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3話『悪夢』


 ──吉良死亡 四回目



「おのれ!」


 布団から跳ね起きた吉良は荒々しく、文机の紙に『四』と死亡回数を書いた。

 そして呼吸を整えつつ、また新たな案を考え始める。

 屋敷から出た場合かなりの高い確率で唯七の餌食になる。彼らの形振り構っていなさは異常だ。白昼堂々だろうが、騒ぎを起こそうが吉良を殺すつもりのようであった。


「ならばどうやって脱出するべきか……」


 吉良は布団に座ったまま考える。


(夜まで待って夜陰に乗じて逃げる)


 駄目だ。夜となれば連中は襲撃のために屋敷の周辺に兵力を結集しているかもしれない。見つかる可能性が高いだろう。


(顔を隠して……例えば、虚無僧などを屋敷に呼び、その衣装を借り受けて出ていく)


 これは案外に良いかもしれないと思ったが、


(屋敷から顔を隠した男が出てきたら、確認ぐらいするかもしれない……)


 その状況が真実味を帯びて浮かんできたので、ひとまず却下した。

 人に問い質されず、自然と屋敷から抜け出す方法……

 吉良が考えていると、襖が開けられた。


「ご隠居様、六ツ半でございます」


 清水一学が中間に水桶を持たせて、いつものように入ってきた。

 吉良はその水がなみなみと入った木桶を暫く凝視して、一学を指差し破顔する。


「これだァー!」


(ご隠居様、もうお歳の影響でアレかもしれない)


 失礼だと思いながらも、朝の第一声で謎の奇声を上げた吉良に一学は優しく生暖かい視線を向けるのであった。

 

 吉良は酒問屋に一樽の酒を注文して、荷車で屋敷まで運ばせた。

 棺桶のような大きな樽である。中間に命じて、屋敷にある壺や瓶に中身を移して空にさせた。なにせ、屋敷内にある長屋も含めれば百人以上住んでいるのだ。多少酒の量が多くても、ご隠居からの振る舞い酒ということで皆は喜んで酒を貰いに来た。

 そして配達人に小判を渡す。


「儂がこの樽の中に隠れるから、それを本所三ツ目の黒石津軽屋敷へ運んでくれ」


 よくわからない注文であったが、手渡された小判の重さに配達の男はブンブンと首を縦に振って請け負った。これで姿を隠して、酒問屋の配達という名目で屋敷を抜け出せる。使い終わった樽を回収する業務も、酒問屋は行っていたからだ。

 やはり吉良の行動に家臣らは困惑した。


「その、ご隠居様。何故そのようなことを?」

「今晩赤穂浪士が襲ってくるから逃げるに決まっておるだろう!」

「決まっている……と申されましても……」


 義周も平八郎も一学も首を傾げる。吉良は苛立たしげに彼らを見やった。何度も殺されているのにどうして自分以外は記憶を引き継がず、こうも危機感が薄いのだろうか!


「ともかく儂は政兕のところに避難しに行く。皆もできる限り今晩は屋敷を出ておれ。特に義周は上杉家にでも泊めて貰うように。よいな」

「は、はあ……」


 義周にとっても上杉綱憲は実の親子なので、息子の危機とあらば家に泊めることに異存はないだろう。

 上杉家の下屋敷には吉良の妻である富子も別居中で住んでいる。二代目藩主の娘である彼女と吉良が婚姻することで縁が深くなったのだ。富子は、かの有名な上杉景勝の孫娘という血筋でもあった。

 家臣らに今晩は中間・小者らも出かけるか、襲撃があった場合はすぐに逃げるように言い含める。だが吉良はどうも心配であった。

 彼の指示を聞いている家臣達が、


(錯乱したかボケた老人を見る目をしている……)


 事情を知らない皆からすれば突然ご隠居が樽に詰まって友人のところに出かけたいと言い出し、今晩この屋敷は襲われるとかどこで聞いたか情報源不明の警告を真剣に話しているのだ。

 すぐには信じかねるのも無理はない。

 とにかく義周にだけは信じて貰わねばならないとして、彼には上杉家に今晩だけでも泊まるように念を押した。

 一抹の不安を抱えながら、吉良は荷車に詰んだ樽に入って、屋敷の外へ運ばれて出ていった。中が酒臭くて、駕籠なんかより余程腰に振動が響いたが呼び止められることはなかった。


(よし、よし、よし!)


