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愛は障害を超えるとか言っちゃうエゴイスト

愛情は障害を超えると聞きました。もしそうならば、このトイレのドアは壊れなければいけません。なぜならば、このドアは僕たちの、僕と京一さんとの間に隔たる障害だからです。だから、このドアは壊れなければなりません。けれど、けれども、ロミオとジュリエットは二人とも自殺しました。家柄という障害が超えてもなお、報連相がなってなくて死にました。その展開、僕は好きです。


「うるせえよ、湊。頭痛に響くんだよ」


眉を顰めた京一さんがぐちゃぐちゃの頭を掻きむしって、ドアにもたれかかりながら出てきた。胃液までも含めて食べた物が吐き出されただろう、トイレの便器の中はその悲惨さを洗い流しているので、何を吐いたのかは詳しくは分からないけど、京一さんのツンとした胃液の匂いを感じた。身の毛がよだつようなその匂い、僕は好きです。インク、ガソリン、タバコ、靴、少し顔を歪めたくなるような、ツンとした、でもそれだと分かるような匂いが、それ独特の匂いが好きです。そういえば、京一さんが下痢した後に、炊きたてのご飯の匂いがするって言ってきたことがあった。僕が京一さんにくさい飯を食わせているという皮肉か、京一さんの下痢はご飯がそのまま出てきてるんじゃないかと心配の間で、心が揺らいだ。じゃあ、嗅がせてくださいと言えば、もう流した、と素っ気なく言われて、呆気なくその話が終了した。京一さんのウンチは結構、メルヘンなのかもしれないと思ったが、そうじゃないかもしれない。というか、こんなこと考えている場合じゃなかった。

僕は愛の障害を見事に超えてみせたのだ。


「京一さん、ちゅきしゅきあいちてる♡♡」


京一さんに会えた喜びで、テンションが急上昇して、脳内沸点を通り越して、脳味噌が溶けて、味噌汁になって、その味噌汁が突沸で爆破したみたいに脳内が破壊されてる、詰んだ。けど、楽しいんだから良いもん、ずーっとぎゅーって抱きしめてるもん。永遠に。


「まじお前、きっしょいわ。離せ離せ、バカ」


と言いつつも、ったく、しょうがねえなあ、みたいな顔で微笑んで、僕が甘えるのを許してくれる。甘えさせてくれる。僕が気持ち悪いのなんて百も承知、千も億も承知の上、だから、こう言われるのは気分が良くて、笑っちゃう。自虐的に笑ってるんじゃないよ?京一さんにこうやって、構われてんのが嬉しくて笑ってんの。勿論、京一さんに好きとか愛してるとか言われんのは、こう言われるのよりも百億倍ほど嬉しい。それに、京一さんがこうやって僕を弄るのは、それが言わなくても冗談だと通じていると思っているからで、冗談だとまだ通じない心の距離の遠い奴には本当に傷つけるためでしか言わない。だから、僕が京一さんのことを分かっているテイで、京一さんはこの冗談を僕に言うので、京一さんは僕に分かられていることを認めている。可愛い。無理好き。


「ぜーったいに離さないっ!!!」


「何したら離してくれんの?」


「絶対だって、言ってるじゃないですかぁ」


まあ、キスぐらい???蕩けるようなキスでもしてくれたら、離しても心の距離は保たれるだろうなあ、なんて、思っていたやさきにキスしてくるから、何か心が通じ合ってて、感激した。京一さんは僕とは違う人間で違うように生きているのに、僕と今この瞬間、思っていること、感じていることが一緒なんだ思うと、感慨深くて余計に萌えた。結婚しましょうよ、僕達。


「これでどう?」


なんて、意地悪で聞いてくる京一さんはとてもとてもそれはとても格好良くて、惚れてしまった。僕を矛盾に陥れるのが得意な京一さん。僕は貴方という沼から抜け出せないです。この刺激的で醜美や思惑が入り交じった感じのやりとりが、たまらなく好きだ。僕はずっと貴方を抱きしめていたいけど、貴方がキスしてくれたその感覚が唇に残っていて、欲張りすぎてはいけないのは、重々に分かっているので、貴方の自由は奪いたくないので、もどかしいながらも貴方のことを離すと、貴方はそのゴツゴツとした細い指の付いた大きめの手で僕の頭を撫でてくれる。「良い子だ」なんて言いながら、それだけで僕の葛藤と微量の欲求不満は救われて、貴方に一生を賭けてついていきたいと感じた。僕は貴方に認められていて、存在意義を保証されていて、貴方は僕の我儘さえも聞いてくれる。これほどまでに幸せなことはないと思った。もうこの世に貴方という存在がいれば、僕は生きていける自信があるね。


