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悪役令嬢は神々の庭で運命を書き換える──八度目の断罪でわたくしは目を覚ました──  作者: Futahiro Tada


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華やかな死の前夜

第一章 薔薇と鏡の宮廷


一 華やかな死の前夜


 ──また、ここから。

 シャンデリアがこぼした光が、私の赤いドレスに星屑のように貼りついている。薔薇の香りと、蜜のように甘ったるい音楽。誰もが笑っている。誰もが私を見ないふりをして、まるで台本どおりに振る舞っている。そう、ここはいつだって“前夜祭”だ。断罪される前の、綺麗すぎる夜。

 私は、リヴィア・ヴァーミリオン。王都で一番派手な社交界の花、そして明日には最も美しく散る予定の、悪役令嬢である。

(何度目だろう。七回? 八回? ……もう数えるのはやめてしまった)

 ヴァイオリンの高音が人のざわめきを縫っていく。金糸の壁紙には小さな天使たちの浮き彫り。天使の頬はどれもふくよかで、優しい。私が死ぬというのに、天使は笑っている。いや、笑うように作られている。そう、ここは作り物だ。舞台装置。私の破滅を気持ちよく照らすための。

「リヴィア様、今宵もお美しいこと」

 いつも通りの褒め言葉が、いつも通りの口調で届く。私の取り巻きの一人、金茶の髪の伯爵令嬢──名前を……ああ、今回はミネルヴァ? 前回はリディアだった。配役表は毎回微妙に変わるけれど、台詞は滅多に変わらない。

「ありがとう。あなたの耳飾りも素敵ね。蜂蜜みたい」

「まあ」

 私が褒めると、彼女は胸に手を当てて微笑む。台詞通り、角度通り。それは美しい舞踏の一部。私も、美しい。鏡が言っている。大きな鏡の前を通りかかるたび、鏡の中のリヴィアが私を見返してくる。緋色の口紅、白い肌、瞳の奥の氷。完璧な悪役令嬢。拍手。

 けれど、知っている。二時間後、この鏡の前で私は逃げ場を失う。その少し前、楽団が曲を変える。曲名も知っている。『いばら噴く薔薇園の夢』。三小節目で王太子が立ち、四小節目で彼は私を指差す。

 脚本の匂いがする。紙の乾いた匂い。喉の奥が乾いて、私はワイングラスを傾けた。グラスの中で星が揺れる。ルビー色の小さな天体は、いつも通り、私の唇に触れると甘く苦い。

(さて、どうしようか)

 ここで暴れても、泣いても、黙ってうなだれても、結末は同じだと知っている。城に幽閉、爵位剥奪、時には命までも。ループの種類は三つか四つ。乱数はあるけれど、答えは収束する。

 だから今夜の私は、ただ観察することにした。最後の夜を、前夜祭を、ほんの少しでも私のものにするために。

「リヴィア」

 名を呼ばれて振り向くと、王太子レオンがいた。黄金の髪、空色の瞳、飾り羽根のついた肩章。誰もが憧れ、誰もが正義と呼ぶ人。台詞通りの笑み。

「踊ってくれるか」

「ええ、殿下。喜んで」

 手を取られる感触も、握り返す圧も、すべてが既視感。私の足は自然と一歩を踏み出す。旋回。裾がふわりと膨らみ、空気が変わる。目の前のレオンの睫毛の影が、床に落ちては消える。その時、彼は小さく囁いた。

「きみは変わったね、リヴィア」

 心臓が一拍、遅れた。

(台詞にない)

 私は笑った。唇だけで。

「わたくし、いつも変わりませんわ」

「いや。目が、違う」

 レオンは目を細める。詩人を気取った英雄の顔。きっとこの台詞は、彼自身のもの。とすれば、彼は本当に“私の目の変化”を見ている。ならば殿下、あなたは誰だろう。この世界の配役か、それとも──。

「殿下は、どうお見えになります?」

「冬の湖だ。凍っているのに、底が揺れる」

「詩的ですこと」

「皮肉だね。だが、嫌いじゃない」

 音楽が変わる。二小節目で彼の掌が私の背に熱を置く。三小節目で私は視線を逸らす。四小節目で笑う。覚えている。完璧な段取り。私はお手本の人形。けれど、いま、背を這う熱だけが“本物”で、少しだけ怖い。

(殿下。もしあなたが“台本の外側”にいるのなら、どうして私を助けないの?)

