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最終話『選ばれた未来』


 ──吉良死亡 百七十六回目



「ご隠居様、申されていた人相の男、武林唯七は酒を飲みました」

「飲んだか! あいつ酒を飲んだんか!」


 死ぬほど洒落にならないような吉良の勢いに押され気味に引いて一学は応える。


「え、ええ……『俺にだって飲みたいときぐらいある……』とかなんとか云って一口飲むのを見ておりました。その後、赤かった顔が急激に白くなっていきましたが」

「よし……」


 拳を強く握って吉良は頷く。

 唯七の弱点が酒だと教えてもらい七十回以上。無意味に赤穂浪士に酒を奢るだけで終わっていたのが、とうとう目的の人物が酒を飲んだのだ。

 途中、もしかしたら武林は絶対に飲まないのではと不安になり、或いは酒ではなく毒でも混ぜたらどうだろうかとも考えたが、そんな都合の良い毒薬を酒一樽で充分に効果を発揮するほど手に入れるのは不可能なので諦めたりもした。


(しかし、唯七は酒を飲んだ。自分の弱点だということは恐らく知っていただろうに、それでも繰り返しの中で偶然口にした……本当に毎回行動が変わるのだなあ)


 これまでの報告でも唯七の反応は様々であった。中には酒樽を叩き割ったり、一学を疑って追い返したり、そもそも集合場所に居なかったりしていたのである。


「とにかく絶好の勝負時だ! 武林を返り討ちに……あっ!」

「ど、どうされましたご隠居様!」

「……返り討ちにする準備してなかった」

「えええ⁉ 私を敵のところに派遣までしたのにですか⁉」


 吉良は呆然としながら頭を抱えた。

 ここのところ彼は剣の修行のためもあり、家臣に一々警告を出していなかったのである。以前は心苦しさもあり通告していたのだが、毎回のようにご隠居様は隠れてとか、そういったやり取りをされるのが面倒でもあったのだ。

 それでも最低限度、義周には上杉家に年末の挨拶に行って泊まるようにと追い出してはいたのだがそれ以外は殆ど指示を出していない。


「い、いかん。よし、とにかく準備をしよう。皆に呼びかけて、警戒をさせるのだ」

「わかりました!」


 しかしながら既に外は真っ暗である。鎖帷子を買いに行ったり、庭に穴を掘ったりすることは時刻的に不可能であった。

 おまけに夜にいきなり襲撃計画を伝えられたので家来たちの慌て方は大変なものであった。


「裏門を破って入ってきたときのために梯子で柵を作れ!」

「ご隠居様! 梯子が足りません!」

「くう……あれも買ってなかったか……とにかく余っている枕屏風でも物干し竿でも組み合わせて、進行を遅らせるようにしろ! そして弓を使える者で狙い撃つように配置!」


 様々な道具は足りないが、告げるのが遅かったので待機する時間は短く、そこまで油断が蔓延しないぐらいの士気を維持できたのは不幸中の幸いであった。


(とにかく儂は武林を倒さねば安心できぬ。裏門は家来に支えさせ、表門で迎え撃とう)


 吉良はそう判断して配置を決める。


「赤穂浪士は表門と裏門からほぼ同時に攻め入る。裏門は簡易的に作った柵で動きを封じて弓矢で数を減らしてから迎え撃て。表門はバラバラに塀の上から飛び降りてくる。着地を狙った場合は塀伝いに移動して別の地点から侵入してきて厄介になるので、全員飛び降りるのを待つ。そうすると表門前で待つ隊と屋敷の中に入る隊、屋敷の南側に回る隊の三つに別れるのでそれぞれを相手の倍以上の人数で囲んで戦う。儂と一学は屋敷の中で迎え撃つ。よいな!」


 そのような具体的な指示を出す吉良に家臣一同は、


(なんでそんなに詳しいんだ……?)


 と、目を丸くして見ていた。いつの間にご隠居が軍師になったのだろうか。

 吉良もこの日は余計な疲れを残さないように稽古を休み、頭の中で赤穂浪士との戦いをシミュレートして襲撃を待ち構えていた。


(今度は……今度こそ……)


 不安な材料は幾つもあるが、賽は投げられたのである。

 


 そして襲撃の時間になり、表門の上から鐘の合図が行われると同時に裏門が破られて赤穂浪士が踏み入ってきた。そして、


「火事だ! 火事だ!」


 と、叫びながら乱入してくる。だが裏門隊は簡易バリケードで足止めを受け、迎撃部隊との戦闘に突入していった。

 表門隊は手はず通りに隊を分けて、屋内には片岡源五右衛門・富森助右衛門・武林唯七・ 奥田孫太夫・矢田五郎右衛門・勝田新左衛門・吉田沢右衛門・岡島八十右衛門・小野寺幸右衛門らが切り込んでいった。


