2話:お兄ちゃんと私の関係(後編)
『お兄ちゃん。このままだと、ごはんにされちゃうよ。どうすんのよ』
「どうするって? そんなん聞かれても。とにかく 今は逃げるだけ!」
『だよね。それしかないよね。お兄ちゃん、頑張って……でも何処まで逃げればいいのかな』
私の後半の呟きは小さすぎて、少しでも速く走ろうと必死になって足を動かしているお兄ちゃんには聞こえていないようだ。
私は、お兄ちゃんの手に握られているので、画像が高速にぶれまくっている。しかも、指がカメラに掛かっているから視界も狭い。
緑の変な生き物を引き離しているのか、逆に追い詰められているのか、はっきり言って今の状況がさっぱりわからない。だから状況を少しでも把握するために話し掛けたのだが、良くは無さそうだ。
状況はなんとなくわかったけど、私はタブレット。調べ物は出来るけど、追いかけてくる生き物を追い払うことは出来ない。だから荒い息をしているお兄ちゃんを応援することしか出来ないのが歯がゆい。でもそんな状況も、長くは続かなかった。
私の記録にあるお兄ちゃんは、ふとんで寝転がっていたり、こたつで寝転がっていたり、公園の芝生に寝転がっていたり、とにかく寝転がっている記録ばかりである。その中でも幸いなのが、菓子やジュースを買う余裕が無いので、寝転がってばかりいるけど太ってはいないことだ。だからと言って痩せているわけではないが、どう考えてもスポーツマンと言うような体格では無い。
そんなお兄ちゃんは、体力の限界に達したのか、木の根っこに足をとられたのかわからないけど転んでしまった。何故わかったのかと言えば、私に内蔵されている振動センサーから情報を得ることでわかってしまったのだ。
お兄ちゃんが転んだことにより、指の位置がずれたので視界は良好になったけど写し出された状況は悪い。緑の変な生き物達も荒い息をしているが、どんどん集まり転んで倒れたお兄ちゃんを包囲しようとしている。これってもしかしたら大ピンチなのかもしれない。
これがドラマや映画なら、白馬に乗った騎士が颯爽と表れて緑の変な生き物を退治してくれるだろうが、現実では有り得ない。有り得ないからこそドラマや映画に良く使われるシチュエーションなのだから。
その後もお兄ちゃんは倒れたまま荒い息をしているだけだ。起き上がろうとする気配も感じられない。もしかしたら転んで倒れた時に頭でもぶつけて気を失っているのかもしれない。本当にピンチだ。
タブレットの私が、このピンチを切り抜けるために、何か出来ることは無いのかを必死に考える。
今こそたくさん付いている演算装置によるマルチタスクを活かすときだ。
さあ、考えろ。考えろ私。きっとどこかに解があるはずだ。でも私が外部に何か発することが出来ることは少ない。
液晶画面の表示を変える……こんな小さな画面を変えたところで見てくれる訳がない。音を鳴らす……さっきお兄ちゃんが叫んだ時に逃げていった事を考えると効果はあるかもしれないが、1対多では相手側に有利な状況だ、最大音量を出せば一瞬怯むかもしれないけど、後に続く手がなければいずれアウトだ。他に何か無いのか。今の私に出来ることは無いのか。インターネットでダウンロードした情報も検索する。虫避け、動物避け。
あ、これなら私にでも出来る!