 吉良は静かに興奮しながら、がらがらと荷車は進み──

 そして、襲われることなく黒石津軽家の屋敷へとたどり着いた。


「ッシャア!」

「うわ」


 樽の中から拳を握り、喜びの叫びと共に立ち上がる吉良老人に、荷車運びの男はびくりとして振り返った。 

 津軽家の家来、中間らも唖然と吉良を見ているが、既に表御門の中に入った玄関前で、外からは吉良の姿も見えないので問題ない。

 赤穂浪士から見られなければ良いのだ。


「どうも、ご無沙汰しております」


 荷車の上で吉良邸から脱出した感動に打ち震えている吉良に声を掛けたのは、若干日焼けした中年の男だ。予め文で知らせていたとはいえ、その客人が取った怪しい登場にも関わらず怯むことも呆れることもなく穏やかな笑みを浮かべている。

 屋敷の主、津軽政兕である。四千石取りの上級旗本であるのにその身なりは簡素で、ついさっきまで釣りに出かけていたような着流しの姿であった。


「おお、津軽殿。突然のことですまなかった……こうした無作法な訪問だが、許して欲しい」

「お気になさらずに、さあどうぞ屋敷に上がってくだされ。酒の臭いを取るために、湯でも用意させましょう」

「なにからなにまで済まぬ。事情は追い追い話させて貰うよ」


 へりくだったようにも聞こえるが政兕の言葉には親しみを感じる、吉良の身を案じた雰囲気であることも伝わり、吉良は思わず泣きそうになり目頭を押さえた。

 逃げられた。逃げることができた。


(これで死なずに済むのか……)


 安堵で胸がいっぱいであった。


 

 政兕の屋敷に入った吉良は歓待を受けた。普段の彼ならばそれを楽しんだだろうが、何度も殺された結果すっかり気弱になりつつある吉良は恐縮しながら過ごしていた。

 居間に二人きりになり、政兕が釣った魚を食べて酒を酌み交わしながらも話をしている。


「それで、赤穂浪士に狙われているということにいつお気づきになったのですか?」


 政兕の疑問に、吉良は思い悩んだ。

 果たして、自分が毎日赤穂浪士に襲われて死んでおり、気がつけば今日の朝に戻っているなどということを話して信じられるものだろうか。


(もし儂がこの現象を体験せずに、人からそんな話を聞いたら疲れていて夢でも見たのだろうと優しくしてしまうに違いない……)


 下手をすれば狂人扱いされてしまうかもしれない。今朝、家臣らが見せた若干気を使ったような目線を思い出して気が重くなった。

 それでも、自分の無茶な移動方法も受け入れて屋敷に泊めてくれた政兕に言わぬのも心苦しいと吉良は決めて、話し始めた。


「実は儂は毎日赤穂浪士に殺される……夢を見るのだ」

「夢?」


 この繰り返し現象は吉良自身でも説明ができるものではない。だから、わかりやすく夢という話を使って政兕に告げる。

「夜になれば赤穂浪士が屋敷に集団で押し入ってきて、儂は殺される。そして朝に目が覚めると、赤穂浪士に殺されたはずの今日の朝なのだ。その日もまた夜になれば赤穂浪士に殺され、またしても同じ日に目が覚める。夢の中の夢がずっと連なっているみたいで……」

「……」


 政兕は茶々も疑問の声も出さずに、静かに聞いていた。


「殺されないようにと別の行動をすれば、別の場所で赤穂浪士と出くわして殺される。普通の方法でこの屋敷に来ようとしたら殺されて、やっぱり気がついたら今日の朝になっているのだ。死んでも死んでも今日の朝になり、いったいなにが現実なのか……今この瞬間も夢の中なのか……」


 吉良は、夢という言葉で説明しようとしたことを後悔していた。

 そうやって口に出して考えれば考えるほどに現実感が薄れて恐ろしくなって来たのだ。


「夢ならば醒めてくれ……」

「これを」


 と、政兕は頭を抱えだした吉良に、竹竿を一本差し出した。

 胡乱げにそれを見る吉良に、政兕は微笑んで告げる。


「考えが上手く纏まらないときは、水面に糸でも垂らしてじっとしておくのが一番ですよ。うちの庭にある池にでも行きましょう。ちょっと深く掘って、鯉などを放しているので」

