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8話『反撃の声』



 ──吉良死亡 三十回目



 吉良は目覚めると、戯れに筆を振ることで墨を飛ばして柱に『三十』と書けるかやってみて、それなりに満足して頷いた。


「いや、駄目か。満足していたら」


 とりあえず落ち着いて吉良は座った。

 もう三十も死んでしまった。寝起きに汗でびっしょりと布団を濡らすこともなくなるぐらいに、死んで戻ることに慣れてきた。


「とにかく、問題はだ」


 吉良は腕を組んで呻く。家臣にボケたと思われても、納得するように声に出して確認するのはもう癖になっている。


「武林唯七だ。赤穂浪士は、多少なり強かろうが罠に嵌めて大勢で掛かればどうとでもない。しかし、圧倒的な強さを持つ武林が儂を殺しに掛かるとなると、防げるものではない」


 普通の相手ならば、矢を射てば当たり倒れる。槍を突きつけられれば近づけずに刺される。十人が囲めば為す術なく討たれる。だが唯七は違った。

 矢は当たらないし槍は蹴り壊すし包囲は容易く突破してしまう。吉良の周りを兵で固めて近づけないようにしていると、投石や奪い取った弓矢を使って狙撃し殺害してくる。

 壁を走って接近したり、屋根の上から飛び降りてきたり、屋敷の壁をぶち破って登場したりと吉良邸はどこでも奇襲できる条件なのも彼を防げない原因だった。

 そしてなにより、毎回違う行動を取るので予想ができない。


「味方では武林は倒せん……」


 如何に家来に注意を呼びかけても、あの驚異的な強さは実際目にしないと想像すらできないだろう。そして、目にしたら対策を立てるどころではなくやられてしまうのだ。


「武林を倒さん限りは儂が死ぬのも避けられん。ならば……」


 導き出される解決法はただひとつ。

 唯七の強さを予め理解していて、迎え撃つ準備が可能な人物が当たらねばならない。

 即ち、


「武林は、儂自らが倒さねば……! 鍛えよう!」

「ご隠居様、六ツ半で──」

「一学! 儂に剣術を教えよ!」

「ええっ⁉」


 朝から突然の申し出に、一学は驚いた。

 この吉良という老人、実のところ剣をまともに振るった経験は、この吉良邸討ち入りの周回に入ってから迫る赤穂浪士に向かってがむしゃらに脇差しを振り回した程度である。

 もっといえば、武士として修めるべき十八般の武芸の一つもまともに鍛錬したことがない。せいぜい、仕事柄馬術を覚えているぐらいであった。

 太平の世、戦もないし彼の役目は典礼を学び教えること。そういう家系に生まれたのだから、吉良も剣術などに精を出すことなく若い頃から過ごしてきたのだ。 吉良が武芸に関わっていないことは特別ではなく、この時代そういう侍も居るのである。

 故に今から改めて、家来にでも習って剣を覚えねばならない。


(武林の脅威を記憶できぬ他の者に相手をさせるのは無理だ。儂が武林をほんの僅かでも受け止めている間に、周りの者に援護させて倒させる! それしかない)


 なにせ家中でも恐らく一番の使い手である一学すら、下手すれば一撃で唯七に負けるのだ。鍛えたところで自分が一学よりも強くなれるかは怪しいが、最初から心構えができているのならば防御ぐらいはできるかもしれない。

