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040「カノコ、予習を諦める」

 天と地ほどの差があると言うが、俗に大気圏と呼ばれるのは、高度百キロメートルあたりだという。仮に地図を開き、神戸の中心地にコンパスの針を刺して百キロメートル相当の大きさの円を描くと、だいたい舞鶴あたりまではカバーできる。

 垂直にはスペースシャトルでしか行けない距離だが、水平にすると自動車や列車で行ける距離になるから、地球という星がいかに平たいものであるか実感できよう。

 そんな日帰りで行けそうな距離の上空に、昔の人々は極楽、あるいは天国があると考えてきた。

 

 と、ここまでが前フリ。

 エアコンが設置されて快適になったリビングで、私は地獄のような蒸し暑さとは無縁の天国を味わいつつ、スマホをスタンドに立て、トウマくんとお義兄さんがお風呂に入っているあいだに、動画を再生しようとしている。

 別に疚しい動画ではなく、そういう動画なら自分の部屋で再生する。ゴホン。その動画というのは、ヤスエから送られてきたもので、明後日にハウスクリーニングで伺うお宅の社長さんがどういう仕事をしているのかが分かるのだという。ちょっと奇抜なプロモーションビデオがあるから見てごらんというメッセージ付きだが、はたして、どんな動画なのだろうか?

 好奇心半分、不安半分で、私はURLをタップした。


『美白の大平原に惑う、迷える子羊の皆さま。わたくしが、皆さまの悩みをお救いいたしましょう!』


 ストップ!

 なんだ、この動画は? たとえが悪いかもしれないけど、新興宗教の教祖が、門徒に洗脳を施す際に使いそうなレベルの、危ない雰囲気がする。セリフを要約した字幕があるようなので、ここからはミュートで再生していこう。

 どうやら、美白に特化した化粧品と、関連する美容グッズの製造と販売が、会社の主な柱らしい。


『事業は、国内だけに留まらず、海外にも展開し、現地の雇用創生も担っている』


 再び、ストップ!

 自社ブランドの工場が海外にもあるのは結構だが、従業員の目が一様に生気を失っているのが気懸かりだ。社長は「この通り、ラインに並ぶ女性たちには、笑顔が溢れています!」とドヤ顔で自慢しているが、カメラが回ってるから無理矢理スマイルを作ってます感が半端ない。

 今更ながら、とんでもないことに足を突っ込んでしまった気になってきた。ヤスエに質問をしよう。えーっと。このあいだ会った時、連絡先を交換したはず。


カノコ:ちょっと訊きたいことがあるんだけど


 仕事中かなぁと思っていたら、すぐに既読が付いてメッセージが返って来た。


ヤスエ:なになに? 親切なヤスエお姉さんが、お答えましょう!

カノコ:動画を見て気になったんだけど、マアヤと社長さんは、どういう繋がりなの?

ヤスエ:ここのコスメはホントにキレイになるのよって話してくれたから、たぶん、顧客と売り主の関係じゃないかな

カノコ:マアヤ、白塗りお化けになってなかった?

ヤスエ:まさか。そこまでヘビーユーズしてないわよ。一回使って効果があると分かったら、それで満足したみたいだったもの。ほら、マアヤって、熱しやすいけど冷めやすい性格じゃない?

カノコ:あー、そういえば、そうね


 あぁ、良かった。思わずホッとしてしまった。

 美しさを追求するのは良いことだし、自由に女磨き出来るだけの財源が確保されているのなら、こうしたグッズを入手して試すのも悪くない。ただ、絶賛失業中で日に日に若さを失いつつある立場の私の僻目には、こうした宣伝動画に違和感を覚えずに心踊らされて衝動買いに走るのは、かしこい消費者とは言い難いのではないかと映る。

 何はともあれ、一歩踏み出した先に極楽が待っているか否かは、明後日に社長さんと対面してから最終判断を下すことにしよう。そう考えて、ヤスエとの会話を終えたあとも、途中で止めた動画は、続きを再生しないままにした。

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