「い、いや、津軽殿?」

「悩んだり嘆いたりして解決する問題ならそれでよろしい。そうでないのなら、釣りをしていても同じこと。さあいざ」


 政兕に背中を押されて、二人で邸内にある池に行き、そこで竿を出して糸を垂らす。


「池の鯉なので釣ろうと思えば簡単に釣れるけれど、まあ雰囲気だけでも味わいましょう」


 二人が垂らす糸の先には針が付いておらず、重り代わりの小石が結ばれていた。

 それでも庭石に適当に腰掛けて、池に垂れる白い糸を見ていると吉良も心が落ち着いていくのを実感する。

 ここ数日分繰り返した日々で一番安らいだかもしれない。

 暫く静かに糸を垂れていた吉良に、政兕は言う。


「釣りというものは、知らない人は針の先に餌を付けて、魚の居るところに投げ込めば自然と掛かる単純な遊びだと思っておりますな」

「……」

「しかし実際はやるべきことが無数にあります。糸の長さ、細さ、色はどうか。竿の材質はどうか。餌の種類はどうか。針の大きさは目当ての魚に合っているか。季節は。場所は。時間は。水の冷たさは。自分ではどうにもならないこともありますが、自分の工夫で幾らでも条件を変えることができて、それが組み合わさり初めて魚が釣れると拙者は考えております。適当に放り込んで適当に釣れた魚などは、なにが釣れても外道ですよ」

「難しいのだな……」

「だから、どのような問題でも悩むことがお有りでしょうが……ご自分ができることは恐らくまだ沢山あると思って、なんでもやってみることですよ。いえ、正直にいうと、拙者も事情はよく理解できなかったので、手前の得意な釣りで例えるしかできませんが……」


 政兕は軽く竿を動かすと、小石しか結ばれていないはずの釣り糸に鯉が食いついて軽く頭を水面に引っ張り上げられた。巧みな竿捌きで、鯉に小石を餌と錯覚させたのだろう。


「このように、腕を磨けばどうにかなるということもあります。だから、諦めないことです」

「……ありがとう、津軽殿」


 励まされたのだと吉良は思って、自分よりも二十は年下で義理の息子でもある相手に礼を告げた。心が、随分と軽くなった。



 夕餉も饗されてから居間の上間を寝室にして貰い、吉良はそこで寝ることになった。

 とりあえず安全が確認できるまでいつまででも泊まって良いと政兕は快く言ってくれて、情けのありがたさに吉良は感動する。

 夜が深まり、部屋の行灯を消して布団に横になっても吉良は中々眠りにつけなかった。

 夜に赤穂浪士が襲撃にくるという体験を二度も受けて、別の屋敷に移ったものの安心して寝付けるほど肝が太くない。

 そして考えるのは吉良邸のことである。果たして、義周や家臣らはちゃんと避難しているのだろうか。自分の言うことを呆け老人の戯言だと思って、本気にしていなかったらどうしようかと悪い方向にものを考えてしまう。


 赤穂浪士達が吉良邸に押し入って──

 吉良を探して屋敷中を走り回り、或いは見つからなかったら家臣などを捕まえて居所を探るだろう。家臣が斬られたりして、無理やり聞き出そうとされている姿が思い浮かんだ。或いは、吉良が既に外に居るという証言を信じずに、ひどい目に合わされているかもしれない。

