9話『約束の地に』
──吉良死亡 三十五回目
寝室で起き上がった吉良は手早く『三十五』と柱に書いてからそのまま筆で文をしたためる。
内容は前回と同じだ。中山直房あてに、赤穂浪士に襲われるので剣術の稽古を付けてもらいたいということ。それと屋敷には酒樽に入ってやってくるということ。
下手に文面を変えるよりかは、前回この内容で問題なかったのだから同じようにすればよい。何度でも同じく成功するはずだ。
「そういえば前回は稽古の謝礼も払わなかったな……酒樽一個余分に持たせるか」
別に謝礼を行わなかったからなにか悪いことがあったというわけではなく、頼み事をする際に賄賂のようなものを渡さないというのはどうも気が引ける。彼の気分の問題であった。
吉良はそう決めて、いつものように朝食を取った後に家来に命じて酒問屋へ荷車と酒樽を頼んだ。それから中山家に出かけることを告げる。
酒樽に入るなど方法にかなり訝しがられるが、強固に別段止められることもない。連日行えば変に思われるだろうが、皆にとっては毎回初めての奇行だ。
出発の準備ができるまで吉良は自室で構えと振りの練習を始めた。
鍛錬によって酷使して動かすだけで激痛がした腕の疲れも消え去り、ごく自然な動作で刀を持ち、僅かな時間の慣らしで構えがうまく決まった。
振って体を動かすとなるとまだまだ刃筋は乱れて体もぶれるが、動かずに構えを正確にするのは、ひたすら記憶を思い出してそのとおりに行うことでどうにかなる。
「ふう……だが振りはまだまだだ。中山殿はそこから教えてくれるだろうか……」
一抹の不安を感じながらも、前回と同じ手段で本所二つ目にある中山家の屋敷へと、樽の中に入って運ばれた。今回は鍛錬に使う自分の刀も持参している。
邸内に入って酒樽から登場し、前回と同じく直房に指を差してゲラゲラと笑われた後に、
「よし! じゃあ爺っつぁんの稽古でもちょいと付けてやるか!」
と、道場へ連れて行かれた。酒樽を手土産に持ってきたので、前よりも機嫌が良さそうだ。
(この日偶然ながら中山殿が暇をしていたのはありがたい……)
一度鍛錬に付き合ってくれるというのは、永遠に鍛錬に付き合ってくれるということだ。
繰り返し彼に頼める環境だけは、この状況で救いになるかもしれない。
道場に上がり、直房は木剣を渡そうとしながら、
「とにかく今の爺っつぁんの腕前ってやつを見ねえとな」
そう言って来たのだが、吉良は木剣を受け取らずに帯びた己の刀をゆっくりと抜く。
面白そうに直房は顎に手をあてながら呟く。
「ほう……真剣で鍛錬がしてえのか。変わってるな。まあ、今晩が実戦っていうなら仕方ねえかもしれねえが」
「左様。あまりにも時間がない故、お願い致したい」
いきなり刀を構えるのはどういう了見かと吉良の表情から読み取ろうとしたが、ひたすら本気の色しか見えないので直房は頷いた。
「いいだろう。構えてみな」
指示を出されて吉良は記憶の通り練習した構えを見せた。
重心が綺麗に整い、足の裏から腕まで真っ直ぐな一本の棒で支えているように安定し、余計な力を腕に込めずに、かつ手元にねばりとでも言うべき力で握り、剣先にまで伝わっているのが直房は見て取れた。
命が掛かっているからこそ吉良が必死に覚えて正しい構えを再現したものであった。
「成る程……」
と、直房も感心した。まさに型にはめたように決まっている構え方で、この基本的な構えすら疎かにする武士も多いというのだが、吉良のそれは模範的と言ってもよかった。
「殿中でバッサリ斬られた話を聞いて、ろくに反撃もしないでだっせえやつが居るなと思ってたんだが……さてはちょいとは腕に覚えがあるな? 爺っつぁん」
「いえ、実はあの……」
吉良はやや硬い表情で告白する。
「この構えだけはできるのですが、振るのも動くのもさっぱりの素人同然でして……」
「はあ⁉ なんだそりゃ⁉」
構えだけ綺麗な素人というのが居るのだろうか。直房は首を傾げる。
「で、ですので、中山殿にお頼みしたいのは……もし、中山殿がずぶの素人を一から教え始めたとして──まずその者に構えを覚させえた、次の段階から教えて欲しいのです」
