10話『宿敵の牙』
──吉良死亡 百一回目
『百一』と日課の回数を記してから吉良はさてと考えた。
自分の腕前は、そこそこのものになっていると思ってもよいだろう。日数にして六十日と少々で身につけるにはかなり過分な力量とも言える。
それも厳しく正しい師匠に真剣な訓練、実戦経験によって急上昇したものだ。
だが、と吉良は思う。
(急には強くなったが、いずれは自身の強さに限界が来る)
体の老いと体力はどうすることもできず、鍛えたところで筋力が増すわけではない。殺されれば酷使された肉体も元に戻るのである。
最初はずぶの素人だったので急激に強くなり、中山直房も幾らでもある鍛えるべき箇所を次々に指摘していったが、一人前になれば伸びしろがなくなってしまうだろう。
「このまま鍛えて、武林を越えることができるのだろうか……」
赤穂浪士の多くとは、恐らく一対一ならば勝てる自信はあった。大勢と戦うことを考えればまた別だが。
しかしあの武林唯七が相手となると、自分を最大限まで鍛えきったところで勝ち目があるのかはまったく不明瞭なのだ。これまで放火以外でまったく勝てる気配さえなかった。そして放火は一網打尽にするにはいいかもしれないがリスクが高すぎる。
「そういえば……」
どうにか唯七の弱点はなかっただろうかと記憶を手繰っていると、最初に直房へと通報をしたときのことを思い出した。
火事が起きないか見物に来た直房が屋根の上から吉良が唯七に襲われるのを見て、
『おっ、あいつは確か──』
と、喋った記憶があった。
「……中山殿は、武林のことを知っているのだろうか?」
だとすれば唯七の使う、変幻自在の技についても心当たりがあるかもしれない。
聞いてみよう。
吉良はそう決めてその日も中山家へ向かう準備を始めた。
それから吉良は中山家にやってきた。いつもの書状には、稽古の依頼ではなく武芸についての相談ということを記して文に出していた。
相変わらず酒樽からの登場で笑われて、今日は道場ではなく座敷に通された吉良は率直に聞いてみた。
「中山殿は武術の流派にお詳しいのですか?」
「ん? おう、拙者はそういう話が大好きでな。結構詳しいんだぜ。なんだっけ、知りたいことがあるとか?」
吉良は頷いて、彼に尋ねる。
「赤穂浪士の武林唯七が修めている武芸なのですが……一見、決まった構えもなく無造作に近寄り、防御に備えてもそれを掻い潜って強烈な一撃を打ち込んでくる……」
「武林……? ああ、武林か! 妙な技を使うって話には聞いたことあるぜ」
「お、教えてくだされっ!」
「うおっ」
身を乗り出してきた吉良に、直房は思わず体を引く。
「まあ落ち着けよ。えーと確か……」
そう言って茶を啜りながら、武林という男の武芸について思い出そうと天井の方へ目を向けて考えた。
それから部屋の隅に置かれた文机を引っ張り、紙と筆を用意する。
「いいか? 武林ってのはこう書くだろ?」
そう言いながら『武林』と紙に記すのを吉良に見せる。吉良は、よく考えれば相手の喋りだけでタケバヤシ・タダシチという名前を覚えていたから字を知らなかったが、頷いた。
「で、これはたけばやしと読むわけだが、本来は別の読みでな。『ブリン』と、読むわけだ」
「ブリン……?」
聞きなれない響きを吉良が口にする。
「武林ってのは唐国では武芸者の社会みたいな意味を持つ。つまり武林唯七が使う技は、唐国から由来している武芸なわけだ」
「唐国の……」
「そいつの祖父が、太閤サマがやった朝鮮攻めの際に唐国から日本に渡ってきた。で、日本風に名前を変える際に自分が所属していた武芸者集団に因んで、武林と名乗るようになったとか昔に拙者が知り合いだった同じく唐国の武芸をやってるやつに聞いたことがある。孟子の子孫だかなんだからしいぜ。本当かどうかは知らねえが」
「そ、それで、どのような武芸を?」
「名を『酔醒逆行』」
再び直房は文字に書いて吉良に見せた。
「唐国の武芸ってのは日本のやつより動きの型を大事にしてるらしい。だから、相手があの攻撃をしてきたらこちらはこれで受け止めて、これで反撃する……ってのも結構定番みたいな動きが決まってるわけだ。つまり防御や回避するための受け技が豊富なわけよ。それを究極的に無効化しようという奇術が酔醒逆行という流派だ。型をなくして、直前までの動きを無視し、不合理にも思える行動を取り、激情のままに、或いは急に冷静になり、メチャクチャで読めない動きをしながらもひたすら早く強く攻撃をする」
「……」
「こう表現すると素人か酔っぱらいが刀を振り回して暴れるのとどう違うのかって気にもなるが、その武芸は一瞬一瞬が達人の動きなのがやべえところだそうだ。しっかりと剣術を学んだやつほど危ねえ。様子を見ようとかしたら防御不能な攻撃を仕掛けてくる。一合受け止めて警戒をしたら、その警戒の斜め上な攻撃が飛んでくる。何度受けてもその度に違う攻撃でまったく読み切れねえ」
(そ、そうなのだ! まったく予測が役に立たぬ!)