「幸せ」


そう僕が口にすると貴方はくしゃっとした可愛らしい笑顔を見せて、


「じゃあ、帰ろっか」


と僕の肩に腕を置く。でもやっぱり、学校シュチュの学ラン京一さんは神だわぁ。空き教室借りて、痛ぶって可愛がって遊びたいくらいだ。廊下に出ると、帰るフリをして、通り道の空き教室の鍵が空いていることを確認した。ラッキー、使えんじゃん。京一さんをひょいっとその中に入れて、内側から鍵を閉める。ドアの窓はもとから色紙で覆われていて、廊下側から教室の中は見れないようになっている。ということは、何してもバレない!!!


「京一さん、やっぱり『バレなければ何してもいい』ってのは格言ですね」


「バレた時のリスクを考えろよ」


と机の脚を背もたれに座り込む貴方は何をするのも怠そうで、何もしたくなさそうに見えた。僕が近づいてキスしても、鼻で笑うだけで、本当に疲弊してそうだ。


「まあ、バレても別に。貴方と一緒にいられればそれで良くないですか?」


「愛情を押し付けてくんなあ」


なんて非力ながらにも笑って、僕の肩を右手でちょこっと押した。可愛すぎる。嫌がってんのに、全然嫌がれてなくて、可愛い。無理矢理にでも犯されちゃうアダルトビデオの女子高生みたい。でもでも、あれは完璧に演技だってわかるから、すごい萎えんだけど、これは、この京一さんはリアルに力が弱くて、小動物をいじめるみたいな背徳感をも感じる。僕が力で押し勝って、貴方を有無も言わさず支配する。そんな夢のような光景が脳裏に浮かんで、高揚感で満たされていく。


「愛は障害を超えますからね」


「嫌だ、疲れたの。死んじゃう」


懇願するように眉をひそめて、そう言ってくる貴方を尻目に、貴方の着ている学ランを脱がす。可愛いでいっぱいで、それ以外何も考えられなくなる。もともと考えることなんて、貴方のことぐらいしかないんだけどね。チャイムが鳴る。六限が終了した。廊下が騒がしくなる。この音でかき消させるから尚良じゃないか?なんて呑気に考えていると、


「湊、脱がせて」


といきなりデレてきたから、何とも言えない可愛さで悶え苦しんだ。丁寧に脱がせて、貴方の細くて薄い身体に触れる。僕の首に触れた貴方の指先が冷たい。その冷たささえも心地よくて、大好き。キスをして、そしたら、もう一回キスしたくなって、さらにさらにと止めどもなくなりそうなところで、貴方が僕のベルトのバックルを外す。完璧。あとはもう感情と欲情にまかせて動くだけだ。


「まじで可愛い」


感情の昂りにより語彙力が低下し、可愛い、大好き、愛してる、しか言えなくなった僕に、京一さんは、とても冷酷なことを言う。


「その服ちょーだい、学ラン嫌だ」


「はあああ、ただの服交換ってわけですね?」


なのに、こんなに一人だけ盛り上がって、馬鹿みたい。気持ち悪い。僕は貴方を楽しませるために、まあ、自分が楽しむためもあるんだけど、テンション高く、鼻息荒く、滑稽な姿を晒したのに、何なんですか?本当に。期待を悪い意味、超悪い意味で裏切りましたよ?学生は制服を着ろって、昭和でもあるまいし、もう令和の時代です。今時の、ああ、今時の制服って面白いんですよ。女の子がズボン履いて、男の子がスカートを履いてるんです。良いですよね。僕もスカート履きたいです。でも、京一さんにもスカートを履かせたいですよ?だって京一さん、美脚じゃないですか。見せないともったいな、ああ、僕限定に見せてくれるって言うなら別ですけど。それじゃあ、僕限定で京一さんのセーラ服姿がみたいです。それで、おニャン子クラブのセーラー服を脱がさないでを歌って踊ってください。そしたら、今回のこの行為も許しますから。え?本当に?本当に良いんですか?貴方の言うことを疑ってないですよ、喜びで僕の認知能力がバグっただけです。もちろんもちろん、セーラー服は僕が調達しますよ。とびきり可愛いのを入手します。当然じゃないですか。


