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4話『変革の序曲』

 


 ──吉良死亡 六回目



「……」


 吉良は布団から起き上がった。朝方のひんやりとした冷気が、目を閉じるとまだ皮膚が焼けていく感覚が蘇ってくるような体に心地よい。

 また吉良は死んだ。武林唯七と赤穂浪士らを道連れにして、自分が思いつく限り相手に不名誉を押し付ける手段を予め用意してやり、死んだ。

 それでいいと思った。

 あの死に方で満足だった。義周を、家臣を、津軽政兕などを犠牲に生き延びるよりはせめて一矢報いて死んでやればもう未練もない。

 そう思っていたのに──


「……悟りを得たお釈迦様は、この世に二度と生まれてこないことを願ったのだったか」


 吉良はそう呟きながら、その場に座り直し正座をする。

 死んでも生きて戻れるのは仏の慈悲かと思ったが、そうではないようだ。

 ではなんなのか、と言われても吉良にはわからない。

 彼は刀掛けに置かれていた脇差しを掴み、刃を抜いた。


「神仏よ、どうか儂を生き返らせてくださるな……」


 そう祈って、吉良は脇差しを腹に深々と突き刺し、横一文字に切り裂いた。


「うぐっ……!」


 腹を冷たい鉄が通過する、背筋まで冷える感覚。続けて眠気も醒めるような痛みが襲ってくる。傷口の表面が熱いのに寒い。血が溢れ出て、冷えていくのを感じた。


(腹を切るのは初めてだ……! 当たり前か)


 手が震えだし、脇差しを握っていられない。痛さに前かがみになり、悶絶する。


(そう言えば浅野が腹を切った後で、富子はこう言っていたな……)


『お殿さまは、おなかを召されないのですか?』


 そう妻に言われた吉良は、自分は被害者だというのにと酷く憤慨して富子に厳しく当たった。

 だが彼女は吉良が怒ったのを見て困ったように、


『そういう意味では、なかったのです』


 とだけ告げて、深々と頭を下げた。それから富子と気まずくなり、この屋敷に引っ越す際に妻は実家の上杉家に別居するようになってしまった。


(結局、どういう意味かは聞けなかったな……)


 吉良と富子は仲睦まじい夫婦であった。政略結婚であったが、富子はよく家のために尽くしてくれたし吉良も富子が病気を患ったときは快癒祈願もした。夭折した子も居るが二男四女も子を作って、お互いに喜んだり悲しんだりした。

 それと小さなことで喧嘩をして別居になったまま死ぬということは、少し残念であった。


(こうして割腹した儂を見つけたら、どう思うだろうか……)


 そういう意味では、なかった。

 彼女が言った言葉が浮かんでは消えた。

 どちらにせよ今吉良は、浅野のために腹を切っているわけではない。

 この悪夢のような繰り返しから逃れたい一心で腹を切っているのであった。


「ご隠居様、六ツ半──ご隠居様⁉」


 部屋に入ってきた一学が、腹から血を流して前につんのめっている吉良を見つけて、慌てて肩を抱いて起こした。

 朝起こしに来たらいきなりご隠居が腹を切って死にかけているのだ。驚きもする。

 吉良は激痛で指一本動かせそうにない。いずれ死ぬが、まだ死なない状況だった。人は割腹しても余程派手にやらない限り、即死はしない。


「一学……介錯を頼む……」

「ご隠居様! どうなされたのですか! すぐに医者を……!」

「介錯……だ! 早くしろ……! 武士に、なったのだろう……」

「ご、隠居、さま……」


 一学は涙を浮かべ、震える手で腰の刀を抜いた。

 普段の稽古をしている様子とはまったく違い、刀はぶれて腕は力み、突然のことに頭はまったく集中できていないようだった。


「富子に……すまんと伝えてくれ……やれ!」

「っ、は、うああああ!」


 叫んで、前かがみになっている吉良の後ろ首へ刀を叩きつける。

 刃筋が乱れている刀は目標から逸れて吉良の頭に当たり、血を流させた。

 切れなかったとはいえ、鉄の塊で頭を殴られた吉良は吐き気のような痛みを覚えながらもなにも言葉は喋れなかった。

 続けて二回目。首に当たったが、僅かに食い込んだだけで落とせずに、一学は力づくで刃を引っこ抜くしかなかった。


「は、早く、早く楽にして差し上げねば、早く……」


 泣きそうな声で言う一学の技術は、普段剣術を学んでいる能力がほんの僅かにも発揮できずにいた。人を殺すことができないのではない。主君を守るためならば、命がけで敵を切ることに躊躇いはないだろう。