 いや、やらねばならない。


「同じ時間を何度も巡り、たった一つの出口を探る。儂を、絶望の運命から救い出すために」

「ど、どうしたんですかご隠居様……」


 やたら大仰なセリフを吐く吉良に、一学は首を傾げるのであった。




 ******




 ──吉良死亡 三十四回目



 吉良は悟った。


「このままだと駄目だ。一学では無理だ」


 訓練を初めて四日目。四回死んだ後である。このまま一学に鍛えて貰っていても埒が明かないことを吉良は確信した。

 たった四日の訓練で実績が出なかったことを問題にしているのではない。吉良とて、すぐに上達するとは思っていなかった。


「問題は一学の教える態度だ……ひたすら優しい上にこっちの気を使いまくって碌に鍛錬にならん……ついでに毎回同じ基本から教え始めるのを説得が不可能だ……」


 ということなのであった。

 考えても見ると吉良が教えを乞う状況というのは、ひたすら家来にとってやりづらい。

 会社に例えるならば社員が二百人いる会社の引退した会長六十一歳が、若い下っ端の社員を捕まえて、


『君、剣道とか得意なんだって? 私に教えてくれない?』


 などと突然言い出したようなものだ。これは言われた方も困る。

 当然ながら恐縮するし、老齢といっても差し支えのない体を気遣って基本的な構えや精神論などを教えるだろう。休憩も多く挟むし、焦りは禁物などとも諭す。なにせ、教える初日なのだ。最初はそんなものである。

 途中で吉良も怒り、


「いいから実戦で使える剣術を教えよと叱り飛ばしたら、家老や義周総出で止められて説得された……これではまったく稽古にならん!」


 とはいえ教えを乞う相手が他の家来でも、恐らくは一学と同じ結果になるだろう。

 誰が自分のところの実質一番偉いご隠居に、本気の斬り合いを前提とした厳しい訓練を行わせるだろうか。しかも鍛錬初日に。赤穂浪士が襲ってくるのでその用意だと言っても、「ならば我らがお守りしますのでご安心ください」と返されるのである。頼りにならない。

 吉良は部屋でどうしたものかと悩んでいた。

 彼に必要なのは接待ではなく、厳しい修行なのだ。

 だが、と難しい顔で考える。


「儂に一切の気兼ねすることなく厳しく鍛えて、その者もかなりの達人で、今日中に予定が付けられる者……そんな都合の良い存在が」


 吉良は指を鳴らした。


「居た。たった一人だけ」


 吉良はすぐさま文をしたためだした。



 本所二つ目にある火附役の役宅に、奇妙な物体が届けられた。

 酒樽である。酒問屋の若者がガラガラと荷車に乗せて引っ張ってきて、連絡を受けていたものの奇妙そうに門番などが見ていた。 

邸内に入ってから吉良が酒樽の中から出てくる。短い距離を移動したが、酒の匂いが篭った樽に入って堪えていたので大きく深呼吸をする。


「ぷはー」


 それに対して指を差して笑うのは、年末の仕事休みで正装もせず着流しを身に着けている火附改、中山直房だった。


「くははっ! 本当に樽に入って来やがったな、ご隠居さんよゥ!」

「手段を選んでいる場合ではないからのう」


 吉良が剣術の師として選んだのは、近所に住んでいる直房であった。

 彼は放火犯や盗賊を捕らえるという、町奉行所の業務でも荒っぽい部分だけ選りすぐったような仕事をしている火附改なので江戸の武士でも有数の荒事経験者だ。

 剣術の腕は知れ渡っていて自ら刀を振るい盗賊を捕らえたこともある。また、役宅内に道場を持って火附改の部下たちを積極的に鍛えさせているという。


「あー笑った。四千二百石のご隠居が酒樽に隠れてくるとか……本気過ぎるだろ! そんなに拙者にビシビシ鍛えて欲しいのかよ。まあいいけどよ」


 それにこの豪放な性格である。身内以外でも、吉良のような立場のある老人を一生懸命鍛えようなどとは殆どの者は困る案件になるだろうが……変わり者の直房ならばゲラゲラ笑った後で快諾するのであった。

 吉良邸にて見捨てられた気持ちのしこりはあるが、あの際に彼は言っていた。

 別に赤穂浪士を応援しているわけではないと。

 味方にはなってくれなくとも、こうして間接的に手を借りることは出来るのではないかと吉良は考えたのである。


「よろしくお願い致す」

「それじゃあ時間もねえんだ。早速道場に行くか!」


 吉良は中山家の家来から妙なものを見るような、或いは同情するような目で見られながら邸内に作られた道場の方へと向かっていった。

 後の火付盗賊改になる役職の火附改では放火犯を捕らえるついでに、盗賊も捕縛することで放火犯罪の事前対処としており、捜査することが幕府からも許されている。

 しかしながら盗賊たちもただで捕まるわけではないので、捕まえる方も相手の抵抗を挫くそれなりの技術を学ばねばならない。棒術や捕縄術、柔術に剣術などを常に体が鈍らぬよう鍛錬させるのが直房の方針であった。