吉良は心の中で同意した。声に出すと不審がられるので言わないが、これまで何十回も殺されたのにまるで唯七の動きは読めなかったのである。
直房は解説が楽しそうに続ける。
「酔醒逆行の肝は、計算して行動をずらすんじゃなくて無意識のうちに変化させるところだな。常に直前の自分を疑い、現在の行動に惑い、先の展開をかなぐり捨てる。それでいて攻撃は躊躇わない。獣だってもうちょい本能でも使って攻撃するもんだが、これは本能すら否定して攻撃をする。心が読める達人だって、これの使い手の行動は読めねえ」
だからか、と吉良は思った。
一瞬一秒で変化する意識と行動。それによりほんの僅かな、それでいて自動的な変化で唯七は毎回襲撃時の行動が変わっているのだ。
本来ならばサイコロの目のような偶然すらも繰り返す日々では吉良が関わらなければ同じ目が発生するというのに、彼の極端な精神の動きだけはその都度サイコロを振りなおすように変わっていく。
この繰り返しの中で戦うには相性が悪いというか、一切吉良が有利になれない武芸であった。
「孟子の言葉には『酔いを悪みて酒を強う』……『悪酔強酒』って言葉がある。これも心と相反する行動を取ってしまうって言葉だが、そこからきた武芸かもな。武林ってのは孟子の子孫らしいしよ」
直房は声を潜めて、苦い顔で言う。
「だが、この武芸を修めると弊害もあってな。頭がおかしくなっちまうらしいんだ」
「頭が……?」
「当たり前だろ。まっとうな考えを持ってたら合理的に動く場面でも、メチャクチャな行動を取ったりするんだぜ。それも意識せずに。心と体が異なる動きを命令し、普通なら混乱してしまうところを武術として成立させる。そうしているうちに、使い手は冷静に発狂していく。意味不明な言動を繰り返したり、突然興奮したり、急に醒めたりする。そんで頭には血が上って酔っ払ったみてえに真っ赤になるとか。聞いた話だがな」
「……凄く心当たりがあります」
「ん? その武林ってやつ見たことあんの?」
「ええ、まあ……」
言葉を濁して応える。まさにその特徴はこれまでに出会った唯七そのものだった。
彼の意味深長な言動の理由も、精神錯乱のためと判明し吉良は小さくため息をつく。なにか意味があるのかと、悩んだこともあったのだ。
「ま、つまり纏めると倶利伽羅峠の戦いで放たれた暴れ牛みてえなもんだな。予測のつかない動きで大暴れする猛獣だ。厄介なもんだぜ」
倶利伽羅峠の牛というと、角に松明をくくりつけて敵陣に放ったという話で有名なものだ。
炎により興奮して暴れまわる牛の群れによって平家の軍は大混乱を起こして数で劣る源義仲に壊滅させられてしまう。
そんな存在が明確な敵意を持って自分を狙ってくるとなると、目眩を吉良は感じた。
「な、中山殿」
「なんだ」
「それで、どのように対処する方法があるのでしょうか……」
恐る恐る聞いてみると、直房は顎に手を当てて、
「そうだなァ……拙者だったら、出会い頭に先制攻撃で仕留めようとする。相手の攻撃を受けようとするのが拙いからな。勿論、相手も拙者に合わせて攻撃を仕掛けてくるだろうから、そうなるともうお互いの実力次第で一発勝負だろ。恐らく、五分五分ってところだろうな」
「五分!」
数十回も殺されている吉良からすれば、五分の可能性で勝てると言ってのける直房は信じがたくもあり、彼の腕前は確かなので羨ましくもあった。
そう認めながらも、
(どう考えても自分が中山殿と同じぐらいの強さになれるとは思えん!)
