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5話『終わらない明日へ』



 ──吉良死亡 八回目



 吉良は冷静に起き上がり、文机に向かって紙に『八』と書いた。中々の筆滑りで、末広がりの印象を受ける良い字が書けたのでしげしげと眺めていた。


「ふーむ……いやこんなことをしている場合ではないな」


 ひとまず吉良は義務的に顔を洗って朝食を済ませる。毎日同じ朝食ばかり食べているせいで、少しばかり食傷気味になってきたことを考えながら。

 とりあえずそれから再び自室に戻り、前回の反省点を洗い直す。


「数を揃えたのに赤穂浪士にボロ負けしてしまった……これは偶然などではなく、事実だ。恐らく同じようにすれば同じように負けるだろう。認めよう」


 吉良側は五十人も殺されて負傷者も多数。赤穂浪士で殺害できたものは僅か三人(ただし負傷者は向こうも多かった)という結果になったのか。

 どうにか検証してなにが足りなかったのかを理解しなくては勝てないだろう。


「まず……赤穂浪士が普通に強いということだ」


 肉体的には吉良の兵とそう変わらないはずだが、吉良を討ち取ることに全員が命を懸けて攻めてきているのだ。覚悟や気迫が違えば、浮足立った兵を遥かに凌駕するだろう。

 どれぐらい強いのか。仮定として吉良は考える。


「赤穂浪士……赤……古来より赤くて三倍と言う。ひとまず、儂の兵三人分の強さと見よう」


 赤いと三倍強いというのは、戦国の世にて武田の赤備え、井伊の赤備え、真田の赤備えなど猛将が率いる軍団が赤色をしていて、おおよそ一人で三人分の戦働きをすると言われていたことから武士の間で広まった俗説である。


「となれば四十人が三倍で百二十人分……数の有利は殆どない……いや、待てよ」


 吉良は顎に手を当てて前回の記憶を回想する。

 月明かりの下、死屍累々と庭に倒れている家来達。

 ビデオを再生して一時停止するように明瞭に思い出し、倒れていた死体を数えてみる。


「……足りん」


 どう思い返しても吉良のために赤穂浪士と戦い、討ち死にした勇敢な彼の家来衆は百人も居ないようだった。

 吉良の見ていないところや、屋内で倒れた者も居るだろうが、大幅に想定よりも少ない。


「そ、そもそも戦った人数が少ないのか? ひょっとして、逃げたとか……いや或いは参加しないで長屋に帰ったということも……」


 こちらの指示を無視し、家の主君を残して逃げるなど武士に悖る行動だ。


「我が兵ながら情けない!」


 苛立たしげに吉良は叫び歯噛みしたが、やがてため息と共に握りしめた拳を解いた。


「……散々怯えて震えていたり、逃げ出そうとしたりした儂が言えたことではない……か」 


 それでもこっちも命が掛かっている。敵前逃亡はどうにかしなければならない。


「……とりあえず、兵が逃げる問題は後回しにして、赤穂浪士の強さだ。お互いの士気が違うのは如何ともしがたいが、そもそも見たところ装備が違った」


 目撃した赤穂浪士の姿を思い出して挙げていく。


「夜間で見えづらい火消しに似た黒装束。動きやすい股引脚絆。頭に被った防火頭巾には鉢金が縫い付けてある。武林はそのまま頭巾を被らずに鉢金だったが。一学が体を斬りつけて刃を滑らせたところを見るに、鎖帷子を着込んでいる……まさに戦闘服だ」