「……よくわかんねえが、まあ拙者も最初には構えを教えるだろうな。そんで次は振りだ。正しく振れさえすれば農民のガキでも人を殺せる。よし、やってみろ」
「応!」
「おっ、なんだ威勢がいいな爺っつぁん」
腹奥から発せられた吉良の返事に、直房は好感を持った。
構え、振り上げ、振り下ろす。
「脇をもっと締めろ! 体揺らすな! 刃筋は常に意識しろ! そんな振り方じゃ豆腐も斬れやしねえぞタコ!」
「お、応!」
「拙者がやるのをよく見ろ! ちゃんと振れば箸でも振るうのと同じ速度で刀なんてのは振り回せるんだよ!」
直房が手本を見せる。確かに彼の素振りは刀の重さをまったく感じさせず、遠心力や重心を完全に支配しているようにピタリと腕の動きに合わせて振られている。
剣士ならばできて当然……というわけではなく、彼の技が達人の域にあるからこそだろう。
吉良はそれをどうにか記憶し、再現するためにあらゆる方向から直房の振りを見せて貰った。
何度も己の体で振りの技術を反駁し、完成を目指していく。
目の前に正しい手本があり、改善の指摘を常にくれる上に吉良が上達に一途そのものだから、彼の構えと振りは徐々に素人とはいえない形になっていった。
たとえ素人でも、何度も何度も教えられ修正され怒鳴られれば、師範の前で一度ぐらいは合格点の素振りができるようになる。ただ、それを正確に繰り返し、身につけるのが困難なのだ。
しかしながら吉良の素振りも普通の道場ならばもう充分と師範が言うのだろうが、直房の採点は厳しく振りの稽古はひたすらに続いた。
こうしていると吉良の心も研ぎ澄まされたような気分になってくる。修験者のような心地で体を痛めつけ、雑念を払っていった。
(赤穂浪士を倒すための実戦的な動きとか必殺技とかを求めていたが、大事なのは基礎なのだ)
それから夕刻まで鍛錬を続けた。直房はどこか残念そうに、
「どうにか素振りだけは見れるようになったが……正直、この程度じゃ精々一人やれるかどうかってとこだな」
「……左様でしょうな」
「今晩赤穂浪士の襲撃がなかったら、明日また稽古に来てもいいぜ」
「その時はお頼み致します……」
控えめな直房の誘いにかたじけなさを覚え、少しだけ泣きそうになりながらも、吉良は深々と頭を下げて酒樽に入り、吉良邸へと戻った。
それから前回のように皆に襲撃を伝えて自分は自室で構えと振りの鍛錬を行っていた。
稽古を終えても襲撃まで十時間ほどもあるのだ。その時間を自己練習に費やす。
少しでも強くなれるように吉良は真剣であった。直房に教わった素振りを繰り返し、少しでもモノにしようと必死に努力を続ける。
その夜。
「火事だ!」
「浅野内匠頭家来、主の敵討ちに来た!」
「狼藉者が入ったぞ! 出会え!」
屋敷内がいつものように騒動となっても、吉良は部屋で待ち構えている。
暫くすれば一学がまた駆けつけてきて、襲いに来た和助と切り合いになる。それから赤穂浪士援軍の倉橋伝助などが居間へとやってくる。
「吉良上野介! 主の仇討ちだ!」
「ふむ……今回は武林はおらんのか……」
見回しても最初に踏み入ってきた赤穂勢の中に唯七は居ない。毎度のことながら、行動が予想できない相手だ。
「覚悟!」
「構えて、振り上げて、斬る!」
接近してきた伝助相手に、教わったとおりの攻撃を仕掛けた。
頭に吉良の振るった刀が命中するも、額に付けていた鉢金で逸らされてしまい相手の頭を浅く斬るに留まった。伝助は大いに怯んで倒れるが、その間に槍を持った村松三太夫が、
「えい!」
と、突き掛かってきて吉良は腹を刺されて死亡した。
(鉢金……そういえばそんなものがあった……)
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──吉良死亡 三十六回目
それからの吉良は毎回同じように直房に稽古を依頼して、構えて振るから次の鍛錬へと移行していく。
──吉良死亡 三十七回目
事情は知らずとも物分りのよい直房はどの程度吉良ができるかをすぐに見抜き、あたかも吉良からすれば鍛錬が継続しているように、日に日に指導は進展していった。