 問う代わりに、私はステップをひとつだけ崩した。レオンの眉がかすかに動く。けれど彼はすぐにリードを整え、何も起きなかったように踊り続けた。……世界は、やはり強い。舞台装置は、堅牢だ。

「失礼」

 曲が終わると、レオンは私の手の甲に唇を寄せた。礼儀正しい距離。礼儀正しい熱。

「きみの笑顔は、似合うよ」

「殿下こそ、正義の微笑みがよく似合っていらして」

 私は笑い、彼も笑った。観客は拍手した。台詞は完璧。演出も完璧。完璧な前夜。

 私は踊りの輪から離れ、回廊へ出る。夜気。薔薇園の暗がり。月が薄い皿のように空に浮かび、池の水面をかすかに震わせる。夜の匂い──土と、金属と、少しの雨の予感。私は扇子を畳んだ。息をひとつ吐いた時である。

『──あなたは、誰のために美しいの?』

 鏡の声、だった。振り向くと、回廊の突き当たりの壁に、縦長の鏡がある。いや、あっただろうか。私は何度もここを歩いたけれど、この鏡を覚えていない。鏡の縁には蔦。その葉は銀の糸で縫いとめられていて、月光を吸うように冷たい。

 鏡の中のリヴィアが、私を見ている。いつも通りの完璧な悪役令嬢。緋色の口紅、白い肌、瞳の氷。けれど、彼女の唇は、私より先に開いた。

『答えて、リヴィア・ヴァーミリオン。誰のために美しいの? 王太子のため? 観客のため? 神のため?』

(神、ね)

 私は鏡に近づいた。指先が冷える。ガラス越しの息が白くなり、私と彼女の境界が曇る。

「わたくしは……そう見えるように作られたから、美しいのですわ」

『作られた? 誰に』

「物語に」

 鏡の中の私が、わずかに笑った。私の口元は笑っていないのに。

『それが、本当にあなたの言葉?』

「……さあ。気に入らないのなら、もっと上手に書き直せばよろしいのに」

『あなたが書きなさい』

 鏡が、静かに揺れた。水面のように。遠くで楽団の曲が変わる。『いばら噴く薔薇園の夢』。三小節目──。

(来る)

 私は踵を返した。大広間へ戻る扉が、開く。光と音が溢れる。人々の視線が揃って、中央へ滑る。王太子レオンが立つ。空色の瞳。微笑。四小節目、彼は私を指差す。

「リヴィア・ヴァーミリオン」

 さあ、始まった。断罪劇。絵画のように整った舞台。観客の“正義の顔”。主人公令嬢アリアの震える睫毛。彼女は白いドレスで、純潔を着ている。彼女の台詞も、知っている。いや、覚えてしまった。

「あなたがしたことを、神は見ていました」

 神。そう、ここでは何でも神が見ている。都合のいい時だけ。拍手が起きるタイミングまで、神は見ている。

「リヴィア、これは正式な告知だ。きみはアリアを幾度も侮辱し、陰で学院の女生徒を傷つけ、王家にも──」

「殿下」

 私は一歩、前に出た。肋骨の内側に心臓の音。ゆっくりと扇子を開く。骨の擦れる小さな音が、やけに大きく響く。

「その告知は、何度目ですの?」

 ざわめき。予定外。楽団の弦がふっと震え、すぐに持ち直す。レオンの瞳が、微かに揺れる。アリアが私を見て、小さく首を振った。「そんなこと、言わないで」という顔。可愛い。脚本どおりの正しさ。憐れみの天使。

「きみは……何を言っている」

「これで七回目。いえ、八回目かもしれませんわ。数字は曖昧で困ります。わたくし、計算は得意ですのに」

 笑った。誰かが息を呑んだ。誰かが「狂っている」と囁いた。狂っているのは私か、この劇か。どちらでもいい。私は続ける。

「殿下。あなたは二小節目でわたくしの背に手を置き、三小節目で目を細め、四小節目でわたくしを指差しました。今夜の曲は『いばら噴く薔薇園の夢』。あの楽団はこの曲が好きですの。……違います?」

 レオンは答えなかった。答えられなかった、が正しいのだろう。楽団は演奏を続ける。曲は止まれない。曲は、曲であることをやめられない。

「ご安心を。わたくし、今夜は逃げませんわ」

 私は扇子を閉じ、裾を持ち上げ、床に触れるほど丁寧に一礼した。完璧な宮廷礼。そうでしょう? 悪役令嬢は、最後まで美しくあるべきですもの。

「罪状の朗読、どうぞ続けて」

 アリアが震えた声で私の名を呼ぼうとして、やめた。彼女の瞳の色は蜂蜜。そこに溺れる人は多い。救われた気持ちになるのだろう。彼女に赦されると、人は軽くなる。私は……重くなる。奇妙ね。