 後に芝居などで使われた派手な装束ではないが、実戦向けの格好である。

 完全に統一されていたわけではなく、武林が鉢巻き風だったように個人個人で多少の違いはあった。辞世の句を書いた札を首から下げている者も居たという記録も残っている。

 一方で吉良側は、


「着流しに、普通の羽織ぐらいか……義周や家老などは襷などを巻いていた程度だのう」


 いつもと変わらぬ、防御にも攻撃にも有利にならない着物であった。一応は警戒させておいてこの用意なのだから、覚悟の差が見える。


「武器の類も色々と持っていたな……槍、野太刀、斧、木槌に鉄槌に大鋸などという大工道具を持っている者もおったな……」


 大工道具は赤穂浪士が侵入した際に、すぐに敵の足軽、中間などが出てこないと見て彼らの居る長屋の入り口に板を打ち付けて封鎖するための道具であった。

 出現拠点を塞ぐことで数的優位を覆すという兵法を用いているあたり、計画性は高い。


「儂らの方は、刀に槍……おまけに槍は間合いが長いから有利と思って、屋敷内に持ち込ませたが凄く邪魔そうだった……」


 屋敷内の避ける場所の少ないところで槍を突けば当たりやすいと踏んでいたのだが、台所で構えるにも一苦労していた皆を思い出した。

 考えればわかるようなことだが吉良とて戦うのは初めてだったのだ。屋内で長物が不利などと、これまで考えたこともなかった。実際にやらねばわからないことだらけだ。


「外で持たせるにも、槍を持っておらぬ兵ばかりであったな……」


 吉良邸に保管されている槍の本数自体は結構な数がある。上級武士になると槍持の伴を連れ歩くぐらいだから、武家には必要なのだ。しかしその槍も何人かしか使っていなかったようだ。使ったことのない槍よりは持ち慣れた刀を選んだためだろう。


「……数の有利はないに等しく、士気は著しく低い。装備の差もある……これをどうしろというのか……いや」


 弱音を吐きかけた自分を叱咤する。

 自分で変えられない条件は確かにあるが、変えられるものもある。釣りの道具や餌を変えるように。そう津軽政兕が言っていたではないか。


「一つずつ考えろ……机上の空論でもなんでも、何度でも試してやる……」


 吉良は真剣な顔をして考え始めた。


「まず簡単に解決できるのは装備の問題だ。鎖帷子に鉢金ぐらいならばこちらも用意できる。町奉行所が調達している店に注文を掛けて、あるだけ買ってこさせよう」


 町中で起きた抗争や武装した盗賊の捕物を行うために、町奉行所の同心与力らはそれらの防具で身を守ることが多い。

 鎖帷子は摩耗したり、錆びたりする消耗品なので予備を店に置いてあるはずだ。それでも全員分は難しいかもしれないが、とにかく調達することに決めた。

 防具で身を包めば多少は実戦の恐怖感が紛れるし、ずしりと重たい装備は自ずと気を引き締める。鎖帷子のおかげで一度でも致命傷を免れれば儲けものだ。

 突然の大量注文で驚かれるかもしれないが、命が掛かっているのである。不審に思われようが変な噂が立てられようが、死んでしまえばそれらもなかったことになるのだし生き延びられるのならその程度の風評などどうでも良い。


「武器は……一応我が家にも火縄銃に弓矢などもあるが……この状況では役立たんだろうな」


 大身旗本となればある程度の軍備を常にしておくことが義務の一つであった。

 主には槍が多いが、弓と鉄砲持ちも数名は用意してある。

 だが、襲撃に現れる時刻は夜明け前の暗闇であり、表と裏から押し入ってきた赤穂浪士らは即座に乱戦模様になる。そんな状況で、飛び道具が果たして有効かと想像すると吉良はそうは思えなかった。

 数を揃えていれば話は別だが、火縄や弓は鎖帷子以上に調達が難しいだろう。


「やはり此方の武装は刀と槍……しかし屋内では槍は使えん。というか……中と外に分かれていたら、同時に攻められてしまうのだったな……」


 前回、吉良の思惑としては外で迎え撃ち、手傷を負ったか逃げ込むかのようにして屋内に駆け込んできた赤穂浪士を中の部隊が迎え撃つという二段構えであった。

 一箇所から相手が攻めて来るのならばそれで良かったかもしれないが、結果として裏門から来た赤穂浪士に戦力を傾けているうちに、表門から来た部隊が屋内に突入して襲い掛かってきたのだ。


