1. 救済
私、山岡栞は、ふるさとに向かう1時間に1本しかない鈍行電車に揺られていた。1両編成の、いかにもローカル線らしい車内では、扇風機が回っていた。
高校を卒業して、1年半以上経つけど、こうして里帰りをするのは初めてだ。7歳の時に両親が離婚して、母親の実家に身を寄せる形で、片田舎に移り住んだ。あの時もこうして電車に揺られて、窓の外の田んぼを見つめていた。ゆっくり流れる車窓を眺めながら、今までの人生を振り返った。
母の実家は、祖母と兄夫婦が暮らしていた。親族たちは、出戻りの母を良く思っていなかった。母はそんな実家を嫌って、私を置いて、出歩く日が多かった。学校の友達も、従兄のお古ばかり着ている私と誰も仲良くしたがらなかった。中学ではいじめにもあった。物は毎日隠されるし、机にひどい落書きもされた。でも何とか意地で高校には進学した。高校生活も楽しくはなかった。ただ前よりも、人との距離の取り方が分かって、お昼休みは図書館で時間を潰した。高校卒業後は、一刻も早く自立したかった。だから東京に出た。東京の街は、ふるさとの町とは何もかも違って、よそ者も多く寛容に見えた。でも同時に鋭い刺激にあふれていた。怖い目にも何度かあった。
そして最悪なことに勤めた会社ではパワハラにあった。働けど働けど残業は増え、上司からも毎日怒鳴られた。
――もう限界だった。
気づいたら、退職代行に連絡していた。あっという間に退職届が出された。あとは何も考えず、電車に乗った。鞄には通販サイトで買ったロープを入れた。なんとなく、東京の街で死にたくはなかった。
――どうせ死ぬなら、その前に穂高くんに会いたいな。
穂高くんは、地元で唯一のお友達。とはいっても、同じ学校に通ったことはなくて、たまに近くの神社で会う不思議な子。
初めて会ったのは、越してきたばかりの頃だった。
『――そんな毎日祈っても、こんなところに神様は来ないぞ。』
そう話しかけられて、振り向くと、茶色っぽい髪の、少し目が細い少年が立っていた。年は同じくらいだろうか。
『でも、ここ神社でしょ?毎日お祈りしていると、願い事が叶うって、ママが言ってたよ。』
『人間が大事にしない神社に、神様は来ないよ。ほら、どこもかしこもボロボロだろ?』
なんてことを言うんだと思った。――でも確かに、この稲荷神社は、作りは豪奢なのに、町はずれにあるせいか、今は誰も見向きもしない。手入れも行き届かず、屋根の一部が朽ち落ちていた。
『昔はみんなが大切にしてくれてたんだけどな。お稲荷様はきれい好きだから、こういう寂れたところには、来てくれないんだよ。』
不思議な子だなと思った。どう見ても同い年くらいなのに。――なんかずっと昔からここを知っているような、年寄りみたいなことを言う。
『ふーん、そうなんだ。あなたはこの辺に住んでるの?学校は違うと思うけど。』
『うん。この神社は俺の庭みたいなもん。お前、名前は?』
『栞。あなたは?』
『穂高って呼んで。』
その後、穂高くんに、父親と母親が離婚したこと、それで母親の実家に越してきて、今は冷たくあしらわれていることを話した。両親に復縁してもらいたいから、また仲良くしてもらいたから、毎日お祈りしているってことも伝えた。穂高くんは少し申し訳なさそうにその話を聞いてくれた。
結局、私の願い事は叶わなかった。父が別の女性と再婚したと風の噂に聞いたのだ。神社で泣いていると、穂高くんが慰めてくれた。新しい学校になじめなくても、家で親族に冷たくされても、穂高くんだけは優しかった。いつも私の話を聞いて、一緒になって怒ったり、悲しんだりしてくれた。
でも、穂高くんは不思議な子だった。自分のことはほとんど話さないし、どこか浮世離れしていた。例えば、穂高くんは中学生になってもスマホを持っていなかった。私ですら、ママに買ってもらったのに。スマホで、流行っている漫画やYouTubeの動画を見せると、物珍しそうに見入っていた。
ある日、従兄に貸してもらったゲームボーイを持っていった時は、本当に興奮して、楽しそうに遊んでいた。そんな穂高くんをみて、どんな学校生活を送っているのか不思議でしょうがなかった。下手したら、クラスで私より浮いているんじゃないかと心配になった。
――ああ、穂高くんに、もう一度会いたいな。会ってお礼を言いたい。彼は私の唯一の友達であり、初恋の人だった。でもスマホを持たない彼には連絡すらできなかった。