──吉良死亡 三十八回目
昼間に直房の元で稽古を受け、夜までに自主トレーニングを行い、明け方に赤穂浪士相手に実践をして死ぬ。その繰り返しが続いていく。
──吉良死亡 三十九回目
「巻藁が斬れねえのは刃筋が曲がってるからだ! 見ろ! 刃筋立てりゃ、巻藁なんて力を込めず軽く触れるだけで真っ二つよ! 爺なんだから余計な力使わずにやれ!」
──吉良死亡 四十五回目
「走り回る体力なんかねえんだから、相手に近寄らせて斬れ! ただし体をぶつけられねえように避けろ! ノロマが! 床に這いつくばってねえで起きろウジ虫!」
──吉良死亡 五十八回目
「鉢金に鎖帷子付けてるなら首筋か脇腹を狙うようにしろ! ぶった斬らず、剣先でちょいと血管を斬ってやれば刃も鈍らず体力の消耗も小せえだろうが! 頭使えあほんだら!」
──吉良死亡 七十二回目
「ボケが! 攻撃をいちいち受け止めようとするんじゃねえよ! 体力の無駄だ! 相手の動きと得物をよく見てりゃ避けられる! 避けれねえ攻撃は存在しねえ!」
──吉良死亡 八十回目
「おっと悪ぃ、思いっきり拙者の一撃が入った……腕折れてねえ? え? なんだいきなり。腹を召すっておい⁉ 拙者の屋敷で自害すんじゃねえよ⁉ 腕が折れたぐれえで!」
──吉良死亡 九十三回目
「槍との戦い方? そうだな……まあ屋内で槍を持ってくるやつは余程の達人かド素人だろうよ。素人なら屋内では突きしか使ってこねえから読めば楽勝だろ」
何度も何度も死に続け──
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──吉良死亡 百回目
「百、百かあ……」
前回から意識していたが、とうとう死亡回数が百の大台に乗ったかと思うと、さすがの吉良も感慨深かった。
この数十回は、休憩で宴会も挟まずに中山直房の稽古を受けて、自主練を積み、赤穂浪士を相手に実戦訓練をして死ぬというルーチンワークを繰り返していた。
吉良の正確な記憶能力と、まさしく字のごとく必死の努力、それに生きるか死ぬかの実戦も重ねたおかげで剣をまともに振ったこともなかった老人の腕前は急速に伸びた。
巻藁を斬るよりは人の体を、道場で木剣を使って打ち合うよりは真剣を持って本気で殺しに来る相手と戦った方が成長は大きいだろう。
それを七十回近くも行ったのだ。体力や筋力などは周回で引き継がれないが、経験だけはひたすら積んでいる。
「百……たまには、なにか休んだ方がいいのかもしれぬが……」
前までは十回死亡につき一回ぐらいは宴会を入れていたのだが、近頃はすっかりそれもせずに鍛錬尽くしの毎日であった。
なにせ、わざわざ宴会を開かなくても以前の周回で行った楽しかったことを思い出して追体験すればいいのだ。それにまた実際に宴会をやっても、家臣は以前と同じ冗談を口にして笑うし、踊りや音楽も既に記憶にあるもので、目新しさはまったくない。
「稽古の続きをするかのう……最近は赤穂浪士にも勝てるようになってきたのだし」
ぼんやりとしながら考える。近頃の襲撃では自分を守ろうとする清水一学を、邪魔といっては可哀想だが、実戦稽古を阻害するのでわざわざ外に配置するぐらいであった。
今では襲い掛かってくる赤穂浪士の数名は吉良も返り討ちにできる。吉良の腕前が凄まじく上昇したのと命のやり取りの経験の差、それに同じ条件下ならば相手が同じ行動を取ることを逆手に取って、攻撃を避けて致命の一撃を打ち込むことに成功するからであった。それに赤穂浪士とて士気は高いが、実戦経験がある者は僅かだ。
しかしながらそれもまだ完璧ではなく、更に言えば毎回異なる行動をして様々な場所から登場をする武林唯七と遭遇した場合には為す術もなく吉良は殺害されていた。
「なにか、稽古以外にやれることは……」
吉良が考えていると、ふと毎回吉良義周は上杉家に避難させていることを思い出した。
上杉家は吉良の息子である上杉綱憲が居て、妻の富子も現在別居中でそちらに住んでいる。
「富子か……」
古女房を思い返す。少しばかり言い合いというか、彼女の言葉に嫌味のような棘を感じてしまってからあまり口を聞いておらず、この吉良邸に引っ越す際に別居してしまったのだ。
