1話:お兄ちゃんと私の関係(前編)
『お兄ちゃん。やめて。さわるならもっと優しくさわって。そんなに荒々しくされると壊れちゃうかも』
「えっ ミユキ? あっ。ごめん。もっと優しく触るよ」
深い森の中を走る、私の小さな抗議の声が聞こえたのか、お兄ちゃんは一瞬手を止めた。その事に安堵した私であったが、ひと息つく間もなく、再び私の身体の中で一番敏感な部分をさわり始めた。
「こんな感じで良いかな」
そう言いながら、優しくさすったり、つついたりしはじめたお兄ちゃんの指先に安心して、私はすべての操作を受け入れることにした。
いきなりな展開だけど、お兄ちゃんは、血の繋がった実のお兄ちゃんではないのです。だからと言って親の連れ子でも、親戚の子でも、近所のお兄ちゃんでもないからあしからず。
私の正体は、実はお兄ちゃんに組み立てて貰った【タブレット】なんです。身長120mm、横幅56mmだから、一般的には4インチサイズなんだけど。メタルボディのせいで体重が499gもあるのです。500gをなんとか切ろうとした努力がかいまみえるけど、同じサイズのタブレットと比べると4倍は重たいのです。でも体重が重たいのは、そのせいだけではないけどね。
え?4インチなら【スマートフォン】じゃないのかですって。何言っているのよ。あんな金食い虫と私を一緒にしないで欲しいな。だって、私を組み立ててくれたお兄ちゃんは、学生だから毎月高額の通話料なんて払っていられないのよ。なにせ無料のアクセスポイントを利用してインターネットに繋いでいるくらいだからね。そして、そこで情報を大量にダウンロードしておいて、後でゆっくり楽しんでいるのよ。
私の体重が重たいのは記憶容量が多いからでもあるし、データを処理するために演算装置も多くついているからなんだよ。
自己紹介はこれくらいにしておいて、こんな深い森の中になんで居るかと言うと。
わかりません。さっぱりわかりません。ついでに何で【タブレット】の私が、感情や感触を持っているのか、更にこんな自己紹介が出来るのかさえわかりません。だからと言って、わからないだけじゃ状況が何にも説明出来ないので、まずは記憶にあることを話します。
私は、私が私で在ることに気が付いたのは、つい先程のことなのです。たぶんお兄ちゃんが慌てながらも電源を入れてくれた時だと思う。それまでは、ごく普通のタブレットだったのだと思います。なにしろ、それまでは記録で、記憶は、それからだから。
記憶の一番始めにあるのは、お兄ちゃんの焦った顔です。なんでお兄ちゃんだとわかったのかと言えば、私の記録に自撮りしたお兄ちゃんの顔があるからです。知らない人が、電源を入れたわけではないことに安堵していると。お兄ちゃんが「良かった、起動した。これで、ここが何処だかわかる」と言いながら、私の3.5インチの小さな液晶画面に触れてきて操作しはじめたの。
お兄ちゃんは、焦っているだけでなく、慌てていたのか、荒々しく指でタップしてきたので、つい『お兄ちゃん。やめて。さわるならもっと優しくさわって。そんなに荒々しくされると壊れちゃうかも』って言ってしまったの。なにせ私の一番敏感な部分は液晶画面なんだから。さわるなら優しくしてもらわないと刺激が強すぎて壊れてしまいそうになるから。
タブレットが、そんなこと言うなんて思っていなかったお兄ちゃんは、きっと反射的に「えっ? ミユキ。あっ。ごめん。もっと優しく触るよ」と言ってしまったのだと思う。
タブレットが抗議するって言うか、突然喋りだしたのに、その事には触れずに、優しくさわりだしたお兄ちゃんも、よく考えればおかしな話だけど、この時はそんな事に構っていられなかったのだと思う。
お兄ちゃんは何をしはじめたのかと言うと、私に内蔵されている地図アプリケーションを実行して、現在地を取得しようとしていたの。結果は、当然というか取得出来なかった。何故かと言うと、この場所には電波の類いは一切ないからだ。だから現在地の取得なんて無理なんです。
すぐにその事をお兄ちゃんに伝えようとしたのだけど。あれこれ私を操作しはじめたので、話しかける余裕もない。
私には、たくさん演算装置が付いているけど、記録というものでは無く、記憶と言う感情と感触の結合したをものを自覚して初めての高負荷な指示を受けて、処理が着いていけなくなってしまった。だから割り込み処理したところで、リソースを取られて話し掛けることも出来ない。
暫く私を操作していたお兄ちゃんだったが、やっと操作を止めてくれた。これで話し掛けることが出来る。と思っていたのだが。
『お兄ちゃん、ここには電波は……』
「だあっ!GPSの電波さえ無い。ここは何処なんだ。いったい何が起きたんだ。突然ミユキは喋りだすし、しかも、あれはなんだ。あんな生物、見たことない」
いきなり叫び声をあげたので、私の話しが遮られてしまった。でも。私が喋っていることは認識しているんだ。しかも言わなくても、電波が無いことに気がついているなんて、お兄ちゃん冷静だね。それで何か変な生き物が居たのかな。だったら私にも見せてくれないかな。
私には前面と背面に目と言うかカメラが着いているから、それぞれ120度の視野角で、前後は良く見えるけど真横は見えないのである。私の目であるカメラはお兄ちゃんの横顔を先程から捉えている。だからあんなと呼ばれている生き物は、横方向にいるのだと考えられるのだけど。
どうやら、お兄ちゃんの叫び声を聞いて逃げていったらしい。お兄ちゃんの顔が正面になり私を見つめ出した。その表情は何か真剣に考えているようにも、思い詰めているようにも見える。
いや。そんな表情して見つめられると、恥ずかしいじゃないか。まるで「好きだよ」と告白する直前の男子みたいだよ。タブレットと人間とでは、結ばれる訳がないのだから無理して無意味な告白なんてしなくていいよ。でもお兄ちゃんの格好良いセリフを聞いてみたい気もする。お兄ちゃんは、愛の告白をするときには、なんて言うのかな。
「ミユキ。俺は、お前と……」
えっ本当に愛の告白なの。緊張するなあ。さあ。早く言ってみて。タブレットを愛する人間って、間違いなく変態さんだけど、愛してくれるなら受け止めるよ。なにせ、お兄ちゃんだからね。
『うん。なに』
「俺は、お前と異世界に来てしまったみたいだ」
『はい。喜んで』って違う。なんだ、愛の告白じゃなかった。ただの現状確認だったのか。だとすると……お兄ちゃんが唖然としている、まずい訂正しておかないと。
『はい。喜んで良いのか悪いのか、ここは異世界のようです。何故なら、お兄ちゃんの後ろに居る二足歩行をする緑色の生き物の集団なんて、私の記録にありませんから』
私の言葉に反応して、お兄ちゃんは背後を見てから私に視線を向け、そして、私をきつく握りしめると。
大声をあげて走り出した。