アイマイフィーバー
――翌週、月曜日。つまりあれから三日後。
昼休みの教室で、俺と静菜は些細なことを話し合っていた。
「『加齢臭』のことを、最初は食べ物の『カレ―臭』だと思っていたことってありませんか?」
「ありません」
「まあ走汰さんのことはどうでもいいんですけどわたしは勘違いしててですね……」
「――どうでもいいなら訊くんじゃねえよ!」
「カレ―臭があるなら『納豆臭』もあるに違いないと踏んでいたわたしは、ある日、加齢臭の話をしだした友達に対して『ならわたしは納豆臭の塊ですよね~』と言っちゃいまして――」
「――超恥ずかしい間違いだなおい!」
こんな風に話し合っていると、以前までのこの教室では、何人かの女子がこちらにちらちらと敵意にも似た視線をよこしていた。それが、今日からはそんなことは皆無だった。
むしろ静菜とその女子たちが笑い合いながら会話をしていたことを目撃したこともあり、どうやら上手くいっているようだった。
三日前の静菜の話によると、彼女たちは静菜に納豆を強引に勧められて、非常に嫌な思いをした者たちだったそうだ。
俺も全く同じことをされた――あの自己紹介時の他、具体的には三日前とか三日前とか三日前とかに。
だからそれによる仕返しを企てる気持ちはよく分かるのだが、それ以来、そいつらは静菜を目の敵にしており、俺の目の見えないところで静菜に対して何かしらの嫌がらせをしていたらしい。
でも、静菜のその行動の根底は、『納豆は自分が幸せになれた大事な品であり、その幸せを他人にも分けてあげたい』という善意のみから成り立っているのだ。
今朝、彼女たちが登校してきた際に、そのことを俺の付き添いのもとに静菜自身に語らせ、説明足らずなところは俺がフォローすることで、ようやく彼女たちの理解を得ることができた。
しかし、そのことを説明するためには俺と静菜の馴れ初めをある程度話す必要があり、彼女たちに大いにからかわれることとなってしまった。結果的にはそれが功を奏して理解を得られたのだから、非常に不本意ではあるが、結果オーライとしておく。
そんなこんなで安心しつつ、どうでも良いことを話し合っている俺たちのもとに、無駄に長身で無駄にイケメンの田口がやってきた。
「ようお二人さん。何二人楽しそうに談笑しちゃって新婚早々の夫婦みたいな距離感で手が触れ合っただけでも赤面しちゃいそうなテンションで話して――というよりは付き合い始めたカップルみたいなやりとりをしてんだ~?」
「よう田口、相変わらず耳障りなくそ長い台詞をありがとう」
そして、さっきのどうでも良い会話からそこまで連想できる非常に鋭い指摘をありがとう。
というか、その事実をこいつにも言うべきか。
もう俺と静菜は……その……つきあっている、と。
「あ、田口君こんにちは~」
静菜もその話題に食いつきたそうにクスクス笑っていたが、挨拶が先だと思ったのだろう。軽く手を上げて子供っぽく微笑む。
「おうこんにちは~。今日も把持は可愛いな~」
……なんだろう。何か一字一句同じ会話をいつかもした気がする。もうちょっとボキャブラリーを増やせないのかお前らは? まあ俺の心の中の表現も同じだったらショックなので言わないが。
そんな些細なことで思い悩む俺に、田口は珍しく真面目な顔で、
「後前自、お前、まだふっきれてないらしいな」
「―――あ……?」
俺はどうでもいいことを考え込んでいたので、こいつの言葉の意味がよく分からなかった。
「――オレも把持から聞いたぞ。お前が何に悩んでいるのかをな」
「ああ……なるほど」
静菜を見ると、彼女は笑いながら頷いた。
得心した。そういえばこいつと最後に会った時の俺はまだ絶望の最中にあったのだ。でも、どうやらこいつは父さんと静菜によって俺のその悩みが吹き飛ばされたのをまだ知らないらしい。
「だから、今からのオレの行動をよく見とけよ。そんな悩みなんてブッ飛ばしてやるからさ」
「は……?」
何を言っているのかいま一つ分からないが、田口は突然静菜の両肩を掴んだ。
「――ほわっ!?」
驚いてその大きな目を見開く静菜に向かって、