『そういう意味では、なかったのです』
殿中にて浅野長矩に斬りつけられ怪我を負い、長矩が切腹になった際に。
──あなたも切腹しないでいいのか。
と、聞いてきた富子に吉良は憤慨して叱ったのだ。夫であり被害者である自分に死ねとは何事かと。
そのときの心情などを詳しくは、もう二年も前のことなので吉良も詳しくは覚えていない。この周回が始まってからのことならば明瞭に思い出せるのだが、それ以前のことは年齢相応の記憶力でおぼろげになっていた。
だから、富子に悲しそうな顔をさせて、
『そういう意味では、なかったのです』
と、そう言わせたことだけをはっきりと覚えていて、そして別居してしまったのでその真意すら掴めていないことが心残りであった。
「……謝りに行こう」
吉良はそう決めた。富子と不仲になったのは、もしかしたら自分は悪くなかったかもしれない。それでも、もうどうでもよいことだ。自分が悪かったと認めて彼女に頭を下げ、富子と仲直りがしたかった。彼女が告げた言葉の意味も知りたかった。
ここで富子と仲直りをしても、或いは今回も赤穂浪士に襲われて死んでしまうだろう。
(だが、謝ることで関係が戻るということを知れたのならば、この繰り返しを終えたあとで、改めて謝り仲直りができるだろう)
それに、と吉良は苦笑する。
(もし謝る言葉に選ぶのに失敗して、今日のうちの仲直りに失敗したのならばまた別の言葉を考えて次回に試すことだってできる。どれだけ恥を掻いても、次になれば富子も忘れる)
そんなことを思って、この周回を打算的に利用している状況を皮肉に感じた。
とりあえず吉良は文机に向かって富子にこれから向かうことを伝える文をしたため始めた。
「ご隠居様──」
「ああ一学。桶はそこに置いといて、朝餉は握り飯にして部屋に持ってきてくれ」
「は、はあ」
部屋に入ってきた一学にそう告げる。
近頃は時間を効率的に使うために、わざわざ朝飯も食べに出なくなっていた。この屋敷では吉良がルールなので、なんにでも融通が効く。
息子の綱憲が居る上屋敷は桜田にあるが、富子の住んでいる下屋敷は白金にあるので吉良邸からは少々遠い。
吉良を入れた酒樽を積み、荷車で運ぶ酒屋には小判をくれてやり一刻半ほども掛けてようやく辿り着いた。
下屋敷の門庭に入り、外からは見えぬところで止めてもらい、酒樽から出る。
「あら、まあ、お殿さま。本当に、こんな風にいらすなんて」
口元を手で覆って老婦人が、目を丸くして迎えた。周りの女中も不思議そうにあんぐりと口を開けて吉良を見ている。
久しぶりに見た富子の姿に、吉良はどこかはにかんだような笑みを浮かべた。
それに対して富子の方は、首を傾げながら尋ねた。
「お殿さま? このような来訪にもご理由があるのでしょうが、お疲れの様子。屋敷へ上がってくださいませ」
「そうだのう。すまんな、富子」
狭い樽に入って一刻も揺られれば、老体にも堪える。
腰を伸ばしながら吉良は屋敷へと向かう。
「ああ、帰りも頼むやも知れぬので、待っていてくれ」
「へい」
そう酒問屋の運び人に心付けを渡して言うのも忘れなく。
それから下屋敷の小座敷へと案内される。なにかと上杉家には世話になっているが、上屋敷には来たことがあるものの下屋敷には初めてだった。
その間二人はひたすらに無言であったのが、吉良の胃の辺りをキリキリと痛めた。近頃は赤穂浪士と殺し合いの相対をしてもそうはならなくなってきたというのに。
(だが、廊下を進みながら謝るようなものでもないだろう……)
そう思いながら、気まずい感情を堪えて彼女の後をついていった。
部屋には既に茶も用意されており、女中も下がらせて吉良と富子は向かい合って座った。
真っ直ぐに富子は吉良の方を向いている。睨んでいるというわけでも、圧を掛けているわけでもない。ただ、吉良は真っ直ぐに見られているという感覚に、羞恥のような感情が浮かんだ。相手はなにも恥じることがないとばかりに堂々としているというのに。
(戦国大名、上杉景勝公の孫だものな……肝が据わっているというか)