 そして──そこまで愚かに、無鉄砲にやってくるとは思いたくもないが。

 本当に吉良が居ないことを知って、そのままこの屋敷に押し寄せてくることはないだろうか。

 普通に考えればあり得ないことだ。吉良邸を襲ったのも、念入りな下準備と調査をしてのことだろう。いきなり襲撃先を変えて、大身旗本の屋敷に押し寄せてくるなどできない。

 それに如何に仇討ちという大義名分があっても関係のない幕府の小普請組にも所属している政兕の屋敷を襲ったとなれば、決して彼らの名誉は得られないことは明らかだ。

 だから襲ってこない。


 吉良は幾度も自分にそう言い聞かせるが、目を瞑ると瞼の裏に死に際が浮かんでくるのでそのうち眠るのを諦めてじっと暗い天井を見つめているようになった。

 どれほどの時間が経過しただろうか。

 吉良は、屋敷から聞こえてくる「出会え、出会え!」という叫び声に思わず跳ね起きた。


「う……嘘であろう……?」


 遠くから誰かの叫び声が聞こえてくる。そして慌てて襖を開ける音。

 吉良の寝室の襖が勢い良く開けられて、びくっと吉良は部屋の隅に寄った。

 入ってきたのは寝間着の単衣を纏って、手に刀を持った政兕だった。


「賊が邸内に侵入しました! すぐに避難をしましょう!」

「ぞ、賊……? ど、どれほどやってきたというのだ……」

「たった一人です! 既に家来が取り押さえに向かっていますが──」


 相手は、一人。だがその一人に、吉良は心当たりがありすぎた。


「吉ィィィ良ァァァァ!」

「武林⁉」


 叫び声が近づいてくる。相手は間違いなく、武林唯七に違いない。


「とぅ!」


 居間の襖が蹴り壊される。血糊の付着した刀を持った赤面の者が、吉良と政兕の元へ歩み寄ってくる。返り血は既に彼を止めようとした津軽家の家臣を切ったものだろう。


「何故貴様がここに……!」

「屋敷に吉良は居なかった! なら追いかけるしかないじゃないか! 他に方法がなかったんだ! この──馬鹿野郎が!」


 支離滅裂な普段よりは若干意味を汲み取ることができた。

 吉良邸を襲撃したものの吉良は居らず、家臣の誰かが吉良が津軽屋敷に居ることを吐いたのだろう。そこで、通常の思考をした赤穂浪士らは来るのを躊躇った。

 だが唯七は違う。半狂乱とも言える精神をしているとしか吉良には思えない彼は、迷うことなく一人で襲撃にやってきたのだ。

 吉良の姿を認めた唯七は刀を振りかぶって無造作とも言える動きで近づいてきた。

 それを迎撃するため、前に出たのは──政兕だ。四千石旗本の当主その人である。彼も刀を抜き放って、唯七へと切り込んでいった。


「止せ!」


 吉良は咄嗟に叫んだ。決して政兕は、武芸に優れた者ではない。釣りが趣味の、穏やかな男である。そして相手は赤穂浪士の中でも一等の狂戦士なのだ。


「邪魔をするな!」


 唯七の叫びに、


「おおおお!」


 政兕は、吉良が聞いたことのないような声で吠え応えて──すれ違うように、唯七の刀で切り裂かれて床に倒れ伏した。


「はっ……」


 血が、政兕の肩から背中に掛けて溢れ出て単衣を染め、畳に血溜まりを作る。


「はっ、は……ま、政兕……?」


 かすれる声で呼びかけても、うつ伏せに倒れ伏した政兕は応えない。

 その場で唯七は刀を振って血糊を払い、吉良に向けた。


「終わりだ、吉良!」


 吉良は頭が真っ白になっていた。だが、すぐに正気に戻る。

 距離を詰めようとした唯七の足を、倒れた政兕が震える手で掴んだ。つんのめり掛けて、唯七は目を見開き倒れた政兕を見る。

 政兕は苦しそうな声で、吉良に言う。


「逃げて……くだされ……義父上……」

「離れろ!」


 唯七がしがみ付く政兕を足で蹴り、決死の拘束を解いた。最後の力を振り絞っていたようで、政兕はすぐに脱力して、動かなくなってしまった。


「あ、ああ、あああああ」


 吉良はうめき声と共に、涙が溢れ出た。

 津軽政兕は死んだ。自分の義息子は死んだ。自分を守るために、ほんの短い間妻だった女の父親を助けるために死んでいった。吉良がこの屋敷に転がり込んだことで、赤穂浪士がやってくることになり、死んでしまった。

 最後に義父上と呼んで。


「うああああ! 武林ィィィ!」

「俺にだって守りたかったものがある! 吉ィィ良ァァ!