「君のことがずっと好きでしたあ! まあね、把持もオレにいつか納豆を渡してくれたからきっと相思相愛なのは恐竜が生きていた時代から明白だっただろうけどさ! やっぱこういうのは男のオレから言うのが筋ってもんだからね! というわけでこれからは甘い青春の赴くままに健全で時には粘っこい『ぐへへへ~』ってな感じのつきあ――」
「――ごめんなさいっ!」
「――まだ告白文句の途中で振られた!?」
流石我が彼女だ。今のは田口の今までで一番うざったく面倒臭い台詞だったのにも関わらず、そのぶち切り方をよく分かっていらっしゃる。
「――え……どどど、どうしてっ? お、オレの何がダメなわけ!?」
田口は半泣きで、その表情は全面的に余裕がなく、もはやイケメンのかけらもない顔だった。
「いや~田口君も格好いいんですけど~、私の彼氏の走汰さんはその一兆倍格好良いんですよ~顔はまあそこそこですけど、主に内面が最高です」
だからさあ、一言多いよキミ。
「――――――――ぬわにぃい!」
グリン! と音が出そうなくらいに、こちらをもの凄い形相で振りかえる。いやお前俺をかつて『般若みたいな顔』とか言ってたけどお前も大概だぞ? そうだな、ゴリラみたいな顔とでも言っておこうか。
そんな田口に対して俺は優しく微笑んでその肩にポンと手を置き、
「田口……いや、公哉」
そいつを改めてそう呼んだ。
「な、なんだよ……急に、名前で呼びやがって。お前に名前で呼ばれるとか……初めてじゃねえか。一体なんだって――」
――ウザいので台詞はカット。
俺に対して言いたいことが多々あるのだろうが、どうしてか田口……いや公哉は何も言えなくなってしまったらしい。
俺は相変わらずの微笑みを湛えながら、その肩に手を置いたままで、公哉に対して告げる。
「――――――いいキミや」
「――――――ダジャレで済ますんじゃねええええええええ!!」
うん。おかげ様で俺は大満足だ。
全く、俺の悩みをどんな風に解釈したか知らないが、てめえの勇気を見せてくれたってことだよな。よりによってそれを俺の彼女に見せたのはちとムカついたが、非常に面白かったので勘弁してやろう。
あとな、お前遅いよ。盛大に出遅れてるよ。
――俺はもう、大丈夫だって、言ってんだろ?
――帰宅後。
帰ればそこには父……父さんの姿があった。
「あれ……」
そしてどうしてか――リビングの明かりが点いていた。今までは電力削減の為か、もうかなり昔から電気は点けていなかったのに――
「どうしたんだよ。この電気は」
父さんは、相変わらずの若々しい外見で、それでいて渋く笑いながら、
「もう必要ないからだ」
「――あ? どういうことだ?」
やがて、急に嫌な感じの笑みに変貌し、
「お前の家が貧乏ではないということを証明するためだ。照明だけにな」
……殴っていいですか?
と言いかけたが、俺もさっき似たようなダジャレを吐いたのでそれを指摘できない。くそう、このオッサンと同類なのが凄まじく嫌だ!
「つまり、俺の考えを否定するための一環だったわけか?」
「ああ、然るべき時に一斉に点灯して、『お前の不幸のせいで我が家がこうなったわけではない』と思い知らせてやりたかったのだが、もう静菜さんのおかげで大丈夫そうだし、その必要もなくなった」
……くっだらねえ! 何だよそれ。だったら最初から点けといて俺を不安にさせなければよかった話じゃねえか。
……とは言えない、か。かつての俺の考えを否定するためにはこれぐらいの『材料』が必要だったのかもしれない。
「あとな。母さんも明日帰ってくるぞ?」
「――は……!? あんたの言動に嫌気がさして離婚したんじゃなかったのかよ!」
「もちろん、それもお前の為の盛大な『ドッキリ』だ。はは、まあ『あなたの〝歩く公然わいせつ物陳列罪〟にはもうつきあってられません』と言われていたのも事実だがな」
「―――じゃあやっぱり愛想尽かされてたんじゃねえか!」
「はは、それでも……帰って来てくれるんだ。それに、晩御飯のおかずだって、もうお隣さんからもらう必要もない。我が家は、年収二千万だからな!」
「―――嘘だ!」
バレバレなこと言ってんじゃねえよ!
