006「カノコ、一日を振り返る」
夕飯後、お風呂でさっぱりと汗を流してから、Tシャツとハーフパンツという色気もへったくれもない恰好で二階へ向かっていると、ダイニングでは、令和の幼稚園児に向かって、昭和の添乗員が往年のギャグを飛ばしていた。
「バスは、通天閣へと向かっております。あっ、右手をご覧くださいませ。一番高いところが、私の中指でございまーす」
「ハッハッハ」
一周回って新鮮なのか、先程からトウマくんは、お母さんのレトロジョークに大ウケしている。
このネタは、シニアツアーではツカミの鉄板らしいのだが、元ネタを知らなくても笑えるのだから、コメディアンの力は偉大だ。
そういえば、最近は忙しくて、お腹の底から大笑いするってことがないなぁ。
「暇が出来たらアレやろう、時間が空いたらコレしようって思ってたのに。いざ仕事を辞めて身体が空いたら、なぁんにもする気にならないもんだな」
片付けが半端になったままの部屋で、ベットに大の字になった私は、天井の蛍光灯が切れかかっていることに気付いたが、取り換える気力も湧かなかった。
「なんだかんだで、もうすぐ三十一歳か。さっきのテレビに、二十一世紀生まれの俳優が出てて、衝撃的だったなぁ」
身体を右に向けたら、昔、お母さんが寝室で使ってた鏡台の三面鏡と目が合った。目が合ったと言ったたのは、左右の鏡を閉じると、丹塗りされたべし見の鬼神が現れるからである。
小さい頃は、このべし見の表情が恐ろしかったので、お母さんが鏡を使っていない時は、なるべく寝室には近付かないようにしていた。
だが、今にしてみると、結構ユーモラスな顔をしてるように感じる。それだけ、色んな人の多様な表情を目の当たりにしてきたということだろうか。
「締め切り前の編集長の顔は、もっと鬼気迫るものがあったもんなぁ」
寝返りを打って左に向けると、今度は持ってきたキャリーバッグが目に入った。
十代後半は学業とアルバイトの日々で、上京してからは、二十代のほとんどの時間を仕事に忙殺された。それでも、首都圏での一人暮らしは出費が多く、大した貯金も出来ず、職場まで片道三時間近いのアパートとの往復は地獄のような混雑具合で、ただただ立っているだけで精いっぱいだったから、通勤時間は体力を無駄遣いする一方だった。特に赤羽から新宿までは密着状態だったので、痴漢に遭いかけたことだって何度もある。
そんな中で、勤め始めてから十年目という節目を迎え、このままで良いのかという疑問と虚しさを感じてしまい、原点回帰のつもりで実家に戻ることを決意したわけだけど。
「どうなるんだろうなぁ、私の人生」
これまで織機の経糸のようにピンと張り詰めていた緊迫感を切り、夏休みを獲得出来たのは良いが、小学校と違って新学期が約束されている訳でもないので、得体のしれない不安は払拭できない。
このまま自由時間を楽しみたい気持ちと、早く次のステップに踏み出したいという気持ちとが複雑に絡み合ったまま、私はズボラ紐を二度引いて蛍光灯を消し、オレンジの豆電球の明かりだけにしてから、タオルケットを手繰り寄せ、瞼を閉じて睡魔が訪れるのを待った。