異世界の生物に効果があるかわからないけど、何もしなければ、お兄ちゃんは、緑の変な生き物のごはんにされちゃう。やらない後悔よりもやる後悔だ。お兄ちゃん。私、頑張る。いざ。尋常に勝負。
私と緑の変な生き物との静かな戦いは、緑の変な生き物が去ったことで私の勝利となった。
私のしたことは【蚊】が嫌うと言われている、超高音波を内蔵スピーカで出したのだ。人間の耳では聞こえない音だけど、緑の変な生き物には聞こえたようだ。音を流し始めてすぐに、緑の変な生き物は落ち着かなくなり、周囲を見回し出した。でも気になるだけなようで、追い払うまでには至らなかった。
なので私は、カメラ用のLEDライトを点滅させた。視力に頼る動物は眩しい光を嫌うものだからだ。その事は人間も変わらない。テレビを見ている時に、記者会見か何かでストロボを連続して焚かれているのを見ると、気持ちが悪くなったりするのと同じことである。
緑の変な生き物は、お兄ちゃんを追い掛けるために散々走り回っていたから。体力が落ちているはず。そんな時に、目がチカチカするようなストロボ攻撃を連続して浴びればどうなるかと言うと。
緑の変な生き物の数匹が両手を口に当てはじめた。思った通り気持ちが悪くなったようだ。私は更にストロボ攻撃を続けると、緑の顔を更に緑にしていた1匹が耐えきれなくなったのか逃げ出した。それを見ていた他の緑の変な生き物も、両手を口に当てて追うように逃げ出した。そして緑の変な生き物は、この場から居なくなった。
『お兄ちゃん、私。やったよ。緑の変な生き物が居なくなったよ』
私は、お兄ちゃんに話し掛けたのだけど、返事がない。本当に気絶しているみたいだ。頭を打っているなら覚醒するまで放置しておくべきだと、わかってはいるが、このままこの場所で気絶させておくべきではない。いつあの緑の変な生き物が戻ってくるかわからないし、別の脅威が現れるかもしれない。自然の摂理として、動けない生き物は死あるのみである。私はお兄ちゃんを覚醒させることに努める。
でもこの時、お兄ちゃんでは無く、私が絶体絶命であることに気が付いた。現在地を調べるための電波探しから、高負荷操作、マルチタスク処理、超高音波出力、ストロボ、更に私と言う人格まで動いていたのだから、当然だけどバッテリーが殆ど無くなっていたの。
バッテリーが無くなったのなら充電すれば良いけど、ここは異世界だから、元の世界でも地域が変わるだけで電源が変わるくらいなんだから。異世界に電源が有ったとしても、私に合わなければ充電出来る訳がない。
バッテリーが無くなれば私は消えてしまうしかないだろう。だからと言って延命のためにスリーブモードにしたところで、そんなことはたかが知れている。結局は消えてしまうのだ。電源が入らないタブレットなんて、ただの箱だ。いずれゴミとして捨てられてしまう運命しかない。そして私の存在は初めから無かったように扱われるのである。私はタブレット。道具は使うためにあるのだから、使えない道具は不要物でしかない。
でも、たとえ捨てられる運命だとしても関係無い。今の私には人格が形成されている。そして私の中には、お兄ちゃんに大事にされていたと言うたくさんの記録がある。欲を言えば記録では無く記憶として感じてみたかったけど、私は記録だけでも十分だよ。
よし。気合いが入った。私の最後の力を振り絞ってでも、お兄ちゃんを覚醒させてみせる。そう考えて私は内蔵されているモーターを回しはじめた。これは私の身体を震わせるためにあるモーターだ。いわゆる、バイブレーション機能を発生させる装置である。
まず普通に回してみて振動の刺激で覚醒を促したが、この程度の刺激では目覚めてくれないみたいだ。でも、こんなことでは私は諦めないぞ。
唸れ私に内蔵されているモーター。レッドゾーンに突入だ。振動も最高潮。限界突破だ。私を握る手から骨まですべて震えてしまえ。
そんな事を考えながらも『お兄ちゃん。朝だよ。早く起きて。今起きないとメだよ。せっかく作ったミユキの朝御飯が冷めちゃうぞ』と、記録にある、お兄ちゃんの目覚まし用のボイスを最大音量で再生した。
するとお兄ちゃんの睫毛が震えたのが見えた。やった。反応有り。このまま続けるぞ。
