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2話『正義の名のもとに』


 ──吉良死亡 二回目



「はっ!」


 吉良の意識が覚醒する。

 すぐさま胸を掴んで心臓の血が全身に巡っているのを鼓動で確認した。蹴り砕かれたはずの腕は問題なく動き、内臓をこぼれ落ちさせていた腹部にはなんの傷跡も残っていない。

 朝起きたばかりの格好である。昨日と変わらず、いつもと変わらぬ。

 障子から陽の光を感じる。明け六ツ半のいつも目覚める時刻頃だ。吉良は荒い呼吸を整えながら、目から滲む涙を拭った。

 吉良は、ついさっき死んだ。そのことをしっかりと記憶している。曖昧で夢のような内容ではなく、一挙一動一言動紛れもなく思い出せた。


「ご隠居様。六ツ半でございます」


 記憶の中ではあっという間にやられていった音だけ聞こえたはずの一学が当然のような顔で現れ、従者に持たせた水盥を差し出してきた。

 喉が引きつるようだった。唾を飲み下してなんとか落ち着け、家来に尋ねる。


「……のう。一学や。今日は何日だ」

「師走の十四日にてございます」


 三度訪れた同じ日で吉良は確信した。

 殺された日の朝に戻っている。死んだ記憶をそのままに、時だけが遡って三度目の同じ日を繰り返しているのだ。

 認めざるをえない。昨日──というより、二回目のこの日に感じた既視感は全て一度体験した故の記憶の混乱だった。三回目の今度は、歯車が噛み合うようにカチリと正確に、殺される一日を過ごした前回の記憶を吉良は認めることができた。

 いったい何故このような、死んでは朝に戻るという摩訶不思議なことになっているのだろうかと吉良は考える。


(唐国の故事では、夢の中で己の人生を終えるまで過ごした者が、眠りから醒めてみれば一刻と経っていなかったという話があった気がするが……)


 それとはまた非なる状況にある。吉良は毎朝の行動をしながら思いを馳せた。


(あまりにも哀れな最期を遂げた儂に、神仏が機会を与えてくださったのかもしれない)


 という、結局は根拠のない超常的な納得をするしかなかった。

 そもそも、死んだことは初めてであり、吉良も他に死んだことのある者に会ったこともないので、死ねば浄土に行くとか生まれ変わるとか言われているが、死後どうなるか普通は誰にも知れることではなかった。

 しかしこのままでは赤穂浪士に襲われる夜がやってくると思うと陰鬱な気持ちになる。

 吉良は前回の記憶と変わらぬ朝餉の席でふと思いついて、


「義周よ。今日の味噌汁は熱いから気をつけよ」


 という助言をすると、義周は素直に「ありがとうございます父上」と礼をしてその日はやけどをしなかった。それを見て、はたと吉良は気づく。


(義周のやけどをするという結果は変えられた……)


 よくよく思い返せば、同じ十二月十四日を一回目と二回目で過ごしているにも関わらず、概ねは同じであっても細部では違いがあった。吉良が行動や言動を変えた分だけ、周りの者も僅かながら対応が変わったのだ。

 それならば、


(儂が行動を起こせば、赤穂浪士の襲撃からも生き延びることができる……?)


 吉良は天啓を得たような気分になり膝を叩いた。義周が訝しく見てくる。


(そうだ。既になにも行動できずに二度も殺されてしまった。今度は、今度こそはそうならぬように動けばよいのだ!)


