姿の彼女が、円卓の一つに腰かけている。
だが、その背後には他の十一の影があった。
霧のように不定形で、それぞれが人の形を保っていない。
炎、獣、天使、金属、石、言葉、時間。
十二柱の神々――この世界の根を支える存在たち。
リヴィアは立ち尽くした。目の前に広がる光景は、荘厳というよりも滑稽ですらある。
彼らはまるで、退屈な舞踏会に集まった貴族たちのように、互いに興味を失っている。
「お前が“脚本を乱した娘”か」
金属のような響きの声が、どこからともなく響いた。
それを発したのは、“理性の神”と呼ばれる存在だと鏡の神が告げる。
形を持たない銀の仮面が宙に浮かび、声だけが残る。
「八度目の断罪を逸脱し、虚構を知覚した……珍しい玩具だ」
「玩具、ですって?」
リヴィアの唇が震える。
その呼び方に、かすかな怒りが生まれた。
「違うのですか?」
鏡の神が柔らかく微笑む。
その微笑みは慈悲にも見え、残酷にも見えた。
「あなたは“物語の装飾”だった。
けれど、装飾が自分を装飾と自覚した瞬間、神々は少し困るのです。」
「わたくしを困らせるのがお好きなように、ですわね」
「ええ、たまには人間も退屈を癒やしてくれます」
神々の笑い声が響く。
それは風鈴の音のように澄んでいるのに、なぜか耳の奥を痛めた。
リヴィアは歯を食いしばる。
恐怖ではない。屈辱に近い。
この世界で誰よりも完璧であれと育てられた彼女が、神々の戯れの的になるなど――。
やがて、円卓の向こうで炎が揺れた。
炎から、女性の姿が立ち上がる。
燃えながらも焦げない衣を纏い、髪は紅蓮。
彼女が“欲望の神”アリューネだった。
金色の瞳がリヴィアを射抜く。
「美しいわね、娘。八度も死ぬのに、まだその目を濁らせていない」
「美しくあることが、この世界の礼儀ですもの」
「礼儀? 違うわ。それは信仰よ。美は、神々が与えた最初の牢獄」
リヴィアは言葉を失った。
牢獄。
アリューネは炎の腕を伸ばし、リヴィアの頬に指先を滑らせる。
熱くはなかった。ただ、焼けるような記憶だけが流れ込んだ。
鏡の前に立つ少女。化粧。微笑。完璧な所作。
――「美しくなければ、価値はない」――
かつて母が囁いた言葉が、遠くから聞こえる。
「その鎖を、まだ大切に抱いているのね」
「……違います。わたくしは、美しく“あろうとした”だけ」
「それが、牢獄だと気づいているなら、もう扉は開いているわ」
アリューネが微笑んだ瞬間、炎が弾け、赤い花弁が散った。
花弁は空中で燃え尽き、灰が円卓に降り注ぐ。
灰が触れた場所から、新しい模様が生まれた。
――それは、リヴィアの顔だった。
円卓の中央に、灰で描かれたリヴィアの横顔。
そこから淡い光が立ち上る。
「見なさい」
理性の神が冷たく告げる。
「それが、お前という“概念”の形だ。欲望、虚栄、愛、罪。
神々はそれを数値化し、配置し、鑑賞する」
「つまり、わたくしはあなた方の絵画ということ?」
「概ね正しい」
リヴィアは静かに目を細めた。
怒りはもうない。代わりに、乾いた笑いが込み上げた。
「……なるほど。ならば、あなた方は芸術家なのですね」
「違う」
今度は低い声。
闇の中から黒い霧が滲み出て、一つの影が形を取る。
それは“虚無の神”ネファス。
無限の瞳を持つ男。
声は深く、底なしの井戸のように響いた。
「我らは芸術家ではない。我らこそが作品だ」
神々が一斉に沈黙する。
鏡の神がわずかに眉をひそめ、フェルス――観測者が口を開いた。
「ネファス、それを言ってしまっては――」
「構わぬ」
虚無の神が笑った。
「我らもまた、誰かの庭に植えられた花。お前のように、な。」
リヴィアは息を呑んだ。
鏡の神が静かに目を閉じる。
炎の神が消え、風の神が頬を撫で、時の神が砂を落とす。
世界そのものが、一瞬揺らいだ。
「……つまり、あなた方も脚本の中にいると?」
「理解が早い。だから興味深い」
ネファスは無数の瞳で笑う。
「お前は八度目でようやくこちらを見た。
神々は気づいてしまったのだ。人間が脚本を破った時、物語はどこへ行くのかと。」
リヴィアの心臓が速く打つ。
恐怖ではない。
それは――自由の予感だった。
「では、わたくしが脚本を壊したのなら、あなた方は……?」
「お前を観測する」
フェルスが答える。
「観測とは、支配でも拒絶でもない。記録だ。
リヴィア・ヴァーミリオン。お前が“書く者”となるならば、
お前の物語を、我々は読み上げる。」
「わたくしが……書く?」
「お前自身の罪を、お前の言葉で」
鏡の神が立ち上がる。
長い髪が夜風に揺れ、ドレスの裾が白い光を帯びる。
その手には、羽根ペン。前夜にリヴィアが受け取ったものと同じ。
彼女はそれをリヴィアの前に差し出した。
「この饗宴は、あなたを裁くためではなく、あなたに試練を与えるためのものです。
――書きなさい。あなたの“罪”を。
それを終えた時、神々はあなたに名を与えるでしょう」
「名……?」
「はい。あなた自身の“本当の名”。
この世界で誰にも呼ばれたことのない、あなたの最初の言葉。」
リヴィアはペンを見つめた。
黒い羽根の先に光が宿り、心臓の鼓動に合わせて脈打つ。
罪。彼女は思う。
何が罪なのか。
殿下を愛したこと? 聖女を憎んだこと? この世界を疑ったこと?