 怒りに任せて、刀も持たずに吉良は拳で殴りかかった。

 目の前で大事な人が死んだ。

 途轍もない怒りを覚えた。


 ──そんなことで、強さがかけ離れた唯七と勝負になることはなく。


 間合いに入った吉良は、首筋を刀で切られて失血死した。

 そして彼の死体は赤穂浪士の元へ運ばれるのであった。



 吉良義央、武林唯七に首を斬られて死亡。



 ただしこの世界では、赤穂浪士は世間からの賞賛を得ることはなかった。

 他家への襲撃に無関係な四千石の小普請組旗本を殺害。到底許されるものではなく──

 報告を受けて激怒した吉良の息子にして、米沢藩上杉家当主綱憲がすぐさま赤穂浪士討伐に兵を繰り出し、泉岳寺で激突。苛烈な戦いになった。

 武林唯七が上杉軍相手に大暴れしたことで多大な被害が出たが、吉良邸を襲撃した赤穂浪士は一人残らず討ち取られ、上杉綱憲は父の無念を晴らしたのだった。



 ******



 ──吉良死亡 五回目



 目が醒めた吉良は無表情で体を起こした。

 吉良邸の寝室。いつもと変わらぬ布団。十四日の朝が再びやってきた。

 津軽政兕は死んだが、この周回ではまだ死んでいない。自分も生きている。あの未来はなかったことになった。だが、記憶だけはまざまざと彼に残っている。

 無力感と恐怖と怒りも共に。

 吉良は唯七に届かず、その怒りを伝えることができなかった拳を強く握りしめた。


「……」


 目にどす黒い濁りの色を灯して、吉良は酷く墨が滲むように紙に『五』と死亡記録を残し、それを一学が部屋に来るまでじっと見つめていた。


 それから朝食を終えて、吉良は義周と家臣らを集めて告げる。


「義周は晦日の挨拶に上杉家へ行きなさい。先方にはこちらから文を予め送る。家老達も、吉良家四千二百石の家格に相応しいように家来を引き連れて同伴するように」

「わ、わかりました。父上はどうなされるのです?」

 皆にそれらしい理由を付けて屋敷から追い出すように仕向けることにしたのだ。

「儂は隠居の身。それに、義周も当主となれば挨拶に父同伴では面目も立たぬだろう。家老の皆は義周を頼むぞ」

「ははーっ」


 頭を下げる家老の小林平八郎や、左右田孫兵衛の肩を叩く。年末の挨拶とはいえ、普通は家老まで付けて行かせるものではないのだが、まだ若い当主の手助けとなれば断ることでもなかった。


「それから向こうで挨拶をしたら、そこで一晩泊まって来なさい」

「し、しかしよろしいのですか? 上杉家の都合も……」

「十五万石の大大名の屋敷だ。実の息子とその家来を一晩泊めるぐらいはなんでもない。それに、上杉家からは普段から当家の資金を援助してもらっている。たまにはこうして、お前の顔を見せに行かせねば義理も立たぬ……富子にもよろしくのう」


 実際に吉良邸の普請などの資金を上杉家から捻出してもらっている分は決して少なくない額が藩の負担になっており、上杉家からも吉良は少々厄介な親戚と思われている。

 しかしながら四千二百石の高禄旗本とはいえその家格を維持するにはかなりの消費が強いられる。家来を百人以上雇わねばならないし、馬も持たねばならない。どこも台所は厳しいのだ。当然ながら石高を減らされている上杉家もだが。


(今回の訪問も、儂の評判は悪くなるであろうな……)


 突然の家臣団を連れてのお泊りである。向こうも歓待などに忙しくなるだろう。義周が当主の実の息子で、母の富子も居るから無碍には扱われないだろうが送り出した吉良に対しては風当たりが強いだろう。


(いや、気にすることもないか)