富子は吉良に強く当たったりするような勇ましさや厳しさはこれまでなかったのだが、それでも吉良は彼女の芯が強いことを知っていた。
「その……」
吉良は話を切り出そうと口を開いたが、今朝の決意はどこへ行ったのかわからぬとばかりに、舌が回らずに言い淀む。
既に文で要件は書いていた。申し訳ないことをして富子と会えなくなったことを今は悔いているので、どうか謝らせてくれないだろうかという内容である。
自分でもどう書くか悩みものだった。別居中の妻に仲直りを申し込むのが、これほど神経を使うことだとは初めて知ったのである。
「ひ、久しぶりだのう、富子や」
「ええ、最後にお会いしたのは、一年と四ヶ月ほど前になりますか」
去年の八月、吉良が屋敷を呉服橋から本所へ移したのと同じくして、彼女は上杉家へ戻っている。
富子が別居を始めた理由の一つは、彼女の女中頭が新たな吉良邸では狭くてこれまでの女中をすべては連れて行けず、富子に不便を掛けてしまうと進言して、上杉家から一旦富子を屋敷で預かる旨を話されたのだ。
当時、吉良も富子には少しばかり例の発言の件で思うところがあったので、引き止めもせずに別居を認めて──それから、会いに来ることもなかった。
「すまん」
「なにを、謝ってらっしゃるのでしょうか」
「いや、思えばもっと……早く謝るべきだった。女中の数が足りないというのならば、配慮すべきであった。仲違いをしたまま、放置すべきではなかった」
「お殿さま。そうお気を病まないでくださいませ」
富子はゆっくりとした声音で吉良に言う。
「私がお殿さまと別居をさせられたのは、上杉家の問題だったのです」
彼女の意外な発言に、吉良は驚いて聞き返した。
「な、なに? どういうことだ?」
「新居を作るのに、上杉家から普請の援助を受けていらしたでしょう」
吉良は頷く。今の吉良邸を作るのに、上杉家の金をかなり使っていた。
旗本も大名も家計は火の車なのだが、吉良とて松の廊下で負傷の一件から評判が悪くなり、高家肝煎の役目を辞していたのだ。仕事を辞めたのだからそれまでに貰っていた賄賂などの収入もなくなり、屋敷を建てる出費は厳しかったために上杉家を頼ったのである。
屋敷を転居したのも幕府の命令で従わねばならず、屋敷は前に旗本の松平信望が使っていたものを改築したのだが、それでも結構な出費であった。
「それで、上杉家の方でも財政が難しく、このままお殿さまに頼まれるがままに援助を行っていては藩が破綻する、と家老らが懇願いたしまして、それで上杉家の一番強い繋がりである私が吉良家から離れることで、今後の請求を減額する条件にしたいと」
「そのようなことが……」
本来ならば吉良が面倒を見るべき、上杉家の富子を実家に預けているのだからと言われれば吉良とてあまり図々しくは請求できなかっただろう。
「私としても、お殿さまをお助け支えたいのですが、上杉家の女でもあります。それ故、困窮に苦しむ家老らの頼みを無碍にはできず、ひとまずこうして別居することが新居への普請賃の代わりだったのです」
吉良は思わず唸った。
引っ越しをしたために富子が別居をしたと思っていたのだが、まさにその引っ越しをするための費用を受けるために、人身御供のように彼女は吉良から離れたのだ。
「それを何故言ってくれなかったのだ……」
「このように聞いてくださったならば、いつでもお話したのですが……ごめんなさいませ。あのときのお殿さまは、私と話をしたがらなかったご様子で」
富子は儚く微笑んで、申し訳なさそうに言う。
「告げるのが、はばかれてしまって。文で告げるのも、心が決まらず……すみません」
そう告げてくる妻に、吉良は沈痛な面持ちになった。
「違うのだ」
どうにか口にする。
「すまなかった。気まずい思いをしていたのは、儂も同じだった。謝って、ちゃんと話し合っていれば良かったのだ。つらい立場にいるお前を、今日まで思いやってやれなかった」
「お殿さま……?」
「申し訳なかった……!」
吉良は深々と頭を下げた。一瞬、それを止めようかとした富子だが、伸ばした手を戻す。
そしてやはり、吉良を真っ直ぐに見て、