 屋敷の裏手にある道場に案内されて吉良は履物を脱いで上がった。

 直房は無造作に壺へと突っ込んである木剣を二つ手に取りながら、吉良に向き直った。


「で、文で事情は知らされたが念のためにもう一回聞いときたいんだが……今晩赤穂浪士が襲ってくるから今から剣術を学びたいってのは正気か?」


 そう聞かれて、吉良は神妙に頷いた。


「少なくとも、本気でやるつもりです」


 自分が正気かどうかについては確たる自信はなかった。 

 死ぬ度に時間を逆行して同じ一日を繰り返しているなど、頭がどうかしていると思われてもおかしくはない。だが唯七を倒さねばならないという考えに関しては本気だ。


「ほう……」


 直房が吉良の表情を見るに、嘘を言っているわけでもなさそうに思えた。

 たった一日で戦う技術を学びたい、という馬鹿みたいな頼みをしてきた相手は、いったいどれだけ武芸を軽く考えているのかと考えていたが……


(この爺はマジでやる気だぜ)


 直房は面白そうに笑みを浮かべた。


「しかし一夜漬けならぬ一昼漬けでなんとかなるもんかねえ。とにかく爺っつぁん、これ構えてみな」


 そう言って直房は両手に持った木剣の片方を軽く放り投げてきた。吉良は受け止めようと手を差し出したが、目測を誤り腕に木剣が当たり床に落とす。腕の痛みに僅かに顔をしかめた。

 吉良の不器用さに直房は目を細める。

 改めて吉良は木剣の柄を握り、正眼の構えに正面へと剣先を向けた。

 剣の構えだけは、もう四回もわざわざ一学から教えてもらっていた。正直、まともに構えたこともなかった吉良は柄の握り方からして指導が必要であったのだ。


(それでもどうにか教えられた通りの様にはなったはずだ)


 そう思っていたら腰をしたたかに木剣で殴られた。


「痛っ⁉」

「屁っ放り腰してんじゃねえ! 肩を強張らせんな! 肘を伸ばしすぎだ! 握りを絞れ!」


 直房が叫びながら、持っている木剣で吉良の構えで指摘する箇所を軽く殴った。

 ある程度加減はしているのだろうが、それでも骨まで響くような痛みに吉良は思わず構えを解いて持っていた木剣を取り落とす。

 痛みに顔をしかめながら慌てて拾おうとするが、直房は床に転がった吉良の木剣を強く踏みつけた。そして目を尖らせて厳しい声音で告げてくる。


「なんていうか、爺っつぁん。本っ当に素人だな。そんなんじゃ赤穂浪士どころか本所のゴロツキにも勝てやしねえぞ。構えすらなっちゃいねえし、ちょいと小突かれて武器を取り落とすのは論外だ」

「……確かにそうかもしれませんな」


 吉良は叩かれた腕などをさすりながら呻いた。一学から教えてもらい、ひとまず合格を貰った構えとはなんだったのか。


(いや、わかっている。一学が気を使っただけなのだ。ご隠居が始めた妙な趣味に付き合って)


 構えすらできていないとは、この四回ほどは完全に無駄だった気がして落ち込みそうになる。


「こんな調子じゃ爺っつぁんに教え込むには、何百回ぶん殴って怒鳴りつけるかわからねえぞ。拙者ァ教え方が荒っぽいんだ。つーか訓練で痛い思いするぐらいじゃねえと実戦で使えねえ。殴られて泣き出すようじゃあ、ものにはならねえ。どうだ。止めとくか?」

「いや……」


 吉良は情けなく痛む箇所に触れるのを止めて、背筋を伸ばし直房の方を見た。

 痛いのも彼に頭を下げるのも、死に続ける苦痛に比べればどうということはない。やらねば死に続けるのだ。諦めても、なんの解決にもならない。


「どうかお頼み申す! 殴っても蹴っても怒鳴りつけても結構! 怪我をしようが一切中山殿には文句は付けません! どうか儂に剣術を教えてくだされ!」

「……そこまで言うか?」


 まったく吉良の決意が何処から来るのかは直房もわからなかったが。

 それでも彼がひたすらに本気であることは伝わった。元文官でいけ好かないと噂されていた老人だから、番方である自分が小突けば腹を立ててもう止めるとでも言うかと直房は考えていたが、想像以上に彼の覚悟が決まっているようだ。