 吉良は笑おうとしたが、笑えなかった。

 義周と家臣団を送り出しても吉良付きの近習である清水一学は屋敷に残っている。それに中間や小者、足軽なども全て行くわけではなかった。

 一学と居間で向かい合って、吉良は告げた。


「皆には告げなかったが、実は今晩赤穂浪士の襲撃があるという情報を掴んだ」

「な、それは確かですか⁉」

「恐らく、な。儂も赤穂浪士の動向は気にかけておって、忍びの者を雇い調べさせておったのだが、ついに行動を起こすらしいと報告があった」


 嘘だ。忍びなんて雇っていないが、情報源の信憑性を増させなければ老人の戯言扱いを受けてしまうので適当に述べているのであった。

 それでも、いかにも普段は昼行灯でありながら裏では忍びを暗躍させているできる元当主的な雰囲気を吉良から感じて、一学は信じたようである。


「そ、それでは今からご隠居様も避難を!」

「いいや、あやつらは切羽詰まっていて、下手に逃げても道中で襲われるか、逃げた先に迷惑が掛かるだろう……」


 安全圏に逃げたと思った、津軽政兕の屋敷に刺客が突入してきたように。


「なら迎え撃つ準備を!」

「無駄に犠牲者を出すわけにはいかない。赤穂浪士は、この屋敷に火を放つつもりだ」

「そ、そんな……放火まで⁉」


 一学はわなわなと震えた。だからこそ家臣団を逃げさせたのかと思い至り、ハッとして吉良に向き直った。

 重々しく吉良は頷く。


「それで、儂はこれより中間に命じて屋敷に入った赤穂浪士を閉じ込めるように改築をさせる。それを終えて夜になったらお前は、火附改役中山直房(なかやまなおふさ)殿の役宅近くに待機しておれ。屋敷に火があがったら、すぐさま通報して彼とその配下同心らを連れて消火及び放火をした赤穂浪士を捕らえよ」

「し、しかしご隠居様はそれでは……」

「安心せよ。それも策は用意してある。お主はただ、急ぎ火附改の役人を連れて相手を逃さぬように気を付けることを考えよ」


 吉良はそう告げて、一学の両肩を叩き真剣な眼差しで青年を見た。


「よいな。必ずそうするのだぞ」


 その、あまりにもまっすぐに主君から告げられた言葉に、彼は頷く他はなかった。

 それから急ぎ、板材を用意させて邸内に運び込ませ、屋敷の改築が始まった。

 といっても特別なものではない。屋敷中の雨戸を閉めて板で打ち付け、玄関と裏口以外からは庭に降りることもできなくさせた。部屋を繋ぐ障子も一部板で塞ぎ、一方通行にする。


「ご隠居様、台風でも来るんですか? こんな時期に」


 中間が訝しんで聞いてきたが、吉良は微笑んで言う。


「なに、終わったら教えてやるよ。儂の責任でやるから気にせずにやってくれ」

「……」


 吉良の微笑みを見た中間が、ぶるっと身を震わせた。なにか空恐ろしいものを、そのいびつに歪んだ笑みから読み取ったのだろう。

 夕方になり工事も終えて、吉良は皆を集めて告げる。


「今宵、ここに赤穂浪士が襲撃に来る。狙いは儂の首だが、或いはお前らも危険に晒されるだろう。だが儂は隠れるので、お前らも今晩は他所で過ごすか、そうでなければ襲撃があった際にすぐ逃げるように。また、外に行くならば情報を漏らさぬよう明日まで固く口を閉じておけ。これは餞別だ」