「浅野内匠頭家臣、仇討ち!」

「吉良覚悟!」


 などと口々に叫びながら玄関から侵入。槍に刀にと各々武装して向かう。

 玄関近くに配置していた吉良の家来が瞬く間に切り捨てられて奥へと進まれていく。

 そして広い台所に赤穂浪士一行が辿り着いたときに、大勢で迎え撃った。


「狼藉者め! 覚悟しろ!」

「返り討ちにしてやれ!」


 待ち伏せされていたことでやや怯んだがすぐに赤穂浪士は武器を構えて闘志を燃やした。元より死ぬ覚悟で襲撃を行っているのだ。これしきでは折れることはない。


「むう、吉良め、謀りおったな!」

「卑劣漢、吉良家の家来共を蹴散らせ!」

「うおおおお!」


 そう叫びを上げている中で、白い顔をした唯七は落ち着かない様子できょろきょろと周りを見ていた。そして、どこか弱気に叫ぶ。


「なにかがおかしい……みんな、一旦退け! 吉良は俺達を殺そうとしている! 仲間と合流するんだ!」

「ここまで来て退けるものかよ!」


 血気盛んな赤穂浪士は唯七に怒鳴り返し、戦いが始まった。お互いに槍で打ち合い、刀で赤穂浪士が切り込んでいく。

 乱戦になった瞬間に台所に面した次間から吉良側の伏兵が更に現れる。

 灯りを点けて吉良は大声で兵を鼓舞した。


「赤穂浪士を狙って囲め! 火消しみたいな服装をした者だ!」

「ご隠居様、危のうございます!」

「武林は、武林はどこだ!」


 吉良は乱戦の様子を次間から見ながら仇敵を探す。

 するとこちらに近い、一直線に近寄れる場所にて唯七が吉良家の家来一人と斬り合いをしていた。

 これまでの、接近した瞬間に相手をすぐさま叩きのめす強力な技の冴えは見えず、足軽一人と焦った顔をしながら打ち合っている。

 普段血の上っていた顔は青ざめ、目には大きな迷いがあり、動きは目に見えて悪い。

 酒を飲んだ効果で万夫不当の豪傑が、凡夫同然にまで弱体化しているのだ。


「好機! 一学! やつを仕留める! 攻撃を仕掛けて金縛りにしろ!」

「えっ⁉ あっ! はい!」


 急に発奮しだした吉良にやや驚きつつ、吉良が刀を抜いて唯七の元へと駆け出したので一学も二刀を構えて挑んだ。

 足軽と鍔迫り合いにあった唯七はこちらに向かってくる二人を見て顔を歪ませる。


「き、吉良……ぐうう!」

「武林! 儂がお前を討つ!」

「くっ! 負けられない!」


 苦しそうに唯七は言う。これまで攻め一辺倒だった唯七が防御をしていることこそが、弱っている証だ。

 まず一学が二刀を上から叩きつけるように振るうと、唯七は足軽と片手で鍔迫り合いをしている刀を保持したまま、もう一方の手で槍を構え一学の攻撃を受け止めた。

 その際に決定的な隙ができた。


「はぁーっ!」


 吉良が切り込み、脇腹を深々と突き刺した。致命傷であることは手応えでわかり、喝采の心持ちで唯七を見るが、


「……!」


 唯七の目は血の気が失せたように瞳孔が開き始めていたが、どこか危険な雰囲気を感じて吉良は刺さったままの刀から手を離して慌てて転げて離れる。


「おおおおお!」


 唯七の雄叫びが聞こえたかと思うと、最後の力を使って唯七は刀と槍を振り回し、一鍔迫り合いをしていた足軽と一学はもろにその攻撃を受け体が千切れ吹き飛んだ。

 だが刀が心肺に刺さっている状況下でその激しい動きをするのは自殺するようなものだ。

 最後の自爆に似た攻撃を放ち、唯七は床に倒れ伏して血の水たまりを作った。

 吉良は呆然と見ながら、


「勝った……のか」


 と、呟いたがまだ戦況は続いている。

 それでも吉良は唯七を倒した。倒せたのである。感動の震えが襲ってきたが、


「吉良がここに居るぞ!」


 という赤穂浪士の叫びで狙われたことを悟った吉良は慌てて家来に守らせつつ距離を取る。


「まだだ、まだ勝たねば……!」


 心を鎮めつつ、赤穂浪士たちを掃討するように家来を指揮する。

 だが。

 ここのところずっと味方に頼っていなかったので考慮の外にあったのだが、赤穂浪士は士気旺盛で完全武装。吉良家の兵は弱腰であることに変わりはない。

 裏門を内側から囲んで弓で封殺する作戦は吉良が直接指揮を取らなかったことから既に幾人かに被害を与えたが破られていて、各所での戦闘も芳しくなかった。

 それでも予め足軽長屋などから兵を外に出していたので史実よりは大勢が戦闘に参加できたことで赤穂浪士側も苦しい戦いを強いられる。


 幾らか怪我をしながら吉良も数名の赤穂浪士を切り捨て、邸内を逃げ回りながらも少数の相手を手勢で囲んで討ち取っていく。状況は混沌としていて、吉良の特技である相手の行動を先読みして戦うという方法はもはや先の見えない今は使えない。ただ、出逢えば死ぬという唯七が存在しないことだけが救いだった。


 それから一刻以上も戦いは続き──


「……朝日か」


 吉良は呆然と庭に一人で立ち尽くし、東の空から登り来る太陽を見上げていた。

 庭にはおびただしい数の死体、怪我人が倒れている。

 赤穂浪士の騒動は終えて、吉良はまだ生きていて朝日が登るのを見ている。


「儂は赤穂浪士に勝利したのだ……」


 そう呟いたら、急にゾッとした気分が吉良の胸を襲った。

 生き延びたことが勝利だというのならば、それはそうだろう。

 だが、大勢が死んだ。

 死ななくてもいい家来が沢山死んでいった。

 吉良を生かすというこの勝利を得るために。そして生き延びた以上、死んでしまった者が生きていた昨日という日が再び訪れることはなくなるのだ。


(それのなにが悪い。儂は死にたくないだけなのだ。これまで百回以上も死に続けてきて、ようやく死なずに済んだ世界にたどり着けたのだ)


 死んでいった家来を弔い、それから妻と仲直りをして幸せな老後を……


「ああ……すまない。すまない……」


 吉良は血と脂で汚れ、刃に罅も入った刀を己の首に当てた。

 駄目だと自分で思ってしまったのだ。


 このまま生きても必ず後悔をする。


 いつか未来に死ぬときになって、あの時死んでおけばよかったと悔やむ。


 吉良はそう確信した。僅かに彼の視界が涙で滲んだ。


「こんな勝ちがあるものか……今度は、いつかはきっと、もっと良き未来を迎えられるはずだ。だから許してくれ……絶対に諦めぬから……」


 吉良は首を深く貫き、血潮を噴き出して死んだ。



 ──彼の首を持っていく赤穂浪士は、もはや存在していなかった。


 

 ******



 武林唯七に酒を飲ませさえすれば勝てるという事実を確認した後から、吉良は己に課す鍛錬を更に厳しくした。


 一番問題であった唯七を倒しても赤穂浪士に負けるか、屋敷の者を壊滅状態に追いやられてしまっては負けなのだと吉良は改めて自分の勝利条件を定義し直す。

 元より稽古のために味方を頼らずに戦っていたのだが、更に吉良は家来を居ないものとして自分のみで全ての赤穂浪士と戦い、勝利する道を模索し始めた。


「赤穂浪士らが攻め入る際に、屋敷を空にしておく。そうすれば儂は逃げたと思うだろう。義周は念のために上杉家へ、家来の者共は足軽長屋に入り、やつらが押し込んできたときのみ抵抗するようにせよ。儂は誰にも見つからぬ場所に隠れておく」


 という通達を出すことで、家来の被害を抑えることにした。


 近習の清水一学のみは赤穂浪士に酒を届けさせるが、その後で彼は中山家の屋敷近くで待機させて夜明け前の襲撃があった際に通報する役目を与えた。

 中山直房が手伝ってくれるわけではないが、一学は吉良のことを心配して近くにいようとするので遠ざけておきたかったのだ。修行の邪魔である。

 屋敷の敷地内も念入りに歩き廻り、赤穂浪士の立ち位置や移動に掛かる歩数を検証し、明確に再生できる記憶と照らし合わせてイメージトレーニングも重ねた。

 家臣たちはウロウロと屋敷内を歩き回り、そして確認するように刀を振っているご隠居を見てかなり心配そうな眼差しを向けていた。どうやら確実にボケていると思われていることを吉良は気づいていたが、それでも続けた。

 剣術の伸びしろも、基本を学んでからは劇的に強くなることはなくなった。毎日中山家に通うのを止めて、自宅で自主的な鍛錬で満足いく結果になってから再び直房に助言を頼む。

 殺されて、巻き戻り、鍛え、計画を立てて、殺し、再び殺される。


 それを吉良は繰り返した。


 そうしているうちに、倒せる赤穂浪士の数は増え続けていった。吉良の行動次第で相手の動きも多少は変化するのだが、それでも予想できる程度であり、なるべく変化させないように吉良は条件を整えて立ち回っていく。

 だが──どれほど有利な状況を作り出せても、


「吉良ァァァ! 馬鹿野郎!」

「はいはい、死んだ死んだ」


 唯七に遭遇したら如何に抵抗しようと、確実な死が訪れるのであった。

 あれ以来何十回も死んだが唯七が再び酒を飲むことはなく、そして吉良が腕をあげようとも素面の状態で彼に敵う目途はまったくつかなかった。

 周回ごとに違う行動を起こす唯七の存在は、まさに吉良の現状における最悪の敵である。彼が居なければもっと早くに解決できただろう。唯七以外の赤穂浪士はいかに腕利きの堀部安兵衛ですらもはや吉良は倒すことができるのだったが、幾ら他の者を倒しても最後に唯七に殺されては意味がない。


 吉良は若干虚しい思いを噛み締めながら、今回も唯七に殺されて意識を遠くしていった。



 ******



 ──吉良死亡 二百五十四回目



 吉良は壁にその数字を記してから「むう」と唸った。

 死亡回数が二百を越え、このままでは三百も遠くないぐらいになってしまっている。


「日数で考えると、既に九ヶ月以上は赤穂浪士と戦い続けておるのか……」


 吉良は月日に換算して、気分が暗くなるのを抑えようと首を振った。

 自分が死んだ回数もだが、赤穂浪士を斬り殺した数も既に百は軽く越えている。だがそれでも唯七を倒せたのは、放火して巻き込んだのと酒に酔わせたときのたった二回である。


「このまま武林が酒を飲むのを待つか……それ以外はだいたい倒せるようになったのだが」


 しかし、次にいつ酒を飲んでくれるかはまったくわからないのである。 

 ひょっとして千回に一度だけ酒を飲む確率かもしれない。一万回に一度かもしれない。そう思うと途方もない気がして、ため息が出るのを止められなかった。


「酒を水鉄砲に詰めたり、柄杓で掬って武林にぶっかけたりする作戦は失敗した。まず当たらんし、出会い頭に殺される。酒を入れた桶を天井に仕掛けて、中に入ると酒が降ってくるのも駄目だった。武林の行動が読めぬし、他の誰も引っかからずあいつだけ引っかけるのは無理だ」


 ぶつぶつと吉良はこれまでの失敗を省みて、どうにか唯七に酒を喰らわす方法を考える。

 以前に準備不足で唯七を倒しても大被害を被った頃とは違い、吉良の鍛錬も十分になったのだ。九ヶ月も毎日稽古と実戦をしていればある程度強くなるのも当然である。

 なので、後は唯七に酒を飲ませるかどうかして、彼を倒すだけなのだが。


「それがどうにも……このまま漠然と、武林が飲むのを待っているだけではいかん。なにか良い手を考えねば……」


 吉良はそう思いながらその一日を始めた。

 ひとまず朝食をいつものように部屋に持ってこさせる。義周と共に食事を取るのは時間の無駄なので、周回を重ねるうちに自然とそうなった。簡単な握り飯と刻んだ沢庵漬けに胡麻を振ったものが毎回出て来るが、下手に副菜などがない分飽きが来ないものだった。

 握り飯を頬張りながら唯七に酒を口にさせるかを考えて、ふと思いついた。


(酒ではなく、握り飯などの差し入れに酒を仕込んで食わせるか……?)


