ꓓꓤꓳꓑ4 晴れのち濁り
休日の天気予報までは把握していない。
電車を降りると、グレースケールの雲が空を占領して町に蓋をしていた。窒息しそうな気分で歩き出す。色味無い石畳がひっそりと呼吸を繰り返している。駅前通りを抜けて、花屋を曲がったあたりで小雨が降り出し、僕は歩調を早めた。中華屋に差し掛かったころには本格的に降り出して、諦めた。どうせもう濡れている。
小さな商店街に小さな店たちが並ぶ。ここから車で五分ほどの距離に大型のスーパーが開店してから、店仕舞いした店舗も少なくない。名所となっている桜のおかげでまだかろうじて息づいている、とはいっても、桜が花を魅せる期間だけだ。兄が酒屋を継ぎ、客足が少しずつ戻ってきたという。商店街全体の意識が変わりつつある。思いがけず兄の才能が開花している。
ナチュラルの木目色だった壁はウォールナット色に塗り替えられ、入り口の右手には、横に細長い黒枠の窓が設けられている。目線の高さではあるが、中の様子をうかがい知るほどの役割はなく、ガラス越しにマーキーライトが立ちふさがっていて、暗くなるとKISEKIのアルファベットが淡く灯る。同時に、入り口左側を縦に陣取る「城石酒店」の文字がライティングされ、力強い書体が浮かび上がる。先代から継いだ由緒ある看板だ。
真白い格子戸を開けると、激しいロックミュージックが流れてくる。僕は、家への出入り口をこの場所にしている。小さいころからの習慣だったので、自然とそうなってしまった。父は引退してから、孫たちを連れて正規ルートを通るようになった。嫁はもちろん、母はなんとなく玄関なのだろう。変わらずここを使うのは他にもいる。姉だ。近くに住んでいて、子どもたちを連れてよく来る。この場所に子供靴だけが並んでいるときは看護師の姉が夜勤と判断して間違いない。今週末も賑やかになりそうだ。
「おかえり。とうとうカナも朝帰りか」
開店準備をしていた兄は、物珍しそうな目を僕に残し、一度奥に引っ込み、タオルを手にして戻ってきた。僕は受け取ったタオルで体を拭いながら、「友達と飲んでた」と無難な報告をする。まあ、嘘ではない。
「羽目を外すぐらいがちょうどいいんだよ、とくにカナは」
真面目のレッテルを貼らさせられたのは願くん、君のせい。
「なあ、ネガ。distort杯のビデオって全部持ってたよな」
「なに突然」
「STORMに興味があって」
ネガは開けているのか開けていないのかわからないぐらいの細い目を、たぶん見開いた。瞳には濡れねずみの僕が映っていることだろう。
「おまえ、邦楽に興味を持つようになったのか。安心した。俺のせいで洋楽しか受け付けなくなっているのかと」
「STORMはかっこいいよ。出場してたって聞いたから観てみたいなって思ってさ」
ネガの反応が鈍い。顔を見ると、呆れた表情で、たぶん瞬きをして、
「distortにSTORMは出場してない。これ、有名」
と言い切った。
「え?」
僕は驚いた声を漏らしつつ、脱いだ靴下を鞄の上に掛け、片足立ちで足を拭く。
「だからな、カナ。かたよるのはよくない。お母さんも言うだろ、肉ばっか食べてないで、野菜も食べなさいって。俺はよく言うだろ、仕事ばっかしてないで、女遊びもしなさいって。バランスなのよ。日本にもいいバンドはたくさんいる」
声にならない声で肯定しつつ、もう片方の靴下を脱ぎながら、真面目に働いて風俗に通うこのバランスはどうなのだろう、と考えていた。
「STORMは、入賞者のなかからひとりずつ選ばれて出来たバンド。腕のレベルが高いやつらで構成されている。顔のレベルもな。売れないわけがない。腹が立つだろ。初めから完成されているんだよ。羨ましいだろ」