「あ、そうだ走汰。……あ、今のはシャレのつもりじゃなくてな?」
……言わなきゃバレないのに。
「静菜さんとの付き合いは、しばらくは健全にいくんだぞ?」
「――何の話だよ!」
「不純異性交遊はせめてあと三年は経たないと……」
「――いやいい! やっぱ説明しなくていいから!」
「特にあの娘は三年後もあのままロリを貫き通しそうな顔と身体だからな。三年後も勘違いされないようにな? ちゃんと彼女に年齢認証をしてもらうんだぞ?」
「――もうあんたは黙ってろ!!」
――全く、そろそろ自分の年を考えろよな。
真面目な時だけは、信頼できるんだけどな……
*
――二週間後。
今までの俺の慌ただしい日常と同様、新たに手に入れたかけがえのない日常も非常に慌ただしく過ぎていった。
具体的には期末試験があり、試験勉強やら試験当日の出来の悪さやらで日々を楽しむ余裕がなかった次第である。
ようやくその期末試験も終了し、甘い恋人気分を味わえる最高のイベントだと思っていたクリスマスイブの日ですら、静菜はその日は母親と過ごすと決めていたらしく、満足に過ごせなかった。
「…………でも、悪くない、よな」
これも現実というものだ。日々の全てが自分の思い通りになるわけではない。その代わり、今までのように『決められた期間』ごとに不幸が起こる訳ではない。
そう、あれから二週間が経ったが、今のところ一度も過去の不幸に相当する出来事が起きたことはない。
これは即ち、俺が持っていた自殺願望、『死にたがり』の想いを現在は持っていないということになる。
そうだよな。なんたって、死んだらこんなにも楽しい世界から退場しなければならないんだからな。それに……
「――お、おまたせ……しましたか?」
……お前との約束を、果たせなくなるからな。その有効期間がいつまでになるかは知らんが、な……
「いや、俺も丁度今来たところだから」
そう、今は冬休みに入り、今日はようやく静菜との時間を持てた日だった。
待ち合わせ場所は我が家から徒歩数分の場所にあるいつかの公園である。そこでやはりいつか語り合ったベンチに座って静菜を待っていたわけだが……
「…………おまえ、それが普段着なの?」
「――はい? ええまあ、わたし寒さって苦手なんですよ~。まあこの前は気が動転して学校に制服の上着とコートを忘れてきてしまったんですけど~」
やや苦笑いを漏らす。
この前って、この公園で話した時だよな。ああ、確かにブレザーもコートも着ないでセーター姿で寒そうにしてたな。しかし、いつか俺の前に颯爽と登場して見せた時はセーター姿なのに平気そうだったが……ああ、あれは全力で走ってたからか。
勝手に疑問に思い、勝手に納得する俺だった。
「いやしかし、お前そのコートは……」
「え? だめですかこれ? 物凄く暖かいんですよ~」
静菜が着ているのは、何というのか、黒のコート……ダッフルコートというのだろうか。かなり分厚い生地で相当の寒さを防いでくれそうな代わりに、全身が黒ずくめになるという相当に地味な格好である。おまけに彼女の小さな背丈とはアンバランスでサイズが明らかに合っておらず、全身がブカブカな上にその丈が足首ぐらいまで及んでいる。何かに出てくる『怪しげな魔法使い』みたいな感じだろうか。とんがり帽子はないけど。
「いや……悪くはないんだけどな……」
本当はかなり悪いけどな。これはいわゆるデートと呼べるようなものなのに、そこまで色気とは無縁の格好をされるとは思わなかったが……いやもともとこいつは色気とは無縁な奴なのだからそれでいいのか……
またしても勝手に納得する俺に、静菜は珍しく半目になりながら、
「…………何か失礼なこと考えてませんか?」
「気のせいだ」
どんだけ勘が鋭いんだよお前。こういうのは即答しないと怪しまれそうなので最速で答えた。
まあ、かくいう俺も相変わらずの黒のダウン姿なわけだし、これはこれでいいのかもしれない。地味コンビだ。何か自分で思ってて悲しいけども、俺たちらしいと言えばその通りだ。
「失礼します~」
と、隣にちょこんと腰を下ろす静菜。
相変わらずこのベンチは小さく狭いのでお互いの肩が少し当たる距離である。
「これからどうする? えっと、デートらしく映画でも……観に行くか?」
それらしい行動を提案してみるが、
「いえいえ~考えてみればわたしたちがデートするのって初めてですし~、最初なんですからここでゆっくりするのもいいと思いますよ~?」
……初めてのデートって公園のベンチでぼ~っと座ってゆっくりするものなのだろうか。何か違う気もしたが、他でもない俺の彼女がそう言うのだからその希望は遠慮なく叶えることにした。
「んじゃ、そうすっか」
「はいっ!」
お互いに本心から微笑む。
狭いベンチでお互いの肩を触れ合わせつつも、会話はしばらくなかった。
それでも、何だか非常に心地よいひと時だった。
「何だか、眠くなってきましたね~」
「そうだな」
「――あ……じゃじゃじゃ、じゃあ……ひじゃみゃくりゃを!」
「……………………」
お前さ、もうわざと噛んでないか? そこまで噛むのは逆に難しいんだぞ? そして突っ込まないって言ってんだろ!
