第46話「髪型を決めるのも、伝えるのも難しい④」
おっちゃんは黙ってタオルとカットクロスを僕の首に巻き付けた。霧吹きで水を頭に吹きかけるとクシで髪を梳いてくれた。
いつもなら雑談の一つでも話してくれるところだけど、おっちゃんは黙っている。きっと僕の話を待ってくれているんだ。少しプレッシャーに感じながら、僕は自分から話始める勇気が持てないでいた。
ハサミが僕の髪に入る。金属のすれる音と髪がカットされる音が鳴る。音による心地よさと無言による居心地の悪さを感じていた。それに僕は自分の気持ちを自分一人では抱え込めずにいる。それでもおっちゃんは辛抱強く黙って待ってくれていた。
やがて僕がボツリと小さな声で言った。
「学校を退学させられるかもしれない……」
「そうか」
「せっかく苦労して入学した私立なのに。僕が台無しにしてしまった……」
「そうか」
『お前のせいじゃない』とか『お前は頑張ってるよ』とかそういう言葉は聞きたくなかった。それがわかっているからか、おっちゃんは相槌を打つだけだった。
「公立へ行けば良いんだけど。父さんが『逃げ癖がつく』って言うんだ」
「そうか?」
「父さんが『逃げた僕じゃ医者にはなれない』って」
「そうか……」
おっちゃんは言った後、少しの間黙っていた。ハサミの音だけが店内に響いている。機械的に刻む音や時々現れる踊るように生きてるようなハサミの音。
おっちゃんは手を止めて鏡越しに僕を見つめた。
「ところで、お前はどうしたいんだ?」
答えられなかった。正確には考えられなかった。考えようとするとすぐに思考停止してしまう。何を考えても自分を否定する。
きっと『逃げただろう』って言われる。『もう医者にはなれない』って言われる。折角ここまできたのに、みんなの期待を裏切って。おっちゃんにまで否定されるかもしれない。本心を言うのが怖い。
本心? 僕に本心があるのか?
「父さんが学校に行って僕が残れるように話をするって言うんだ」
「だろうな」
「父さんは僕が医者になるのを望んでいるんだと思う」
「だろうな」
「父さんは――」
僕が言いかけた時、僕の両肩へおっちゃんの両手が静かに置かれた。鏡越しだけど、僕をまっすぐに見つめているのが分かった。
「アイツのことはどうでもいい。お前はどうなんだって聞いてるんだ」
怒鳴ることなく静かに言った。暖かい手の柔らかい感触がカットクロス越しでも伝わる気がした。僕は自然に肩を震わせていた。おっちゃんはきっと否定はしない。手のぬくもりと言葉の優しさから伝わってきた。
「……退学したい。医者にはなりたくない」
喉になにかが詰まったように声が出ない。出ないなりに僕は精一杯の力で答えた。僕の本音はここまで小さいのかと思った。でも、僕はおっちゃんの力をかりて、小さい声を救い上げることが出来た。
おっちゃんは目をつむった後、僕の肩をポンと叩いた。
「よく言ってくれたな。やればできるじゃねえか」おっちゃんは静かに言った。
僕は一気に脱力した。張り詰めたものが溶けていく感覚。引きこもってた間、ずっと張り詰めていた。肩に力が入りすぎていた。こんな一言を言うだけで力を使い果たしてしまうなんて……人が本心を吐露するって言うのはこんなに疲れるものだったんだな。
おっちゃんは、ふうっと一息つくと、はっきりした声で僕に言った。
「父親ばかりを見るな。俺も見ろ。この店でたむろしている大人を見ろ」
おっちゃんは僕の肩を力を込めて掴んだ。
「大丈夫だ。皆、生きてる」
悔しいけど、僕は涙を止めることができなかった。カットクロスがあるので涙を拭うことはできない。だけど今はそれで良い気がした。そんな気分だった。僕の後ろには、おっちゃんが、どんと構えていてくれる。そんな心強さがあった。
僕は自然とおっちゃんへ宣言するように言った。
「僕、今日、父さんに言うよ。自分の本心」
「おう、頑張れよ」
「だから、僕を後押してくれるような髪型にしてほしい」
本当に抽象的な注文だった。一番判断に困るパターンだ。
だけど、おっちゃんはこれでもか言わんばかりの笑顔で答えてくれた。
「任せろ。ここからは俺の領分だ!」
おっちゃんは鼻息荒く、作業台に向かって用意を始めた。