 だが一学は農民の子。自分を侍にしてくれた主君の首を介錯するという、武士の情けともいえる作法を前に完全に頭が真っ白になっていたのだ。

 三撃。四撃。とうとう、吉良の首を切り落とすまでに、八回も刀を振るってどうにか首を落としてやるのであった。

 血まみれの吉良の寝室に、呆然とした一学。


「なんで……なんで……ご隠居様……」


 昨日まではなにもなく、今日も同じ日常が始まる朝だというのに。

 同じ日常が始まることを拒んだ老人は、死を選んだ。


「う、ううう、う……」


 一学は吉良が死んだこと、そして自分が介錯の役目を満足に果たせず、彼を苦しめてしまったことでどうしようもなく涙が出てきて、泣いた。



 吉良義央、切腹後に清水一学に介錯を受けて死亡。



 この世界では、吉良を討つことが不可能になった赤穂浪士は貧困に喘ぎながら自然解散し、赤穂藩から多くの浪人家族が路頭に迷うこととなった。

 吉良家の隠居割腹事件は、邸内で起こったことと遺書などもないことから、病死ということで内々に収めた。

 だが知らされて通夜にやってきた妻の上杉富子は暫く鬱ぎ込み、出家して吉良の供養に残りの人生を捧げた。

 清水一学は吉良の葬儀を終えた後に、自らも介錯を受けずに腹を切って、吉良の後を追った。



 こうして──誰も幸せになれなかった。




 ******



 ──吉良死亡 七回目



「死んどる場合かっ!」


 叫びながら布団から跳ね起きて、吉良は偏頭痛がする頭を押さえた。まるで金属の板でガンガン殴られたように頭が痛む。まあ、先程まで殴られていた記憶があるのだったが。


「赤穂浪士共を焼き殺しても死ねなかった。腹を切っても死ねなかった」


 ぶつぶつと吉良は呟き、忌々しげに歯を食いしばりながら、文机の紙に『七』と記録した。

 以前までの彼ならば、どうすればいいのかと嘆いて立ち止まっただろう。

 何故死なせてくれないのか。自分がいったいなにをしたというのか。どうすればこの繰り返しから逃れることができるのか。死なせてくれ。そんな泣き言は、確かに今の吉良にも自然と浮かんでくることだった。


 だが七回も死ねば性根も変わってくる。死んだことは死んだが、既に復讐もやり遂げたし、自ら死を選ぶ覚悟も決められた。

 ならばもう怖いものなどあるだろうか? 

 彼の死んだ経験は無意味ではない。それを、無意味にしないように行動する限りは。


(政兕は、自分でできることをなんでもするべきだと言っていた)


 そのまま殺されるのも、逃げて殺されるのも実行した。

 ならば、


「戦って、勝って、生き延びる……?」


 できるのだろうか。生まれてこの方、まともに戦いなどやったことはない。それに赤穂浪士、武林唯七の強さは目の当たりにしている。だがそれでも、


「やるしかない……何度死んでも、百回殺されても……儂は明日へたどり着いてみせる」


 吉良邸ごと自分と唯七を燃やし尽くした炎は反撃の狼煙だ。

 立ち上がり、吉良は吠えた。


「うおおお! 儂はやるぞ!」

「……」


 起こしに来て襖を開けた一学が、拳を振り上げて声を張っている吉良をちらりと見て。

 水桶と手ぬぐいを部屋に置いて頭を下げ、無言で下がっていった。

 明らかに高血圧の老人が朝から発奮していたように思われたようだ。吉良は軽く凹んだが、死ぬことより凹むわけではないのでひとまず顔を洗うことにした。



 朝の日課を過ごしてからまず山田宗偏に茶会の予定を断るための使いに出す。茶を飲んでいる時間はないが、吉良はさてどうして戦ったものかと考えを凝らした。

 夜、というか明け方近くに赤穂浪士達が夜襲を仕掛けてくる。

 その人数をまず吉良は把握していない。しかし、赤穂浪士が襲撃を狙っているという噂は既に吉良も掴んではいた。隠居したとはいえ、幕府との伝手は残っている。そうなれば元赤穂藩の藩士らが江戸に次々と集結しているという報告は当然ながら幕府でも把握しており、それを吉良に教える者も居たのである。