「でも心の中ではいつも突っ込んでますよね?」
「――何で俺の心の中分かんだよ!」
「そんな顔をしていらっしゃいますので」
「――どんな顔だよ!」
くそ、結局大いに突っ込んでしまったじゃねえか。こんな時はさっさと話を戻すに限る。
「――で、さっき何て言ったんだ? 噛んだからよく分からなかった」
「ああ、そそ、それはですね。その……どうやらこの陽気にやられてお互いに眠いみたいなので……その……膝枕……を」
「――え……?」
マジで!? 何か非常に恥ずかしいというか照れくさいというか、そんな『バカップル』みたいな真似したくない……いやでもお前がどうしてもしてくれるっていうなら……
俺はそっぽを向いたままで答える。
「そ、そうだな……まあ、やっても……いいけどな。別に……」
「ホントですか!? じゃあ早く膝を貸してください! 一刻も早く寝たいんです!」
「―――――お前がかよ!」
全力で拒否した。
「いいじゃないですか~。わたしのこと好きなんでしょう~?」
なにその超バカップル極まりない質問!?
「あ……いや……まあな」
すると、俺のはっきりしない態度に頬を膨らませながら、
「――『好き』か『嫌い』かの二択で答えなさい! でないとそれっぽくありません!」
だからそれっぽくってどれっぽくだよ! 意味分かんねえんだよ!
しかし……この剣幕で怒鳴る静菜はいつかと同じで非常に怖い。俺は観念し、もうやけくそのように叫んだ。
「―――ああもう、『好き』だよ! それでいいだろ! 文句あるかコラァ!」
「――――あります!」
「――あるのかよ!」
「『大好き』と言いなさい!」
――もう勘弁しろよ!
結局望み通りにしてやると、ようやく「えへへ~」とだらしない子供そのものな笑顔を見せた。
「ありがとうございます。わたしも、走汰さんのことが好きです。大好きです……」
う……改めて言われるとハズイにも程がある。どこからどう見てもバカップルだなこりゃ。周りに誰もいなくて本当に良かった。
しかし、これまでの空気を台無しにするのもやはりこの女なのだ。
「走汰さんのことは――納豆と同じぐらい大好きです!」
「――せめて納豆『以上』と言えよ!!」
――はあ……全く、悪くない。ホント、悪くねえ。こいつと居ると、本当に何もかもが新鮮だ。
この『何をしでかすか分からない』規格外の女と、そして恐らくそれ以上に『何が起こるか分からない』世界。どちらも、悪くねえよ。
皆、そういうもんなんだよな。常に『何が起こるか分からない』状況で、それでも日々を過ごしているんだもんな。
俺は、ちょっと未来が分かってしまったからって、あの四択しか未来がないと思い込んでしまった。そして、ちょっと不幸が多々起こり過ぎたからって、それが俺の宿命だと勝手に解釈してしまっていたんだ。
全く、本当に情けない。格好悪いにも程がある。でも……
俺は、それに気づいたんだ。だから、後はそれに基づいて、実行すればいい。そうして生きていけばいい。
それだけの、『何が起こるか分からない世界を生きる』という、皆がしている当たり前のことをすればいいだけだ。
そんな意味も込めて、俺の隣にいる大切な人を微笑みながら振り返る。すると……
「――そうだ! あの……――ほわっ!」
「あ……」
二人が同時にお互いの方向に顔を向けたものだから、狭いベンチに座っていた俺たちはかなりの至近距離で向き合う形になる。
――ほら、またしても思いがけないことが俺の目の前で起きた。でも、それがこのように悪いことばかりじゃないから、それでも楽しいんだ。人の考え方次第で、世界はこんなにも輝いて見えるのだから。