京一さんが先程まで着ていた生シャツに学ランは、僅かに生ぬるく、ほのかに京一の香りがして、いつも着ているはずなのに、今日はめっちゃテンションが上がった。これはこれで良い。めっちゃ良い。京一さんに抱きしめられているニアリーイコールだ。しかも、さっきまで僕が着ていたシャツとパンツは京一さんが綺麗めに着こなしていて、僕だと若干、大きめサイズが京一さんだとジャストサイズちょっと小さめなのが萌えた。パンツの裾が短くて、足首の靴下が見えちゃうのまじで可愛い。



本当、僕の気持ちをかき乱さないで欲しい。何が正解か分からなくなる。わかんなくてわかんなくてもどかしくてイライラする。どれもこれも素敵なのに、そのどれでもないんだ。一つの誤りが何もかも飲み込んで、それじゃないと怒りたくなるんだ。一歩引いて、下がってみても、相変わらず貴方は素敵だけれど、僕の思考の歪みで酔うんだ。できなかった願望ばかりを数えて、今あるものが霞んで見える。だから僕は幸せじゃないんだろうね。嫌になる。楽しそうな顔をしている貴方の横で僕は嫌になっている。貴方がそれに気づいてくれないとさらに嫌になる。突然、怒り出しても貴方を驚かせるだけだけど、僕が見えていないようでムカつくんだ。


「俺さぁ、今なら飛び降りれんじゃないかなって思うんだよ。パッ、て」


帰り道、何故かそんなことを呟く京一さん。


「やめてくださいよ」


「ふふっ、苦しんだ。普通でいられるのに、普通にしていないのは。想像力が悪い方に豊かだから、不安でいっぱいになるの」


彼が道の真ん中でしゃがみこんで、歩けなくなった。学校で誹謗中傷を浴びた。それを全て真に受けるわけないけど、それは彼を苦しめるのには、十分すぎるほどの攻撃性を持っていた。僕の言葉でそれは全部嘘だと覆い尽くしても、そうだとわかっていても、彼はそれによって苦しめられる。全部全部、僕でいっぱいにしてあげたいな。


「じゃあ、訓練しましょうよ。良い方に豊かになるように」


そう言って、手を差し伸べるとその手を素直に掴んでくれるから、京一さんのことが僕は好きなんだと思う。ただのひねくれて否定的なワナビじゃなくて、ちゃんと僕の意見を聞いてくれるところ。何事もやってみようという姿勢。それがすごく好き。「わかった」と後ろから抱きしめられて、京一さんを支えながら歩く。


「俺ってさ、それなりに頭良いじゃん?」


頭良い、能力が優れている=良いこと


「はい」


「だから、俺の本質が障害者でも異常者でも、普通がわかっちゃうから普通を演じれるんだよね」


普通になれる=良いこと


「良かったじゃないですか」


「うん、良かったは良かったんだけど、何だろうね。何かぁ、俺ね、寡黙な子が好きなんだぁ」


寡黙な子が好き=良いこと(?)

寡黙、かもく、静かな子、サイレント、こくんと頭を縦に振って、相槌を示した。


「でさ、俺のことを『うんうん、そうなんだ』って、ニコニコしながらよく聞いてくれる子が好き」


「そうなんですね」


と貴方からは見えないだろうけど、笑顔を作って答えた。


「だけどさぁ、俺が話し疲れたら、沈黙が続くのは嫌なの。我儘だけど、今度はその子の好きな話をずーっと聞いていたい」


僕を抱きしめている腕がキツくなって、歩きにくくなる。京一さんの脚を蹴ってしまいそうになったので一旦立ち止まった。


「それじゃあ、普段は寡黙だけど、京一さんが話し疲れたら、お喋りになる子が好きなんですか?」


「ううん、全然違う」


と薄ら笑いを浮かべながら、混乱している僕を見て、楽しんでいるようだ。だって、貴方が言っていたことを要約すると、そういうことじゃないですか。頭がはてなマークで埋め尽くされて、