 吉良は考えをまとめるために自室に篭もり、机の前で腕を組んで考えていた。


「ふーむ……前々回を思い出すに、屋敷に二十人ばかり顔を見せたかのう」


 放火して巻き込む作戦をしたときが最も赤穂浪士を吉良が多く目撃した瞬間だった。

 そのときは怒りで、唯七を殺すことだけを考えていたので冷静に数えたわけではない。だが、こうして思い出すと見た光景を鮮明に思い出せる。


「一回目に殺されたときに武林の近くに居たのが二人……それとは別の二人が、三回目に荷車で突進してきたときに付き従っていた……ふうむ? はっきりと覚えておるのう」


 吉良も六十を越えて物忘れも少々出てきたことが悩みだったのだが、不思議とこの襲撃に関しては記憶が確かなようだ。一昨日に食べた食事も碌に思い出せないのに、十二月十四日の今日に関しては何度繰り返してもそれぞれの記憶を覚えているらしい。


「屋敷内に二十人……全員で突入してくるとは思えんな。多分、儂が逃げるのを見越して取り囲む役とか居るはず……外にも二十人と考えて合計四十人か」


 吉良も戦いのセオリーなどは殆ど理解していないのでとても大雑把な想定だが、案外に近い数が割り出せた。

 実際にその四十人と、表門に三人裏門に四人の司令部を合わせれば赤穂四十七士が揃う。


「うん? 四十人程度か……我が方は……正確には数えておらぬが、百人以上居るよな」


 中間や小者らに酒と給金を与えて逃させた前々回を思い起こした。江戸の大名屋敷では、これら中間小者に流れの者を雇って屋敷の管理をさせることが多いが、江戸で過ごすことの多い吉良は全て手の者である。

 上杉家の息子であった義周を養子に迎え入れた際に、雑兵として付いてきた者を中間にしていたのだ。そこらで雇った無頼中間と違い、一応は兵士に値する。

 四十名と百数十名。単純に考えて、三倍以上の兵力差である。


「あれ? これ普通に勝てないか?」


 吉良は意外そうに自問した。

 かつて武田信玄は「城攻めは十倍の兵力で挑め」と言った。屋敷は城ではないが、敵を迎え撃つという点では同じであり、有利な立ち位置でもある。


「儂の寝室にまで赤穂浪士が突入してきたのも、夜明け前の最も油断した時間に奇襲を仕掛けて来たから恐らくは殆どの兵力が行動できなかったのだろう……」


 となれば。


「予め襲撃の事実を掴んでいると伝え、準備をさせて迎え撃てば充分勝てる……!」


 吉良は笑みを作りながら確信する。


「今まで逃げて震えていたのが間抜けだった! ようし、目にものを見ておれよ赤穂浪士、武林唯七! 仇討ちが名誉ならば返り討ちも名誉だと教えてくれるわ!」


 というわけで、吉良の新たな方針は『普通に迎え撃つ』ことが決定されるのであった。



 義周に家臣団を集めて吉良は重々しく告げる。


「黙っておったが、儂を狙う赤穂浪士の動向を手の者にこれまで探らせていた。そして奴らが今晩、屋敷に討ち入る計画を実行することが判明した」

「なんですと!」

「真ですか、ご隠居様!」


 ざわざわと皆が騒ぎ、色めき立つ。

 なにも証拠がなくて赤穂浪士が攻めて来ると騒いでも老人の被害妄想だと思われるが、手の者が探ったという一言を付け加えるだけで周到で用心深いご隠居という印象を与えるのだ。