「ふ、ふふふ」


 突然含み笑いを始めた吉良に、義周と一学はヒソヒソと話し合っている。


「おい。父上はなにか、今朝変わったところはなかったか?」

「いえ……ただ少しばかり考え込んでいた様子でしたが……」

「こう、頭を打ったとか、突然盆栽の土を食ったとかそういう奇妙な行動は?」

「されていないと思います……」


 頭がどうかしたのではないかと心配しているようだが、ひとまず朝餉の時間を終えて吉良は部屋に戻った。

 そこでまずどうすれば赤穂浪士に殺されずに済むか、方法を考えることにした。

 とりあえずパッと思いついて最も効果的だと吉良が納得した方法が、


「よし、逃げよう」


 臆面もなく逃走を図ることだった。

 だが考えれば考えるほどこれが良いと吉良は判断する。

 赤穂浪士の吉良邸襲撃はそもそも狙いが吉良家を潰したりすることではなく、吉良義央の首一つなので彼が外に居れば吉良邸は襲われないだろう。

 そう読んで吉良は、まず屋敷を暫く離れて頭を下げても他家に身を寄せることにした。

 向こうも襲撃するのが他の旗本屋敷などでは関係ない者を巻き込むので躊躇うだろう。

 幾ら仇討ちとはいえ大義というものが必要だ。無益な殺生や世間に後ろ指を指される行為を伴って仇討ちをしても、名誉は回復できない。


(正直に言って、あの浅野の家臣に掲げるべき大義があるというのがよくわからないのだが、常識的に考えて必要だろう、大義)


 吉良からしてみれば殿中で切りかかられた相手の家来が襲ってくるという状況だ。加害者の関係者に襲われるなど泣きっ面に蜂であった。

 なお吉良邸を襲撃した赤穂浪士が門前に掲げた口上文は次の通りである。



『去年三月内匠儀、伝奏御馳走の儀に付、吉良上野介殿へ意趣を含み罷在り候処御殿中に於て当座遁れ難き儀御座候か刃傷に及び候。時節場所を弁えざる働き無調法至極に付切腹仰せ付けられ、領地赤穂城召上げられ候儀、家来共迄畏入存じ奉り上使の御下知を請け城地差上げ家中早速離散仕り候。右喧嘩の節御同席御抑留の御方これ有り上野殿打留め申さず内匠末期残念の心底家来共忍び難き仕合に御座候。高家歴々へ対し家来共鬱憤を挟み候段、憚り存じ奉り候へども君父の讎は共に天を戴ざるの儀黙視難く今日上野介殿御宅へ推参仕り候。偏に亡主の意趣を継ぎ候志迄に御座候。私共死後もし御見分の御方で御座候はば御披見願い奉り度く斯くの如くに御座候。以上 元禄十五年十二月十四日 浅野内匠頭家来』



 ──主君である浅野長矩が殿中にて刃傷を行って切腹させられ、領地を召し上げられて家来達は非常な苦難に追いやられている。喧嘩両成敗のはずなのに吉良はお咎め無しというのは浅野長矩も家来達もとても我慢ならない仕置きである。こうなれば殺す他はないのでどうぞよろしく。


 要約すればそのような内容であり、恐らく吉良が読んだら頭痛を覚えただろう。


 しかし赤穂浪士としても、大勢が路頭に迷い仇も打てずに武士としての面目も保てず暗澹たる人生を送るか、どうにか吉良の首を取って仇討ちを認められて再興の目を残す可能性に賭けるかの二つであり、道理が通らずともやらねばならないのだ。

 ともあれこうして理不尽さを嘆いても、今晩襲ってくるという事実は変わらない。

 吉良は逃げる方針で決めることにする。


(他所の屋敷に避難している間に引っ越しの準備を整え、前々から呼ばれておる米沢にでも引っ込むとしよう)


 米沢藩の上杉家が親戚……というか藩主である上杉綱憲は上杉家へ養子に出した吉良の息子なので隠居先に来てはどうかと前々から呼ばれているが、まだ吉良家当主も年若く指導が必要なので断っていたのだ。