「何が違うんですか?」


と口まで歪ませてしまった。


「一緒にいて、沈黙が怖くない子が好きなの」


「最初からそう言ってくださいよ」


「違うの、違う。好きな要素としては全部なんだよ。だから、全部覚えて」


って、それって、僕に京一さんの好きな人になれって言われてる???胸きゅんが止まらない。いきなりここでそう言うこと、心の準備も何も、さらっと言うんだもん。危うく、見逃しそうだったよ。危ない。


「分かりました。京一さんの話をよく聞き、京一さんが話し疲れたら、今度は僕の好きな話をして、京一さんが僕の話を聞けないほど疲れたら、その疲れを僕に癒させて欲しいです」


想像するだけで幸せな世界だ。京一さんは沈黙が続くと脳内のうるさい幻聴が聞こえてくるから嫌いだって、喋りに喋りまくって喋り倒してから言っていたことがある。そんな彼を見ているからこそ、彼の願いを叶えられるように努力したい。


「俺が何のメリットにもならなくて、完璧にデメリットでも、一緒にいてくれるの?」


そんなのありえないと言いたげな乾いた笑みで、僕がこれから何を言っても信じないと構えているみたいだ。可愛いなぁ、その構えも通用しないくらい僕が強ければ、なんて。


「僕は京一さんが生きていればメリットですよ」


「何それ、笑える」


「ふふっ、さっきより笑ってないですね」


真顔で笑えるなんて言わないでくださいよ。言葉と行動がちぐはぐじゃないですか。笑っちゃうのはこっちです。


「意味わかんなすぎて、怖いもん。ねえ、渋谷スカイのガラス叩き割って、飛び降り自殺したい」


「何で飛び降り自殺なんですか?」


「え?だって、電車は高いし、首吊りは柄じゃないし、ドーズも、できることならしたいんだけど、すっからかんだし、それに、俺の死体はバラバラにしたいんだよ」


ちゃんと考えに基づいた自殺方法だということを説明されて、この人は本当に、生きるか死ぬかの狭間で闘っていて、本当に、格好良いじゃん!


「何でバラバラに?」


「死体は俺じゃないでしょ、俺だったものだから、俺だと思えなくしたいの」


「こんがらがっちゃいますね」


死体は京一さんじゃない。京一さんだったもの。だから、死体を京一さんだと思えなくするために、バラバラにする。京一さんだったものでも、それは京一さんの残留物だから、僕は大切にしたいんだけど、それじゃあ、怒る?


「ただ単に、湊がよく知っているように、俺にはグロくて汚くて気持ち悪い方がお似合いなんだよ。普通にしてたら没個性なんて言われる時代だ。最期くらいは個性的でいたいじゃん?」


個性ってのは標準から良い面を伸ばすときに主に使用され、悪い面は個性と言わずに異常と呼ばれる。ここで言う良い面、悪い面は、仕事や日常生活において、発揮される能力の評価のこと。


「京一さんは奇人でいたいんですか?」


「俺は怪物だよ、人間じゃない」


僕は奇人だ。普通じゃないと言われるが、京一さんみたいに頭が良くないから、何が普通なのかもわからない。普通になりたくてなりたくてしょうがないのに。結局は、うしろゆびさされ組だ。


「人間に見えますけどね、僕の好きな人間」


「そお?嬉しい」


はああ、可愛いっ!京一さんを形容する言葉が可愛いしか見当たらない僕が嫌い。この胸のときめきをピッタリと表すような、魅力的な、そんな言葉はないだろうか。脳弱だから、魅力的なことがどんなことさえもわかんないけど、僕が京一さんに惹かれるみたいなことなんだろうとは思う。


「ふふっ、貴方の一挙一動、一挙手一投足まで見逃したくなくなりますよ」


「俺は見ててもつまんない昼間のハムスターと同じ、わかる?」


そう聞いてくる貴方の首を傾げる動作も愛おしい。ハムスター並に可愛いって言いたいの?合ってるよ。


「わかります、昼間のタバスコはずっと寝てました」


「あぁ、何かさぁ、仕事は代わりが見つかるけれど貴方の代わりはいないって、バカな綺麗事じゃんね」


貴方は僕と話している以外にもっと色んな人と同時に話してるみたいに話題がコロコロと変わっていく。僕の脳内はずっと静かなままだから、その感覚はわかんないけど、かなり疲れるんだろう、というのは安易に想像できた。何か、僕だけを見て欲しい。だって、その方が貴方にとっても僕にとっても幸せでしょ?