 吉良は一人ひとりに小判を一枚ずつ渡してやった。突然の臨時収入に、中間らは驚きながらも吉良を心配そうに見た。


「重ねていうが、儂が襲撃を掴んでいるということを赤穂浪士に知られるわけにはいかん。わかっておるな」


 その言葉を聞いて、中間らは唾を飲み込んだ。口を軽くして言いふらしたらどうなるか……少なくとも、仕事を辞めさせるなどといった軽い処分ではないことが知れた。

 そうして多くの中間も屋敷を空にする。屋敷から次々に人が居なくなっていくのを、見張りの赤穂浪士は見ていたが、


「よくわからないけれど、襲撃がやりやすくなりますね」

「そうだな」


 と、問題視はしていなかった。年末のお暇かなにかだろうと思ったのだ。

 彼らの狙いは吉良の言うとおり、仇の首一つなのだ。潔く吉良が一人だけ残って戦うというのならば、願ったり叶ったりである。

 そして一学も外に行き、吉良と少数の行く宛のない者が屋敷に残った。

 日が暮れる前に、残っていた料理番が吉良に夕食を出した。


「ありがとう」


 好物の鮭と大根の煮物を口にすると、旨さに思わず自然とほころんだ顔になった。

 吉良は料理番に五十両を持たせると外に向かわせ、


「なにかあっても、義周に美味いものをこれからも作ってやってくれ」


 そう言う吉良の運命を料理番も悟ったように、泣きそうな顔をしたが無言で頭を深く下げて彼も屋敷から出ていった。

 とうとう夜闇に覆われた時間になる。

 吉良はまだ一人で活動をしていた。床下に藁や古いむしろを敷き詰めて、屋敷を囲むようにあるだけの油を撒いていった。

 全ての準備を終えて、表からも裏からも一番奥まった寝室で吉良は静かに時を待つ。


 そして──


「吉良ァァァァ! どこだ!」

「待て武林! 一人で突っ込むなと言っているだろう!」

「難しいな……戦ってはいけないのか、戦うべきなのか……」

「いや、まあ戦っていいんだが、単独で行動をするな」

「吉良ァァァァ! もういい加減にしろ!」

「本当にこいつの情緒不安定こそいい加減にして欲しいのだが……」


 仲間の制止も振り切り、大声を出しながら次々に襖を蹴り抜いて接近してくる気配を感じる。

 唯七の支離滅裂な言動と暴走気味の行動には仲間の赤穂浪士も困っているようだ。滅法に腕は立つのだが、どうも意思疎通が上手くいかない。

 赤穂浪士でも持て余し気味なのだが、忠義のために仇討ちしようという意気込みは確かなのだ。それを否定して追放などしては自分たちの理念に関わる。

 ばたばたと屋敷内を走り回る音。十人以上は入ってきたか、表と裏から入り部屋を一つ一つ改めているところだろう。


 赤穂浪士は火消しに似た装束を身に纏っている。また、屋敷に居るものを動揺させるために「火事だ」などと叫んだが、実際には彼らは火事が起こらないように念入りの注意を行いながら屋敷を探索していた。火鉢に砂を掛け、竈を消し、行灯を蹴倒さないように。

 だがこの吉良邸は、吉良以外居らずどこにも灯りは灯っていない。それにあちこちが板で打ち付けられ行き止まりになったり、障子を塞がれたりしている。

 不思議そうに思いながらも、今のところ危険はないので赤穂浪士らは唯七の暴走を食い止めて屋敷内を歩き回った。


「それにしても臭うな。酒の臭いか?」

「人は居ないのに……」


 訝しみながら探索を続ける。吉良は、油を屋敷に撒くと同時に臭いを誤魔化すために、酒も撒いていたので油と酒の混じった奇妙な臭いが雨戸の閉まった屋敷に篭っていた。

 そしてやがて──吉良の居る寝室へと合流して踏み込んだ。

 行灯の灯りが点いている部屋の中で、立って腕を組み吉良は待ち構えている。

 赤穂浪士の片岡源五右衛門が吉良の顔を確認して、朗々と告げる。


「吉良上野介義央! 亡き主君、浅野内匠頭長矩様の遺恨故にその首を貰い受ける!」


 源五右衛門は家臣で唯一、浅野長矩が切腹前に面会した者である。表門と裏門を守る大石親子の次に赤穂浪士の中では代表格で、突入隊の指揮を取っていた。


「吉良……もう抵抗は止せ! 勝負はついたはずだ!」


 唯七が何故か穏便さを求める言葉に、吉良はゆっくりと口を開く。


「儂の命ぐらいくれてやろう」


 そして組んでいた腕を解いて、酷く邪悪な笑みを浮かべる。それを見ていた赤穂浪士らも、ぞっとして危機感を覚えた。


「貴様らを、貴様を殺せるならな……武林!」


 吉良は足元にあった行灯を蹴倒す。中の油皿が零れて、火縄が行灯を囲んでいた紙に燃え移った。それは同時に、吉良の足元にあった油をたっぷり染み込ませた縄に引火する。

 縄は屋敷の各所に伸びている。寝室に積み上げていた紙束を吉良は撒き散らすと、火があちこちに散らばり襖や障子に引火しはじめた。


「こ、こいつ……自分の屋敷に火を付けたのか⁉」

「正気か⁉」

「消せ! 火事を起こさせるな!」


 赤穂浪士は吉良よりも広がる火事に注意を向けて慌てて槌などで燃えている部分を叩き消そうと散らばり始めた。

 しかし予め燃えやすいように寝室周辺の間に可燃物を持ち込んでいたので、火勢は一気に強くなる。すぐに屋敷の他の部屋にも燃え移り、焼け落ち次第床下の藁も燃えていく。撒いていた油も熱が上昇するにつれて覿面に効果を発揮して、染み込んだ畳にも尽く引火する。