「……はい。お殿さまを、お許しします。だからお殿さまも、私が話せなかったことを、どうかお許しください」
富子の方も、畳に手をついて額をつける程に頭を下げる。
吉良は富子の両肩を優しく掴んで顔を上げさせ、
「許す。儂らはお互いに、話し合いが必要だったのだな。だからもう、良いのだ」
二人の仲は悪くなっていたわけではなく、些細な行き違いと気まずさから起きたものだったのだ。それもこうして解消されれば、吉良は以前と変わらず富子のことが大事に思えていた。それに、なにか憑き物が落ちたように素直な吉良へも富子は好ましく思う。これまでの、富子が居ない間の吉良の暮らしを知らないが、随分と人が善くなっているようだと感じた。
実際にはこの百回の死で起きた心境の変化だが、長らく会っていないので自然とそう考えるのは当然だ。むしろ毎日見ているはずの吉良家の家臣などは、朝起きたら昨日と比べてやたら落ち着いてストイックになっている吉良に違和感が大きいだろう。
富子は柔らかく微笑んで告げる。
「上杉家の家老たちに、またお殿さまと暮らせるよう話をしてみます」
「……ああ、そうなると、いいのう」
「……?」
僅かに顔を曇らせた吉良に、富子は訝しく思う。
今後の吉良家への援助の見直しなどの話し合いが必要だろうが、また共に暮らすことは可能なはずだと富子は判断しているというのに、吉良の顔色が優れない。
それは金を惜しんでいるのではなく──
(今回もまた、儂は死ぬのだ……死にたくない……死なせないでくれ……)
──己の命が今日で尽きることを惜しんでいるのである。
まだ剣の道を極めるには遠く、赤穂浪士の動きを覚えるにも不十分だ。唯七対策もできていない。なら、死ぬのは必然だ。
この下屋敷に篭もるのは下の下。兵数は吉良家よりも少ない上に、女中が多く、和解した妻も居るのだ。危ない目には合わせられない。
「お殿さま……?」
「ああ、なんでもない。ところで、富子。儂が斬りつけられた後に、腹を召さないのかと聞いてきたことがあったろう」
吉良は気になっていた疑問を、誤魔化すように口にした。
思い出すように少し考え、富子は謝った。
「その節は申し訳ありませんでした」
「いや、ただ何故そのようなことを言ったのかと思ってな」
「言葉足らずでして。私はただ、喧嘩両成敗といいますので、お殿さまもおなかを切らねばならないのではと思い、切らずに帰ってきたものですからもう切らなくてよいことになったのですか? と思ってお聞きしたのです」
「なんだ……儂の早とちりではないか。あのとき、ひどく叱ってしまったろう。すまないな」
「こちらこそ、勘違いさせるようなことをいいまして、訂正もせず」
「あの頃を思えば、お前がなにを言っても儂は悪い風に解釈していたと思う。だから、お前は悪くない。悪いのは儂だ」
「……でしたら、仲直りですね。私はもう、許していますから」
「そうだのう。仲直りだ」
二人は顔を見合わせて笑うが、やはり吉良の笑顔には影があった。
それから暫く二人はこれまでしてこなかった、隠居した老夫婦の生活を送るように過ごした。
吉良の頭を膝に載せて、富子が耳掃除をしてやったり。
下屋敷の庭を眺めながら、吉良が茶を点てて二人で飲んだり。
久しぶりに品目の違う食事を取り、舌鼓を打ったり……
そうして、やがて日が暮れてきた。
吉良は立ち上がり、富子に告げる。
「さて。今日のところは、儂は帰るとしよう」
「もうお泊りになられたらいかがですか?」
富子が当然のようにそう勧めて、老婦人の顔も名残惜しそうにしている。
子供に言い聞かせるように、吉良は遠い目をして言う。
「……そういうわけにも、いかんのだ」
「左様ですか……」
吉良は折りたたんだ書状を富子に渡す。この屋敷に居る間に書いたものだった。
「これを、明日以降に読んでくれ。今日は駄目だぞ、必ず明日だ」
「お殿さま、いったい……」
「いいから」
そう言い聞かせて、吉良は玄関へと向かった。
近くの長屋の詰め所で一日待たせてしまっていた酒問屋の男には、
「気が変わった。迷惑を掛けたのう」
と、小判を渡して吉良を荷車に載せず出て行かせる。