電車が、次の小さな無人駅に停まる。あと二駅で着く。相変わらず何もないところだ。再び電車が走り出した。窓を開けると、秋風が髪を撫でた。やっと自由になれる。楽になれる。そんな気がして心が少し落ち着いた。
――狐坂、狐坂、お降りの方は、前方のドアをご利用ください。
ここで降りるのは私だけだった。とぼとぼと歩いて、自分が育った町を見て回った。小学校、中学校、よく買い食いをしたコンビニ、そして高校。この町を離れて、1年と半年しかたっていないのに、東京で鮮やかな刺激を見すぎたせいか、どれもこれも色あせて見えた。母の実家には寄らなかった。突然帰って、退職したなんて言ったら――何と罵られるか分からない。母は不在だと思うけど、あの人の顔だって見たくなかった。
一通り町を見終えて、意を決して町はずれの稲荷神社に向かった。もしかしたら、穂高くんに会えるかも知れないし、死ぬなら一番自分が落ち着く場所がいいと思った。
しかし、そんな思いと裏腹に、白いパネル型の仮囲いが、神社のあったはずの場所を覆っていた。
「――え、工事中?」
看板を見ると、稲荷神社は取り壊して、周囲の土地と合わせて、外資系のショッピングセンターを建設する予定らしい。忙しさにかまけて、高校卒業後、一度もこの場所に戻らなかったことを激しく後悔した。いつもあると思った場所は、いつのまにかなくなっているものだ。
普段ならこんなバカなことしないのだが、こうなりゃ、やけくそだ。仮囲いの切れ目を見つけて、無理やり中に入った。囲いの中は異様に静かで、不思議な感じがした。既に表の鳥居は撤去されていて、手水舎もなくなっていた。参道を歩いていくと、本殿は取り壊されて、がれきを回収している途中だった。今日は工事が休みなのか、中に人影はなかった。
穂高くんの思い出が頭を駆け巡った。一緒にかくれんぼしたり、鬼ごっこしたり。好物だという、稲荷寿司をコンビニで買っていって、一緒に食べたこともあった。
「そういえば、この神社に神様はいないって言ってたな。神様がいない神社でお祈りをしても何も叶わないか。」
私は、穂高くんに忠告してくれた後も、この神社で色々なお願いごとをした。おばあちゃん、おじさん家族と仲良くなれますように、学校で友達ができますように、いじめられなくなりますように、受験に成功しますように、東京で楽しく生活できますように、そしてまた穂高くんに会えますように。
――何ひとつ叶わなかった。びっくりするくらい何も。
神社のがれきを一つ掴んでみた。朽ちた廃木はカビの匂いがした。そういえば、穂高くんがお稲荷様はきれい好きって言ってたな。だから、こんなところには来てくれないのか。
神社のがれきを元あった場所に戻して、神社の奥の森の中に入っていった。多分いきなり死体を見つけたら、工事現場のおじさんたちもびっくりするから、本殿から少し離れたところで死のうと思った。
森の中は、がれきの山があった場所よりも静かで、まるで異世界の入り口のような異様さがあった。鳥の声も、風の音も、不自然なくらい聞こえない。
鞄から、ロープを取り出して、木に括った。括り方はネットで予習したから、完璧だ。ここで、しくじることは許されない。靴を脱いで、左右きれいに並べた。遺書はあえて用意しなかった。死んだ理由を知らせたい相手もいなかったから。
木の下に置いた鞄を踏み台にして、首にロープをかけた、その瞬間だった。
「ダメだ!自分で死んだら、現世から魂が離れられなくなる。」
後ろから抱きしめられ、ロープから強引に引きはがされた。
「止めないで、離して!私は死にたいの!」
暴れようとしたけど、腕をしっかり押さえつけられて、動けなかった。
「何があったんだ?栞、落ち着け。」
その声にはっとした。振り向くと、穂高くんがいた。
「ほだか……くん?」
何で、彼がこんなところにいるのかよく分からなかった。だってここは工事現場だし、なのになぜか穂高くんは巫女さんみたいな服を着ていた。そして何より気になったのは、彼の頭に生えた獣っぽい耳と、ふかふかの茶色い尻尾。どういうことなのか訳が分からず、キョトンしていると、穂高くんが口を開いた。
「こんなことに、こんなことになるなら……栞が東京に行くって言ったとき、無理にでもこっちに引き込んでおくんだった。」
引き込む?