「とすると……いっその事、戦力を一点集中すれば……ん? 待てよ。全員で集まれば色々と問題が解決しないか?」


 吉良は目を見開いて想定する。

 先程から独り言を呟きつつ考えを纏めているので、若干部屋の外を通った家臣がぶつぶつと独りごちているご隠居に対して気まずそうな表情をしていたりする。


「儂が全員を監督できる場所に居るのならば、露骨に怠けたり長屋に帰ったりする兵はいなくなるだろう。表と裏の両側から攻められるという危険性はあるが、兵力を万全に使って迎え撃てるわけだ。おお、これならば充分に戦えるではないか!」


 喜色を浮かべて吉良はいい考えだとばかりに膝を打つ。


「まずは、皆に襲撃を伝えて防具を用意させる。準備をさせた後で、夜飯を食い終わったら庭に集結……ふむ。襲撃まで時間があるから、順番で兵を休ませて体力を温存させた方が良いな。眠たい状態では戦えまい。そして夜明け前の七ツには全員臨戦態勢に持っていく……これだ!」


 叫んだタイミングで小者が、山田宗偏への使いを終えたことを報告に襖を開けたのだが異様な吉良の熱気に思わず襖を閉じて下がっていった。


「今度こそ返り討ちにしてくれるわ! 赤穂浪士共め!」


 吉良は拳を握りしめて立ち上がり、闘志を燃やした。



 そして前回と同じく吉良が襲撃を伝え、鎖帷子などを買いに走らせた。

 皆に先程立てた具体的な作戦も伝えたので用意周到で正々堂々迎え撃つ構えを見せる吉良の、これまで見たことがない勇ましさに家来達は内心驚いている。

 荷車に載せた鎖帷子や鉢金がむしろで覆い隠されて運び込まれた。

 吉良自身は重たいのだがわざわざ鎧を身につける。すると家臣らもご隠居様の本気武装を見てこれは一大事だと、鎧を持っている上級身分の侍はそれを引っ張り出してきて着用した。

 ただし体が弱い当主の義周だけは非常に危険なので上杉家に行かせる。吉良を残して自分だけ避難することをかなり渋ったのだが、家老の一人と共にそこに預けた。

 そして広い北側の庭に兵を集めて檄を飛ばした。ここならば、裏門を破ればすぐに敵も目につく場所なので決戦の場に丁度よい。寝込みを襲おうとして押し入った赤穂浪士は、敷地内に入ると同時に大勢の相手と真正面から対峙することになるのだ。


「よいか! 儂のみが狙われているとはいえ、武家の屋敷に押し入り前当主の首を取られるなどという無様を晒せば、お家取り潰しも十分にありえる! 心して事に当たれ!」

「ははーっ!」

「敵は深夜から明け方に襲ってくると情報があった。これより、交代で休息を取り深夜には全員が万全で挑めるように心得よ。儂もこの場で戦う。弛まず、怯まず、敵を返り討ちにする」


 吉良の言葉に、皆は頭を下げた。充分に伝わったと見て満足に感じる。

 これで後は待ち構えるだけだ。

 夕食を全員に取らせ、夜食の握り飯も作らせて用意した。

 さすがに当人であるご隠居様が陣頭に立ち、鎧姿で待ち構えているとなればこれは本気だと足軽、小者らも思って神妙に従っていた。彼らの緊張を緩ませないために、吉良は休息を取らずに庭にて伴のものと共に椅子に座り時を過ごす。休憩を勧められても断った。自分の命が掛かっていることである。一晩ぐらいどうということはない。