しかして、その思いがけないことにも答えを出さなければいけない。
――ええと、つまり、いいんだよな? こういう自然な流れに身を任せるのもいいだろうし、こんなマンガみたいなチャンスはもう二度と訪れないだろうし、だからその……
俺は静菜の肩を掴む。そして……ゆっくりと……
「――ほわわ……あの……その……走汰さん……?」
何をするかを悟ったのだろう。静菜は目を見開きながら、頭の芽のアンテナを全力でピクピク揺らしながら、そして頬や耳やらを真っ赤にしていた。
この間からも思っていたことだが、これはこれで非常に新鮮だ。あの『恥知らずな女』が恥じらっているのだから。まあ『恥』の意味が違うけど……
そんな変なことを思いながら、段々と静菜との距離を埋めていく。
――そんな時だった。
――――ズッ……
「――…………!」
どこまでも、不粋な現象だった。
ほぼ零距離に近かった目の前の静菜の顔が一気に暗転した。
やがて、誰もいない黒一色の世界に身を投じられ、もう一人の『俺』が姿を現す。
そして俺はやや不安になりながらも、そいつの行動を見守るしかない。それは果たして――
1.目の前の静菜に唇を近づけるが、恥じらいながらも拒否されて『俺』を押しのける。『俺』はバツの悪そうな顔で涙まで流しながら静菜に頭を下げた。
2.目の前の静菜に唇を近づけるが、恥じらいながらも全力で拒否されて平手打ちをくらう。『俺』が涙を流すほどなので相当な痛みのようだ。
3.目の前の静菜に唇を近づけるが、恥じらいながらも、そのまま至近距離でヘッドバットを食らい、『俺』は悶え苦しんで苦痛の涙を流す。
4.目の前の静菜に唇を近づけるが、恥じらいながらも、『俺』の鼻に指を突っ込んで制止させる。『俺』は恐らく別の意味で涙を流す。
「………………」
もはや、声も出なかった。
突っ込みどころは多々あり過ぎて困るが、それをこの空間にしても無意味なので俺は突っ込まない。
というか『恥じらいながらも鼻に指を突っ込む』とかどんなだよ! いや確かに映像で見たから信じられないながらも本当だけども! あまり女の子がやっちゃいけない行動も含まれてるぞこれ!
あと何で静菜はあんなに嫌がってるんだよ。どうしろってんだよ。そして結局突っ込んでしまったじゃねえか。
「しかし、本当、段々と適当になってるな、この空間」
でも、それがいいんだ。もともと『曖昧』の代名詞的な予知だったんだから、これでいいんだ。
――そう、この現象だけは消えなかった。『不幸』のかけらもない未来ばかりが見えることからも、『死にたがり』の想いはやはり俺の中から消え去った。
が、静菜との約束のこともあり、『生きたがり』の想いはむしろ前以上に持ったと言える。だから、この空間に連行されることはこれからも同様ということだ。
でも、俺はもう恐れない。この空間は、俺が『生きるため』に生まれたものなのだから。その想いどおり、これから『生きる』に当たって大いに利用させてもらうことにする。
『他の皆と同じようにこの世界を生きていく』とさっきは言っておきながらこの予知だけは残るようで申し訳ないが、でも、それぐらいはいいよな。
何もこの現象に全てを捧げて生きていくつもりは毛頭ない。そもそもこれは非常に不安定で俺が望んで発生できるわけでもない。これはあくまでも参考程度にするのであって、見えた未来に全て従ってこれから行動するわけではないのだから。
言ってしまえば『占い』とかと一緒だ。ああいうのは参考程度にするのが一番いい。そういうものだろ?