 例えば吉良の娘が嫁いでいった薩摩藩の伝統料理に、酒寿司というものがあると彼は聞いたことがあった。これは白飯に酒と塩を合わせて作ったシャリに、魚介の刺し身などを混ぜ込んだ料理だ。酒に弱い者が食べたら普通に酔うのだという。それの要領で酒と塩で味付けした握り飯を一学に差し入れさせたらどうだろうか。

 討ち入り前の腹ごしらえならば唯七も口にするかもしれない。そんなに酒の量は必要なく、少しでも口にすれば酔いが回るはずなのだ。


「よし、今回はそれで行こう。しかし不味ければ口にされない危険もあるから、儂自ら試して作ろう」


 そう決めて吉良はその日、飯を炊いて酒と塩で味付けの練習をするのであった。

 とうとう自分を殺しにくる赤穂浪士のためにせっせと料理まで始めた現況に、どこか釈然としないものを感じながら。


 ──そして一学が握り飯を赤穂浪士の集いに持ち込む。

 しかし唯七は匂いを僅かに嗅いだだけで、


「吉良は俺を殺そうとしている!」


 と、酒の気配を察知して手を伸ばさなかった。そして唯七のその物騒な物言いと、確かに妙な味のついている握り飯を不審に思い一学は捕らえられ、殺されこそしなかったが道場で縛られて監禁されることになった。

 送り出した吉良は、赤穂浪士たちの集いでなにが起きたかは把握していないが一学が帰ってこないということと、


「吉良ァァァ! お前ッ! 正義の力を舐めるなァァァ!」

「失敗、失敗」


 そして相変わらず素面(しらふ)の唯七に殺されながら、酒入りの握り飯を出す作戦は完全に失敗だと決めた。

 実際には唯七の気まぐれな警戒により、余計に他の赤穂浪士が不審に思い一学が捕まったのだったが、そういう事情は吉良に伝わらず一回目で一学が捕まったのならば何度送っても無理だろうと判断したのである。


 どちらにせよ、匂いで察知されるのならば酒を差し入れするのと成功率はそう変わらない。




 ******



 ──吉良死亡 二百五十五回目



「とりあえず差し入れは無理だとして……ううむ」


 吉良は再び思い悩む。前回も唯七以外には善戦はしたのだが、結局殺されてしまった。長らく繰り返す上で、毎回行動は変わるとしても唯七の取る可能性の高い襲撃経路は把握しているのでなるべく会わないように他の赤穂浪士と戦う作戦を取っている。

 当然ながら、唯七本人があれこれと行動を無作為に変えようとしても、他の仲間もいる以上襲撃班の組み合わせや大石などからの指示もあるので、ある程度は行動に制限が付くのだ。時折、それをも無視して吉良を襲うが。

 吉良は自室で暫く悩み、


「……たまには気分転換でもして考えるか」


 そう思って家来に風呂の用意をさせた。

 屋敷の中央にある風呂場にてゆったりと一番湯に浸かりながら物思いに耽る。


「そういえば風呂に入ったのはいつぶりだったかのう……」


 鍛錬の日々では風呂に入ることもせずにひたすら己の体を苛め抜き、その記憶を刻んでいた。最後に風呂に入ったのはまだ周回も浅い頃、気休めで宴会などをしていた頃だろうか。

 じんわりと体を温める湯の熱は染み込むようでどこか優しく、吉良は僅かに涙が滲んだので顔を洗って誤魔化した。


「武林にどうやって酒を飲ませるか……」


 ぽたぽたと雫を皺だらけの顔から垂らしながら考える。


「まるで禅問答だな……飲まない相手に飲ませるとは。口の小さな瓢箪に、如何にして鯰を入れるかという公案があったが……」


 それに関して禅僧もそれ以外の者も様々に案を出していたはずだ。吉良はなにか良い発想がないかと思い出す。


「例えば瓢箪を縦二つに割り、鯰を中に入れて再び割れ目を閉じる……むむ、この発想の転換はなにかに使えそうな気が……」


 吉良は風呂に首まで浸かりながら考えた。


「武林は祖父が唐国出身で……孟子の子孫とか中山殿は言っておったか……孟子といえば……仁義を亡くした者は君主ではないので、殷の紂王は君主ではなかったとか言葉を残していたのう……殷の紂王……」


 ぶつぶつと呟きながら連想をしていく。適当に手を出して、空想上の唯七に引っ掛けるように手で水鉄砲をして撒き散らすと、飛沫が周囲に飛び散った。

 そしてふと、とある方法が頭に浮かんだ。


「──そうか! 思い……ついた! これは試す価値がある! うおおお!」

「ご隠居様⁉ どうされました⁉」


 風呂から水しぶきを上げて立ち上がり、叫び始めたご隠居を皆は心配していた。

 


 いつものように自分以外を避難させたその夜のことである。

 吉良は、裏門近くの弁天稲荷と長屋の間にある物陰に隠れて赤穂浪士を待ち構えていた。

 表門を上がった者が鐘の合図をして、裏門が掛矢で破られる。

 赤穂浪士らは示し合わせた通りに、裏門から侵入してきた部隊を三つに分けた。


 一つは屋敷に切り込む部隊。腕利き揃いで刀を主装備にした者が多い。そちらに十名。

 次に南側の長屋へと向かい、長屋の扉を板で打ち付けて中にいる足軽などを封じる部隊。その後、庭側から屋敷に侵入するのと、外へ逃げる者を仕留めるために槍や弓で武装しているのが九名。

 それから裏門隊の司令部として門を守る者。若い大石主税を守るように、槍を持った四人がいる。年齢的に乱戦も厳しい年長者が集っている。


 吉良は三隊に別れるのを見ることもなく、時間を把握しているので敵が動いたことを知って自分も隠れていた場所から歩み出る。もし裏門側に唯七が混じっていても──これまで数度あった──彼は屋敷内に切り込む隊に入るので問題はなくやり過ごせる。

 目立たぬ薄藍色の羽織袴を着ている吉良は隠れるでもなく、刀を抜いてスタスタと裏門を守る五人に近づいていった。


「むっ! 吉良側か!」


 近寄る老人の姿を見て小野寺十内が槍をこちらに向けて来た。基本的に、赤穂浪士はほとんど誰も吉良の顔を知らない。獣的に襲い掛かってくる唯七のみ認識しているように見えるが、案外老人を見たら吉良だと判断しているだけかもしれないと吉良は思っている。

 槍を向けられても構うことなく近寄る老人に、十内は警戒した。


「鋭ッ!」


 十内が槍を突き掛かる。吉良は冷静に半身で躱しながら更に一歩進んだ。

 直房に教わったところによると、素人は槍を持つとひとまず突いてくるという。訓練された素人は槍を叩きつけてくる。そのどちらも達人が使う無駄のない刺突斬撃に比べれば女子供が癇癪を起こして振り回すようなもので、動きを見れば避けることは造作もない。