 夜は更け、庭には篝火が焚かれた。篝火の灯りを不審に思って赤穂浪士が攻めて来ないのでは、と家臣が尋ねたが吉良は首を振る。

 路上でも容赦なく襲い掛かってくるほどに後がない赤穂浪士だ。多少の不安材料は飲み込み、この晩で終わらせると襲撃は敢行するだろう。

 篝火は皆の士気を維持するために必要であった。人は思ったより、真っ暗な場所でじっと待機することに耐えられない。吉良は暗い炭部屋にて震えて待つ時間を経験してそう思った。

 厳寒の雪も残る夜だ。吐く息は白く、鎧や鎖帷子は凍るように冷たかった。


(今度こそ勝てる……勝ってみせる!)


 吉良はそう信じて、じっとその時を待ち受けた。

 そしてやがて、月が大きく傾いて見えた頃合いに。

 一斉に槌で裏門を叩き破る音が静寂を切り裂いた。


「来たぞッ!」


 吉良が大声で言う。吉良側の兵は硬い表情で、槍を手に構えるか、抜刀した。

 その声に反応したのは赤穂浪士の方もであった。庭にある篝火周辺に百名以上の吉良勢が固まっているのを見て、奇襲の失敗を即座に悟ったのは裏門隊で最も年長であり、山鹿流兵法を学んだ間喜兵衛だ。

 短槍を片手に乗り込んだ彼は、既に臨戦態勢の吉良勢と、それに怯んだ赤穂浪士を見てためらわず真っ先に前に出た。


「都鳥いざ言とはん武士の恥ある世とは知るや知らずや──」


 そう歌を唱えるが否や、


「うおおおお!」


 激高したように叫んで、短槍を構えて密集した吉良勢に突っ込んできた。

 思わず息を呑んだ吉良側の兵が、老武者の突き出した槍で突き倒されて動揺が広がる。


「喜兵衛殿に続けえっ!」

「応!」

「戦え! 戦え!」


 喜兵衛の流れを変えるべく行った突撃の効果は絶大だった。怯んでいた赤穂浪士は勢いをつけて密集した吉良の軍勢になだれ込み、手当たり次第攻撃を加え始める。


「落ち着いて倒せ! 囲んで斬りつけろ!」


 吉良は動揺している味方に向けて叫ぶが、集団対集団の状況は一瞬で崩れて既に場は乱戦になっていた。多少広いとはいえ、庭に百数十名が入り乱れるのだ。こうなれば槍も振るえない。

 目を見張り、吉良は歯噛みする。

 吉良側の兵の動きがとてつもなく悪いのだ。

 薄暗くて、走り回る赤穂浪士の姿が捉えきれないのか右往左往としている者もいれば、混乱した恐慌したか手当たり次第周囲に刀を振っている者もいる。

 密集しているが陣は保てず、兵は正気を維持できていない。同士討ちが各所で発生していた。


「くっ! よく見て戦うのだ! 赤穂浪士を狙え!」


 吉良が声を張り上げるが、恐らくは聞こえていないだろう。

 吉良の誤算であった。自分の兵を単に数として捉えて、揃えれば自ずと統率され戦うものと思っていたのである。

 ところが彼らは太平の世に慣れきっている上に、多くは武士というより奉公人だ。

 戦国の世に生まれた兵として歴戦をくぐり抜けて来たのならば、戦う覚悟もできていただろう。だがこうして初めての切り合いに突然叩き込まれた小者、足軽らは完全に浮足立っていた。頭の中は真っ白になり、とにかく生きるか死ぬかの瀬戸際で必死に目の前の誰かに剣をぶつけるのみの行動しか取れていない。

 切り合いの場になったら思うように動けず、同士討ちが始まるのはありえることであった。

 実際に桜田門外の変でも、襲撃をした側の水戸藩士が緊張のあまり敵を誤認して仲間と切り合っていた例もある。襲撃を受けた側である吉良の兵も、慌てて味方の背中を切ったりしていた。