「なら弱音吐くんじゃねえぞ! おらっ! もっかい構えろ!」

「は、はい!」

「正しい構えからだ。拙者のを見て真似しろ。時間がねえなら、模倣が一番早い上達法だ」

「承知!」

「ついでに本気なら木剣なんざ使ってる場合じゃねえな。よし、この刀を持て」


 吉良が酒樽に入るためか、刀を腰に帯びていなかったのを見て直房は自分の刀を手渡した。

 二尺四寸の真剣を抜き放って構えるとずしりと重さが手にかかり、体が傾きそうだった。


「木剣と真剣じゃ当然ながら重さも間合いも違う。千回木剣で素振りするより十回真剣を振ったほうが実戦に使う分には役に立つ。ま、普通は目釘がぶっ壊れたりしたら危ねえからやらねえんだが、時間がねえからな。体で覚えろ」

「はい!」

「余計な力みを構えに使うな! おら、もう刀の重さで手が震えだしたか? 無駄があるからだ! 安定する力の流れを意識しろ! 一刻や二刻構えられねえと話にならねえぞ!」

「し、しかしどうすれば……」

「力の掛け具合なんざ言葉で説明して他人が理解できるか! 喋って伝わって覚えられるなら世の中達人だらけだ! 自分で色んなふうに試して感覚を掴むんだよ! 構え崩すな! 正しい構えには必ず答えの状態がある!」

「う、うう、難しゅうございます」

「口でクソみてえな泣き言垂れてないで『応!』と威勢よく叫べ! 正しく構えて正しく振ることを覚えねえと戦いどころじゃねえぞ!」

「お、応!」


 まるで若い衆が返事をするような叫びだったが、吉良は必死に叫んだ。

 恥ずかしいと思う気持ちもあるが、この周回で受けた恥など死ねば消えてしまうのだ。もし生きて持ち越すのだとすれば、一時の恥など代償としてはお釣りがくる。


「腕だけで保持すんな! 足と腰を安定させて、臍に力を込めろ!」


 構えている吉良の背後から足などを木剣で軽く小突き、皮膚の硬い手のひらで荒々しく腕や柄を掴んで構えを矯正していく。

 背筋を伸ばし、顎を引き、握りを絞る。

 刀を持つ腕が重たい。右腕に力を掛ければいいのか、左腕に力を掛ければいいのか、左右どれぐらいずつの握力が良いのか。

 吉良の額には汗が浮かんでいた。真剣を前に突き出して構える体勢を続けるのは、思っていたよりもずっと疲れる。これまでやったことがないならば尚更だ。


「疲れたか?」

「お、応!」

「重たいか?」

「応!」

「なら赤穂浪士に殺されろ! 甘えてんじゃねえとっとと構えを正せ! このままじゃ、無様に殺される敗北者として死ぬだけだ、雑魚が!」

「応!」


 吉良は歯を食いしばって叫び返し、構えの体勢を整えようとした。 

 呼吸を止めて腹の奥に力を貯める。左右の握力を一拍ごとに変えて最も安定する具合を確かめる。吉良がそうしていると直房が後ろから両肩を掴んだ。


「今のだ! 今一瞬だけ構えがビシっと決まった。もっかいやれ」

「お、応!」


 吉良は先程の行動を思い出す。この繰り返しに巻き込まれてから、思い出すことだけは得意になっていた。自分が先程やった体の動きを思い出して──その途中で構えを安定させる。


「よし。今の状態が基本だ。忘れるな」

「応!」

「じゃあ次は素振りだ。正しい構えから正しく振る。そうすりゃ相手は死ぬ。技なんてなかろうが刃筋を正して斬り込めば殺せる。いいな?」


 そうして吉良の正面に立った直房は、吉良と同じ構えから上に振りかぶり縦一直線に切る動作を手本として見せた。

 まさにお手本であり無駄な力みや刃筋の揺れ、体幹の振れが一切ない素振りである。もし目の前で彼が今の動作で斬りかかってくれば、吉良は防御すらできずに斬られただろうと思えた。正しく、早く、鋭い剣気を木剣から感じた。