 そう言われて吉良は直房が棒を使い、わざと下手な振り方突き方を実践してくれてそれに殴られ突かれ悶絶しながらも避ける体捌きを身につけた。

 更にはその十内が放つ初撃は何度も見ているので、決められた通りに動けば当たらないことを吉良は知っている。

 幽霊を突いたかのように手応えなくすり抜け更に接近する吉良を見て十内はぎょっとした。その次の瞬間に吉良は伸び切った槍の柄を片手で掴んで引っ張る。

 急に得物を引かれたので慌てて十内は踏ん張ろうとしたが、すぐに吉良は手を離した。力んだ十内はよろめき、その間に吉良が一歩近づき刀で首を払った。

 切っ先を僅かに入れて振り抜くだけで大動脈は切り裂かれて血が吹き出る。一気に頭から血が失せて十内が倒れた。


「おのれ!」


 叫びが上がり、吉田忠左衛門と間喜兵衛が左右から槍を押し出してきた。

 吉良は殆ど力も入れずに左側へ一歩踏み出して槍を避ける。槍で狙う目測が甘い上に、足元で倒れている十内を気にした二人の攻撃はそれだけでもつれたように吉良には当たらなかった。

 踏み込み、忠左衛門の首を払う。これで二人目を仕留めた。

仲間があっけなく殺されるのを信じられぬ目で見ている喜兵衛の硬直は心臓の鼓動三つ分続くと吉良は知っている。軽く近づき、忠左衛門から奪い取った槍を深々と喜兵衛の首に刺して槍ごと倒れるのを確認した。


「き、貴様……!」


 震えた声でそう言ってくるのは大石主税だ。その言葉を言うまで彼は動かないことを予め知っていたので吉良は警戒もしていなかった。

 やはり彼も持っている槍で突いてくる。長物を持っていると、相手との距離も開くので心の余裕を保ち易いのだ。だからこそ、本能的に突き放すような突きを撃ちたがる。特に、赤穂浪士のほぼ全ては槍で実際に人と殺し合いをした経験などないのだ。

 突き、という攻撃は最速最短で相手に刃を届かせるが、その分攻撃範囲が小さい。

 刀で袈裟斬りならば下手な避け方をしても体のどこかに当たる。だが、槍は貫いてくる一点を避ければそれだけで攻撃は失敗に終わる。赤穂浪士は十文字槍を持っている者が多いので、その横についている刃物分も考慮しなければならないが。

 吉良は刀で穂先を軽く押すようにして、槍の軌道を変えつつ自分の身を躱して近づき、まだ少年とも言える年齢の主税の脇腹に刀を突き入れた。


「かはっ……!」


 口から血を吐きながら倒れる。即死はしないが致命傷だ。


「主税⁉ おのれええ!」


 潮田又之丞が、槍の対応に慣れていると吉良を見たのか刀を抜いて接近してきた。


「はあ!」


 振りかぶって頭をかち割るように力任せに振る姿は、吉良から見れば素振りの基本ができていない。刃筋も立っていないし、動きも無駄が多すぎる。

 そう思えるぐらい余裕に避けて、脇差しを抜いて又之丞の首を薙いだ。

 それから吉良は脇差しについた血を倒れた赤穂浪士の着物で拭い、倒れた者から刀を二本ばかり奪って歩き始めた。使い捨てにする武器は幾らでも調達ができるし、突いた武器を引き抜くよりはそのままにした方が疲れは少ない。

 瞬く間に五人を殺害した吉良だが、息の一つも切らしていない。


 普通の立ち会いならばお互いに真剣や槍を構えて対峙し、動きを読みあって集中を高め、一撃で仕留められるように剛力を込めて刀を振るうだろう。その結果、精神は疲れて筋肉はこわばり、呼吸も乱れるのが通常だ。

 だが吉良は至って平静であった。それは、既にこの結果が見えていたからである。

 周回によるズルのようなもので、吉良からすれば相手の挙動を探る読み合いも、どれほどの力を込めれば肉を貫けるかという過剰な力みもない。自分が進めば相手はどう行動をするか既に見ているので、それに応じた対応を機械的に行うだけであった。

 幾ら相手が凶器を振るおうとも、それが当たらないように予め決めた動きをするだけならば庭を散歩するのと変わらない。

 決まった場所に刀を振るうだけで相手を仕留められるのならば、素振りをするのと然程疲れに違いはなかった。精々彼の疲労感としては、歩きながら素振りをした程度だろう。それほど自然体で行動をしていた。幾度も繰り返したが故の動作だ。


 吉良はそのまま裏門から立ち去り、屋敷の南側にある庭へと向かう。

 庭の先は敷地を囲む足軽長屋が建てられており、赤穂浪士はその長屋にいるであろう吉良側の戦力を出させないように、板で長屋を塞ぐのが作戦であった。

 音もなく歩み寄ってくる吉良に対して、長屋を塞ぎながら中から敵が飛び出てくるのではないかと警戒している浪士たちは気づかない。裏門近くで騒ぎが起きた程度には音も聞こえたかもしれないが、元より乱戦覚悟で押し入ってきているのでそれも気にしていないようだ。

 まず吉良は千馬三郎兵衛の延髄を狙い背後から刀で突き刺した。悲鳴も出ないまま即死する。


 次に、真っ先に振り向こうとした中村勘助を振り向きの動きに合わせて首の動脈をプツンと斬る。血が溢れて、叫び声を出そうとしたが口からはくぐもった悲鳴しか上がらなかった。

 板を打ち付ける作業をしていた奥田貞右衛門は二人が倒れる音に気づいて、咄嗟の判断で木槌をその場に打ち捨て野太刀を抜きながら吉良へ向き直る。

 数歩の距離を吉良は悠々と詰めている最中であった。


「やああああ!」


 目を見開いて、叫び声と共に野太刀を振りかぶった。

 一気に振り下ろす。縦真っ直ぐの攻撃は横に半歩ずれるだけで吉良には掠りもせず、地面に切っ先が突き刺さりやや上体が前のめりになった。

 予めそういう体勢になることを知っていれば、首を差し出しているようなものだ。吉良は包丁で魚を捌くよりも緊張しない力加減で首筋を薙ぐ。いずれの赤穂浪士も、鎖帷子を身に着けているので防御していない急所を狙う必要がある。

 三人を仕留め、刀を回収し、次の長屋を塞いでいる組へと向かう。


「──吉良家の者か! 浅野内匠頭家来、仇討ち!」


 叫びが前方から聞こえた。

 次の長屋に到達する前に今度は発見されてしまう。一旦庭を大回りして屋敷の近くへと行ってから回り込めば見つからずに近寄れるのだが、それをすると唯七に接近される可能性が非常に高いので敢えて見つかる最短のコースを進んだ。

 こちらを見つけたのは周囲の警戒をしていた間新六だ。彼は半弓で武装している。近づいてくる吉良にまず一射。


(これは当たらない)


 そう予め知っているので余計な動作はしない。元より月が明るいとはいえ夜間で、手もかじかんでいるところの一射目だ。明後日の方向へ、風切り音を立てて飛んでいった。

 一射目が過ぎ去ったのを確認して、吉良はその場で立ち止まり、鞘を少し離れた前方に放り投げる動作をした。急ぐ動作ではない。それからまた間新六へと進む。そこに二射目が飛来するが、吉良の前方の地面に突き刺さった。鞘を前に投げるのはタイミング調整だ。そうすれば矢は当たらないことを確認済みである。

 驚く新六に向かって、吉良は脇差しを投げつけた。勢いを付けて全力で、というわけではない。だが刃が相手の方を向くようにしている。刀を投げつける練習もしっかりとしていて、記憶通りに力を込めて投げれば相手に刺さることはわかっていた。


「なっ⁉」


 飛んできた刀を防ごうと顔を両腕で隠す。鎖帷子ならば、投げた刀ぐらいは威力を大幅に削げるだろう。

 そうしている間に吉良は近づき、腕を上げた新六の脇腹に刀を突き刺し捨てる。すれ違うようにしてそのまま新六に背中を向けて前へと進んだ。彼が致命傷を耐えて反撃してくることはないと既に知っているから、気にかけることもしない。