 しかしながら吉良は、現状では命が危険な一日を繰り返していることを素直に受け入れて、隠居で田舎に引っ込んででも生き延びねばと思う。

上手いこと回避案を思いついたので吉良はほっと安心をした。


 とりあえず一時的に身を寄せる先として、非常に親しい津軽政兕を頼ろうとした。

 政兕は山田宗偏との話題で出たように釣り好きであり、趣味として武士に釣りを広めている自由人だが、四千石の領主にして小普請組という役目についている。 以前に吉良の娘を嫁に娶ったこともありお互いの関係は非常に良好で、多少迷惑を掛けるが受け入れてくれる相手であることは疑いようがない。

 実の息子が藩主をしている上杉家米沢藩の方は、色々と吉良は金を工面して貰っているので家臣らから疎ましがられ、少しばかり居候するには息苦しい。引っ越す準備もさせずにいきなり出向いては煙たがられるだろう。或いはそれを理由に今日のところは断られるかもしれない。

 それに米沢藩の屋敷は桜田にあり、政兕の旗本屋敷ならば吉良邸と同じく本所にあるので近いのだ。


 山田宗偏と茶会する予定を断るために吉良は使いを出してから、午後に駕籠を用意させた。

 家臣や義周らは何事かと聞いてきたが、彼らを不安にさせるのも詳しい説明をして納得させるのも難しい気がしたので、


「隠居老人の我儘だと思って聞いてくれ。暫くは政兕の元で世話になり、その後は米沢にでも行こうと思っておる」

「しかし父上、まだ教えて頂きたい儀が……」

「なに、これまでに教えただけでも、お前は体こそ弱いが儀礼の覚えは良い。典儀についての書も残して行く。それにほとぼりが冷めたら、また江戸に出てくるからあまり心配するでない」


 当主はまだ若く、隠居したての元当主が色々と面倒を見てやらねばならないのは確かなのだが赤穂浪士に襲われて一家全滅してはそれどころではない。

 幸い、まだ義周も公儀の役目に就いていない。暫くは病弱を理由に養生させ、赤穂浪士の件が落ち着いた後に高家見習いから役に付かせるよう働きかければ良いだろう。

 吉良はそう判断し、清水一学らなど隠居付の家臣を少数連れて津軽邸へと移動することにした。向こうに文を遣わせているが、政兕は快く招く返事をしてくれたという。


(これで一安心だ……少なくとも当面は)


 政兕の屋敷へ運び込む私物や、米沢へ引っ越す手はずなど色々と問題は後に残っているが、少なくとも今晩自宅で赤穂浪士に殺されることはない。

 駕籠の中に座り、吉良は安堵のため息を付いた。それからゆさゆさと移動の際に揺られる駕籠の振動に、居心地の悪さを感じて身じろぎする。

 実のところ吉良という老人、駕籠に乗ることはこれまであまりなかった。

講談によれば浅野長矩に意地悪をして斬りつけられ、屋敷で震えているところを討ち取られたという印象から、小心者であり活動的でないように思えるが、乗馬は得意だったのだ。

 彼は幕府からの使いとして江戸から京都にこれまで二十四回も上洛しており、それだけ長旅に慣れているので体力や乗馬能力などは年の割にはあった。

 尤も、それは襲撃の際に一切役に立たなかったが。


 ともあれ狙われているかも知れないので今回は、万が一に備えて駕籠で姿を隠して移動をしているのであった。駕籠の周りに用人・若党と呼ばれる護衛の侍を十名も囲ませ、槍持が二人、荷物持ちが四人、近習の清水一学が駕籠のすぐ近くで警護をしていた。

