ꓓꓤꓳꓑ5 憂鬱なバグ
丁字路を塞ぐ看板には、目立つ文字で吾区町商店街と書かれ、アクマ風の熊がアメリカンコミック調に商店街を案内している。大きな「ア熊」が抱える酒瓶には、城石酒店の文字がラベリングされている。
信号は再び警告色を宿し、大型のオートバイが重底な音を響かせて停止した。外国製の二輪や車が、こうして右ウインカーを点滅させているのは見慣れた光景だ。店に入り、扉を後ろ手に閉めるころ、オートバイが弾けるような音を響かせ駆け出すのを聞いた。それはすぐに店内の音楽に飲み込まれ、僕の意識から消えようとしていたが、穏やかな坂道を走り抜けた先で、エンジンを停止させているのは容易に想像がついた。この辺りとは別世界の区域だ。坂の途中に厳重に管理された建物があり、全貌は生い茂った木々で見ることはできないが、血液関係の研究施設だといわれている。その町は、施設の関係者たちで成り立っていた。
レイが商店街に姿を現すようになったのは、半年ほど前のことだった。
黒塗りの外車から降り、ヒール音を響かせて颯爽と歩くレイの母親は、かなり目立っていた。長い黒髪に計算ミスのない顔立ち。紅い色の唇は綺羅びやかに花を添える。一見近寄りがたい雰囲気をしているが、ネガとの会話を傍観していれば気さくな人というのがわかる。いつの日からか、レイが弟と一緒に使いにくるようになった。初めは難しい言葉があまり通じなかったのに、すぐに慣れた。頭が良いのだろう。
明るい色の髪と瞳は、遠くからでもすぐにレイだとわかる。時々地元の子どもたちとやり合う姿を目にしていた。弟は母親似であり、見た目も日本人と変わりがない。日本語がまったく話せず、そのことがからかわれている一因のようだった。レイは、弟を守るように立ちはだかる。傷は見るたびに増えていった。たかだか子どものケンカだ。特にレイに絡んでいるやつの親は、どちらかというと面倒な部類に入る。というわけで僕は見ぬふりを決め込んでいた。
ネガは、僕と違って、見過ごすことができる性分ではない。ケンカを目の当たりにして、相手を泣かせるほどの熊の形相で怒った。案の定、面倒な親が文句を言いにきたけれど、兄貴の人当たりのいい笑顔と巧みな話術にまるめこまれて引き下がっていった。
陰でケンカは続いているようだった。
「ネガに言ったらいい」
僕は“弟”という立ち位置を最大限に利用した言葉を吐く。
「俺、戦闘能力上がってるから」
レイは、僕の甘えを一掃する。確かに傷を作ることがなくなった。ケンカを楽しんでいる風にも見えた。甥っ子たちと一緒に遊んではいるけれど、どこか冷めていて大人びていた。そしてレイは不思議な能力を持っていた。
「今日はひとり?」
ネガの問いにレイは頷いた。
計太がレイに日本語で挨拶をして、自分の姓を名乗りながら名刺を渡し「ケイでいいよ」と付け加えた。だいたいの人がレイに英語で挨拶をして、和製英語を駆使した言葉で話しかけるのを見ている。レイは当初、戸惑った感じでいたが、無機的に日本語で返すようになった。
「なぜ俺を見ると変な言葉で話しかけようと思うんだ?」
そんなことを呟いていたことがあった。
「みんな、レイが気になるんだよ」
と、ネガがなぐさめる。
「外国人なんてこのあたりじゃ珍しくないだろ。だけど、話しかけないだろ」
レイの言う通り、珍しくもないし、話しかけることもしない。あの区域は、見えないことが多すぎて不審がる声が多い。うちの酒屋が配達をしていたころ、父の手伝いで何度か行ったことがある。
道路沿い付近には比較的高級な住宅が建っている。それぞれの庭には外国産の車やオートバイがあり、特に気にしなければ日本の町並みの一風景として通り過ぎるだろう。ただ奥に踏み入れると、雰囲気はガラリと変わる。検問所が設けられ、その周りはフェンスが覆っている。ひとつの国がそこにはある。建物という建物が凝縮していた。あまり綺麗とは言い難い。ツギハギだらけの道路は車を大げさに揺らした。印象に残っているのは、ところどころに咲く白い花だ。一度だけ、雨上がりの中で見た花は、ガラスのような儚さで佇んでいた。花びらはまるでカミソリの刃のようにも見えた。鋭くて儚い。僕はレイに触れるたび、時々あの花のことを思い出す。
日本語を話せる人は一部だった。英語、中国語、それと聞いたことのない言葉が飛び交っていた。看板には、地名である甜久鴉の文字、その上に大きく赤のペンキでバツ印が書いてある。ここをよく思っていない日本人がやったのだろうと噂されていた。それは意外にスタイリッシュで、芸術品のように町を象徴していた。それがここを「メ区」と呼ぶ所以となったと聞いている。商店街の通称である「ア区」からだろうということはわかる。
レイは計太から受け取った名刺を見ている。
