019「カノコ、けん玉に触れる」
イソップ寓話「うさぎとかめ」の教訓は、どれだけ優秀であっても油断してはいけないということと、能力は劣っても地道に努力を続ければ、いつかは立派な功績を残すことが出来るということであろう。
教科書では、カメがウサギに勝った美談として努力の大切さを説いているが、初めから終わりまでウサギに全力を出されたら、カメに勝ち目はないのだから、やっぱり才能があるかどうかが決め手になるんじゃないだろうか。
「眉の上で切り揃える感じにしましたけど、どうでしょう?」
「いいですね。スッキリしました」
「後ろは、こんな風になってます」
「あっ、けっこう短くなりましたね」
「夏らしくて良いと思いますよ。それじゃあ、切った髪を処理していきますね」
洗濯機を回してから、まだ空いているであろう開店間際の時間帯を狙ってカットを済ませた。
前髪だけにしようかと思ったが、階段を上っているあいだに「この際だから全体的に短くしよう」と心変わりし、結局、通常カットにした。
アウトドアが趣味だという店員さんに挨拶をして店を出ると、ムワッとした湿気が襲い掛かり、雨の日独特のカビ臭いニオイがしたが、軽くなった頭では、それほど不快に感じなかった。そういえば、最後にショートにしたのは、成人式を終えてすぐだったな。首から肩にかけての風通しが良すぎて、なんともこそばゆい。
「おかえり、カノコおねえさん。まってたよ!」
「ただいま、トウマくん。良い子にしてた?」
「もちろん。それより、みてよ」
家に帰ると、トウマくんは玄関先でけん玉を持って待ち構えていた。
これには、出掛ける前のやり取りに理由がある。
「カノコおねえさんは、けんだまできる?」
洗面所横で洗濯カゴの中の衣類を仕分け、オシャレ着を洗濯ネットに入れたり、襟や袖にノズルの付いた専用洗剤を塗ったりしていると、けん玉を持ったトウマくんが現れた。
けん玉は、日本けん玉協会認定品のシールが貼られた品で、ずいぶん年季が入っていた。いつ買ってもらったのか訊くと、その昔、お義兄さんが遊んでいた物だということが判明した。よく見れば、大皿と小皿を繋ぐ皿胴に、かつて黒いマジックで「マコト」と書いてあったであろうことが、微かに読み取れた。
「もしかめなら出来るかな」
「もしかめって、なぁに?」
もしもしカメよ、カメさんよ。唱歌「うさぎとかめ」のリズムに合わせ、玉を大皿と中皿に行き来させると、トウマくんは凄い技を見たとばかりに驚き、やり方を教えるよう頼んできた。
なので私は、膝をクッションにすることや、玉の動きをよく見ることといったコツを伝授し、カットに行ってくるあいだに練習するよう提案したのだった。