「よし、やってみろ」

「お、応!」


 吉良が刀を振り上げて振り下ろすと、それはもう酷いことになった。

 重心がぶれて刀の重さに振り回され、前につんのめるような体勢になった。それをこらえようと足がもつれてたたらを踏み、おまけに萎えて疲れた腕では振った刀を止めることができずに床板に切っ先を突き刺してしまう。


「ボケが! 遊んでる場合か! 死んじまえ!」


 直房から怒鳴られ、吉良は泣きそうな気分になりながらも突き刺さった刀を抜き取ろうと踏ん張るのであった。

 正しい構えを体に覚えさせる。その体勢を崩さないように刀を振る。

 言葉にすればたった二つの動作なのに、鍛えたこともない隠居老人が行うにはひたすら努力が必要だった。腕は震え、腰は萎え、息は切れる。きっと翌日、翌々日には疲労で倒れるだろうことが吉良には想像できた。あるいは一生寝込むか。

 体力も筋力もない彼にあるのは意志の力だけだ。腕よ震えるなと命じ、足よ体を支えよと叱咤する。それしかない。

 そうなれば疲れの大部分が翌日以降にやってくることは有利にすら思えた。


「余計な力が抜けてきたじゃねえか。だが握りまで緩めるんじゃねえぞ!」

「応!」

「回数こなせばいいってもんじゃねえ! 時間もねえんだ一振り一振り改善していくつもりでやんだよ!」


 そして直房も手を抜かずに吉良を厳しく鍛える。

 彼はやると言ったらやる男だった。吉良が弱音を吐いたり、へばったりしたならば見捨てたかもしれないが少なくともこの老人が本気である限りは、どれだけ素人同然でまともに動けなかろうが、無数にある悪いところを指摘していった。

 直房は赤穂浪士の味方ではないが、吉良に好意を持っているわけでもない。これまで付き合いもなく、近所に住んでいることだけはお互い知っている程度の関係であった。会話をすることを対面と捉えれば今日が初対面にあたる。それでも、吉良が本気で頼んできたのだからこうして真剣に教えているのである。

 途中で吉良の声が掠れてきたあたりで水を飲んだが、それ以外に休憩も入れなかった。吉良はつらい思いだったが、休んだら二度と腕が上がらないような気がしたのでむしろ休まないのが良いのだと無理やり自分を納得させる。

 まったくの剣術素人の吉良だが、やらねば自分が今晩死ぬという決意を持って一寸たりとも気を抜かずに構えて振るう練習をしたので、夕暮れ頃にはほんの僅かながら形になった。

 直房は難しそうな顔をして、


「むう……まだまだなんだが、時間もねえな。しっかしやっぱり一日の訓練で戦えるようにするのは無理があるぜ。爺っつぁんが必死こいてるのはわかるがな、この調子だとモノになるには百日は掛かりそうだ」


 それでも甘く見積もっての計算だった。百日で達人になれる剣術などない。だが、襲い掛かってくる武装した相手を返り討ちにする程度に剣を覚えることは、心の持ちようとコツさえ掴めばどうにか可能かもしれないと直房は考えている。どうせ赤穂浪士にも達人は数名しか居ないのだから。


「百日……?」

「おうよ。だが今晩襲われるんだろ? あー……健闘を祈るが正直勝ち目はねえな」

「いや」


 疲れきった吉良の目が狂気的に輝いた。


「ならば百日鍛錬しようと思います。勝ち目は、見えてきた……!」


 普通ならば不可能なことだが、今の吉良に限っては襲われるまでに百日繰り返すことができる。今回死んでも次の周に鍛錬をして、また次の周に経験を持ち越している。


「百回死んでも、諦めませぬ」


 吉良の力強い謎の言葉に、直房は思わず息を呑んだ。本当に、この老人は正気ではないのかもしれない。


「……ところで中山殿」

「なんだ」

「今晩泊めて貰えませぬか」

「いや、今晩襲われるって言っただろ爺っつぁん」

「そこはほら、剣術の師匠が助太刀してくれるとかそういう感じで」

「放火魔とか盗人とかとっ捕まえる拙者みたいな番方が加勢したら相手の立場が犯罪者扱いで台無しになるじゃねえか。別に赤穂浪士には同情も応援もしねえが、折角の仇討ちにそんな興ざめなことはしたくねえな。つーわけで拙者を頼るな。相手が火を付けでもしたら別だがな」