それとも、美しく生きようとしたこと?
――どれも、罪だと言われた。けれど、どれも私の“生”だった。
「……もし書いたら、世界はどうなりますの?」
「変わるかもしれないし、壊れるかもしれない」
フェルスが肩をすくめる。
「だが、書かない限り、何も始まらない」
「あなたは、わたくしに書いてほしいの?」
「観測者はいつだって、誰かが“言葉を紡ぐ瞬間”を見たいのだよ」
リヴィアは微笑んだ。
それは恐れを越えた微笑。
まるで、断罪の夜のあの時のように。
「……いいわ。書きます。わたくしの罪を。
けれど、それを読んで泣いても、知りませんよ?」
神々が微かにざわめく。
笑うもの。沈黙するもの。顔を覆うもの。
欲望の神アリューネが小さく手を打った。
「いいわね。では、宴の始まりよ」
円卓の上の水が光を帯び、波紋が広がる。
波紋の中に、人間たちの世界が映った。
王宮、舞踏会、聖女の涙、断罪の剣。
そのすべてが小さな映像となり、宙に浮かんで回り始めた。
「それがあなたの“舞台”です」
鏡の神が囁く。
「書き換えるなら、今。神々の目が閉じている間に」
「神々の目が……閉じている?」
「退屈なのです。
あなたのような人間が現れるまで、何千年も同じ芝居を見てきましたから」
リヴィアはペンを握った。
炎の神が笑い、風の神が息を吹きかける。
時間の神が砂時計を逆さにし、虚無の神が微笑む。
世界が、再び書き始められる。
彼女は息を整え、一文字目を書いた。
羽根の先から、淡い光が零れる。
──「わたくしは罪を犯しました」──
その瞬間、空が震えた。
星々が割れ、祈りの文字が土から舞い上がる。
神々の視線が一点に集まる。
鏡の神が目を細める。
フェルスが微かに笑う。
そして、庭の奥から聞こえてくるのは、誰かの拍手。
リヴィアは顔を上げた。
遠くに、人の姿がある。
光の幕の向こう――あれは、殿下?
いや、違う。
彼はレオンではない。もっと古く、もっと深い何か。
神々よりも古い存在。創造そのもの。
その男が、静かに微笑んだ。
「書き続けなさい、リヴィア・ヴァーミリオン。
あなたの物語を読むのは、我々ではない。
――あなた自身だ。」
言葉が消えると同時に、饗宴の光景がほどけた。
神々の椅子がひとつずつ光に変わり、空へ消えていく。
最後に残ったのは、鏡の神とフェルス、そしてリヴィアだけ。
「……あれが“創造神”ですの?」
「あるいは、“読者”とも呼べますね」
鏡の神が微笑む。
「神々にすら正体がわからない存在。
けれど彼が“読む”瞬間だけ、世界は存在する。」
「読む者……物語を読む神、ですのね」
「はい。そしてあなたは、今、初めて“書く側”に立った」
リヴィアは手元の本を見つめた。
最初のページには、確かに自分の筆跡があった。
震えながらも、美しい曲線で綴られた文字。
“わたくしは罪を犯しました。”
その下に、金色の光が浮かび上がる。
――「リヴィア」という名の奥に、もうひとつの名。
“リーヴァ”。神々の古語で、“目覚め”を意味する言葉。
「……これが、わたくしの真名?」
「ええ。あなたが書き、あなたが得た名です」
風が吹く。
白い花が散り、夜空が朝焼けに変わっていく。
神々の庭に、初めて“時間”が流れた。
フェルスが小さく笑い、背を向けた。
「おめでとう、リヴィア。試練はまだ続く。
次に会う時、君は“神々の敵”になっているかもしれない」
「望むところですわ」
リヴィアは赤い本を抱きしめた。
燃えるような空の下で、彼女は確かに微笑んだ。
その笑みはもう、“脚本通り”ではない。
――それは、生きている者の笑みだった。