「うおおお!」


 体全体でぶつかってこようと刀を振り上げて叫ぶのは不破数右衛門だ。赤穂浪士の中でも闘志に溢れている者で、吉良は無残に殺されたこともあった。

 小手先の技より若者の膂力を使って襲われる方がより厄介であった。軽く避けた程度では体当たりでやられてしまう。

 彼が来るまで数間の距離がある。吉良は少しだけ立ち位置を微調整した。


「おおお──うわっ⁉」


 対処法は既に準備していた。数右衛門は先程吉良が投げた刀の鞘を踏んづけて盛大に転ぶ。

 最初は落とし穴でも用意しておこうかと思ったが、その場合は先に引っかかり警戒されるので直前で鞘を投げて転ばせたのだ。

 まともに戦っては大変なので小細工も使う吉良であった。


「おのれ、卑怯な!」


 そう罵られても吉良はなんの感慨もわかず、尻もちをついている数右衛門へ近づき首を突き刺して離れた。

「ごほっ、くそっ、前原伊助、参る!」

 咳をしながら吉良と対峙した顔色の悪い男は前原伊助。毎回具合が悪そうなので、吉良は彼がどうやら病らしいと判断した。

 病気になってでも討ち入りに参加している伊助も、決して夜襲を楽しんでいるわけではあるまい。だがそれでも譲れぬ武士の一分があるのだろう。


(それはこちらも同じことだ)


 相手を返り討ちにすることが、隠居した自分の代々続いてきた吉良家へと果たすべき義だ。そう思っている。

 吉良はがむしゃらに振るう相手の袈裟斬りを、間合いを外すことで空振りさせて首を突いた。


「うっ」


 と、よろめいて首に刺さった刃を両手で掴むが、吉良はひねりを加えて絶命させた。

 再び倒れた者らから、血糊に曇っていない刀を失敬して歩き始めた。

 次の三人組へと吉良は静かに向かっていく。

 ──その様子を長屋の上から眺めている黒袴姿の男が居た。


「スゲエな、あの爺っつぁん」


 中山直房だ。通報を受けてすぐさま駆けつけてきて、見物のために長屋に上がって吉良のことを見ていたのであった。

 伴の者は屋敷の周囲に配置して、野次馬などが近寄らないようにさせていた。本人は火事などが起こらないか検分するためにこうして梯子で上がっていたのだが……


「最小限の動きで赤穂浪士を仕留めていってやがる。ありゃ只者じゃねえぞ。よくあんな爺っつぁんを斬りつけられたな、浅野内匠頭って野郎は」


 この周回では稽古に行っておらず、吉良と直房は面識がない。

 なので、吉良の腕前を見るのも初めてなのだが、覚えた順序で効率的に赤穂浪士を攻略していく吉良は大層な達人に見える。


「吉良上野介側の家来が見えねえのは謎だが……こいつは面白い」


 直房は眼前で見えるたった一人で尽く返り討ちにしていく、恐るべき戦いを見て笑った。

 吉良は次に、焦るでもなくゆるりとした動きで近寄り、木村岡右衛門の突き出す槍を避け、拾っていた野太刀を片手突きにして倒した。間髪入れずに近づいてきた間瀬孫九郎が振り回した槍をくぐって躱し、彼の足を地面に縫いとめるように脇差を突き刺した。


「ぐっ!」


 痛みに怯んだ孫九郎の体を掴み陰に隠れると、飛来した矢が深々と孫九郎の背中に突き刺さり悲鳴が上がる。茅野和助が放った弓矢の盾にしたのだ。

 矢の当たったショックで気絶したか死んだか、確認はしなくともひとまず孫九郎は無力化したので離れて和助へと向かう。二射目を、軽く首を傾げることで回避。目を見開いた和助に踏み込み、首を払った。パッと赤い筋が首に浮かび、血を噴き出して倒れる。


「こいつはもしかすると、もしかするかもしれねえな……」


 流れるように鮮やかな吉良の攻撃を見て直房は、目を離さぬように長屋の屋根を伝ってついていくのであった。

 これにて裏門隊は、屋敷内に斬り込んだ者以外全滅した。

 屋敷の中は襖という襖につっかえを掛けたり、棚を動かして塞いだりしているので探索に多少時間が掛かるだろう。なにも屋敷の中に探す妨げがない場合は、戦う家来も居ないのですぐに探索を終えて外に出て来るから時間稼ぎに細工していたのだ。屋敷からは赤穂浪士の吉良を探す声と、唯七の雄叫びが聞こえる。

 吉良はそのまま庭を進み、再び三人組と出会った。


「敵か!」

「浅野内匠頭家来なり!」


 そう叫んで切りかかってくる横川勘平の攻撃を避けて首を斬る。一合も鍔迫り合いなどに持ち込ませては、手の筋肉が耐えきれなくなってしまう。

 続けて手槍で突き掛かる貝賀弥左衛門の槍を避けて、柄を掴み引っ張る。十文字槍ではなく直槍を持っているのは少数派だが、彼もその一人だ。対処はしやすい。

 引っ張られて思わず前に出る弥左衛門の手を切って槍を奪う。


「えいやっ!」


 掛け声と共に突き出される岡野金右衛門の槍に弥左衛門の体を押し付ける。ぶすりと仲間の体を刺してしまい、慌てるが穂先が抜けない。吉良は迷わず近づき、奪い取った手槍で突いて金右衛門を殺した。


「次」


 既に十七人を倒した吉良は改めて気を引き締める。


(今のところ武林に出会っていないから、上手い具合に進んでいる)


 ここからが更に気を引き締め、そろそろ唯七との戦闘を意識しなければならない。

 吉良は東へ進むと、書院の建物が見えた。そこにも庭に降りるための出入り口があり、表門隊の者が周囲を警戒していた。


 半弓を持っている早水藤左衛門に向けて、気づかれるよりも遠くから吉良は短くて使いやすい手槍を、放物線を描くように投げつけた。

 重力加速を得た槍が深々と唐突に藤左衛門の頭を貫いて、中年の浪士は倒れる。もう一人の若者、矢頭右衛門七が発狂したように叫んだ。血気盛んな若さと経験豊富な慎重さのバランスを取るため、若い者と中年を二人で一組にしていたのだろう。

 吉良がぬっと近づくと、右衛門七は十文字槍を振り回して恐慌していた。相手の槍が間合いの外から三回空振りして最後に振り下ろした際に、地面へと槍の穂先が突き刺さるのを吉良は知っていた。

 それから吉良は槍の柄を踏みつけると相手は武器を手放してしまい、愕然と若者は吉良を見る。孫の義周とそう変わらない年だが、今は義を対立させた敵だ。容赦なく首を刀で斬った。


「父さ……」


 と、呟いて右衛門七は絶命した。

 彼は去年に父親を亡くしており、その遺言でも討ち入りに参加を頼まれていて父の腹巻きを身に着けてやってきたのだ。若い右衛門七を加えるのを皆は渋ったが、それでも決死の意気込みにこうして参加したのだが、そのような事情があろうとも互いの義を掛けて戦う場では、命を奪うか奪われるかである。

 他の赤穂浪士も各々、残してきた家族への情もあるだろうし、それでも止むに止まれぬ事情があるのだろう。それを吉良は意識しているが、同情もしない。刀の血糊を彼の着物で拭った。


「生きて明日を迎えられたら、供養ぐらいはしてやろうかのう」


 小さく呟いた。生き延びることができたならば、それぐらいはしてもいいと思った。 

 吉良の心はもはや、赤穂浪士を怨むよりも生きて全てを終わらせたいだけである。 

 その場を離れて次の相手の場所へと向かう。

 次はタイミングと速度が大事だ。吉良は槍を持って小座敷がある建物の窓に寄った。

 その中では屋内を探索している、間十次郎と神崎与五郎がいる。二人が窓から視線を外しているのを確認し、窓の格子から手槍を一気に差し入れて与五郎の首を穿った。

 床に倒れ伏して血を流しながらバタバタと手足を動かす与五郎に十次郎が慌てる。


「神崎さん⁉ くっ⁉ 敵か⁉ どこだーっ!」


 薄暗い周囲を見回して冷や汗を流す。暗がりに敵が潜んでいるのではないかと疑心暗鬼に陥っているのだ。

 吉良はその間に槍を引っ込めて隠れており、頭の中で三つ数えてから今度は槍を格子の隙間から屋内に投げ入れた。

 その瞬間を見ていなかった十次郎は、屋内に音を立てて落ちる槍に慌てて振り向き、敵が槍を捨てて屋敷の奥へと逃げたように思えた。


「こっ、こっちか! 待てぇー!」


 そう叫んで十次郎が屋敷の奥へと向かう。吉良はその間に表門へと向かった。

 表門と玄関は近い位置にあり、表門に五人、玄関に二人が場を固めていて一気に相手にするには大変だが、ほど近い場所で叫びを上げた十次郎の声でそのうち四人が屋敷内に駆け込んでいった。これで表門を固めているのは三人だ。