 当然ながら手の者などは居ないのだが。


「間違いない。今も屋敷をどこからか見張っておるはずだ」

「そ、それでは父上! 危のうございますので、上杉家にでもお隠れなさってください!」


 義周が提案するが、吉良は苦い顔をした。

 津軽家に逃げ込んだ際に、政兕が目の前で殺害された絶望が思い出される。上杉家には、吉良の息子である藩主上杉綱憲と、別居中の妻富子が居るのだ。

二人を危険に晒すわけにはいかない。それに、赤穂浪士の集団襲撃ならば大大名である上杉家の守りで撃退できるかもしれないが、唯七が一人で乗り込んできた場合は津軽家のときと同じく、最低限の騒ぎだけで吉良の元へ駆けつけるだろう。


「いいや。逃げても無駄だ。或いは路上で襲われるか、これから一生赤穂浪士の襲撃に怯えて生きるかになる。もうあやつらは今夜の襲撃予定が崩れるとなれば、形振りも場所も関わらず儂を襲ってくるぞ」

「そんな……」


 四六時中暗殺の注意をしながら生活をすることは難しい。

 だいたい、米沢に引っ越ししようにも街道の途中で襲ってくる危険性に吉良は気づいていた。時間が経過すれば赤穂浪士の集団は崩れるかもしれないが、個人個人で付け狙うようになると余計にたちが悪い。

 更には逆恨みで吉良本人ではなく、義周を狙うかもしれない可能性もある。吉良は知らないことだったが実際に、赤穂浪士の堀部安兵衛が残した記録では吉良が米沢に逃げた場合は代わりに義周を打ち取る算段をしていた。


「よって今宵、屋敷に押し入る赤穂浪士らを尽く返り討ちにし、遺恨をここで終わらせることにする。各々、刀を手にして夜を過ごし、夜明け前の襲撃に備えるように。また、中間小者らにもそれを伝え、武具を用意させい」

「ははーっ!」


 隠居したとはいえ長年の吉良家当主がそう命じるのだから、家臣どころか慌てた義周さえ頭を下げるので、吉良は苦笑をして現当主の肩を叩いた。


「敵の人数は五十人おらぬほどだ。こちらが万全の体勢で待ち構え、奇襲を打ち破れば動揺して一気に有利になるはず。よいか、義周は決して危ないところに出るでない」

「わ、わかりました父上。私は父上を守るように、側におります」


 自分の近く、というと多少不安に感じたが、目の届かないところに居て不慮の事態が起きれば大変なので吉良は頷いた。


(もし、儂のところまで赤穂浪士が踏み込んできて殺されれば、また朝に戻るだけだ)


 自嘲気味にそう思いながら。


 赤穂浪士襲撃の話は屋敷の皆に伝えられ、にわかに緊張が走った。

 屋敷で雇っている中間などが、渡り中間と呼ばれるあちこちの屋敷で仕事を転々とする無頼まがいの者だったならば、或いはその吉良が襲撃に感づいているという情報を赤穂浪士に売り渡しに行ったかもしれないが、彼らは吉良家では全員が前々から雇っている下級ではあっても家来なので、そのような事態は起きなかった。

 ただ女中などは襲撃を怖がったが、逃げるよりはさっさと夜になると長屋に隠れて戸を閉めることにしたようだ。さすがに、名誉のために仇討ちに来る浪士らが無抵抗な女中が集まっている部屋を襲うことはないと判断したのだろう。

 しかしながら準備といっても、刀以外にはせいぜい槍や弓があるぐらいなので各所に配り、門に交代で見張りを立てようというぐらいであった。

 吉良自身もどう指示をしたら良いかわからないので、ひとまず皆がざわめいているのを見て、


「うむ、注意して準備をしろよ」


 と、万全に警戒しているのだと認識して満足している。吉良の指示もやたら具体性がなくてふわっとしているので浮足立つのも仕方ないのだが。


 それから夜になり、時は過ぎていく。

 するとどうだろうか。戦どころか、個人の切り合いすらまともに経験したことがない者が殆どを占めている吉良の兵力は……中々現れない赤穂浪士に対して、警戒が薄らいできたのだ。