膨大な量の雑誌やビデオテープが収納された棚の前に立つネガに向けて「それとその一年前のも」と追加注文する。ネガが振り向いた。僕は、「特別賞を受賞した女の子バンド」と説明を添える。疑問符を漂わせたそのフキダシに向けて、「可愛いって聞いてさ」とセリフをあてがう。
「CSAD/O、か」
「こそあど?」
唐突な指示語に、今度は僕が疑問符を漂わせた。
「バンド名だよ。ココ、その、アンナ、どれみ。覚えやすいだろ」指を折るネガの口から、ココの名前が発せられるのは不思議な感じだ。
「確かにかわいい。当時は誰がタイプか言い合ったもんだ。うちのリーダーはボーカルのアンナに惚れてさ、まあ相手にされなかったんだけど、それでもめげずにアタックし続けて、デートも何度かするほど仲良くはなったんだ。だけど、アンナが選んだ男は、ほかのバンドのイケメンだった。ギターのココもな。ケイがいたバンドのボーカルなんだけど」
お揃いのタトゥーを思い出す。
ネガは、
「結局、世の中イケメンなんだよ」
と嘆き、巨体な体躯を縮こませた。
「ネガは誰がタイプだったの?」
と聞くと、
「俺はその……奥さん一択だからな」
とごまかした。
シャワーを浴びたあと、店から焼酎をくすねて部屋に戻り、テレビの電源を押す。調子が悪いのか画面が正常に映らない。チャンネルを変えても、雑音だけが狭い部屋の中を行き来している。テレビデオをなだめながら、その側面を二、三度叩くと、朝の番組が爽やかにニュースを伝えた。早速ビデオテープを飲み込ませる。
特別賞というのは、ファン投票で話題になったバンド、または個人に贈られる賞、ということを知る。やはり言われなければココとは気付かない。ギターを弾くココは始終笑顔で、心底楽しんでいるのが伝わる。こんなに楽しそうな笑顔のココを僕は知らない。現在のココはなにか違う。それがなにかといわれれば説明はできないけれど、腕の傷のせいなのかもしれない、と理由付ける。刻まれた傷の分だけ、ココはなにかを失っているのだろう。
次の年のビデオを観る。早送りをしながら、計太を探した。
是霸(ZE-HAKU)
関西地区代表
グランプリ候補と名高い京都出身のスリーピースバンド
画面を流れるテロップに沿い、僕の目も泳いでいく。計太が京都出身であることに驚く。
冗談を交えながら意気込みを話す計太の表情は、今と同じなのに、話し方のせいなのか変な感じがした。
ユキと呼ばれたボーカルにマイクが向けられると会場から歓声が上がった。女性の悲鳴のような声も聞こえる。計太と僕がだいたい同じ身長で、それよりちょっと大きい……175センチぐらいだろうか。細いし、ひ弱そう。やたらに顔がアップされるのは気のせいだろうか。透けるような肌にサラサラの髪、茶色い瞳。間違いなく僕とは違う生き物という感じがする。あどけなさの残る顔立ち、笑うと両端の尖った犬歯が覗いた。笑顔を絶やさずに受け答えをし、計太がたまに突っ込んだり、司会者が吹き出したりして、話すたびに観客が沸いている。もうこれはアイドルだな、ひネくれた感想を持つ。
ステージが始まると、ユキは一変した。ひ弱いどころかひ強い。圧倒的な迫力で僕を打ちのめした。自分が思う以上にユキに魅入られていくのがわかった。でもそれを認めたくはなくて、「なんかひきょうだな……」そう思うことにした。ギターを弾く腕に十字架が見える。シャツの袖で半分隠れてはいるが、間違いなく、ココと同じものだろう。
布団に潜ると、時折、下の階から子どもたちの声が聞こえた。休日の午前中はカナおじさんの部屋には入らない、きせき託児所の決まりだ。
静かな部屋の中、雨音が僕を打つ。僕はひっそりと息を吐く。なぜだかユキの笑顔が鬱陶しく、僕に蓋をする。呼吸が苦しいのだ