 万全の態勢である。

 自分がこうして逃げることで、義周も家臣も死なずにすむ最高の選択をした。

 吉良はそう安心して、恐らく今晩饗されるであろう津軽政兕の魚料理に思いを馳せていた。

 そして外に出て道を一町も進まぬうちに、事件は起きた。


「──これより、作戦行動に出る!」


 その叫び声を聞いた瞬間に、吉良は目を見開いてぞっとした。

 一回目でも二回目でも吉良が死ぬ原因となった赤顔の男、武林唯七の叫びだ。

 慌てて吉良は駕籠の横から顔を出して、周囲を見回す。


「うおおお突破する! くらえ!」


 響く怒号に異常を悟って吉良を守る用人らが腰に帯びた刀に手を掛けると同時に、正面から奇襲が仕掛けられた。

 砂埃を上げて大八車が迫ってくる。引いている一人と、荷車の後ろから二人が押して凄まじい速度で一直線に吉良の駕籠へと突っ込んできた。


「止まれ!」


 護衛がそう制止の言葉を掛けるが、まったく止まらない。


「でええぇい!」


 気合の声と共に顔を真っ赤にさせた唯七は、突っ込む荷車の勢いを殺さないまま、引き棒から手を離し横に転げて衝突から逃れた。

 引き手の居なくなった荷車だが後ろから押す勢いはそのままである。

 動揺した前方を守る三人の侍が、背後の二人を巻き込んで爆走する荷車に激突して倒れる。


「しゅ、襲撃だ! 者共、ご隠居様を守れ!」

「邪魔だ! 俺が吉良を討つ……! お前らは騙されているんだ!」


 なにか意味があるようにも思えない唯七の支離滅裂な叫びが続く。

 その奇襲は荷車だけで終えるものではない。

 起き上がった唯七は刀を抜き放ち瞬く間に一人を切り倒し、もう一人を蹴り飛ばした。熊が襲い掛かってきて一撃で人間を薙ぎ払うかのような圧倒的な強さだった。

 荷車を押していた赤穂浪士の二人も、他の護衛を抑えに出た。

 駕籠持ちの二人は慌てて吉良の乗った駕籠を放り出して遁走し、駕籠の中に取り残されたまま吉良はにっちもさっちもいかなくなってしまった。


「ひいいい」


 なんとか這い出るが、残った戦力は清水一学のみであった。


「ご隠居様! お逃げください!」

「駄目だぁ……おしまいだぁ……」


 がくがくと震える吉良は、血管の浮き出るほどに顔を赤くした唯七の気迫に飲み込まれてしまっている。たった一人で護衛集団を瞬殺したのだから、その理不尽さと恐ろしさはこれまで以上に酷く感じてしまっていた。


「トゥッッッ!」

「うおおおお!」


 叫びと共に、唯七と一学が刃を交える。袈裟懸けに振るった唯七の一撃を、一学が二刀を持ってどうにか弾きながら後ろに下がり間合いを空ける。


「い、いいぞ一学! 勝て! 負けるな!」


 吉良は腰を抜かしながら応援をした。

 しかし一学の方はたった一合切りあっただけで、彼我の実力差を絶望的なまでに感じ取ってしまった。先程一撃受けて後ろに下がれたのは殆ど奇跡に等しい。相手の剣も攻撃の予備動作も見えなかったのに、酷く重たく、ねばり(・・・)のある剣撃だ。


「それでも!」


 勝てないと悟りつつも、一学は刀を構えて迎え撃つ他はない。それが彼の役目であり、忠義なのだから。

 だが若武者の覚悟は無残に散る。


「これ以上は無駄だ! 退け! 今だ!」


 惑わすような謎の叫びとともに唯七が投擲してきた刀の速度は、切っ先から鍔元まで一学の喉を貫通するほどだった。

 一学はよろめいて、すぐに死んだ。

 覚悟があろうとも守るべき人がいようとも、人は死ぬ。思いだけではなにも守れない。


「う、あ、ああああああ」


 吉良は呻き、涙を流す。初めて目の前で一学が殺されるところを見てしまった。自分を守るために、死んだ若者の姿を。

 嘆き硬直した吉良に向けて、唯七は落ちている砕けた荷車の車軸を持ち上げて肩に担いだ。そして興奮していたのが嘘のように静かに言い放つ。


「こんなことをしても……なにも戻りはしない。俺も、殿も」

(いいや──)