そして見送る富子に、最後に声をかけた。
「富子。もし儂の身になにがあっても、子と孫の力になってやってくれ」
「お殿さま、やはり行かないでください。なにか……変です」
「大丈夫だ。ほんの、もしもの話だ。では、またな」
安心させるように富子の肩を叩いて吉良は足早に下屋敷を辞した。
それから堂々と歩いて、吉良邸へと向かう。
当初は酒樽に入り、吉良邸に戻っていつものように襲撃が来るまで自主練習をして実戦で戦うつもりだった。
だが、気が変わった。
幾つもの世界を見捨てて来たが、この世界の未来は少しでも良きものにしたかったのだ。
(これまで百度死んできた世界でも、富子は儂が死んだ後で悲しんだだろう)
きっとこの世界でも悲しむことになる。そうはしたくないが、どうあっても勝ち目は無い。それでも、死ぬ前に仲直りをしたこの世界は守りたかった。
しかし、勝つことはできない。吉良に残されたのは、如何に被害を出さずに死ぬかである。屋敷を襲撃されて守っていた吉良を討ち取られたという醜聞よりは、外を歩いていた吉良が一人でやられたということの方が多少は義周や家臣らへの風当たりも弱かろう。
吉良は死ぬつもりだった。これまでと同じように。だが、これまでとは違う覚悟で。
すると戻る道の途中にある金杉橋付近で、赤穂浪士が進み出てきた。ここは赤穂浪士にとって重要な場所である泉岳寺にも近い。
それに赤穂浪士は当日、吉良邸から出てくる者を確認して尾行したりもしていた。そのうちの酒屋が、吉良の妻が居る屋敷に行ったというのならば疑われるのも当然ではあった。
どちらにせよ、来ると思っていた。
武林唯七。彼が居る。他に二人の赤穂浪士がいた。彼らの武装は腰の刀のみだ。準備をした襲撃戦ではなく、遭遇戦だからだろう。
「吉良……」
「武林……」
お互いに呼び合う。吉良は相手の考えや感情など理解できないが、それでもこれまで最も多く殺されてきた相手というのは、妙な縁すら感じる。
吉良は刀を抜き、正確に構えた。
迷いはなかった。覚悟も決まっていた。ただ、妻の儚い微笑みが僅かに脳裏によぎった。
唯七の両隣に居る若侍が、緊張した面持ちで叫んだ。
「吉良上野介! 我ら浅野内匠頭の家来! 主君の仇討ち! 覚悟せよ!」
と、言うのは間新六だ。
「貴様の首を、殿の墓前に捧げてくれる!」
そう続けたのは勝田新左衛門である。吉良は、赤穂浪士の名前もだいたいは覚えていた。襲撃時に誰かが誰かに呼びかけるのを見て、顔をすべて覚えているのでそれで判明している。
「止せ! 二人共! 先走るんじゃない! 仇討ちは英雄ごっこじゃないんだぞ!」
意外なことに、唯七が制止している。ただ、吉良はそれを重要視していない。唯七の言動は毎回支離滅裂で、叫んでいる言葉には殆ど意味がないと知っているからだ。
「はっ! なに言ってるんですか! 目の前に居るでしょ、仇が!」
「ここで逃して別の屋敷に逃げ込んだり、兵を用意したりされたらどうするんですか! 下がっててください、俺らがやりますよ!」
「新六! 新左衛門!」
朗々とした赤穂浪士二人の名乗りで、なんだなんだと民衆が遠巻きにこちらを見物し始めた。既に刀は抜いているのだ。ただ事ではないと、注目の的である。
新六が刀を振り上げて走り寄ってきた。
「あんたは俺が討つ! はあああああ!」
吉良はその動きを充分余裕を持って確認し、すれ違うように脇腹を払った。
刀の切っ先が柔らかい肉を寸断し、大きな血管を抵抗もなく斬る。新六は中途半端に刀を振り下ろした体勢で、横に倒れた。
相手は老人と侮っていたが、吉良は幾度も死線を越え……てはいないが、実戦経験の数が段違いである。真剣勝負を彼ほど行ったことのあるものは居ない。
「この! 逃がさないと言ったろう!」
「うぐっ」
だが、それでもまだ完全ではない。
一対一ならまだしも、新六に合わせて回り込む形で近寄り、突きを放ってきた新左衛門の攻撃が当たる。
避けようと身をよじったので肩のあたりに深々と突き刺さったが、吉良は近寄った新左衛門の首元へと迷わず刀を振るった。
筋肉や骨などの抵抗がない部位を切っ先で狙う。