「くそ、くそ……」


 吉良が比較的冷静な近習達に守られながら呻いた。

 彼が戦いに慣れていないように、彼の家来で誰ひとりとして戦いに慣れた者は居なかったのだ。兵力の集中、数の有利は一転して全軍の混乱という事態に陥った。


「吉良ァアアア!」


 闇夜を切り裂く雄叫びが響いた。

 塀の上からだ。梯子を使って塀を上り敷地に侵入する赤穂浪士の表門隊の中で、乱戦を見つけた一人がそのまま塀の上を走って庭に近づいてきたのだ。

 篝火の近くに立っていた吉良の姿ははっきりと見えただろう。

 叫びに対して吉良も顔を引き攣らせながら振り向くと、月光を背に怒髪赤面の武者がやや離れたこちらを見ていた。

 武林唯七だ。


「お前がやりたかったのは、こんな戦いかッ! この馬鹿野郎ッ!」

「ご隠居様、離れて──!」


 咄嗟に一学が吉良を突き飛ばすと同時に、唯七が投げつけた槍が一学の腹に突き刺さる。


「一学!」


 腹から生えた槍を押さえながら、口をぱくぱくと動かして一学は倒れ──その拍子に篝火をなぎ倒してしまった。

 煌々と燃えていた炎が地面に落ちて、周囲の暗さがより一層増す。


「吉良! そこで待ってろ! お前を連行する!」

「じょ、冗談じゃない!」

「トゥ!」


 掛け声とともに唯七が塀から飛び降りる音が聞こえてきたので、吉良は慌てて味方の兵が集まる中に移動した。


「後ろから赤穂浪士の援軍が来たぞ! 者共、攻撃しろ! あの男を倒せ!」


 吉良が警告を叫ぶと兵らは悲愴な表情で振り向く。前から後ろから、そして乱戦になるように赤穂浪士が暴れてどこに敵が──自らの死があるのかわからず恐慌している。


「邪魔だ! 退けと言っている! お前たちになにができるっていうんだ!」


 唯七はまだ地面に落ちた篝火の近くに居たので、暗いところに移動した吉良からもよくその姿が見えるのだが。

 吉良は目を疑いたくなる。近寄る兵を蹴り飛ばし、殴りつけ、刀で鎖帷子ごと切り裂いて次々に倒していくではないか。

 一人二人ならまだしも近寄る吉良の兵が十人以上仕留められたところで、唯七の方を向いていた兵らは逃げ出した。背後の敵を当たっていた部隊が潰走し始めたのだ。ますます場は混沌としてくる。

 絶望的だ、と吉良が思った瞬間に脇腹に熱いものを感じた。冷たい鉄の感覚。何度も味わった、刃が刺さった感触だった。

 更に目から火花が飛び出るような痛みだ。脇腹を見ると突き刺さっていた槍が、暴れてぐちゃぐちゃと傷口に刺さったまま動かされて刺し傷を酷くし、引き抜かれた。血が大量に吹き出て地面に零れた。

 その槍を持つ相手を見ると、


「うわああああ! 来るな! 来るな!」


 と、半狂乱で叫びながら同士討ちをしている自分の手勢が居た。吉良の脇腹はその振り回した槍が刺さって慌てて引き抜かれたらしい。

 どっと力が血液と共に抜けていき、膝をついてうつ伏せに倒れた。大きな血管が切れたらしい。急速に失血し、意識が薄れていく。

 自分の体が何人からも踏まれるのを感じて、吉良は目を閉じる。


「失敗……だったか……」


 まともに戦ったことのない兵を大勢揃えても、死ぬ覚悟で突っ込んでくる相手では烏合の衆もいいところなのだ。それが判明した。


「次は……次……こそ……」


 吉良は肺から血がこみ上げながら呟き、静かに死んでいった……



 吉良義央、混乱した味方に刺されて死亡。



 壮絶な勝負になった赤穂事件のクライマックス、吉良邸の戦い。

 お互いの被害は多く赤穂浪士も半数が死傷したが、吉良の首を取ることには成功した。

 当初の奇襲計画はうまく行かず、吉良に見破られて迎撃を受けたもののそれを乗り越えて仇討ちを成功させたという赤穂浪士は、正々堂々と戦ったと見られて、或いは奇襲を成功させるよりも評価されることになったという。