 戦慣れしていない者ほど、まだ敵が現れないときに強く警戒して次第に疲れてしまい、疲弊したところで襲われるという。まさにその現象が起こった。

 吉良が襲撃に付いて伝えて屋敷に広まったのが正午ほど。赤穂浪士の襲撃は、その十六時間後という間を置いて発生するのだ。

 普通に考えれば襲撃までの残された猶予は短く、皆も慌てて準備しただろう。

 しかし準備し終えてみると、夜を十時間ほども待たねばならない。

 こうしていると、平和に慣れた足軽らは欠伸も出てくる。


「中々来ないな、赤穂浪士とやらは」

「本当に現れるのか?」


 などと言い出す始末だ。

 勿論、吉良の近くに居る家臣らは彼の異様な警戒心に気を抜かず待っているが、末端の足軽は徐々にボケ老人の被害妄想で赤穂浪士は現れないという考えが主流になりつつあった。

 襲撃時刻はおおよそ午前四時ほどだ。明確な危機感がなければ、それまで集中を切らさずに警戒し続けるのは難しい。

 赤穂浪士らの相手が寝静まった時間帯を狙って襲うという、用意周到さが見える。史実においてほぼ一方的に吉良方を十七人殺害、二十四人負傷させたのはその夜襲の効果によるものが大きい。

 集中が切れて、寒い中で夜通し待たされている中間小者らはそのうち、


「どうせ来ないだろう」

「俺、布団入って待つから来たら起こして」

「俺も、俺も」


 そう言って長屋に戻り、寝始める者まで出始めたのであった。

 皆は思っているのだろう。この時代に、数十人で襲撃なんて戦国めいた行動をするやつなど存在するはずがない。 

 吉良の誤算の一つは、他人に対する想像力の欠如によるものだった。彼自身は何度も襲われ殺されているので、疑いようもなく赤穂浪士がこの晩に攻めて来ると知っているが……他の者はそうでもないのである。襲撃が行われるという確信がなければ、十二月の寒い夜を明け方まで起きて臨戦態勢を整え続けるというのは中々に厳しいものがあった。

 屋敷内では吉良と家臣らが待機していた。表門に近い玄関の広間や、裏門近くの台所に数名を配置しそれ以外にも二名ずつ邸内に潜ませて、吉良と義周を含む家老や近習などは屋敷の中央付近にある台所へ集まっている。

 吉良がこれまで二度隠れて殺された炭部屋に隣接している台所である。ここが吉良邸で一番広く、夜に灯りを使っていても気づかれにくい。

 邸内に居る見張りを時折交代させながら、惜しまずに熱い茶を振る舞って、眠気を飛ばさせる。生きるか死ぬかだ。高級な抹茶も使い切るつもりで吉良は使った。


「改めて言うが、まずは屋敷の外で足軽らが襲いかかり人数を減らす。そして屋敷に逃げ込んできた赤穂浪士を中で迎え撃つ。よいな」

「はっ」

「時に今は何時だった?」

「暁の八ツ半(午前三時)ほどです」


 先程見張りから戻ってきた侍に尋ねて、そろそろかと吉良は気を引き締める。見張りに出たついでに月の位置を見て時刻を推察させたのだ。江戸の人間は時計など持っていないので、太陽や月の位置で大体の時間が把握できていた。

 襲ってくる正確な時刻も吉良はわからなかったが、夜明け前なのは確かだった気がするのでそろそろである。

 胃の辺りがきゅっと痛んだ。死の恐怖だ。今回で上手く行かなければ、彼はまた殺されることになる。


(大丈夫だ。百人以上味方がいる。人数が多いほうが強い。当たり前じゃないか) 


 ただ一人、武林唯七の存在は不安になるが彼とて殺して死なない怪物ではない。あの炎の中で一度殺すことができた相手だ。

 一度殺せた相手ならまた殺せる。

 吉良も一応は作戦を考えている。左右の逃げ場がない屋内で複数人が槍を構えて、相手の間合いの外から突きまくれば近づかせることもせずにやれるはずだと考えていた。


 ──そして、吉良邸に銅鑼の音と騒ぎの声が聞こえ始めた。 


「裏門が破られました!」


 大声で報告が聞こえる。裏門を掛矢という大型の木槌で破壊し、赤穂浪士が突入してきたのだ。そこで吉良側の足軽部隊が襲撃に慌てながらも待ち構えて武装していると見るや否や、赤穂浪士は即座に攻撃し始めているようだった。