少なくとも稽古を受けながら、天と地ほども差を感じる吉良である。動きを読んでいるので屋敷を襲ってきた赤穂浪士を倒したり、遭遇戦でまだ若く実戦経験のない油断した相手を倒したりすることは可能だが、吉良自身が持つ素の実力は大したことはない。
特に身体能力は如何ともしがたい。これだけ必死に毎日鍛えているのに、腕や腹には贅肉が乗っている。繰り返す時間の中では、一切それらが改善することはない。
毎回違う動きをして腕前も直房と同等な唯七を相手に勝つのは絶望的に思えた。
「弱点などはないのでしょうな……」
「ところがギッチョン。まあ、こいつは賭けになるんだがな」
指を鳴らして直房が笑みを見せた。
「賭け?」
「酔醒逆行ってのは読んで字のごとく、酔いと醒めるの逆を行く……つまり酔っても醒めてもいねえ状態の心を絶妙に維持しているわけだ。その均衡を崩しちまえばいい」
「ど、どうやってでしょうか」
「外部からの言葉や状況じゃ心がブレねえように激昂してるから無理だが、酔ってねえなら酔わせりゃいいんだ。酒のほんの一滴でも口にすれば毒飲んだみてえに効いて弱体化するらしい。まあ、拙者も大陸の武芸に詳しい知り合いの武芸者から聞いた話だがな」
「そこまで弱点とわかっていて酒を飲むのでしょうか」
「まず飲まねえと思うが、なにせかなり精神が危ういからうっかり口にする可能性は……」
直房は肩を竦めて言う。
「あり得ないとは言い切れない、程度だろうな。分の悪い賭けだ」
「いえ……」
吉良は目を輝かせて、直房の手を取った。
たったひとつでも可能性があるのならば、吉良はそれを何度でも試す。この繰り返しの中で、武林唯七に関する賭けだけは毎回結果が変わるのだ。
「ありがとう御座います、中山殿!」
「お、おう? 本当に試すのか?」
相手が酒を飲むか飲まないかにたった一つの命を賭けるなど、他にやりようがあると思う直房であったが、吉良の場合は切実にそれに頼らねばならないほど命を散らしてきた。
「それで今晩襲われるので、今のうちに稽古をお願いします!」
「今晩かよ⁉ 今更⁉」
「槍の止め方からお願いします!」
「いきなり専門的だな爺っつぁん⁉ だがまあ、仕方ねえ。乗りかかった船だ。出来る限りは稽古してやるよ」
吉良の勢いに苦笑しながら、直房はゆったりと立ち上がり、二人は道場へと向かった。
その日も夕暮れまで稽古をして、吉良が家に帰る時刻である。
彼の鍛錬具合を見ていた直房がいつものように一日の評価をつける。
「まあ……爺っつぁんにしては中々だが、五十人近くの集団に襲われたらご臨終だろうな」
「赤穂浪士の数も把握しておられるのですか?」
「当たり前だろ。江戸にぞろぞろ入ってきて怪しく近所をコソコソ動き回ってんだ。当然そんな怪しい連中は全員把握してる。爺っつぁんの茶仲間の山田殿のところにも赤穂浪士の手の者が入っていて、茶会の予定なんかを密告してるぜ」
「知らなかったそんなの……」
ふと吉良は思いついて、以前に断られた頼みを再びしてみようという気になった。
「その……不躾にはなりますが、中山殿には助太刀を願えないでしょうか」
「それは駄目だ」
きっぱりと直房は断る。そう来ると思っていても、吉良は落ち込んだ。
「別に爺っつぁんが嫌いだから断るわけじゃあねえぞ。拙者は役人だからな。拙者の仕事は、悪と戦うことだ」
「悪?」
「人様の物を掻っ払ったり、町に火を放ったりするやつは明確に悪だろ。そいつをとっ捕まえるのが仕事だ。一方で、赤穂浪士には義がある」
「義、と申されましても……」
毎回殺されている自分からすれば、義というより幕府の裁定に逆らう凶悪な集団である。
直房は首を振りながら告げる。
「勘違いすんなよ。別に拙者は連中が大好きってわけじゃねえ。特に死んだ主君の浅野内匠頭ってのは死んで当然の野郎だ。だがな、例えば戦場で、大将が無能だったから討ち取られたとしたらおめおめ降伏するか?」