 吉良は表門へと向かう。歩み寄ってきた相手に、最高齢の堀部弥兵衛は槍を向けてきて誰何し、足を怪我している原惣右衛門は槍を杖のようにして吉良を睨んでいた。その後ろにいて刀を持っている小柄な男が赤穂浪士の首魁、大石内蔵助だ。


「吉良家の家臣か!」

「吉良上野介義央。推して参る」

「なに⁉ 主の仇!」


 まさかいきなり、屋敷の主人──名目上の主人は孫の義周だが──が現れるとは思っても見なかったのだろう。

 弥兵衛が直槍で突き掛かる。感情的な、渾身の力を込めた一撃だ。名乗った場合とても避けやすいこの攻撃が繰り出される。吉良は当然のように避けて弥兵衛の首を払った。


「ええい!」


 叫びながら、倒れ込むようにして槍を振り下ろしたのは惣右衛門だ。足を怪我しているので踏ん張れない彼の決死の攻撃だった。

 渾身でも決死でも、一度殺されればもう十分だ。吉良は予め当たらない位置に避けた。惣右衛門が振り下ろした勢いに体が耐えきれず、地面に転び倒れる。間髪入れず、その延髄を刀で突き刺した。


「……吉良上野介、拙者は大石内蔵助良雄! 主、浅野内匠頭の遺恨を──」

「そうか」


 相手の言葉を遮って近寄る。別段、この首魁である内蔵助に対して思うことは少ない。吉良にとって赤穂浪士とは武林唯七だった。

 内蔵助は東軍流剣術の免許皆伝である。吉良も何度か斬り殺された経験がある。それでも、こうして近づくと隙のない八相の構えから踏み込んでの横薙ぎを払ってくるパターンがあった。

 これは殺傷範囲が広くて早いので避けにくい。下手な避ける動作では攻撃方法を変えられてしまう。吉良は素直に一撃目を受け止めた。

 重たい。老人の筋肉には鍛えた剣術家の一撃は、気を抜けば自らの刀を手放してしまいそうだ。ぶつかった刀同士が澄んだ音を立てて、細かい鉄片が飛び散った。


「むん!」


 と、内蔵助はこの刀を合わせた状態で万力のような力を込めてくる。受け止めた吉良の腕力を加味した力加減だ。

 だがすぐに吉良は刀を手放すと、拍子を外されたように内蔵助が体勢を崩す。一瞬の隙で吉良は脇差しを抜いて、すれ違いながら内蔵助の脇腹に深々と突き刺した。


「お、おおお!」


 内蔵助は叫び、刀を大きく振り回す。だが吉良は同時にしゃがみ、彼の総髪を僅かに斬っただけで最後っ屁は空振りをした。

 その内蔵助を吉良が立ち上がり、両手で強く押す。内蔵助はよろめいて地面に倒れ、血を吐いた。


「殿……主税……無念……」


 そう呟いて絶命する。

 首魁を倒したからといって喜んでいる暇も、喜べる理由もない。吉良は手早く武器になる刀を拾い集めた。

 すると屋敷には入ったが玄関近くに居た間瀬久太夫と村松喜兵衛が表門での叫びを聞いて駆けつけてきた。二人共六十を越えている年長者である。


「大石殿! 堀部殿!」

「おのれええ!」


 槍を向けて駆けつけてくる片方に吉良は抜き身の太刀を投げつける。喜兵衛が怯み、槍でそれを打ち払った。久太夫は構わず向かってくる。これで同時ではなく順番で対処が可能だ。

 久太夫は弧を描くような動きで槍を吉良に叩きつけようとする。多少は練習している動きだ。だが、吉良はするりと避けて懐に入り、首筋に刃を入れた。

 続けて近寄る喜兵衛に向けて久太夫の体を押し飛ばすと、つい仲間を庇おうとして両手で受け止める。戦いよりも長年付き合ってきた仲間の様態を気にして、その一瞬後には吉良が喜兵衛の首を貫いていた。

 これで赤穂浪士の半数は倒し、後は屋内にいる者である。

 いつもならここから屋内に突入し、唯七と会うかどうか運を天に任せながら戦っていたのだが。


「……ここから先は初めての戦いだ」


 吉良はそう呟いて、屋敷に入らずに外を回って北側の庭へと向かっていった。

 土蔵の陰で大きく深呼吸をして、内蔵助の一撃を受け止めて疲れた腕をほぐし休息を取る。最小限の動きでも、予めわかっている行動でも、それでも疲れは少しあった。

 赤穂浪士たちはまったく人の気配がない邸内に困惑しながら探し回っているだろうか。庭に降りて、殺された仲間を発見したかもしれない。屋敷には蝋燭や提灯、行灯などは全て撤去しているし竈の火も落としているので、提灯を持ち込んでいない赤穂浪士らは暗い中での探索で困っていることだろう。


(痺れを切らして、足軽長屋を襲いださねばいいが)


 しかしながら長屋には百人以上詰め込んでいるし、皆は今宵襲撃が行われているのも知っている。半減した赤穂浪士たちでは防衛戦を行う長屋に踏み込めるかは不明だ。

 そんなことを考えていると、屋敷の北側がにわかに明るくなった。隣接した屋敷の家来たちが屋根に上がって提灯を向けているのだ。夜中の騒動で火事かと思って、或いは噂されていた吉良邸襲撃がついに行われたかと確認であった。

 吉良は蔵の陰からじっと待っていると、屋敷から片岡源五右衛門が飛び出してきた。

 そして提灯へと向けて口上を述べる。


「仇討ちでござる! お構い御無用! どうしてもお構いなさるなら、そこもとへも狼藉に及びます!」


 吉良は物陰から出ていく。早足で源五右衛門へと近寄る。


「む! 吉良の家臣か!」


 そう叫んで槍を向けてきた。提灯を上げていた隣家、本田孫太郎と土屋主税の家来たちが目を凝らしてこちらを見てくる。


(この状況で片岡と戦ったことはない)


 だが、基本を思い出して吉良は刀を構えた。


「やあ!」


 叫び、突き掛かる十文字槍の鈎になっている部分を刀で受ける。とはいえ、力比べをしないよう刃同士が触れた瞬間に捻り、槍の軌道を逸らした。

 吉良の動きがこの夜になり初めて加速する。決められた行動をなぞるだけなく、自発的に斃しに行く。槍を戻されるよりも素早く踏み込んで、脇差しで相手の首を払った。

 血しぶきが飛び散り、源五右衛門は倒れた。吉良は僅かに息を切らす。生きるか死ぬかで戦えば、すぐに体力を消耗する。

 どよめきが聞こえて鬱陶しげに隣家の屋根を見ると、それよりも手前にある塀の上に直房の姿を認めて吉良は僅かになんとも言えない笑みが浮かびそうだった。


(師が見ているのだから、無様な戦い方は見せられないな)