 更に屋敷から逃げるにも雨戸を板で貼り付けていてそう簡単には出られない上に、慌てて叩き破ろうものならば空気が外から一気に入ってきて急速に炎は膨れ上がる。

 吉良邸は完全に炎上し、赤穂浪士を焼き殺すための罠と化していた。

 赤い炎の光に囲まれて、吉良は大笑いをしている。


「ははははは! はははははははははは!」

「吉良! お前、自分が一体なにをやっているのか、わかっているのか!」

「後は貴様を道連れにするまでよ! 武林、覚悟ォォ!」


 吉良は脇差しを抜いて突き掛かる。だがそんな攻撃も、技量の差で唯七に脇差しを弾き飛ばされてしまった。しかし動揺しているのか、どことなくいつもより唯七の動きが硬かった。


「まだだ! まだ終わっていない!」


 吉良は素手になりながら、武林に組み付いた。技術などない。渾身の力で抱きついて、ぐいぐいと押して床に転げさせる。

 周囲は火災が広がり、床も燃え始めていた。立ち込め始めた煙で呼吸が苦しい。油が焦げる臭いと仄かに酒が蒸発する臭いが熱気とともに充満した。

 唯七は組み付いた吉良に向かって叫ぶ。


「お前ッ! 自爆するつもりか!」

「貴様も一度ぐらい死んでみろ! 殺された政兕の、一学の、儂の仇だ!」

「くっ……しまった……」


 両手両足を必死に絡みつけて動きを抑制する。

 唯七も煙を吸い込んだのか、どうも動きが鈍いようだ。転んだ拍子に持っていた刀も手放してしまい、あまりに接近しすぎているので得意の蹴りも使えない。

 その間に炎は部屋を完全に取り囲み、燃え尽くし始める。


「吉良! こんなことになんの意味がある!」

「知ったことか! お前は意味もなく死んでいけ!」

「くそおおおお!」


 もはや炎は、倒れた二人に引火して叫びあった口から、肺を焼き尽くした。

 意識が薄れる。死んでいった皆の顔が見えた。こんなことをしても、なんにもならないことは吉良にもわかっていた。だが、満足だった。

 吉良邸は炎上していく。中に赤穂浪士と吉良を残したまま、明朝の江戸に燃え上がる火柱はまるで赤く揺れる穂のようだった。


 

 吉良義央、自ら屋敷に火を放って死亡。



 さらに赤穂浪士、二十八人焼死。

 冬場で雪も積もっていたことと、早い通報により火事は吉良邸のみを焼き尽くして鎮火。

 また、赤穂浪士の残り十九名はその場で火附改に逮捕された。

 吉良が予め赤穂浪士が火を付ける予定だということを掴んでいたという清水一学の証言で、赤穂浪士達が吉良邸に押し入り、放火をして自分達も火に巻かれた見方で詮議された。

 逮捕された彼らは放火の意思を否定したものの、実際に屋敷は燃えているのだ。恨みを持って付け狙っていた浪人と、隠居したとはいえ四千二百石の旗本の証言ではどちらが真だと見られるかは誰の目にも明らかである。


 おまけに討ち入りの格好が火消しを意識し模したものだったことも悪かった。放火をして、集まってきた火消しに紛れて逃げるためではないかと見なされたのだ。

 結果、生き残りも尽く火あぶりの刑に処されて、彼らの仇討ちという行為は決して評価されるものではなくなった。残した家族にも累が及び、その末路は哀れなものであった。

 一方で吉良の方は、襲撃を見通して家来を屋敷から離したことと、たった一人の老人に夜襲を仕掛けて火まで放ったという相手の行き過ぎた仇討ちにより悲劇的な被害者ということで有名になるのであった。

 生き残った義周や家臣らも一人死んだ吉良のためと思い奮起し、吉良家は以後も幕府に重用されていくのだが──この世界から消えてしまった吉良には、なんの関わりもないことである。



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