直房に言われた通りに行わねば、吉良の体力が持たない。鉄の塊を全力で相手にぶつけるというのは、非常に疲れる動作なのだ。
だからこうして、刀の先を相手の首に差して軽く引き切る。
首からパッと血が吹き出て、新左衛門も倒れた。このように、どうにかこうにか吉良も赤穂浪士とまともに戦って勝利することも可能になっていた。赤穂浪士とて、実戦経験があるのは堀部安兵衛ぐらいで後は精々が試し切りをしたことがある程度の素人なのだ。経験を積んだ吉良ならば、一対一で勝利を取れる。
それに吉良が毎日稽古を受けていた中山直房ほどの使い手も他には存在しなかった。故に、動きは捉えられる。
「新六! 新左衛門! 新ッッ! このッッッ……馬鹿野郎共ッッ!」
ただ、この激高する男以外は。
「吉良ァァァァ! お前が、新六左衛門を殺した!」
「名前が混ざってるぞ」
「あいつは、あいつらは、良い奴だったのに! 何故こんなことを!」
「儂にも、守りたいものがあるからだ! さあ来い、武林!」
「うおおおおお!」
唯七が刀を抜いて片手で構え、飛びかかってくる。
正しい構えに正しい振りを教わった吉良とは対照的に、唯七は構えも正規のものに見えなければ振りもおかしい。だが、ある程度学んだ今だからこそわかるが、唯七の攻撃は非合理的で乱雑に見えながらも異常に早くて強い。刀を片手持ちにしたり両手持ちにしたり、蹴りや体術を交えての組打ち、または槍など他の武器を使った攻撃のどれもが不規則にして必殺の技になっている。
「俺の正義を爆発させる! それしか方法はない! 下がれ!」
吉良は突進してくる唯七の一撃を受け止めようと備えたが、やはり今回も唯七の殴るような無造作な攻撃で構えていた刀を弾かれ、返す刀で深々と胸を切り裂かれた。
「すまん……」
血が吹き出て一気に意識が薄れ行く中で、またしても悲しませることになる妻へと吉良は謝罪した。もがくように、手を上げながら。
(いつか、必ず、きっと、お前と仲直りをして、また……共に……)
──老人が伸ばした手は、なにも掴まずに力尽きて落ちた。
「吉良……お前、泣いているのか……?」
呆然としたような唯七の言葉を最後に、吉良の意識はこの世から消えた……
それから、突発的に仇討ちを果たした唯七は仲間二人の骸と吉良の骸を担いで泉岳寺まで持っていき、そこで仲間に集合を掛けた。
死体の吉良を検分し、大石内蔵助がその首を落として泉岳寺の墓前に捧げる。
赤穂事件についてはすぐさま江戸中に広まり、金杉橋での仇討ちとして赤穂浪士と吉良の大立ち回りは有名になる。また、吉良も赤穂浪士二人を斬殺したことで、意外に強かったと面白がられた。
仲間が先走って仇討ちを行ったとはいえ、連判状を作っていた赤穂浪士全員は切腹処分となった。ただ、後世には義士集団としての名誉よりも、武侠者である武林唯七個人の名声が強く残ったという。
義周などは見ていないところとはいえ、狙われていたご隠居が伴も付けずにむざむざと襲われたというので多少叱りを受けたが、それだけであった。
一方で、吉良が死ぬ直前まで彼と会っていた上杉富子は悲嘆にくれて、鬱ぎ込んでしまった。
息子である上杉綱憲が、
「決して母が軽率な真似をしないように見守れ」
と女中らに命じて部屋に控えさせていなければ、吉良の後を追ったかもしれないと周りに思われるほどに悲しんでいた。
そして富子は、ふと夫が書き残した書状を思い出し、それを開いて読んだ。
そこには自分が赤穂浪士に襲われて死ぬのは覚悟ができているということ。自分が死んでも決して悲しみにくれず、気を張って生きてくれということ。息子と孫をよろしく頼むということが書かれていて、最後には震える字で、
『お前と共にまた暮らせる日が来るまで、儂は戦わねばならない』
と、あった。
それを読みながら富子は泣きはらし、それから彼女は精力的に、吉良家と上杉家のために尽くしたという。
後年、吉良の最後に残した手紙が公開されて、孤独に戦う仇持ちの老剣士として彼の人気も高まり名誉回復されるのであるが……
それもまた、同じ時を繰り返していく吉良には知れぬことであった。