「これで“ながせ”って読むの? 永遠の永に、誓はチカの漢字と同じ」
チカとは僕の姉の名前だ。願、誓、叶、流れ星にちなんで、ロマンチック過ぎる名前をつけたのは意外にも父である。天文観察が趣味で、専用の部屋があるほどだ。小さいころは、ロマンチック三兄弟とかロマンチック酒店とか言われて恥ずかしい思いをしてきた。いまだに自分の名前は好きになれない、そんな話をすると、「武器にしたらええねん」と計太は言った。「俺も子供のころは自分の名前が嫌やった。でも今はかっこええやろって、突きつけてる。妙な自信を持って突きつけるんや。そうすると不思議とまわりもかっこええ思うねん。そんなもんや」
計太が地元の言葉で話すのを初めて聞いた。たぶん、酔っている。僕は少し勝ち誇った気持ちになる。
「俺もさ」ネガも話しだした。「体がデカいのがコンプレックスでさ。だったらメンバー全員デカいの揃えてパワーアップしようと思った。武装なんだよ、コンベアは」
ネガにもコンプレックスがあったことに驚いた。
「俺も……」
ついにはレイまで話しだした。普段あまり自分のことを話そうとはしないから、興味津々になる。
「外人とかメ区星人とか言われるの、どうでもいいんだけどさ。変な英語で話しかけてくる。何を言ってるのかわからない。それももう慣れたけど。その前に、母国語は英語じゃないんだよって言いたい。俺、ちゃんと日本語で話してるだろ。話してると……思う。日本語で話しかければいいんだよ。ネガとカナはまともに話しかけてくれた。子ども扱いだったけど。まあ、子どもだから仕方ないけどな。大人の対応してくれたのは、ケイが初めて」
僕とネガは苦笑いした。ネガが「レイの蛇口が壊れた」と動揺している。
「それは、レイがかっこよすぎて、まぶしいんや思う。みんな友達になりたいんや」
計太はそう言って、酒を飲んだ。希少価値のある酒が、計太の機嫌を撫でていく。
ネガは、いつもの注文の品を袋に入れながら、計太に、
「レイはその人の目を見ると、なんでも見える体質だから、怖かったら先に断っておいたほうがいいぞ。怖かったらな」
と挑発した。レイの能力といっていいのか不思議な力は、信じられないが本当だった。だけど、最近ではその力を隠しているようだった。
「俺は将来、世界のミュージシャンになってるからさ」
計太はレイに告げた。すぐにレイは答える。
「それは自分の夢ではないだろ。他人の夢なんて背負う必要ない」
酒を飲む計太の手が止まり、「降参」と笑った。そして、「レイは、自分の未来を知っているのか?」と疑問を投げつけた。
「確かに」ネガが手を止めてレイを見る。確かに、自分の未来がわかったとしたら、自分の死に様がわかるということにも繋がる。僕は不安げにレイを見つめる。
「見えないよ」レイは首を振った。「まるで、希望がないみたいに、なにも見えない」
急に子どものようなことを言い出すので、困惑した。といっても子どもに違いはないのだけれど。レイはいつも冷静で子どもらしくない子どもなのだ。
計太は答える。
「それが俺らなんだよ。なにも見えない。でも希望はあるからな。それに見えなくていいよ、俺は」
「ここになんか種があるとする。絶望の」
レイは胸のあたりに拳を作る。計太が頷く。逆カウンセリングみたくなってきて、僕は今まで、レイの不思議な力を羨ましいと感じていたけれど、考えてみれば、見えるということは、本人にとってみれば辛いことなのかもしれない。
「それが行き場のない」少しの間があって、「わかる?」と、レイは光を求めた。
少しの間を拭うように、計太は言葉を照らす。
「なりたいと思うことを描いて、そこに向かって芽が伸びていくことを想像してみればいいんじゃない」
「なりたいと思うこと?」
レイの目に、計太が映る。なにかを感じ取っているようでもあったし、なにかを考えているようでもあった。そのまま真っすぐ視線を外さずに、
「ケイみたいなの、かっこいいかもな」
と、ポツリと言った。
「そうか。待ってるで。いつか一緒に音楽やろな」
計太がそう言うと、レイは笑った。それはとても子どもらしくて可愛らしく、本当のレイを垣間見えたような気がして嬉しかった。なんだか計太のほうが能力者のようで、僕のなかでまた、計太の存在が大きくなる。
可愛いと思ったのもつかの間、
「俺がロックミュージシャンになったら、そのころ、ケイはじじいだな」
と、レイは悪態をついた。
「誰や、こんな言葉覚えさせたの」
僕は、予想通りの答えを計太に用意した。
「ネガだよ。言葉と歌はネガが教えたんだ」
ネガとレイは音楽に合わせて歌っている。「手遅れだよ、もう」ネガがそう言い、レイは唇の端を少し上げて笑む。もう無邪気で可愛らしいレイはいなかった。