 そう考えていると、屋内から再び飛び出してくる影があった。吉良は油断なくそちらを見る。

 そこには、青白い月明かりに照らされてもまだ真っ赤に見える血の上った顔をして、大身槍と太刀を手にした男。

 武林唯七が居た。

 片岡源五右衛門と行動を共にしていたので、彼が飛び出した場所近くにおり、吉良に気づいたのだろう。唯七は満月の庭にて、吠えた。


「吉良ァァァァァ! お前ッ、見つけたぞ! 俺たちを翻弄して得意か! 満足か!」


 ビリビリと気迫で震えるような声だった。彼の叫びは他の赤穂浪士の口上と違い、何度聞いても慣れない。


「武林! 来い! 決着をつけてやる!」

「武林唯七! 成敗! 出る!」


 吉良も叫び返し、庭を東側へと走り始めた。


「とぅ! 逃がさない!」

「ちい!」


 吉良は風切音を聞いた。唯七が槍を投げたのだろう。彼の場合は、一直線に空間を縫うようにするのではなく、横回転を加えて広い範囲を薙ぎ払う投げ方をする。

 吉良は奪っていた源五右衛門の十文字槍を、振り向きもしないで背後に投げつけた。

 空中でガシャンと槍同士が当たる音。どうにか吉良の投げた槍は唯七の投擲を食い止めた。


「待て!」


 吉良の逃走に唯七が追いかけ始めた。足の速さを比べると歴然の差がある。だが吉良は、早く走れるように一人で屋敷の庭にて訓練もしたのだ。

 体力は酷く消耗するが、ほんの少しの距離ならば速度を落とさずに走れる方法を身につけた。

 ひたすらに息を止めて走るのだ。老人には厳しい動きだったが、吉良は必死に目的の場所へと向かった。

 それは庭の北東部、弁天稲荷の側にある池である。

 吉良は池の中に足から飛び込むようにして中央へと進む。雪も残る冬の水は凍るように冷たく、一度はこの中に隠れようとして溺死したことをふと思い出した。


「吉良ァァァ! お前を討つと言ったはずだ! お前も俺を討つと──」


 吉良に続いて池に飛び込んできた唯七は大きな水しぶきを上げて、吉良へと太刀を構えて近づき──頭からずぶ濡れになった彼は、はたと目を見開いた。


「これは──まさか!」

「そう。酒池肉林ならぬ、酒池武林といったところか……!」


 吉良は池の水を抜いて大量の酒で満たしていたのである。

 風呂に入りながら、孟子が引き合いにも出した殷の紂王からの連想で思いついたものだ。紂王は池を酒で満たし、木々に肉を吊るして豪奢な酒宴を行ったという。

 水に飛び込めば否応なく飛沫が飛び散り、それが激しければ頭にも掛かる。

 酒を飲まない唯七を、酒の中に突き落とすことに成功したのだ。


「それい!」

「くっ⁉ 止めろ!」


 吉良は念のために手で酒を掬って唯七に浴びせかけた。太腿まで水に浸かっている状況と、酒の匂いで動けないのか更に酒を浴びせられてしまう。

 唯七の顔色は赤から白に、そして青白くなる。目は泳ぎ、そわそわとし始めた。酒の影響が早くも回ってきたようだ。


(常日頃から精神の均衡が危うく、酒を口にすれば挙動不審になる……強さのためとはいえ、因果な武術だ……)


 そう思いながらも吉良は刀を構えて対峙した。 

 唯七も軽くふらつきながら、太刀を構える。そして歯を食いしばり、吉良を睨んで告げる。


「俺は……俺は未来のために戦う……!」

「儂もだ。終わらない、変わらない世界はもう──嫌なのだ」

「吉良……!」

「武林」


 ここから先は一発勝負だ。見たことのない未来が続く。だが吉良は今、生きているという実感があった。これまでの繰り返しにない未来を体感しているという魂の震えがあった。


「はああ!」


 唯七が斬り込んでくる。お互いに足を池につけていては動きが鈍い。 

 吉良は刀でそれを受け止めた。刀がぶつかる音が響く。一呼吸も置かずにお互いに刀を引いて再び打ち合わせた。

 だが剛力で刀をへし折るほどだった普段の力が篭っていない。唯七は確実に弱体化している。

 吉良は裂帛の気合を叫んだ。


「儂がお前を討つ!」

「ぐうう⁉」


 吉良は唯七が打ちかかろうと伸ばした腕を狙い、相手の手首を切る。筋金の入った甲手を装備していたので切り落とせないが、打撃力は伝わり唯七は苦痛に歯を食いしばった。

 刀が握れなくなり、片手になる。


「お前だけは!」


 次に吉良はその刀を思いっきり弾くと、唯七の手からスっぽ抜けて池に沈んだ。


「吉良ッッ! この──!」


 唯七は蹴りを放とうとしたが、池に沈んだ足を持ち上げるのは酷く緩慢な動作になってしまい、それを失策と本人が悟った瞬間──吉良の刀が閃いた。

 唯七の上げかけた太腿の内側を深々と切り裂く。大きな血管が通るそこを確かに切断した手応えがあった。


「うっ……!」


 と、唯七は大きくよろめくが両足を踏ん張る。脚絆は真っ赤に染まり始めた。


「負けられない……! 吉良ァァァァァァッ!」


 そうして脇差しを抜き放って、脇構えにして鬼のような形相で吉良へ一歩踏み込む。僅か一瞬だが、顔に赤みが差しているのが見えた。

 脇構えから振り上げる一撃を吉良に見舞おうとする。


「武林!」


 吉良は叫び、迎え撃つように刀を振るった。

 正しい構えから、刃筋を立てた正しい一振り。

 それは唯七の刃が吉良に届く寸前に──唯七の額にある鉢金に直撃し硬い金属音を立てた。その衝撃で唯七は一瞬だけ昏倒するように頭が眩んだ。

 脱力し、膝から池に崩れる唯七。

 吉良は離れて、池から上がった。満月の光りが池を照らすと、黒々とした血の染みが唯七を中心に広がり始めている。致命傷となる出血量だ。

 血の気が失せた唯七が池に膝を付いたまま、呆然と顔を見上げる。

 体からは熱が消え始め、流れ出た血のせいで酷く冷たい感覚が唯七にはあった。だが、その熱血が失われていくことで、どこか気持ちが安らいでいく気がした。

 これからはもう怒り、叫び、激情のままに生きなくても良い死の世界が訪れるのだ。


「俺の負け……か……」

「……」

「俺は……俺たちは……どうして……」


 そう口にして、唯七はその体温を血と共に失って眠った。

 どこかその顔は、苦悶というよりも安らいだように思えたのは、それを見た吉良の錯覚だろうか。 


「……せめてこの月明かりの下で、静かに眠るがよい」


 百回以上も自分を殺害してきた相手だというのに、吉良はそう言葉を掛けていた。無意識のことだった。だが、奇妙な絆は感じていた。

 ともあれ、こうして吉良は──ついに武林唯七に勝利した。


「いや、まだだ。まだ、屋敷内に赤穂浪士が残っておる」


 それを倒して初めて、勝ったと言えるだろう。

 既に見たことのある展開からは逸脱してしまった。戦う敵の動きは読めず、中には堀部安兵衛のような腕利きの者も含まれている。

 それでも。


「負けられぬ……」


 吉良は薄明るくなりつつある東の空を見上げて、


「見ているか、明日の朝日よ。もう儂に昨日は必要無いだろう」


 そう告げて、刀を手に屋敷へと向かっていく。

 戦いを終わらせるために。もうなにも怖くなかった。負ける気は、しなかった。

 