それに、未来もこの現象も実に曖昧なものなのだから。今見た四択以外の出来事だって起こることを、この前俺は証明して見せたのだから。選んだ未来がその通りにならないことだってあるのだ。
かつて『アイマイフューチャー』という名前を付けていたこの現象は、まさしくその通り、『曖昧な未来しか』見えないものだったのだ。
だから、俺はさらにその意味を強めるため、これからはこの現象と、それにまつわる出来事全てを『アイマイフィーバー』と名付けることにする。
未来は……この世界は、曖昧だらけだから。
曖昧とは『はっきりしない』というあまり良い意味ではないが、でもこの世界にとってはそれが当たり前。そう決められているからには、この空間だってそのルールから逸脱はできない。
かつてそれが分かっていなくて、『不幸』と『見える未来』に縛られていた俺にとっては曖昧なことはむしろありがたかった。
それにその中での参考程度の情報は教えてくれるのだから、利用する価値はある。何ならこれを人助けに使うのも一興だ。そうだな、いつか迷惑をかけた少年と舐めた真似をしてくれたあの青年にも、それぞれで意味は違うが借りを返さなければいけない。
まあどうするかはおいおい考えることにして、その上で考えた結果、俺は今見た未来のどれもが気に入らない。当たり前だ。どうやっても俺が悶え苦しんで情けなく涙を流す未来なんて受け入れられるか!
だから、静菜には悪いが、俺は俺のしたいようにする。本気で嫌がっていたなら潔く俺も諦めるが、さっきの映像を見た限りではそういうわけではないようだ。ならば……
――ズズッ……
俺の考えがまとまったところでタイミング良くこの空間が明けた。
目の前には顔を真っ赤にして慌てふためく大切な人。俺はやや吹き出しそうになりながら、静菜の肩を掴んだまま一旦停止し、少しだけ距離を空けた。
「……え?」
静菜は動きを止めた俺を訝るが、既に右手を何らかの予備動作に移行させているのは何なんだ? その振り上げた右手で何する気だったんだよ。平手打ちか、それとも俺の鼻に指でも突っ込むつもりだったか?
ふ、残念だったな。そうはさせない。
「…………嫌か?」
至近距離で見つめ合ったまま、その真意を確かめる。
静菜は火を噴かんばかりに頬を真っ赤に染め、
「いえ……あの……そのう……そういうわけでは……ないのですが……」
「ならいいだろう」
俺は再び距離を詰めるべく前進。
「――わわっ! いえあの……でもダメなんです!」
知るか。本気で嫌がってないなら俺はもう迷わない。今の俺はこうしたいんだ。好きな人とそうしたいだけなんだ。だから構わず前進だ。
「だからその……わ、わたし……は」
前進だ。もう何を言われようと怖くはない。
「な……なっとう…………を……」
ぜんし――――ピタッ!
動きを止めた。
……うん? 何だ? 何かさっき今この場に最もそぐわない単語を聞いたような……いやそんなまさか。気のせいだよな。きのせ――
「――ここに来る前についうっかり納豆を食べてしまいまして……」
「…………」
俺は追い打ちをかけられた。
「また走汰さんに会えるのが楽しみで……つい浮かれちゃって……いつもより五パック多めに食べてしまいました……あと藁納豆も一つ」
「……………………」
というか、とどめだった。
「あ、でもでも歯は磨きましたよ。いくらわたしでもデートに行く時の常識くらいは心得てますからっ! えっへん!」
いや威張られても困るからね? まずデートの前に納豆五パック以上と藁納豆を食べる常識なんて一切ないからね?
「でも、それでも……納豆の臭いが残ってないかが、心配で……歯の磨きがあまかったのも気になりますし、流石のわたしもちょっとこの状態でキスする勇気はなくて……というか走汰さんに申し訳なくて……」
言葉通り申し訳なさそうな困った表情だが、あ、そんな顔も可愛らしいもんだな~
――っていかん、混乱のあまり訳が分からなくなっている!
「――あ……でも……走汰さんが、どうしてもっていうなら……わたしは、構いませんよ?」
照れくさそうに、はにかんだ。
――おい! そこで何でオッケーするんだよ。さっきの映像では俺を思う存分色んな方法で叩きのめしたくせに! お前ファーストキスがそんなんでいいのかよ!?