 吉良は周りの者に指示を出す。


「裏から来たか! 者共、ここに十人を残して屋敷の裏門側に周れ!」


 そうして、吉良は一方向へ対応を集中させた。


 ──吉良は知らなかったのだ。これまでは殺されるまで隠れているばかりであったから。


 赤穂浪士は裏門に加えて、表門の方から塀に梯子を掛けて邸内に静かに飛び込んでくる部隊が居て二方向から襲撃してくることを。

 ともあれ、慌てふためいて赤穂浪士の方へ飛び出してくる足軽や従者が半分。残り半分は長屋で寝ているか、怖気づいて部屋から出てこない。

 彼らは酷く混乱していた。真夜中でお互いの顔もわからないまま、切り合いが始まったのだ。覚悟ができているはずもなかった。動きは鈍く、周囲を見回すばかりでなにもできずに戸惑っている者も多く見られた。

 一方で赤穂浪士は違う。最初から戦う気満々であり、不慮の事態でも堀部(ほりべ)安兵衛(やすべえ)など実戦経験のある指揮官が明確に指示を出し、予め山鹿流の兵法を頭に叩き込んでいた彼らは明確に敵と味方の区別を付けて、狼狽える相手を打ち倒していった。

 それでも裏門から襲撃した赤穂浪士は二十四名。押し寄せてくる吉良勢は五十名以上。動揺させつつも完全な奇襲にはならなかった状況で、お互いに拮抗しあっていた。

 吉良は戦いが終わっていないのを音で聞きながら、


「どうか外だけで決着が付けよ……」


 と祈っている。彼らが外で抑えていてくれる限りは安全なのだ。

 ──そのとき、バタバタとした足音が屋敷内に聞こえた。

 伝令などだろうかと台所に残った住人が思っていると、叫び声が聞こえる。


「どこだ! 吉良! お前を倒せば戦いが終わる!」

「武林。俺たちは外の騒ぎに応じて潜入しているんだから静かにだな……」

「仕方ないじゃないか! あいつは敵なんだ! このッ馬鹿野郎!」

「なんで俺を殴るんだ⁉」


 吉良は目眩を感じた。いつの間にか、唯七と赤穂浪士が邸内に侵入してこっちを探し回っているではないか。裏門近くでの戦いはどうなったのだ。

 表門から梯子で侵入した赤穂浪士らは部隊を裏門の援護に回す方と玄関から入って吉良を探す方に分けたようだ。

 中に入ってきた唯七などの捜索隊は、殆ど吉良側の抵抗もないので勢い良く侵攻してきた。


「まずい」


 吉良は青い顔で呻いた。

 邸内の戦力殆どを、裏門の鎮圧にまわしている。てっきり赤穂浪士が一方向から来るものだとばかり思い込んでいたミスである。


「そこか! 吉良!」


 叫びながら台所の障子が蹴り開けられる。その場に残った、義周や平八郎が一斉にそちらの方へ槍を構えた。一学が吉良を下がらせながら、二刀流を抜く。

 突入してきた唯七の後ろから赤穂浪士らも続々と現れて、彼らも槍を構えた。広い台所で、槍を突き合わせての対峙となった。


「吉良……」

「た、武林……」


 なんとなく目が合って互いの名を呼びかけた。奇妙な絆すら感じるようになってきたのは、何度も殺されているからだろうかと吉良は思う。

 数十人居る赤穂浪士で、何故か毎回立ちふさがるのがこの唯七なのだ。そんな考えも浮かんでくるというものだ。


「父上はお逃げください! 我らがここで抑えます!」

「ご隠居様、この平八郎にここはおまかせくだされ! 殿様は必ずお守り致しますゆえ!」


 槍を向けて牽制している二人に言われ、吉良は一学に引っ張られながら移動を始めた。


「待て吉良!」


 唯七の叫びが響くが、台所を抜けて次の間に入り障子を閉じた。

 どちらにせよ他に突入隊が居るのならば、一箇所に固まっていてはどんどん敵の戦力が集まってくるかもしれない。


(儂が逃げ回りながら、家臣らが数を減らしてくれねば……)