 



 ******



 ──吉良死亡 九回目



「全然駄目ではないか!」


 吉良はひとまず叫びながら起き上がり、文机に向かって死亡回数を『九』と記した。


「このままでは十の大台に乗ってしまう……いい加減殺されすぎだ。猫を殺せば七代祟るというが、猫を殺した覚えもなければとっくに九回目になってしまった……」


 吉良はふと脳内で、殿中にて切りかかってきた浅野長矩が頭に猫耳を生やして猫の手風の爪で引っかきにくるのを想像して吐きそうになった。


「さておき……」


 今回はどんな作戦で行こうかと吉良は頭をひねらせる。また条件を変えて試さなくてはならない。折角整えて待ち構えた時間が無駄になったようで、徒労感を覚えた。


「ご隠居様、六ツ半でございます」


 部屋に入ってきた一学の姿を見て桶を受け取り、吉良は桶の中を見ながら苦々しい顔をした。

 まだ生きているが、主観的にはさっき死んだばかりの近習の姿を見てもそれほど動揺しなくなった自分に気づいたのである。


(皆が死ぬのに慣れてきておるのか……)


 それは吉良の心境にとって良い変化なのか悪い変化なのか……どちらにせよ、自分の感性というか普通の感覚が僅かに変質しつつあることに、吉良はため息をついた。

 作業的に朝の用事を済ませる。


(義周が味噌汁で熱がるのを見てもまあいいかと思うようになった)


 孫で義息子を気遣う気持ちすら摩耗して行くのだろうか。そう思うと陰鬱な気分になるが、味噌汁で口を軽く火傷するぐらい死ななければどうということはないと思い直した。

 毎回毎回注意しているといい加減自分で気づけ、とさえつい考えてしまう。自分以外も記憶を持ち越せたら、話は随分楽だというのに。


(いっそ全てを正直に話して自分が未来から戻ってきていることを伝えてみるか?)


 と、一瞬思ったがすぐに考え直した。

 それを伝えたところでボケた老人扱いされるか、受け入れてくれたところで赤穂浪士を迎え撃たねばならない事情が変わるわけでもない。事情を知っているからといって、戦力は自分が言い包めて準備させる場合と変わらないのだ。それに死んだらまた説明を繰り返す羽目になる。

 吉良は部屋に戻り計画を練る。少なくとも、昼までには方針を固めて皆に襲撃を伝えて装備などの準備を整え始めなければならない。


「まともに、万全の状態で戦っても勝てぬ。これはよくわかった。ではどうするか」


 吉良は言葉に出して文机の前に座って悩み始める。

 適当に、机に載せた紙には情報を記して整理していく。脳内で明瞭に記憶を再現させて事実を羅列する。

 赤穂浪士の数は、少なくとも裏門から現れたのは合計二十四人。門を破って突入してくる。

 表門から来る数は不明だが、同じ程度の人数を想定する。唯七の登場からするに、梯子で塀をよじ登って敷地に侵入してくるようだ。表門が破壊される音は聞こえなかった。

 簡単な屋敷の見取り図と、侵入経路を紙に書きながら呟く。


「まともに戦って負けるのならば、取るべき手段はひとまず二つだな……」


 酷く単純に分類すれば、


「まともではなく戦うか、戦わないかだ……」


 呟いてみて、なにか上手い案があるわけでもないので眉根を寄せて考える。


「まともでなく戦う……例えば計略を用いるとか? 水攻め……は無理がある。火攻め……はもうやったか。敵の登場に合わせてこちらから奇襲を仕掛けて一気に勝つ……いや、どうやってだ? 裏門から現れるので来た瞬間に突っ込めと兵に指示を出しても、怯んで絶対従わず逆に負けるところが容易に想像できるぞ」