「それは……」
「大将が討たれてもう勝ち目なんざ残ってねえが、命乞いすれば生かして貰える。だがそれでも武士なら死を覚悟して突っ込み仇を討つべきだろうよ。大将が悪かったなんて言い訳しねえでな。自分らが担ぎ上げてた御輿なんだからよ」
それは、太平の世ではもう廃れかけている武士としての一分とでもいうべき覚悟である。
「連中にだって、子供もいりゃ嫁もいる。本人らはなんにも悪くねえんだから生きて逃げ帰ってもいいのに、それを捨ててでも大将の仇討ちのため死にに来てるんだ。いいか、連中は生きるつもりなんざこれっぽっちもねえ。成功しようが一族郎党処されようが、ただ爺っつぁんの首をあげる。それが義であり、武士の責任ってやつだ」
「そういうものでしょうか」
「そうよ。悪いのは一目瞭然で浅野内匠頭だ。被害者である家来が、被害者の爺っつぁんとぶつかる。どっちかに味方するわけにはいかねえだろ」
それに、と直房は吉良の肩を叩いた。
「赤穂浪士の数は五十人足らず。爺っつぁんの屋敷に詰めてる家来は百人以上居るだろうが。しかも襲われるのがわかっているんだから、真っ向からの勝負で数が勝ってて有利じゃねえか。それで負けるのは爺っつぁんの方が悪い。拙者が手伝う理由はねえな。盗みか火付けでもするんならまだしも」
「うう、まったく反論できない」
吉良が有利な立場なのに助太刀を頼むのは道理ではないというのが直房の主張だった。
実際、上手いこと吉良が指示を出したら犠牲を出しつつも赤穂浪士を迎え撃てるようにはなっているのだったが、どうしても唯七にやられるので無意味になっている。
「……では中山殿。最後に一つだけお教え願いたいのですが」
「なんだ?」
「赤穂浪士は何処に集合しているのでしょうか」
「おっ? 爺っつぁんの方から奇襲でもすんのか? でも今からじゃ無理だと思うが……あちこちに分散して潜んでるんだが、一番でけえところで度々集会してんのは、三つ目橋近くの本所林町五丁目にある家だな。堀部安兵衛が長江長左衛門って名を変えて借りてる」
さすがの火附改長官である。近所でもあるのだが、不審者が住んでいるところを把握していた。ただ、堀部安兵衛の場合は江戸でも剣術道場などを開いていてその存在がバレバレではあったのだが。
唯七など、吉良邸すぐ近くの本所二つ目相生町に住んでいるので吉良が外出するのをよく発見して襲いかかってくるのだろう。
吉良は今の場所をよく覚えて頷いた。襲撃前に赤穂浪士は一旦集結するはずだ。
「なるほど……いえ、酒を送るだけですよ」
「そいつはいい。まさか敵から酒を送られるとは思ってもみねえだろうよ。しかも、そのうち一人を酔わせるためだけとはな」
笑いながら吉良の背中を強く叩くので、吉良は咳き込むのであった。
そうして酒樽に入って吉良邸に戻り、酒問屋の運び手をまだ引き止めておいた。
忠臣である清水一学を呼んで彼に指示を与える。
「よいか。お前は今から変装して、酒屋から上等の酒を一樽買い付け、本所林町五丁目にある赤穂浪士の集会所に届けてくるのだ」
「あ、赤穂浪士の⁉ どういうことですか、ご隠居様!」
驚愕して聞いてくる一学。家来たちが一々驚愕するのもかなり見飽きた反応だが、今回は初めての命令であり成功確率は不明だ。
「あやつらは今晩襲撃を仕掛けてくる。そこで、お前は吉良家からの裏切り者として近づくのだ。赤穂浪士たちの忠義心に心を打たれた、自分も吉良家ではなくそちらに付きたかった、今となってはどうすることもできないが、せめて酒だけでも送らして欲しいとでも言ってな。儂の悪口を加えても構わん。傲慢だとか、家来に暴力を振るうとか。とにかく信用されろ」
「そんな!」
「大丈夫だ。夜討ちを仕掛けてくる奴らが、謀略を仕掛けられたと文句をつける筋合いはない。それに、お前には確認して貰いたいことがある」
「はっ! 相手の人数や装備ですか?」
「それはもう完璧にわかっているからいい」
