ꓓꓤꓳꓑ5 黒トかげ
白シャツの襟元にリボン風のフラップ、タイトな紺色のスカート。事務員のような出で立ちの彼女の持つトレイの上には、ショートケーキと麦茶がふたつずつ並んでいる。
「なにをしているの? ココ」
お見舞い、とココは言い、テーブルにケーキを並べた。
昼食のあと、ソファーに体を預けたところまでは覚えている。
重たい目を擦りながら、夢と現実の曖昧な境界線をまたいでテーブルの前に座る。健康だけがとりえの僕が、風邪で高熱を出して、会社を四日も休んでしまっていた。
僕の向かいに座ったココは、
「具合はどうかな」
と問診する。
「もう平気。明日からは仕事も行くし、ココも呼べる」
「また風邪引きたいの?」
NGの診察結果を突き付けて、ココは続けた。
「計太が“城石酒店”の電話番号を調べて電話したの。風邪で会社を休んでるって知って。そうしたら計太、お見舞いに行くって張り切っちゃって」
「え、計太もいるの?」
「うん」
「計太は酒にありつきたいだけじゃない?」
かもしれない、とココが笑う。
「でも本当に心配してたよ。お兄さんとお店で盛り上がってるけれど」
グラスをつかみ、カラついた喉に流し込む。奇妙な味がして一瞬グラスを見つめた。麦茶とばかり思っていた飲み物の正体は紅茶だったからだ。
生クリームたっぷりの生地を口にすると、見た目通りの甘さが喉元を通り越していった。ココは、真っ先に苺にありついている。
「計太、お店に入ってすぐ『コンベア!!』って叫んだの。それで私も思い出した。コンクリートベアだよね」
ネガのやっていたバンドの名前だ。
「distort杯でコンベアに投票したんだって。それで意気投合したの」
喜びに満ちあふれたネガが、計太を抱きしめる様子をたやすくイメージできる。ネガはすぐにハグをしたがるという性質を備えている。身長が193センチあり、とにかく大きい。バンドメンバー全員が185センチを超えている。まるで壁が演奏しているようで、見た目のインパクトはどのバンドよりも存在感があったし、特に男性に人気があった。
「これで調子にのって、またバンドはじめちゃうかも」
ようやく両親が安心したところだ。とばっちりがこない分、僕が安心しているのかもしれない。
「またやればいいじゃない」
ひとごとのようにココは言う。
僕は紅茶を飲み干して、
「ココは、もうバンドをやらないの?」
と聞いた。ココのかたむけたグラスの中で、氷が小さく鳴いた。
「音楽はもうやらない」
「どうして?」
「無駄、じゃない?」
「無駄?」
ココはグラスを見つめながら、「この氷みたいに、溶けて無くなっていく」とつぶやいた。意味がわからず僕は、氷の行方を見つめた。
「バンドをしているときのココ、楽しそうだったよ」
そう告げると、ココはわずかに顔をしかめた。
「あのころは、頭の中からっぽで、ただ楽しくて。ねえ、カナ。……知ることは……怖いことだよ」
ココを傷つけるものがなんなのか、聞くことはできなかった。僕も怖いのかもしれない。グラスの中の液体が、氷の存在をたやすく消滅させていった。
店に下りると、ネガと計太は、初対面とは思えないほど盛り上がっていた。ネガのご機嫌指標は、カウンターに並べられた数々の名酒で観測できる。入手困難なものまで開封している。
「お見舞いに来たんじゃないのかよ」
僕が言うと、計太は「乾杯」とグラスを掲げ、ネガが、
「快気祝いだよ」
と答えた。そのあとココに向かって、「……カナの彼女?」と聞いた。ネガも、バンドをしていたころのココを知っている。たぶん、僕か計太がココの名前を口にしない限り、気付くことはないだろう。
「違います」
言うより早く手を振ってココは否定した。
「だろうね」と、ネガが返す。ココが笑って「どうしてですか?」と聞く。
「女の匂いが一ミリもしない。まあいつも石鹸の匂いを漂わせて帰ってはくるけれど……」
「は!?」
僕は大声を出して言葉を遮った。計太が笑いをこらえようと必死になっている。携帯電話の着信音が鳴り、ココは外へ出た。僕は、「もっと高級なのあるよ。シキの限定品もあるよ」とふてくされた。今日は価値ある酒をいくらでも出してやりたい。
ココが戻り、
「行かなくちゃ」
と言ったあと、計太に「先に帰るね」と声を掛けた。計太はおう、と手を挙げた。
「おじゃましました」
深々と頭を下げたココに、
「いつでもおいで」
とネガがにこやかに声をかける。
「送っていくよ」
僕の言葉に、ココは、「丁度タクシー通ったから、止めてある」と、店先を指差した。
「振られてる」
計太がからかう。
「だな」
便乗するネガを睨んで、僕は店の扉を開けた。
そこには小さな客がいた。
「お、レイ」
レイはココを見上げると、一歩下がり道を譲った。ありがとう、とココは笑顔になり、僕に「またね」と声をかけてタクシーに乗り込んだ。
店先でレイとふたりタクシーを見送る。
「好きなのか?」
色素の薄い瞳をこちらに向けて、まだ幼いレイが僕に聞く。
「気にはなってるよ」
僕はレイの目をちゃんと見て答える。レイにごまかしが通じないのは承知の上だ。
「難しいと思う」
斬り捨てられた僕の瞳は、再びタクシーを追った。タクシーが角を曲がり、姿が見えなくなるまで。
「勝ち目はないよ、カナがすべてをかけない限り」
レイは唇の端を上げ、僕の目の奥を殺して、店に入った。時々レイの瞳が怖くなる。鏡みたいに僕の心を映し出す。僕の瞳は黒いのに、何もかも見透かされている。黒のほうがよく見えるよ、レイは言っていた。「ニンゲンは、陰の中ほど何かを隠そうとする。黒には陰が付着し過ぎてる。だから嫌なんだ」
レイも知ることが怖いのかもしれない。