 実際、前回に敵が突入してきた裏門からすぐ目の前にある庭に全兵力を集中させていたのも逆奇襲めいていたというのに、誰も積極的に赤穂浪士へ突っ込んではいかず、逆に赤穂浪士側が突撃を仕掛けて乱戦に持ち込まれた。

 乱戦になると負ける。吉良はなんとなく紙にそう書いて、やたら説得力を感じた。


「戦わないとなると……逃げるのは確実に失敗することが目に見えているからな。相手が攻め込んでくるのを諦めるとか、撤退してくれるとかそういう条件があるだろうか……」


 自分が赤穂浪士ならばどういう条件があれば今夜の襲撃を中止か、延期するかを吉良は考える。今後二度と攻めて来ないという条件ではなく、ひとまず今晩に限ってならばどうにかならないだろうか。

 今夜来なくても根本的に解決しなければいつかは赤穂浪士が襲ってくる可能性が高い。

 しかし、明日まで生きることができればそれはこの繰り返す毎日において進歩といえるだろう。それに、赤穂浪士が襲ってくるまでに猶予が長ければ長いほど、対応策を巡らす時間が得られるかもしれない。


「……よし、今日を生き延びることだけを考えよう。儂が赤穂浪士ならば……そうだのう、露骨な罠どころか完全警戒状態ならばその日攻めるのは止めるだろう。それを試してみよう」


 これまでは赤穂浪士を出し抜いての作戦だったが、今度は違うアプローチ方法を取ることに吉良は決めていつものように皆に説明に向かった。



 家臣団を集めての場にて、


「斯く斯く然々──というわけで、今晩に襲う予定を立てている赤穂浪士の襲撃を止めるために、足軽らは夜通し裏門と表門の内外で番を立てることにする!」

「ははーっ!」


 吉良の立てた作戦はこうであった。

 あからさまに門の外にまで二十人か三十人ほど警備の兵を出して赤穂浪士に見えるよう配置しておけば、奇襲計画の失敗を悟って取りやめにする可能性が高い。

 或いは強行し、外で争いになるかもしれないが屋敷内ではなく本所の路上で数十人規模の抗争を起こせば仇討ちどころの騒ぎではなくなるだろう。

 兵の負担は大きいが、交代制で番に立たせることで休ませながらある程度の緊張感を保たせておく。戦っても勝てる味方ではないが、今回は抗争の抑止が目的だ。


 なにも、相手がこちらと戦うと敵わないと思わせる必要はない。

 戦いになると厄介な事態になると思わせればそれだけで争いは起こしにくくなるのだ。


「一日生き延びれば、また次の一日もどうにか生き延びられるかもしれぬ……」


 それに襲撃計画が完全にバレているというのならば、敵の団結力を挫ける可能性もある。

 内通を疑い、離反を起こし、戦力を減らしてくれれば勝ちの目が出るだろうか。


「こんなにも、明日を願う想いを持つのは初めてだな」


 吉良はそう呟いて、沈んだ太陽の方向を眺めていた。



 当然ながらその夜、吉良は眠らなかった。

 眠ってしまってはなにもわからないまま事態が進行してしまう。失敗したときに原因も掴めなくなる。だからこそ、吉良は動き回っていた。

 交代の足軽にねぎらいの声を掛けて、熱い湯茶などを分け与える。即物的だが、番をする彼らには臨時の手当も支給していることでそれなりのやる気は感じられた。死ねばなにもかも終わるのだから、金も惜しんでいる場合ではない。