今日の穂高くんは、前よりも浮世離れしていて、何を考えているのか、何を言っているのか、よく分からない。もしかしたら、もう私は首を吊った後で、今際の際で自分に都合のいい幻想を見ているのかもしれない。
なんとなく、高校の卒業式のあと、最後に神社に来たときのことを思い出した。『お互い話したいことがある』ってなって、穂高くんが譲ってくれて、私が先に話した。東京に行くから、この土地を離れると伝えた。そうしたら、穂高くんは、少し寂しそうに微笑んで、自分の言いたかったことは『何でもない』と言って、教えてくれなかった。最後は『またな』っていつも通りに別れて……。それが最後になってしまった。
「なあ、栞。死ぬつもりなら、俺と俺の生まれたところに行かないか。絶対に幸せにするから。」
穂高くんは、後ろから抱きついたまま言った。耳元で響く声は、どこまでも優しかった。
「穂高くんの生まれたところってどこ?――ねえ、穂高くんってナニモノなの?」
穂高くんは一層強く抱きしめてきた。まるで離さまいとするかのように。
「黙っていてごめん。俺は――俺は人間じゃない。お稲荷様の使いの狐だ。300年以上、この土地で人間たちを見守ってきた。」
「えっ!?きつね?」
彼のふかふかの尻尾が足にまとわりついて来て、彼が嘘を言っているわけではないと悟った。
「ごめん……。いきなりこんなこと言っても信じてもらえないよな。」
「うん……少し戸惑っているけど、穂高くんが言うことなら、信じるよ。」
そして、穂高くんがぽつりと昔話を始めた。神社が出来たのは江戸時代で、この周りにはたくさん農家があった。お稲荷様のご利益は"五穀豊穣"。だから、昔の人たちは今よりずっと神社を大事にしてくれた。村の人たちは優しくて、神様であるお稲荷様も、よくここに訪れていたらしい。中でも、毎年のお祭りが楽しみだったと。でも、段々と神社はさびれてしまって、今は神の使いである自分だけがここを守っているんだって。
「ずっとずっと一人で寂しかった。そしたら、栞が毎日お祈りにくるようになって、でもそんなに祈っても叶える神様がいないから、どうしようかと思って話しかけたんだ。」
「あ……そういうことだったんだ。」
「栞と話したことは、全部よく覚えている。300年以上ここにいて、一番親しくなった人間だから。」
思わず目を見開いて、穂高くんを見つめた。私が楽しいと思っていた時間を穂高くんも楽しいと思ってくれていたんだ。そう思うと嬉しかった。
「実は栞がここを去る前に、既にこの神社がショッピングセンターになることは決定していたんだ。だから、俺もこの世を離れることになるから……できれば、そのまま栞を連れて天界に戻りたかった。」
「――私を連れて?」
どういうことか状況を飲み込めずにいると、穂高くんが続けた。
「天界は神様や神の使いがいるところ。こっちの世界よりも、もっとゆっくり時間が流れていて、おだやかなんだ。」
「じゃあなんで高校を卒業して、東京に行くって言ったときに、その話をしなかったの?本当は、私にそのことを話したかったんでしょう?」
「東京って色々な人がいる大きな街なんだろう?東京に行ったら、栞が人間社会に溶け込んで、ここよりもっと楽しく生活できると思ったんだ。だから栞を無理にこちらの世界に引きずりこむよりは……その方がいいと思ったんだ。」
「穂高くん……。」
それから、私も東京に出てからのことを話した。毎日毎日怒鳴られて、深夜まで働いて、もう限界だったと。抱きしめてくれる穂高くんにほっとして、涙がとめどもなく流れた。
「ねえ、栞。天界に行くのに、人間のままだといけないから、俺の番になってくれる?」
「つがい?」
「うん。人間に戻れなくなるけど、それでもいい?」
「人間に戻れなくなる?」
人間じゃなくなるってどういうことだろう?神様や穂高くんみたいな存在になるってこと?少し混乱していたけど、ふときれいに並べられた靴と木の枝に括られたロープが目に入った。そうだ――私、ついさっきまで死のうとしていたんだ。人間をやめようとしていたんだ。
「ねえ穂高くん、さっきまで死のうとしていた人にそれ聞く?当てもなく現世を彷徨うなら――いっそ穂高くんと一緒に行きたい。」
そう告げると――そのまま、押し倒されて、口づけを交わした。全然嫌じゃなかった。穂高くんの目はやっぱり細い糸目だけど、熱いものが宿っていた。
「ごめん、ちょっとだけ栞、眠っていて。」
そのまま、とろけるように意識が遠のいて、いつの間にか気を失っていた。目が覚めると、穂高くんの胸の中にいた。
「やっと……やっと栞を自分のものに出来た。」
穂高くんは満足そうだった。私はすぐにあることに気づいた。
「あ、あれ!?私にも耳と尻尾が生えている!」
穂高くんが、愛おしそうに私の獣耳をなめていた。
「これで、栞もお稲荷様の眷属の狐。立派な俺の番。」
「眷属?」
「お稲荷様の使いってこと。日が明けたら、一緒に向こうの世界に行こう。」
「う、うん」
耳をなめられると、くすぐったくて、ちょっと変な気持ちになった。耳や尻尾だけじゃなく、身体全体が作り変えられたような、不思議な感覚があった。でもそれも悪くないと思った。
正直、穂高くんの説明だけじゃ、天界がどんなところだかよく分からなかった。でも東京やこの町よりは絶対にいいところだと思った。それにどんな場所だとしても、隣には穂高くんがいる。木に結ばれたロープときれいに並べられた靴、踏み台にした鞄を残して、私は朝日と共に、向こうの世界に旅立った。穂高くんの手を掴んで。
評価や感想いただけますと執筆の励みになります。
よろしくお願いします。