「左様ですか……」


 百回死んでも鍛錬をする決意をしつつも、直房に用心棒を頼んだが断られて吉良はがっくりと肩を落とした。


(こいつ、やる気があるのかないのか……)


 直房は呆れながらも、余計に吉良のことがよくわからなくなるのであった。


 

 それから吉良は直房に太刀を返して、再び酒問屋を呼んで空樽を持ってきて貰い、その中に入って吉良邸に帰っていく。

 疲労困憊と木剣による指導で殴られた場所が痛み、体中が熱を持っているようだった。


(殺されに屋敷に戻るとはなんとも奇妙な気分だ……)


 酒樽の中で揺られながら諦めに似た感情が浮かんでくる。かといって、他所に逃げてどうなるものでもない。逃げた先が唯七に襲われるだけだ。

 今回も恐らく勝てまい。それに、鍛錬に出たので迎え撃つ準備はまったくできていない。家臣に注意を促していないし武装の準備もさせていない。


(一応、注意だけは喚起しておくか)


 くたくたに疲れながらも吉良はそう判断した。多くの家来はそれでも本気にしないで油断するだろうが、それぐらいしかできることはない。 

 それでも一言も告げずに襲われるがままにさせるというのは、あまり吉良もいい気持ちはしなかった。どうあっても負けることは変わらないが、気分の問題だ。

 皆に赤穂浪士の襲撃を伝えても、これまで伝えた時間帯とは違えども反応は似たり寄ったりであった。疑っている者も居るしもう夕刻になっている時間の無さを慌てる者も居る。

 その上で、吉良は告げる。


「各々、自らの責任で迎え撃つ準備をするか、逃げ出すか、なにもせんか選ぶがよい。ただし義周だけは上杉家に避難するように。当主だからのう」

「ご隠居様はどうなされるおつもりですか⁉」

「儂は戦って討ち死にする。何処に逃げても赤穂浪士は追いかけてくるからだ」

「父上も上杉家に避難いたしましょう!」

「駄目だ。儂は外に出た瞬間から狙われる。それに、無駄だ」


 上杉家の屋敷だろうが、唯七は容赦なく侵入してきて吉良を殺しに来るだろう。自分らの兵が束になっても敵わない相手を、上杉家の家来なら勝てると思えるほど楽観的ではなかった。

 それに、もし上杉家の屋敷に居る当主にして吉良の息子である上杉綱憲や、妻の富子が目の前で殺されでもするところを見たら再び吉良邸に放火してしまうかもしれない。復讐など無意味というが、実際繰り返してしまうのならばそれは本当に無意味だった。

 家臣の間で色々と議論が紛糾したようだが、吉良は詳細を語らずに部屋に戻った。


(後は皆が、戦うか逃げるか傍観するかを選ぶだけだ。好きにせよ)


 根気を入れて説得し準備をさせるにはあまりに疲れすぎていた。それにこれから何度も何度もこういう周回を送るのだ。煩わしい処理は最低限でいい。

 吉良は部屋に戻ると、己の刀を用意して抜き放った。

 腕の筋肉や筋が酷く凝ったように激痛を発し、足腰も悲鳴を上げている。

 一日の鍛錬──それもたった構えて振るだけの動作を繰り返すだけでこの調子だ。


「恐らく寿命が十年は縮んだと思えるぐらい疲れた……だがどちらにせよ寿命は今晩か」


 ならばあと数刻は、残りの寿命を全て縮めてでも動いてくれと念じた。


「それにしても中山殿……よくもまあ遠慮もせずに殆ど初対面の老人を容赦なく殴ったり怒鳴ったりしてくれたな……特殊な才能が必要なぐらいの容赦のないしごきだったが、ありがたい」