 それから朝日が江戸を照らす頃には、吉良は全ての赤穂浪士を倒して庭に出ていた。完全に先読みすることはできずとも、敵の動く癖は覚えていたのでどうにかなったのだ。

 倒した数も数えて、負傷し生きている者は殺そうか悩んだが縛っておいてある。 

 そうしていると、塀の上から飛び降りてきた直房が吉良に話しかけてくる。


「いよーう、爺っつぁん。随分とスゲエものを見させて貰ったぜ。安心しな。お上への報告書は、拙者が書いといてやるよ」


 軽く手を上げて陽気に語りかけ、その手で吉良の背中を軽く叩いた。

 まさか老人一人が完全武装でやってくる浪士達を、片っ端から切り倒していくなんてものが見られるとは思ってもみなかったのだ。

 卑怯も卑劣もない真っ向勝負で、お互いに女子供や病人老人といった弱者というわけでもない覚悟の決まった男同士の戦いだった。

 それを見れてとても満足している直房は機嫌が良かった。


「お見事だったぜ。あっぱれだ」


 その言葉に。

 吉良は視界が滲むのを止められず、手の甲で拭った。

 これまで怒鳴られ、殴られ、蹴られ、叩きのめしてでも教え込んでくれた人の言葉だった。


「かたじけのう……ござった……」


 直房は何故吉良が突然泣き出したのか、なにを自分に感謝しているのか、まったくわからなかったが。

 それでも吉良は彼への感謝でいっぱいだった。




 赤穂浪士による吉良邸討ち入り事件。

 それは役人である火附改の中山直房が始終を検分していた事により、素早く詳細に幕府に伝わった。

 赤穂浪士が襲撃をするという噂は武士の間でも流れていたので、とうとう行われたかという反応であったがその報告を聞いた者は耳を疑っただろう。

 幕府側も、話が広がった町人達の間でも、そして後世の者も真実か否かを議論したが、正しい報告書として受理されたそれにはこう記録されている。



 元赤穂藩浪人の被害

 四十二名死亡 五名捕縛


 吉良家の被害

 無し



 そして直房、及び吉良邸の長屋から見ていた家臣などの証言により吉良上野介義央が一人で四十七人の赤穂浪士を次々に切り倒していったという。

 斬られて怪我をし捕縛された赤穂浪士も吉良一人にやられたと証言をしていた。

 吉良本人に証言を取らせたところ、全員分の斬った詳細を完全に記憶しておりそれを目撃していた直房との矛盾もないことから、どうやら本当だということになった。


 これには江戸の武士町人、それに大名まで驚きにぶっ飛んだ。

 更には時の将軍綱吉まで大いに驚愕し、そして喜んで吉良を呼び褒美まで取らせたのである。

 仇討ちは武士の名誉あることだが、それは返り討ちも同じである。ましてや、将軍の裁定を不服とした浪人の無許可の仇討ちを返り討ちにしたのだから、将軍が喜ばないはずがない。

 一躍吉良は時の人となり、江戸でも、日本の武士の中でも最強の剣士なのではないかと噂された。なにせ、一人で一晩四十七人の武士を斬り倒すのは尋常ではない。

 一方で赤穂浪士の方は、完全武装をして夜明け前に奇襲を仕掛けたというのに、それを完全に見抜かれた上に吉良一人で迎え撃たれ全滅したというのではどうしても情けない評判が立った。老人一人に負けるとは、どれだけ弱いのかと笑われたのである。


 とはいえ、吉良はたっての願いで生き残った赤穂浪士五名には切腹の温情ある処置を願い、また自分が返り討ちをしたことで手打ちとしてその家族へは累が及ばないように主張したのである。

 ついでに死んだ赤穂浪士も全てその主君である浅野内匠頭が眠る泉岳寺へ供養することの許可を頼んだ。

 これがまた世間の評判を良くした。自分を狙ってきた相手にすら情けを掛ける武士がいるだろうか。更には供養までするという。涙を流して感動する幕臣も少なくなかった。

 これは、恨みを買って今後狙われるのを避けるために手厚く葬るという格好を見せればいいと思った吉良の狙いがあるのだったが。

 世間の声に、ここで無体に扱っては幕府への不満が高まると見て吉良の言う通りに生き残りは切腹、遺族のうち十五歳以上の男子は一年の遠島でそれ以外は放免。そして赤穂浪士は泉岳寺に葬られた。


 こうして赤穂事件は幕を閉じるが、程なくして歌舞伎芝居に題材にされていく。

 謂れなき恨みから襲われる隠居老人・吉良は剣の達人であり、襲い来る赤穂浪士をバッサバッサとなぎ倒す痛快劇である。これでまた知名度が非常に上がることになった。

 それから、吉良邸には連日客が訪れた。大名や大身旗本などもやってくる。襲撃事件の顛末を聞きたがったのである。

 吉良はそれを静かに語ってやり、


「剣は正しく構え、正しく振れば間違いなく相手を切れるものだ」


 などと習ったとおりに言うと、聞く方は「さすが達人の意見……!」と勝手に盛り上がるのであった。

 そして語る中で印象に残った赤穂浪士を聞かれると、


「武林唯七という男は、とてつもない強者であった。百回、二百回戦っても儂は敵わなかったであろう。勝てた理由? それは……諦めなかったことだな」


 そう感慨深く告げるので、赤穂浪士の中には武林唯七という吉良をも唸らせる達人が居たという話は広まり、芝居や後世の時代劇でも吉良と唯七の一騎打ちが最大の見せ場になる。

 だが吉良は他人に褒め称えられても、ちっとも嬉しくなかったので増長することはなかった。自分が討たれた世界では赤穂浪士を彼らは褒め称えていただろうと皮肉げに考えていたのだ。


(最初こそ赤穂浪士のことも憎かったが、こうなってみれば自分も彼らも似たような存在だったのかもしれない)


 吉良はそう思うようになっていた。



 それから吉良家は将軍の覚えもよく、千石もの加増を受けて元赤穂藩の土地を貰い、五千二百石持ちとなった。

 同時に上杉家からの援助を三分の一に削減することを申し出て、まだまだ多い出費ではあるのだがひとまず上杉家の家老たちは安堵の息を吐いた。

 義周は戦いに加えられなかったことを悔やんだが、吉良直々の命令で家臣と義周を関わらせなかったこともあって咎めを受けることもなかった。ただ、突然──本当に彼からすればある日突然──異様に強くなった吉良に驚き、自らの目標として尊敬をしたという。

 そして上杉家下屋敷に別居していた妻の富子を、吉良は迎えに行った。

 彼女は柔らかな笑みを浮かべていて、


「お殿さま、お久しゅうございます」


 そう言って吉良と再会した。

 薄暗い泥の中でようやく見つけて触れることができた、燦然と輝く白い花のように思えた。

 周りが見ているのも憚らず、吉良は富子に抱きついた。

 急なことに、老婦人は動揺しながら照れたように告げる。


「お、お殿さま? その……恥ずかしゅうございます、よ?」

「構うものか。儂はただの、隠居老人なのだからのう……」


 吉良は一旦離れ、泣きそうな笑い顔を富子に向けて告げる。

 生きることとはこうして、他人と新たな関係を築いていくことなのだろう。死に続けた日々だが、ようやく生きる実感を彼は得ていた。

 それに気づいてよかったと、吉良は思っている。


「これから、この寂しい隠居老人とまた一緒に暮らしてくれるか?」

「──はい。そういたしましょう」


 富子も微笑み、そうして彼女は吉良邸に住居を移したのであった……



 吉良側の者は誰も死なず、赤穂浪士の恨みもこれ以上買わない。

 妻とは仲直りをして、子供や孫からは尊敬される。

 家の俸禄は増えて、誰もが憧れてくれる名声をも手にした。

 後世に長らく語り継がれることになる、四十七人返り討ちの吉良上野介。

 彼が幸せな余生を過ごしながら、ふと頭によぎることがある。


「儂が寿命などで死んだとしたら、二百五十六回目が始まらんだろうか……」

 

 その時にまたしても赤穂浪士と戦う朝に戻るのか? 繰り返しは起こらず永遠の安息が訪れるのか? はたまた、どこか違う場所や時間にて吉良の意識を取り戻すのか?


 ──果たして彼がどうなったかは、他ならぬ吉良以外には知り得ぬことだ。


 死んだ後のことなど、誰にもわかりはしない。


 当人すらも、その時が来なければわからない。



 ただ、あらゆる並行世界で殺され続ける吉良上野介義央でも、彼が幸せを手に入れることができた世界(ものがたり)があることだけは、あなたが知っている。





[完]



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― 新着の感想 ―
かなり前に電子書籍版で読みましたが、『キラ』ネタを見て、随分古いなあと思ってました。 が。 フリーダムな映画で再燃して、ホットな『キラ』になってしまいました。時代とは分からんもんです。 作者様の別作品…
再公開で懐かしく読み返しました!やっぱり何度読んでも面白さが色あせないし 最終盤の吉良VS赤穂浪士47人などは特にテンポよく殺陣の場面が頭に入って来るのが良い
ラストバトルはタテが凄くて見入りました すごく良かったです あと死に戻りの謎がスッキリわかるのかな?とか思ってました また面白いお話宜しくです
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