沈黙より降る光
第三章 天上の断片
一 沈黙より降る光
――風が止まった朝、空が砕けた。
最初にそれに気づいたのは、村の少年だった。
羊を追って丘を登っていた彼は、光の裂け目を見た。
空の中心が、まるでガラスのように割れ、
そこから静かに、何かの欠片が落ちてきていた。
光でも、火でもない。
それは“文字”だった。
無数の言葉が空から降り注ぐ。
風に乗り、ゆらゆらと揺れながら地上へ舞い降りる。
それらは古い言語であり、誰にも読めなかったが、
なぜか人々の心の奥を震わせた。
――それは、沈黙の木が発した最初の言葉だった。
◆
“沈黙の木”は、いまや王国全土の象徴になっていた。
その光は昼も夜も絶えることなく、
訪れる者の心を静かに照らす。
だが、誰も知らなかった。
その根は、すでに地上の言葉を吸い上げていたことを。
人々の祈り、夢、恐れ、嘘、そして名前。
世界中の“声”が、少しずつ一本の幹へと流れ込んでいた。
そしてある朝、樹の頂に裂け目が生まれた。
それは空を貫くほどに伸び、やがて天を穿った。
空が割れたのは、そのときだった。
――沈黙の終焉。
木の下に立っていた青年がいた。
名はセイレン。
光樹の守り人として育てられた少年であり、
リーヴァの遺した唯一の弟子でもあった。
リーヴァが姿を消す前、彼に言い残した言葉があった。
> 「沈黙の木が歌い出したとき、世界は二度目の誕生を迎える。
> けれど、気をつけなさい。
> その歌は誰かを救い、同時に誰かを壊す。」
セイレンはそれを何度も夢で聞いていた。
だが、今、彼はその“歌”の始まりを聞いた。
耳ではなく、心臓で。
――世界が呼吸を始める音。
それは、神々の声にも似ていた。
◆
その夜、村の人々が集まった。
空から降る文字の欠片を拾い集めていたのだ。
それらは土に触れると光を発し、やがて“形”を取る。
誰かが驚いて叫んだ。
「人の顔だ!」
確かに、欠片が集まると“輪郭”が生まれた。
けれどそれは人間ではなかった。
目の位置に空白があり、口は閉じたまま。
声を持たない者――沈黙の民。
セイレンは彼らの中心に立ち、静かに言った。
「恐れるな。
彼らは私たちの言葉が形になっただけだ。」
村人たちは震えていた。
「じゃあ……これは、神々の再来なのか?」
「違う。
神ではない。
これは――人間の記憶が造った幻だ。」
セイレンの言葉に、誰も何も言えなかった。
沈黙の民たちは、ゆっくりと立ち上がった。
その動きはまるで夢の中のようだった。
彼らは一歩ずつ丘を登り、沈黙の木の根元に座った。
まるで帰る場所を知っているかのように。
光が強くなる。
空の裂け目が広がり、そこからまた欠片が降る。
今度は、音だった。
鐘のような響き。
幼い笑い声。
悲しみの嗚咽。
忘れ去られた神々の祈り。
世界中の“声”が、木の上から降ってくる。
セイレンはその中に、懐かしい声を聞いた。
> 「セイレン……」
胸が跳ねる。
それは、リーヴァの声だった。
「リーヴァ……どこにいる?」
返事はなかった。
ただ、風が彼の頬を撫で、
沈黙の木がわずかに震えた。
葉の隙間から、光の粒が降りてくる。
その一つが、セイレンの掌に落ちた。
淡い金色。
指先に温かさが宿る。
> 「言葉は、沈黙を経て天へ帰る。
> そして再び、地へ降る。」
――それが、リーヴァの最後の声だった。
◆
数日後、王都でも異変が報告された。
天上からの欠片が都の上にも降り、
多くの者が“言葉を失う”という奇病に倒れた。
最初はただ声が出なくなるだけだった。
だが、やがて人々は記憶を失い、
名前を呼ばれても振り向かなくなった。
学者たちはそれを「沈黙病」と呼び、
信仰者たちは「天の試練」と呼んだ。
そして、その中心には――沈黙の木があった。
セイレンは責任を問われ、王都に呼び出された。
彼はただ一言だけ答えた。
「これは呪いではありません。
再生の代償です。」
王は怒った。
「沈黙の木は、神の贈り物ではなかったのか!」
セイレンは静かに答えた。
「贈り物は、使い方次第で毒にも薬にもなります。
人は言葉を欲しがりすぎた。
だから、世界は“沈黙”を取り戻しているのです。」
その言葉に、王は沈黙した。
◆
夜。
セイレンは再び丘へ戻った。
沈黙の木の周りには、あの“沈黙の民”たちが座っていた。
彼らの数は日に日に増えている。
誰も声を発せず、ただ空を見上げている。
その姿は、まるで祈る神像のようだった。
「あなたたちは……私たちの言葉の亡霊なのですか?」
沈黙の民のひとりが、ゆっくりと首を傾げた。
その額から、一筋の光がこぼれた。
それが地面に落ちた瞬間、草が芽吹いた。
セイレンは息を呑んだ。
――沈黙そのものが、生命を生み出している。
リーヴァの言葉が蘇る。
> 「沈黙は、言葉が再び生まれる場所。」
セイレンは理解した。
世界は今、“天上”を模して再び循環を始めているのだ。
神々がいた天。
人々が祈る地。
そのふたつを繋ぐ“沈黙の樹”が、今や世界の中心となった。
◆
だが、その中心の深部――
木の根の奥から、何かが蠢いていた。
フェルスがかつて語った言葉が甦る。
> 「沈黙が長すぎると、世界は自ら言葉を生み出す。」
――そしてそれは、再び“神”を生む。
地の底で、微かな音がした。
鼓動ではない。
それは“呼吸”だった。
誰かが眠りから覚めようとしている。
セイレンは木の根に手を触れた。
温かい。
まるでそこに、心臓があるようだった。
> 「リーヴァ……これは、あなたが望んだ未来なのか?」
風が吹いた。
答えはなかった。
ただ、木の幹が柔らかく光った。
その光の中で、セイレンは確かに見た。
リーヴァの影が、幹の奥に浮かんでいるのを。
彼女は微笑んでいた。
けれど、その口は動かない。
沈黙の中で、リーヴァはただ、
“天上の断片”――世界の欠けたピースを抱いていた。
それが何を意味するのか、セイレンにはまだ分からなかった。
だが、その瞬間、空の裂け目から一筋の光が落ち、
彼の足元に新しい“文字”が生まれた。
それは、たった一言だった。
> 「帰還」
風が動いた。
沈黙が震えた。
そして、世界が――再び、呼吸を始めた。