「……」
なんで? という顔を一学がしていた。
「とりあえずお前は、義の心に感動したとばかりに褒め称えて酒を飲ませるように勧めろ。向こうも、泥酔するほど飲まないだろうが一杯ぐらいは飲むかもしれない。それで赤穂浪士の中に、こんな顔の……ちょっと待て」
吉良は紙と筆を取り出して、さらさらと記憶の中にある武林唯七の顔を写実的に絵で描いた。
完全に記憶を維持している彼からすれば模写しているようなものだが、いきなりご隠居が凄くリアルな絵を描いて見せたので一学は驚く。
「そのような特技が……」
「とにかく、この男だ。こいつが少しでも酒を呑まないか注目しろ」
「は、はあ……」
「だが不審にはならないようにな。ある程度酒を振る舞ったら、適当に言い訳して吉良邸に戻ってこい。そして儂に報告するのだ。この男が酒を飲んだか、否かを」
それになんの意味があるのだろうかと一学は思ったが、主人の命には従わねばならない。
そうして一学は酒問屋と共に一旦屋敷を出ていった。
「武林は別として、赤穂浪士に酒を届けるのは上手く行くかのう……とりあえず一回上手く行けば、次回も上手く行くはずだ」
そう信じながら、吉良は部屋で剣術の稽古を行って報告を待った。
それから──
二刻あまりが経過して、一学が帰還してきた。
「おお、どうだった一学! 酒は!」
「ええと、最初は不審がられましたが、どうにか赤穂浪士を煽てて飲ませました。討ち入り前に飲酒はどうかという者もおりましたが、緊張している者も多かったようで気付けに皆で一杯ずつ飲みまして」
「よくやった。それで、武林は?」
「ご隠居様が示した武林唯七は、『なにが酒だ馬鹿馬鹿しい!』と見向きもせず……」
「左様か……」
どうやら失敗に終わったようだ。だが、唯七の行動だけは次の周回で変わることがある。吉良はそれを待ち、討ち果たさねばならない。
「では赤穂浪士を迎え撃つ準備をしよう。一学」
「はっ」
「死ぬ覚悟はできているな」
「無論。ご隠居様を守るためならば、武士として死にましょう」
「よい。精々、あがくぞ」
そうして吉良は明け方まで稽古を続ける。一学を表門側に回し、自分は裏門から屋内に入ってきた者を相手にする形で討ち入りを迎えた。
「浅野内匠頭家来、敵討ちに参った!」
叫び声が邸内に響き渡る。
「いくぞ──戦の始まりだ」
吉良は、三名の赤穂浪士を討ち取ってから脇腹を槍で刺されて死亡した。
一方で一学も奮戦し、一名の赤穂浪士を倒してから唯七に斬り殺される。
赤穂浪士の証言もあり、後世には清水一学は赤穂浪士の義に憧れながらも立場が違うので味方はできずに、最後まで吉良への義を通して戦った吉良側の忠義者として語り継がれる。
本人からすれば、赤穂浪士に憧れていたという部分は不本意であったろうが……
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──吉良死亡 百二回目
吉良は壁に回数を記して、その日を始めた。
「いつかは……やがていつかは……」
きっと勝てるときが来ると信じて。
それからの彼の日課は、中山家に行き稽古をして、帰ってきてから一学に命じて赤穂浪士に酒を届けさせる。
家で稽古の続きをしながら報告を待ち、唯七が酒を呑んだか確認して、呑んでいないという報告を聞きがっかりしながらも赤穂浪士を待ち受ける。
襲撃されたら剣術の実戦練習だ。そのために本格的な防衛手段などは取っていない。吉良の方から、裏門側から侵入してきた相手と戦う。そちらの方が唯七の居る可能性が低いので、より長く戦い続けられて鍛錬になるのだ。だから近頃は数人赤穂浪士を斬った後で、他の赤穂浪士にやられて唯七と遭遇するより前に死ぬことも多くなっていった。
それでも回数を重ねるごとに吉良が倒せる相手の数が徐々に増えていく。
死んでまた目覚め、稽古の繰り返しを続けていた。何度も何度も何度も何度も……