「で、では……その……どうぞ……」
躊躇いがちに言い置き、こちらを見上げる体勢になり、そして目を閉じた。後は俺が前進すれば当初の目的は叶う。叶うが……
――俺はどうすれば確かにさっきは気にもならなかったけど注意して臭いでみれば一目瞭然いや一鼻瞭然だしでもせっかく静菜がその気になってくれたのにここで止めていいのかこんな雰囲気になることなんて中々ないどころかこいつそもそも色気的なことは鈍そうだし、いや、しかし、でも――
今こそ俺の脳はかつてない程にフル回転していた。
――ちなみにこの間約二秒。
――って呑気に状況説明してる場合かよ!
いい加減覚悟を決めないと、静菜がそろそろ目を開けてしまいそうだ。
――さあ、覚悟を決めろ俺! せめてキスするのかしないのか、どっちか男らしく選べ! デッドオアアライブ! いや何か違うか――ヘルオアヘブン! いやこれも何か違う気がするけども!
そして、ついに答えを出した。
もう半ばやけくそ気味だった。
一気にその距離を詰め、確実に息を止めながら、その唇にそっと触れた。
「……………っ」
「え…………?」
そして一気に離れた。全力で離れた。出来たらこのままもう二メートルぐらい離れたかったが、流石にそれは俺と一緒で覚悟を決めてくれた静菜に申し訳ない。
俺は彼女にばれないよう、背中を向けて、内心で悶え苦しんだ。
「いや~……あはは……その……しちゃいましたね~……」
「……ああ、そうだな」
背後からもの凄く照れた感じの声がするが、それどころじゃないんだよ。
「そんなに背中を震わせて……泣くほど嬉しかったんですか~? わたしも照れますからそんなに喜ばないでくださいよ~」
――違えよ! 明らかにそれとは真逆の感情だよ!
くそう、こいつホントに、どんだけ規格外な女なんだよ。
――でも……俺は新たな未来を勝ち取った。
『アイマイフィーバー』ではどうやっても静菜とキスできないどころか俺が泣いて苦しむ未来しかなかったが、この現実ではそれを覆したのだ。
――おっと、目から塩水が出てきやがるが、これは泣いてるんじゃないよ? 他の四つの未来とは絶対同じじゃないんだからな? 『塩水が出る』と『泣く』では全然意味合い違うからね? 具体的にはニュアンスが。
――というわけで……はは、どうだよ。未来なんて簡単に変えられるほど曖昧ってことがよく分かっただろ。これが確たる証拠じゃねえか。
――そして、これでもう一つ証明できただろう?
こんな曖昧な予知を持っていても、それでも思い通りになんてならないって。でも、思い通りになることもあるって。俺の願いどおり、世界を『曖昧』という意味合いで再び見れたように、な。
――だから、今ここにある現実は、アイマイフィーバーそのものだ。曖昧しかない――何が起こるか分からない世界なら、それを承知の上で生きていくしかない。
でも、思い通りになったりならなかったり、だからこそ楽しくもある世界なんだ。そういうことだ。もうそれでいいだろう。
こんなまとめ方で、どうだろうか。
――いやしかし、でもさあ……
「――あ、そうだ。今度は口移しで納豆を食べさせてあげますね~なんちゃって~」
……だからって、納豆はないだろうよ。
Fin
以下落書き三点。
後前自走汰デザイン
把持静菜デザイン
おまけ
初めましての方も、もしかすると非常にお久しぶりな方も、この作品を読んで頂き、本当にありがとうございました。改めて、裏々正と申します。
始めに少し補足致しますと、『おまけ』の父親の年齢は誤りで、正しくは40歳です。リンク先でも少し書いていますが、この作品は約3年前に投稿用に書いたもので、その当時は父親の年齢を39歳に設定していてその時にあのおまけも描いていたので、その名残のようです。失礼致しましたm(__)m
しかし、まさかこちらでは前作から5年以上も経過していようとは、ただただ驚きの一言です。
おそらく私(と前作罪避り人)を覚えている方はほぼいらっしゃらないと思いますが、またこのような形で皆様に作品を読んで頂くことができて、本当に感謝の一言です。
前作との間隔を考えると、果たしてまた皆様にお会いできるのはいつの日か分かりませんが(^_^;、何らかの形でお会いできたら、その時はまたよろしくして頂ければ幸いです。
繰り返しになりますが、このアイマイフィーバーを読んで頂き、本当にありがとうございました! また会える日まで!