 吉良は振り上げられた荷車の破片を睨んで、念じた。


(戻るものは、ある)


 ぐしゃり。



 吉良義央、武林唯七に荷車で殴られて死亡。




 ******



 ──吉良死亡 三回目



 吉良は布団から起き上がり大きくため息を付いた。そして涙の滲む目元を揉んで、唱える。


「まだ誰も死んでおらぬ、まだ誰も死んでおらぬ……」


 目の前で一学や家臣らが殺害されるのは、自分ひとりが殺された二度の出来事より強い衝撃を与えていた。

 だがこうして何事もなくまた朝に戻って来た。誰も自分が死んだことを覚えていないが、吉良だけは記憶にまざまざと残っている。

 忘れてしまおう、と心のどこかで囁く声があった。

 繰り返すこの一日は悪い夢のようなものだ。一々覚えていては心が摩耗する。新しい気持ちで、どうすれば生き延びられるか考えるのが肝要だ。

 だから、忘れてしまおう。未来を見て、過去のことなど。

 吉良は複雑な目つきで、布団から這い出て枕元にある文机に座った。文箱から筆を取り出し、墨壺に付けて半紙に大きく『三』と書いた。

 せめて自分が死んだことだけは忘れないように。

 

 同じ四回目の朝を過ごしながら吉良は計画を立て直す。

 逃げる、というのは悪くない判断だとまだ思っている。改めて前回、襲ってきた武林唯七の強さを見たがはっきり言って異常なほどで立ち向かうのは困難だ。彼だけが強いのか、赤穂浪士全員が吉良の家来を纏めて薙ぎ払えるぐらい強いのか不明だが、後者だったら神仏を呪うと吉良は念じた。


(あんな相手と戦うのは得策ではない。だが、悠々と逃げては発見されて討ち取られる)


 白昼堂々と襲ってくるとは思わなかったが、赤穂浪士も切羽詰まっているのだろう。実際、襲撃計画の離脱者も近頃は続出しており、資金も殆ど尽きている。首領格の大石内蔵助が、冬だというのに自分の羽織に入れる綿すら買えなかったという話は涙無しで語れないと後世で有名になっているぐらいであった。


(しかしまあ、殿中で切りかかってくる男の家来だから往来で襲ってくるのも意外ではないか……となればどうやって逃げるか)


 のんびり駕籠なんかに乗っていては襲ってくださいと言っているようなものだ。

 護衛を増やす? いや、前回一人で十名もやられたのに、あれが複数人襲ってきたら護衛が幾らいようと無駄だろう。尽くなぎ倒されて駕籠から引きずり出されるのが目に見えていた。

 となれば、敵が襲撃できないような方法で移動……

 吉良は指を鳴らした。


「そうだ、馬だ! 早馬で駆け抜けよう!」


 思いついたのは速度重視の解決案。

 まさか赤穂浪士も、狙っていた吉良が突然早馬で邸内から出てくるとは思わないだろうし、咄嗟に乗馬中の吉良を町中で襲うという行動を起こすことも難しいはずだ。

 町中で伴も付けずに馬を駆けさせて走るというのは、褒められた行動ではないが、


「命が掛かっておるのだから仕方あるまい」


 そう吉良は今までならば決してやらなかったであろう行動の決断をした。

 いきなり馬で駆け込まれても津軽政兕も困惑するだろう。下手をすれば年を取ったせいで物狂いになったかと思われて、送り返されるかもしれない。

 なので、予め文をしたため送った。


『急なことで申し訳ないのだが、赤穂浪士に命を狙われ屋敷の周りには見張りまで居る。このままでは明晩に襲われてしまうので、どうか屋敷に匿って欲しい。移動中に襲われぬよう、早馬で屋敷に駆け込むことを許してくれるだろうか。どうか、どうか頼む』