「そうですか?僕には京一さんの代わりはいないですよ、探そうとも思わない」


「仕事して初めて、社会的に認められるのに、俺の代わりがいないって、存在を認めてくれないくせに。仕事では俺の代わりがいんじゃんかよ。そうやって、日常生活でもみんな俺の代わりを見つけるんだ。俺みたいな人間はいなくても、それっぽい人間達で補うんだ。だから、俺がいなくなったところで」


そのよく回る口を塞いだ。社会的に認められてなくても、僕は貴方の存在を認める、認めさせる。それを保証するくらいのお金でみんな黙らせる。だから、だから、今はごめんなさい。まだ僕が非力で無能で、貴方にそんなことを考えさせて。


「ごめんなさい、良い方向の言葉を練習しましょう?僕は貴方の存在を認めてますから」


悪い言葉を言っちゃダメなんじゃない。悪い言葉も貴方の言葉なら、貴方の苦しみを表現する言葉、それで貴方の心が救われるなら、思う存分に聞かせて欲しい。けど、けれど、貴方は自分で言って、自分で苦しんでいる、それを感じながら聞く方も、苦しいんだよ。貴方の思考回路をもうちょっとだけ生きやすい方向に変えたい。


「ねえ、あっ、メアリちゃんだ。帰り道一緒なんだね」


「え?」


「え?……俺、メアなんですけど」


と通りがかった奥谷 芽愛ちゃんがぼそっと呟くように言った。


「まじごめん。人の顔を覚えるのは得意なんだけど、名前までは覚えきれなくて」


「いやいやいやいや、俺が悪いんです!今日から俺はメアリですから、全然、名前なんて、伝われば何でもいいですからね!」


彼女は京一さんにどーぞどーぞお好きなように呼んでくださいと言わんばかりに自分の名前を無下にした。僕は京一さんには本名で呼ばれたいかな。この本名も施設長が付けた、所謂、産まれてから後付けされた情報にすぎないんだけどね。


「メアちゃん、もう覚えたから大丈夫」


「僕も高橋とか鈴木とか、印象薄い奴は覚えにくかったですよ」


と言うと、何故か京一さんが笑って、僕の頬をつねってきた。つねりたい頬をしていたんだろうな、ふふっ、京一さんになら、何されても嬉しい。


「あ、あぁ、そ、そうです、よね」


メアちゃんはいつも何処か、ぎこちなく返事する。


「というか京一さん、メアちゃんと仲良くなったんですか?」


「もちろん、湊よりも仲良いよ」


と京一さんがメアちゃんの肩に腕を回す。本当に、この人は、僕を嫉妬させるのが大好きなんだろう。その挑発的な笑顔、誘っているようにしか思えない。


「え!?ちょっ、えええ!?」


戸惑うメアちゃんを他所に、僕はこの人がこの薬中がこのクズが、僕のものだと証明したかった。だから、胸ぐらを掴んで、僕よりも背の高い貴方を引き寄せて、少し背伸びして、キスをするんだ。


「ふふん」


そして、メアちゃんの前で自慢げに鼻を鳴らすと、彼女は顔を真っ赤にしていて、それに気づいたように顔を手で覆って、しゃがみこんでしまった。


「あーあ、湊、泣かせた。女の子泣かせた」


京一さんが囃し立ててきて、初めて泣いているんだと気づいた。確かに、肩が小刻みに震えている。


「え、泣いてんの?何で?」


「考えれば分かりそうなもんじゃん」


「考えても分かんないから聞いてんですよ」


僕と京一さんがキスしただけじゃん。何が何が君を泣かせているの?君のこと、僕はよく知らないから分からない。


「……尊すぎ、無理」


な、これでわかっただろ、みたいな顔を京一さんにされたけど、やっぱりよく分かんなかった。

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