 作戦は崩れたが、その分戦力を集中させた裏門では優勢に進んでいるはずだと吉良は判断して屋敷の中を横断し勝手口へ向かう。味方が多いところに行かねば。


「吉良! 何処に行ったァァァ!」


 背後から唯七の叫びが聞こえる。撹乱のために関係ない部屋の障子などを開けながら進んでいるので、それに少しの間でも騙されてくれれば逃げる時間ができる。

 ──と、そのとき。

 廊下の縁側を閉ざしていた戸が砕けた。木槌の頭が屋内に姿を現し、めきめきと音を立てて大穴を空け外へ引き抜かれた。

 すぐ外は広い庭になっていて、裏門から突入した赤穂浪士と、すぐ側に長屋があるので中間小者や足軽らとの主戦場になっていた場所である。

 穴の空いた戸が荒々しく引き剥がされ、火消しの格好に似た赤穂浪士が上がり込んできた。


「はあ!」


 一学が気合を入れて相手がこちらを視認するより早く切りつける。だが、胸を薙いだ刃は相手の着衣によって鈍い音を立てて弾かれた。


「──ちっ、鎖帷子を!」

「貴様、吉良上野介は何処だ!」

「黙れ!」


 今度は相手の無防備な喉に刀を突き刺し黙らせた。引き抜こうとしたが、貫かれた赤穂浪士が両手で刀を握って息絶えたので諦めて刀を刺したままにする。


「まさか……」


 吉良は上がり込んできた赤穂浪士に唖然としながらも、彼の入ってきた戸から庭を見渡す。

 そこは死屍累々と月光の下、人が倒れて庭を覆うようだった。

 しかもその多くは吉良側の兵である。格好を見ればひと目でわかった。どう考えても、負傷している赤穂浪士一人に対して十人以上はこちらの兵が戦闘不能になっている。

 争いはほぼ終息していた。すなわち、吉良側の全滅という形で。

 兵力が倍以上いようが、実戦経験のない兵である。それにまさか本当に攻めてくるとは思っていなかったところを襲撃され、しかも夜間で敵味方の区別が殆ど付かない状況だ。赤穂浪士は服装を統一させて、数名で固まって動き慌てふためく敵を次々と処理していくだけでよかった。

おまけに表門からの援軍が吉良勢の背後から襲いかかり、半分は倒れてもう半分は長屋に戻り自発的な籠城戦を初めてしまったのだ。

 数の不利など、赤穂浪士と吉良の兵の間にある士気の差と戦術にかかれば簡単にひっくり返されたのである。


「そんな……こんなことが……」

「ご隠居様! 逃げましょう──」

「トゥ!」


 一学がそう言った瞬間、凄まじい勢いの蹴りで彼は吹き飛ばされた。

 武林唯七が追いついて来たのだ。外から漏れ出た月光に照らされても頭に血が上っているように赤さがわかる顔色をした恐るべき赤穂浪士は吉良を睨む。

 彼を足止めしていたはずの者はどうしたのか。心配するより先に、吉良は明確な死が迫っているのを感じた。


「これで終わらせる!」

「終わらせん!」


 そう言い返すと同時に、吉良の視界がずれた。これで終わりではない。まだ続きがあるのだ。そう吉良は思いながら意識が消え去る。

 ごろりと首から頭が外れて落ちる。唯七が刀を抜き打ち、首を落としたのだ。一瞬のことで、吉良はそれを知覚もできなかっただろう。



 吉良義央、武林唯七に首を落とされて死亡。



 また、吉良方の死亡者数五十一人。赤穂浪士の死亡者数三人。

 結果として赤穂浪士が勝利したものの、五十人も奇襲に抵抗して殺された吉良側の家来達の方こそ『忠臣』だと呼ばれることもあったという。




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