 そのような内容の手紙を家来に持たせて運ばせ、返事を聞かせてきたところやはり政兕は快諾し、いつでも来てくれて良いと保証してくれた。


(持つべきものはこういう友だ……)


 突然の申し出も受けてくれる政兕に大層吉良は感激する。友というには年が離れているし、一時期とはいえ吉良の娘を娶ったのが政兕であるので義理の息子とでもいうべき関係だが、その娘は祝言を上げて一年もしないうちに亡くなってしまったのでお互いに若干の気まずさを当初は感じていた。それでも家族を亡くした者同士少しずつ親しくなり、敢えていうならば年の離れた友といった関係で安定していたのだ。

 相手方の承諾も得たので、身内も説得する。

 義周と家臣らを集めて吉良は告げた。


「赤穂浪士の奴らめが、儂を今日にでも討ち取らんと狙っておる」

「ま、真ですか父上!」

「うむ。間違いない。故に儂はこれより、津軽政兕の屋敷へ身を隠すことにする」

「上杉家の屋敷ではいけないのですか?」

「距離が遠すぎる。確実に襲われてしまうぞ、あの調子では」


 吉良は顔を歪めた。最初は別の理由で上杉家ではなく津軽家を選んだのだが、今はそっちの理由の方が深刻であるように思えた。


「それでは出かける準備を……」


 平八郎が指示を出そうとするのを吉良は制止する。


「いや、伴は要らん。馬を出して向こうの屋敷まで駆けていく。道中襲撃されぬためだ。荷物の類は後から持ってまいれ」

「しかしご隠居様、護衛が居たほうが安全では?」

「護衛を連れて悠々と歩いていては襲ってくださいと言わんばかりではないか!」


 こやつらは自分が今置かれている危機的状況を甘く見ているのか、と苛立ったように言う吉良。だがそれも当たり前である。襲撃された記憶を持っているのは彼だけなのだ。

 他の家臣らも赤穂浪士に関する噂ぐらいは耳にしているが、明日も今日と変わらぬ日常が続いていると思っている。

 そこに突然隠居した前当主が慌て始め、馬に乗って単騎で逃げるとか言い出し始めたのだ。

 正直なところ、皆が困惑するのも当然ではあった。はたから見れば被害妄想に取り憑かれたようにも思える。


「で、ではせめてこの平八郎が馬にて伴をしますので……」


 下手に否定して刺激してはまずいと思ったのか、妥協案として家老の小林平八郎が付くことにした。近習の一学は馬に乗れる身分ではないからだ。

 それから準備を整え、昼前には門を開けて馬の鼻先を外に向けた。武士というのは出歩く際に格に応じた伴を連れなければならないのだが、それも無視しての行動である。

 そうでもしなければ命が危ないのだからやむを得ない緊急事態だ。吉良は固く手綱を握った。

 隣に並んでいる平八郎は若干、緊張した面持ちにある。普段余程の事情がない限りは馬など乗らないのだから仕方がない。


「行くぞ!」

「は、はい……」


 何故このご隠居はこんなにやる気に満ち溢れて町中で早馬を走らせようとしているのだろうか。いっそ止めて寝かせた方が良いのではないかとも思ったが、考えが纏まらないうちに準備が終わって出発の時間になったのだから仕方がない。

 吉良邸が本所一つ目にある回向院の裏手で、黒石津軽家の屋敷は本所三ツ目にあるのでそれほど離れていない。馬で行けばあっという間に到着するだろう。


「はぁっ!」


 気合充分な掛け声を上げて、吉良は馬を走らせ始めた。

 門をくぐり道に出て方向転換をして、後に続く平八郎を気にせずに進む。緊張からか馬体を掴む足も固くなり、視線は周囲を注意深く見回していた。何処かに赤穂浪士が居て見張っているかもしれないが、馬での移動に度肝を抜かれているだろう。


(少なくともこちらの計画を知らぬ向こうは、馬で移動中の儂を襲うより屋敷に戻った後で準備を整え襲撃を仕掛ける方を選ぶはずだ……もう安全が確認できるまで屋敷には戻らん!)


