ꓓꓤꓳꓑ2 まだ見ぬ時刻(とき)
渋谷109から道玄坂を上がる。隙間なく建つビルは、高々とそびえて空をさえぎっている。不規則に区切られた空は、コバルトブルーの絵の具で満べんなく塗られている。それをよく乾かした後、筆にたっぷりと含ませたホワイトで描く雲。太陽は真上に位置して雲の表情を支配している。絵画天は感傷的に僕の足元に影を忍ばせた。
配達業者の車が列を作り、店舗前の車道をふさいでいる。スペースを見つけてタクシーが停まり、客を降ろし、また車道へと戻っていく。響くクラクション。点滅信号の鼓動。携帯電話にしがみつきながら急ぐツインテールの擦れる厚靴の底で小さな虫が窒息した。
僕はネクタイを緩めてえりもとのボタンを外した。道玄坂小路を通り過ぎて、ビルとビルの間のビルに入る。エスカレーターに乗り込み、3と5の間の数字を押す。割れた電子音が目的地を告げた。
店の名前であるSECRETの文字は、反転して黒いドアの中央に掲げてある。他にはなにも書いていない。一見してどんな店なのかわからないが、ここはエミに紹介されたロックバーだ。ドアを開けると、冷気と狂気が僕を出迎えた。五人ほど座れるカウンターとボックスが三つ、窓際に小さなステージがあり、バンドが演奏することもある。いつも常連であふれていた。エミもそのひとりだ。
月に何度かエミを呼ぶようになり、僕は客でありながら友達という間柄にもなっていた。好きなミュージシャンが同じというのがきっかけだった。エミは本名を恋子といい、ココと呼ばれていた。本当の年齢は、僕よりふたつ下の二十二歳だった。
シークの客のほとんどはバンド関係者であり、マスターの服装もロック系ではあるが、バンドはやらず、聴くのが専門だと言っていた。三十代だと思うが、それはシークレットらしい。絶えずアルコールを煽り、カウンターの中でどっかり座っているマスターを横に、常連客らが勝手にカクテルやおつまみを作ることもある。
昼はランチもやっていて、僕もここで済ませるようになっていた。昼のマスターの動きは、夜と違って機敏だ。明るい店内がどこか健全に見えるのは、長髪や金髪、ピアスにタトゥー、鋲付きの革ジャン……パンク系、ロック系、ロカビリー、ヘビーメタル……ジャンルを問わず音楽漬けの連中がいないせいかもしれない。バックミュージックが静かに流れ、制服姿のOLがいることも相まってそう見えるのかもしれなかった。僕は店内をぐるりと見渡してから、さりげなく聞いた。
「最近、ココを見てないんだけど」
「ココ? ああ、そうだな。まあ、たまにある。一、二週間来なくなって、またふらっと現れたり。仕事忙しいんじゃないの? 休み入れないって言ってるくらいだし」
「休みを入れない?」
「忙しいのがいいんだって。俺は忙しくないのがいいんだけど」
ちょうど、客からごちそうさまと声がかかる。昼仕様のマスターがにこやかに対応している。
シークにくれば、自然とココに会えていた。常連のみんなでカラオケやゲームをしに行くこともある中、ときどきふたりで会ったりもして、一緒にいるのが普通になっていた。それが一週間ほど前から連絡が取れなくなっていた。
その日の夜、ココの所属する事務所に電話をかけた。馴染んだ偽名を告げる。
「いつもありがとうございます。申し訳ありません、エミは休みです。ですが本日、出勤予定日ではなかったのですが、クルミがいますよ」
クルミは、今月いっぱいでこの業界から足を洗う女の子だ。顔もスタイルも抜群で、性格も良く、人気があった。引退の話が広がってから、予約で埋め尽くされ、もう指名はできない状態だった。おそらく、クルミと会えるのは最後だろう。それに、ココを紹介してくれたのはクルミだ。ココのことをなにか知っているかもしれない。
「今日は話をしよう」
と、僕は言った。クルミとソファーに並んで座り、クルミの子どものころの話を聞いた。親が離婚して、母親は出て行ったが、メイドが何人もいたので寂しくなかったらしい。不自由のない生活ぶりは、庶民とはかけ離れすぎていて、僕の思考は追いつかない。
「それだけのお嬢様だったのに、なにがあったの?」
クルミの横顔が少しためらった気がした。
「会社が倒産してね、父が蒸発したの。残ったのは借金だけ。仕方がないよね。生きていくために、ね」
「仕事を辞めて、借金の方は大丈夫なの?」
「うん。ちょっとね、大仕事するんだ」
「大仕事?」
クルミは首を少し傾け、にこっと笑った。
「私、自由になれるのよ、やっと」
その表情はとてもきらびやかで、僕の用意した単純な言葉は無用な気がした。
「エミちゃん、いい子でしょう? プライベートでも仲良くなったって聞いたよ。ふたりとも音楽が好きだから合うと思ったのよね」
「それがさ、この一週間、電話をしても通じないんだ。仕事も休んでるって聞いた。なにかあったのかなって少し心配してる」
「ときどき、沈んじゃうときがあるの。それが過ぎるとケロッとして仕事に出てくるわ。今ごろ、飲んでいるんじゃないの? 例のお店で」
「シーク、知ってるの?」
「うちの店、ランチはシークなのよ。従業員が取りに行ってるの。前はよく食べに行っていたわ。エミちゃん、シークでアルバイトをしていたのよ。知ってた?」
僕は驚きながら「知らなかった」と答えた。
「今と全然違くてね、金髪ですっごくキュートだった。カウンターの上の壁に写真がいっぱい貼ってあるでしょ、そこに昔のエミちゃん写っているわよ」
写真が貼ってあるのは知っていた。会計中、ふと視界に入ってくる位置だ。ひととおり見たつもりでいたけれど、全然気が付かなかった。
クルミは、「いつか偶然再開したら一緒になろう」と冗談を言った。
「私、どこにでもある平凡な名字だから憧れるのよね、城石。いいなあ」
「世界は広すぎるよ」
クルミは、大きな仕事を終えたら、海外に行くらしい。
「見つけてよ。私を」
奇跡が起きればね、と僕は返事をする。
帰り際、クルミは僕をハグした。扉が閉まる寸前、声には出さず、なにかを言っていた。
僕は声に出して、クルミの唇の動きを真似てみる。
「またね」
確証がない言葉がクルミらしいといえばそうであり、僕の心を和らげた。
再びシークレットに向かう。相変わらず賑わっていたし、相変わらずマスターはカウンターの中で飲んでいた。僕はすぐには座らずに写真を見た。壁にはたくさんの写真が貼ってある。金髪の女の子……これがココ? 言われなければわからなかった。ロックファッションに身を包み、化粧の感じも今とは全然違う。シークのエプロンをして、舌を出している。どれもこれも見たことのない思いっきりの笑顔をこちらに向けている。ステージ上でギターを弾いている姿に十字架は彫られていない。今のココとは別人のココだ。
背中をバシンと叩かれた。計太だ。計太は「なに見惚れてんだよ」と茶化しながら、カウンターに入ってカクテルを作りはじめた。彼がマスターを甘やかしている要因だ。いつも率先してカウンターに立ち、常連客と話したり、おつまみを出したりしている。
計太が来ると空気が一変する。誰からも好かれて頼りにされているのがわかる。そして、計太のそばにいつもココの存在があった。
【 罪 】
最低
ずるい
卑怯
嘘つき
世の中『お金で』
私『お金で』
全てが『お金で』