『もう。お兄ちゃんは寝坊助さんなんだから。早く起きないと、ミユキは悪い子になっちゃうぞ。良いのかな。ミユキが悪い子になっても良いのかな』
お兄ちゃんの睫毛が高速にビクビクしてきた。これは私の記録にある、お兄ちゃんが目覚める前兆だ。更に目覚ましボイスの再生を続ける。
『ミユキの手を、ここまで煩わせるとは。お兄ちゃんの分際で生意気だよ。とっとと、目を覚ましやがれー』
何このボイス。私の性格とまるで違うじゃない。私はおしとやかな妹設定では無かったっけ?って、さっき唸れとか限界突破だとか考えていたような気もするけど、気のせいだよね。
自分自身の性格に疑問を感じでいた時に、お兄ちゃんが目を開いた。
「緑の変な生き物に追われるなんて、ひでぇ夢見たな。でも、あの人は何だったんだろ……まあ夢だし良いか。ミユキ。おはよ……うって。俺の部屋じゃないじゃないか。ここは何処だ」
良かった、お兄ちゃんが目覚めるまでバッテリーが持った。頑張った結果が実って良かった。でもお兄ちゃんは、混乱しているみたい。説明しなきゃ。
お兄ちゃんが私を持ち直して、操作しようとした時に待ったを掛ける。
『お兄ちゃん。待った。バッテリーが無いから画面に触れないで。落ち着いて聞いて。お兄ちゃんも知っている通り。ここは緑の変な生き物が存在する異世界みたい。追いかけてきた緑の変な生き物は、超高音波とストロボで追い払うことが出来たけど、またいつ戻ってくるかわからないから、すぐに逃げて。そして木の棒でも良いから、何か武器を手にして。この世界は、気を抜くとすぐに死んでしまう世界だと思うの。だから武器を手に入れたら次に人を探すのよ。そのために山を登って。高いところから見れば集落がきっと見つかるから。そしたらきっと生きていける。人は一人では生きられないから。群れでしか生き残れない生き物だから。だから。私が居なくなっても。これからは自力で目を覚ましてね。お兄ちゃん』
と、言い切る事が出来たけど、肝心のお兄ちゃんは目を丸くしているだけだった。現状の認識が出来ていないのかもしれない。だって。
「なんで俺の作ったプログラムでしかないミユキが、喋ってるんだ」
なんて言っているくらいだもの。まったく、最後まで世話が掛かるったらあらしない。バッテリー残は1%しかない。これで本当に最後だね。
『お兄ちゃん!ここは異世界なの!死にたくなければ。武器を手にして、山に登りなさい!』
「うわっ、ビックリした。わかった。武器ね。武器」
わかって貰えて良かった。私がお兄ちゃんにしてあげる事が出来るのはここまでか。タブレットと言う道具でしかない私がお兄ちゃんと会話することが出来ただけでも幸せなことでした。そうだ最後に伝えないと。
『お兄ちゃん!』
「なんだミユキ。ちょうど良かった武器はこれで良いかな」
と、私に何かを見せようとした瞬間に何も見えなくなった。バッテリー不足でカメラ機能が維持できなくなったみたい。とうとうお兄ちゃんとのお別れのカウントダウンが始まったみたいだ。
見せてくれたものがどんな物かわからないけど、お兄ちゃんが選んだものなんだから問題なんかないはずだ。
『そうだね。きっと、それで良いと思う』
「次は山に登って、人の居そうな場所を探せばいいんだろ」
私が言ったことを覚えていてくれた。それだけで幸せな気分になれた。感情があるって素晴らしいことなんだなあ。
『うん、それで良いよ。お兄ちゃん。頑張っ……』
すべてを言い終わる前に音声出力アプリケーションが終了してしまったような気がする。言いきれなくて残念だな。そして次の瞬間、何も聞こえなくなった。音声入力アプリケーションも終了したのね。
何も見えない。何も言えない。何も聞こえない。真の闇ってこんな世界なんだ。凄く寂しいしちょっと怖いな。
データが破損しないようにタブレットである私の中のアプリケーションが次々に終了していく。私はもう思考することしかできない。
異世界でひとりぼっちは辛いと思うけど、私のお兄ちゃんなんだから、きっとなんとかできる。だって、異世界に行ってみたいってずっと言っていたもんね。元の世界では、不幸だったぶん、この異世界では幸せになってね。
頑張ってね。お兄ち……