 しかしながら、勢い良く飛び出たが吉良にとって予想外だったこともあった。

 雪の残る道を歩く人がかなり多いのだ。吉良は駆け抜ける馬を慌てて端に寄って避けた。

 折しも時期は師走の十四日。江戸の屋敷では当時の大掃除である煤払いを昨日のうちに終えて正月用品を買い出しに出かける時期であった。特にこの日は、深川八幡で歳の市が行われるので通行人の数も多い。

 跳ね飛ばさないように注意しながら速度を落とし、何事かと注目を浴びるのを振り切ってひたすら津軽政兕の屋敷を目指した。


「よし、行け!」


 大丈夫だ。もう半分以上距離を稼いだ。作戦の成功が近づいてくる──と思っていた。


「お前を行かせるわけにはいかない! 吉良ッッ!」


 すると何処からか絶望的な声が聞こえて、吉良は恐怖から叫びそうになった。


「へあああ!」


 続けて響いた叫び声と共に、吉良の前方に見える商店の品物を入れた箱が吹き飛んで中身が地面に散らばった。

 歳の市で販売されるしめ縄が入っていたらしく、それらが散乱している。

 そこに吉良の馬が近づくと、大きく嘶いて馬は馬体を上げて速度を落とした。


「しまった!」


 馬は蛇を本能的に嫌う。足を噛まれたら一巻の終わりだからだ。同時に、蛇に似たにょろにょろとした紐状の物が地面に転がっているのを恐れるのだ。


「逃さん! うおおお!」


 更に唯七の投げた捕縄が馬の足に絡みつく。縄の先には小柄が結びつけており、食い込むように捕えてきた。


「ご隠居様!」


 平八郎の叫び声が後ろから聞こえる。吉良は必死で馬を操ろうとしたが転げ落ちる。背中から落ちたので咳き込みながらも慌てて立ち上がる。


「ここに居たんだな……吉良!」


 正面から武林唯七がゆっくりと歩み寄ってきた。

 吉良は馬で早駆けしてここまで来たつもりだが、通行人を跳ね飛ばすわけにはいかなかったので速度を緩めたところを一気に追いついてきたのだろう。長距離を馬で駆けて逃げるならともかく、黒石津軽屋敷までの短距離ならば走りの得意な者が全力疾走すれば人の足でも追いかけられる。

 近づいてくる唯七に、吉良は後ずさりしながら叫んだ。


「なんなのだ。なんなのだ。なんなのだお前は! なにが目的なのだ!」


 泣きそうになりながらも聞いた。毎回毎回、違ったやり方で吉良の前に立ちふさがり殺害してくる恐るべき刺客。無限地獄の獄卒。怒れる赤面の男は、刀を抜き放って言う。

 迷いはなかった。彼の目的はただ一つ──


「正義! 武林唯七、行くぞ!」


 正しき義によって振るわれた刃は、吉良を切り裂いた。

 致命傷だ。吉良は失敗を認めた。白昼堂々だろうが馬に乗っていようが、その場の判断でこいつは襲ってくる。無防備に外に出ること自体が危険なのだ。


(正義、か……)


 正しき義。ジャスティス。それを唯七は信じている。

 逆恨みで襲われているとしか吉良には思えなかったが、彼らは彼らなりの正しさを持っているから諦めないのだろうと吉良は意識を手放しかけながら漠然とそう考えた。

 薄暗くなる視界では吉良を斬り殺した唯七の憂いを帯びた表情が見える。


「俺にだってわからないさ……本当はなにが正しいかなんて……」


 なんだ、それは。吉良は支離滅裂な唯七の言動に突っ込みながら、死んだ。




 吉良義央、武林唯七に馬から落とされ斬殺されて死亡。





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