「……リヴィア」

 レオンが呼ぶ。呼び方が、いつもよりかすれている。台詞が喉に貼りついたように。

「殿下。あなたはヒーローでいらしてください。わたくしは……悪役令嬢を、やりますから」

 そう言った瞬間、私は自分の声が少しだけ震えたのを自覚した。怖くないわけがない。脚本から一歩でもズレれば、舞台装置は牙を剥く。

 と、その時だ。天井のシャンデリアが、ほんのわずかに揺れた。揺らしたのは風か、音か、それとも──鏡の声か。

『あなたは、誰のために美しいの?』

 もう一度、問われる。誰のため? 殿下のため。観客のため。神のため。世界のため。……私のため。どれも嘘でどれも本当。私の口が勝手に動く。

「わたくしは、わたくしのために美しいのです」

 ざわめきが、泡のように弾けて消えた。音楽が、一瞬、遅れ──すぐ戻る。世界は強い。けれど、その一瞬の遅れの隙間に、何かが落ちた。台本の綴じ糸が一本、ぷつりと切れたような音が、確かにした。

「ヴァーミリオン公爵令嬢リヴィアよ」

 高らかな声。宮廷法務官の朗々たる朗読。紙の音。乾いた匂い。私は目を閉じた。長い長い文言のひとつひとつが、今や子守歌になってしまった。眠たくなる。笑ってしまう。泣きたくもなる。

(でも、今夜は泣かない)

 目を開ける。視線を上げる。レオンの瞳。アリアの瞳。観客の無数の瞳。どれもこれも、神のレンズ。私の破滅を撮るための。

「──以上をもって、王家は貴殿の爵位剥奪と、領地没収を宣告する」

 拍手。機械仕掛けのように同期した、正義の音。私は一礼する。完璧な角度で。完璧な沈黙で。

 その時だった。大広間の奥の壁に、縦長の鏡が現れた。見覚えのある蔦の縁。銀の糸。月光の冷たさ。あり得ない。ここは屋内、夜気は届かないはずの場所。なのに、鏡は薄く波打ち、まるで湖のように呼吸していた。

 鏡の中の私が、私を見ている。彼女は扇子を持たない。代わりに、本を持っている。表紙は赤。タイトルは──読めない。けれど、わかる。あれは私の本だ。私がいつか書くはずの、まだない本。

『こちらへ』

 声が響く。誰にも聞こえない場所から、確かに届く。私は一歩、踏み出しかけた。足先が床の模様から半歩はみ出したところで、背後から誰かがささやいた。

「リヴィア、だめだ」

 低い声。冷たい、けれど懐かしい声。私は振り向く。そこに立っていたのは、黒髪の青年。夜の色の瞳。礼服は質素で、どこにも紋章はない。誰? 知らないはず。けれど、知っている気がする。

「誰……?」

「通りすがりの観測者だよ。あまり脚本を破ると、潰される」

 観測者。フェルス。そう口にしかけて、やめた。名前が、喉でほどけない。まだ早いのだろう。役の順番は守られる。

「わたくしは、ただ──」

「知ってる。きみは美しく死ぬ。何度でも。だが、たぶん今夜は少し違う」

 青年は目だけで鏡を指した。鏡の中の私が、無言で本を開く。紙の匂いがした。ページが音を立てずにめくれる。まるで風が読みたがっているみたいに。

『こちらへ。今なら、行ける』

 私は笑った。きっと、とても悪役令嬢らしく。蜜と毒を混ぜた笑み。

「殿下。王家の皆さま。ご機嫌よう」

 裾を翻す。人々が道を開ける。開けずにいられない。私は舞台の中央を横切り、鏡の前へ。足音が薄い水に沈む。鏡は夜の湖。手を伸ばす。冷たい。けれど、指先を拒まない。私は、入る。

 瞬間、楽団の音が途切れた。誰かが悲鳴を上げた。誰かが祈りを呟いた。レオンが名を呼んだ。アリアが「待って」と言った。観測者の青年は何も言わなかった。ただ、ほんの少し笑った気がした。

 水の中に落ちる。赤いドレスが花弁のように広がる。音が遠のく。光が千切れる。私は目を閉じない。閉じたら、またあの朝に戻ってしまう気がするから。

 どれほど沈んだだろう。時間の形が変わる。私の名前がほどけて、別の何かの名になりかけた時、底に足がついた。底は砂ではなく、石でもなく、鏡の裏側らしい滑らかさで、ほんの少し温かかった。