 そして道場で教えられた通りに思い出し、刀を構える。こんなときに正確な記憶が役に立つ。教わったとおりの型に己の体をはめ込むようにする。

 僅かに直房から借りた太刀よりも軽い。これに慣れ直すのに少し時間が掛かるかもしれない。


「次からは刀を持参して稽古に行こう」


 吉良は静かにそう決めた。

 正眼の構えは基本中の基本だ。びしりとした型通りの構えが必ずしも役に立つわけではないと直房も告げていた。しかし、実戦で役立てるには基本をしっかりと修めなければならない。

 あらゆる状況に対応できる無敵の構えなどということはない。状況を判断して正しい対応をし続けていくのが戦闘のコツだと言われた。それ故に、構えをしっかりと覚えるのは行える対応の数を増やすために重要なことなのである。

 吉良は構えから振りかぶり、刀を振るった。

 寝室にて一人、ゆっくりと素振りをする。ついぞ一日掛かっても、精々が直房からの評価は怒鳴られる状態から顔を顰められる程度にしか点数は付けられなかった。まだまだちゃんとしていない、素人の振りだ。

 慎重に、神経を張って振る。刃筋がぶれないように。体幹が揺れないように。手が震えないように。そしてそれらを体と意識に経験として記憶させるように。 

 余計な力は抜く。筋力を鍛えたいわけではないのだ。勘を掴みたいのである。記憶として残すためにたった一度でも正確な動きを覚えたい。


 夜も更け、屋敷内はにわかに赤穂浪士に立ち向かう家臣らが動き回る音が聞こえる。

 吉良は幾度か部屋に来た家老や義周などが避難などを促してきても、あまり会話もせずにひたすら真剣な表情で刀を振っていた。


「こうして考えれば、やはり中山殿の指導はわかりやすい。剣を握る力加減こそ自分で考えろと言われたが、悪いところは全て指摘してくれた。一学では何処が悪いのか釈然としないことしか言ってこない」


 恐らく他の誰も、剣術を始めたばかりの老人にあそこまで熱心に鍛錬を施してくれる相手は居ないだろう。まさしく得難い、この状況に於ける奇跡的な師であった。

 吉良は素振りを続ける。今日死んでも次の周では構えと振りを修められるよう心がけて、ひたすらに一人鍛錬を続けていた。

 そして、明け方になり。

門を打ち破る音と、火事だと叫び撹乱させる赤穂浪士の声がする。

 吉良は寝室で刀を構えたまま待ち受けた。


「ご隠居様! 襲撃です! お隠れください!」


 一学が部屋にやってきたが、吉良の厳しい目を見て踏み込むのを躊躇った。


「儂は」


 震えもしない落ち着いた声で吉良は明確に拒絶の言葉を告げる。


「戦って討ち死にすると言ったはずだ。下がっておれ」

「しかしご隠居様!」


 一学が寝室に入ると、その背後に赤穂浪士・茅野和助が駆けて来た。


「吉良上野介はここか!」


 一学は慌てて振り返り、刀を抜いて和助へと突進していった。


「おのれ、賊め!」

「邪魔だてすると容赦はせぬぞ!」

「今のうちにお逃げください、ご隠居様!」


 鍔迫り合いになりながらぐいぐいと一学は和助を押していく。

 その騒動に気づいたのか、新手の赤穂浪士が二人こちらへと向かってきた。


「茅野! 援護する!」

「それより吉良を逃がすな! 奥の部屋だ!」


 和助が必死で一学と斬り合いながら、仲間にそう指示を出した。


「了解。武林唯七、行くぞ! 吉良! どうしてお前が!」

「どうしてって言われても」

「うわあああ! 吉良ァァァァァ!」


 恐らくその叫びにはいつもどおり意味はないのだが、あまりに吉良は落ち着いていたのでつい返してしまった。

 だが当然ながら会話は成立せず、唯七は刀を構えて床板を壊すような勢いで踏み込み、全力で突っ込んでくる。

 吉良はそれを真っ直ぐに見ながら、声に出した。


「正しく構えて──正しく斬る!」


 吉良は腹の中に熱いものを感じた。滾る思いとか悟りとか、そういうのではなく刃物が当然のように貫いた感触だった。もちろん死亡した。



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