「頑張るのだぞ」

「はい! ご隠居様!」

「怪しい者が居たら大声を上げて追い散らせ」

「はい! ご隠居様!」


 実戦でもこれぐらい素直に戦ってくれれば役に立つのに、と微妙そうな顔をしながら、臨時収入で張り切る彼らを激励して回った。

 赤穂浪士の襲撃が来る予定時刻は夜明け前。なにもなければ、明けの太陽が東の空から上って来るのを拝むことができる。

 吉良はそれを待つ間、屋敷の部屋や庭をうろうろして家臣らから心配された。


「ご隠居様、夜は冷えます。お体のためにも、部屋でお待ちしておられれば……」

「そのような悠長な事をしていられるか!」


 家臣の気遣った言葉を退けて吉良は動き続けた。

 単に目的もなく敷地内をうろついているわけではない。

 部屋の間取り、広さ、庭石の位置、池の場所、倉の中などを片端から見て記憶しているのだ。今回が駄目でも、なにかに使えるかもしれない。余った時間を作戦の材料集めに利用しているのであった。

 それから時間が経過して、月が大きく西の空に傾いた。

 空が白み始めている。


「おお……おお……」


 吉良は感動したように、徐々に明るくなりつつある東の空を庭から見ていた。

 よかった。赤穂浪士の襲撃はなかったのだ。さすがに、日中堂々と屋敷に襲撃してくることもないだろうからまた今日も少なくとも夜まで生きることができる。

 それに、『夜に見張りを置けば翌日まで襲われない』というパターンを見つけることができたのは僥倖だ。これを使えば、毎回都合二日分の猶予が生まれて用意できる作戦の幅も増えるだろう。


「なにもできぬからといって、なにもしなかったら、もっとなにもできなくなる……か……」


 なにか今、儂は良いこと言ったなと吉良は満足感を覚えた。

 その瞬間、背中をずぶりと貫き通す感覚があり、彼の胸から刀の先端が生えてきた。

 肺が一気に血に満たされたようで、咳き込んだ。


「ごふっ……」

「卑怯者と言われても、退けない覚悟がある……! 吉良……! お前を討つ……!」


 背後から声が聞こえて、身をよじりゆっくりと見るとそこには、薄明るくなった空に照らされてやたらと赤い顔をした男……武林唯七が居た。

 恐らくは、と吉良は失敗を悟る。

 屋敷の周囲を寝ずの番で守っている段階で集団襲撃を取りやめたのだが、警備の隙をついて梯子で唯七一人が潜入してきたのだろう。

 兵力の殆どを休憩か外に回している邸内で、呑気に庭に出て朝日を見ようと眺めていた吉良を背後から刺したのだ。

 これはもう仇討ちというより、忍びの暗殺である。

 果たしてこれで赤穂浪士の本懐が遂げられるのか怪しいものだと吉良は思うが、そもそもこの唯七に常識や後先考える能力があるのかも不明だった。津軽家の旗本屋敷に一人で襲撃を仕掛けるようなやつなのである。正気ではない。


「また、お前か……厄介な……やつだ、お前は……」

「終わりだ!」


 そう言い放って唯七は刀を抜き放ち、力の抜けた吉良の体を担いだ。そのまま赤穂浪士の元に連れていくつもりかもしれないが、少なくとも胸を貫かれた吉良はその後すぐに死んでしまった。



 吉良義央、潜入した武林唯七に暗殺され死亡。



 この世界では完全に警護された屋敷から吉良がいつの間にか忽然と姿を消して、泉岳寺にて何故か赤穂浪士が吉良を討ち取ったと喧伝しているので大層な混乱が起きた。

 名誉ある仇討ちというにはあまりに不可解な事件であり、一応は赤穂浪士が全員切腹という形で収まったが大立ち回りの活躍はしていないし、殺し方に身も蓋もなかったので世間からの人気も出なかった。

 ただし武林唯七が拉致してきたという記録だけは赤穂浪士達の証言に残っていたので、後世で唯七は謎の忍者めいた存在として扱われることになったという。

 



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