 私は立つ。水は腰のあたりまで。いや、水ではない。光の液体。そこから抜け出すと、夜風が頬を打つ。薔薇の匂いは消えて、代わりに鉄と墨の匂い。目の前には、庭。神々の庭。

 金色の鳥が、口の中に炎を入れて歌っている。木の幹には目があり、瞬きのたびに葉が落ちる。遠くでは、冠を被った鹿が泉の水面に自分の角を書き足している。空はひっくり返された杯の内側みたいに暗く、そこに小さな字がびっしりと書かれていた。誰かの祈り。誰かの台詞。誰かの独り言。

「ようこそ」

 声。振り向くと、鏡の縁に蔦を絡ませた女が立っていた。髪は銀。瞳は黒曜石。唇は微笑しているのに、影が笑っていない。

「あなたは」

「鏡の神。そう呼ばれる形を、今夜は選んだだけ」

 神。あまりにも静かに言われると、信じてしまいそうになる。私は扇子を持っていないことに気づく。代わりに、手の中には赤い本。表紙のない、まだ何も書かれていない、白い頁の束。

「お書きなさい、リヴィア」

 鏡の神は言った。羽根ペンを差し出す。羽根は黒く、先に光が溜まっている。

「あなたの断罪を、あなたの言葉で。あなたの美しさを、あなたのために」

 私は本を開く。真っ白。眩しい。頁の下から、うっすらと誰かの文字が透けている気がしたけれど、それはきっと私の目の癖。

「もし書いたら、戻れるの?」

「戻りたいの?」

 私は考える。戻れば、また前夜祭。断罪。拍手。終幕。幕間の闇。次の夜。無限再演。戻らなければ──何が起きる? 神々の庭で、私は悪役令嬢でいられるの? それともただの“私”になってしまうの?

 怖い。けれど、怖くない夜より、怖い夜のほうが、本物に近い気がする。

「書きます」

 羽根ペンを握る。指先に、熱が宿る。最初の一文字は、私の名前──ではなく、最初の嘘。悪役令嬢は嘘から始める。嘘は物語の骨。真実は、あとで肉付けすればいい。

 私は書いた。

 ──わたくしは、美しく死ぬことに飽きてしまいました。

 羽根ペンが走るたび、空の杯に書かれた小さな字が少しずつ剥がれ、星になって落ちる。神々の庭に、小さい星が降る。金色の鳥が黙り、冠の鹿が首を垂れ、木の目がいっせいに瞬きをやめる。

「よろしい」

 鏡の神がうなずく。観測者の青年がいつの間にか隣にいて、肩越しに頁を覗きこんだ。

「きみの字は、思ったより優しい」

「悪役令嬢ですもの。手紙はいつも綺麗に書きますわ」

「そうか」

 青年は笑い、庭の奥を顎で示した。そこには、もうひとつの扉。扉の上には、見覚えのない紋章。薔薇と、鏡と、羽根ペン。三つは絡まり、ほどけないふりをしている。

「行こう。試練は、ここからが本番だ」

「試練?」

「神々は退屈してる。きみは退屈を壊した。だから、彼らは歓び、そして試す」

「試されるのは、嫌いです」

「知ってる。だから面白い」

 私は本を抱えた。最初の頁には、最初の嘘。次の頁には、たぶん次の嘘。いつか、どこかで、真実が割り込むまで。

 振り返る。鏡は、もう薄い。向こう側の大広間では、きっとレオンが私の名を呼んでいる。アリアが祈っている。観客がざわめき、楽団が奏で直す。世界は強く、堅牢だ。けれど、糸は一本切れた。音がした。

(聞いたわよ、音)

 私は微笑む。私のための、美しさで。

「行きましょう。観測者さん」

「フェルスでいい」

「フ……ェルス」

 うまく言えた。名前は呪文。呪文は扉を開ける。扉の前に立つと、蔦の葉が一枚、私の肩に落ちた。冷たい。けれど、嫌いじゃない。

 私は扉に手をかけ──そして、振り返らなかった。

 神々の庭の風が、背中を押す。薔薇と鏡と羽根ペンの紋章が、かすかな音で笑った気がした。

 前夜祭は、終わった。いいえ、終わらせた。ここから先は、脚本の余白。余白は広く、白く、私の字を待っている。

 私は、書く。美しく、そして私のために。

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