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4・ボース・ラブアンドピース


 ――あれから、三日後。

 昨日までの二日間、何とか学校に行く気力は持てていた。事情を話してもなお親父に説得されたというのもあり、あいつらと別れた際の『また明日』という――俺にとっては(じゅ)(ごん)のような言葉がいつまでも耳に残っていたから、というのもある。

 案の定、奴らは心配そうに駆け寄ってきたが、先日のことは単に『体調不良』だったと説明して事なきを得た。しかし、もう一つの()()()()については説明していなかった。奴らが訊いてこなかったから。

 明らかにあいつらは俺の事情を垣間(かいま)見たはずだ。自分たちが事故に遭いかけて、それを俺にタイミング良く助けられたのだから。確かにあの場だけでいえば『あの交差点の落とし穴に気付いたから助けられた』とでも説明すればよかったのだが、俺はその後明らかに動揺し、狼狽(ろうばい)し、そして体調不良の()()まで見せてしまったのだから、違和感を持って当然だ。

 なのにそのことを俺に訊いてこないのは何故か――――…………いや、考えるだけ無駄だな。もう、あいつらとは以前のようには関わらないと決めたのだから。腹を割って話す機会もそうないだろう。唯一昼食を一緒する時だけは訊いてくる可能性もあるが、その時に上手くはぐらかせばいいだけだ。

 そう、三日前の時点では気が動転して上手く立ちふるえなかったが、以前のように関わらないといっても、決してあいつらを無視する訳じゃない。今までの俺の不幸を考えると、それが発生するのは毎回学校の登下校の時ばかりだから、学校で関わる分には問題ないのだ。

 もちろん三日前の『期間短縮』により、これまでとは何らかの性質が変わったのも確かなので学校で災難が起きる可能性も捨てきれない。だがあの二人と学校での関わりまでも避けてしまったらその理由を訊かれた時の説明ができないからだ。

まあ、本音を言うと、『未練』という理由が一番しっくり来るのが悲しいところだが……

 ……俺という奴は、あれほど酷い目に遭ったというのに、そしてあいつらを酷い目に遭わせるところだったのに、まだ懲りないらしい。まだあいつらと……一緒にいたい……らしい。本当に……弱い人間……だよな。

 それなら…………いっそのこと…………そうすれば…………迷惑はかから―――

「――走汰」

「――っ!」

 まるで俺の結論を邪魔するかのように、親父が俺の部屋に入ってきた。

 相変わらずこの家は薄暗く、窓のカーテンを開けないと俺の今の心情のようにどんよりとした暗さが満ちる。俺は敢えて自分の部屋のカーテンを開けていないので、この部屋にも陰気臭い暗さが充満している。

「ちょっと、話があるんだ。エロ本を慌てて隠してるところ悪いが、リビングに来てくれるか?」

 ……このエロ親父は……! 人が落ち込んでるときに何て誤解してやがんだ。

「分かったけど……んなもん隠してねえよ」

「分かった分かった。そんなことより、今は話が先決だ」

 ――そんなことよりって……あんたがエロ本云々言わなきゃすんなりリビングに(おもむ)いたんですけどねえ……あと『分かった』は一回にしろよ。

 が、色々疲れているので口に出して突っ込む気力さえない。大人しく言う通りにリビングに移動した。

 テーブルを挟んで対面する俺と父。テーブルには、お隣その他からお裾分けしてもらった豚肉の生姜(しょうが)()きなどがラップをかけて置いてあったが、父はそれらを台所の方まで持っていき、話をしやすいように障害物を()けた。そして再び椅子に座り直し、

「今日は学校を休むそうだな?」

「……ああ」

まずは前置き。

 ちなみに今は朝の九時前で、金曜日でもあるから本来なら学校に居る時間帯だ。昨日までの二日間、あの状態で学校に行ったものだから疲労がいつもの三倍増しになり、今日は休むことにしたのだ。

「なら丁度いい。父さんも今日は有給取ったからな。休みだ」

「そら良かったな」

 無感情に言ってやると、父はさっさと前置きを終え、早速本題に入る。

「そろそろ、お前のその考え方を叩き直してやろうと思ってな」

「……は?」

 相変わらずこの父は無駄に渋い顔でそんなことを言うもんだから、その本心なんて分かりようがない。でも、エロスについて語る時も、真面目な話をするときも、多分いつだって本気で言ってるからこそ困るのだ。特に前者。

 そんな対応に困った俺を改めて見返し、とても四十歳に見えない若々しい目が俺を射抜く。

「お前の……自分の不幸に対する間違った考え方を直そうと思ってな」

「―――は!?」

 それはつまり、いきなり俺の考え方を『否定』するってことか? 俺の今まで積み重ねてきた経験からくる、絶対的な考え方を? 俺にしか分からない……この苦しみを?

 もちろん父はそんな俺の不満などお見通しだろう。身を乗り出して口を開こうとした俺を手で制し、

「まずは父さんの考えを聞いてくれるか? 苦情や文句はその上でなら受け付ける」

「…………」

 まずてめえの考えを聞いた上で判断しろってことだな。分かったよ。

「――上等じゃねえか。証明して見せろよ。人の考え方を否定するからにはそれ相応の覚悟があるんだろうなあ? ()()()?」

「ああ、お前の言うように『否定』することは父さんも好きじゃない。だから、いつか自分で気づいてくれるのを待っていたんだが、このままではお前は学校にすら行ってくれそうにないからな。あとは最悪の事態も避けたい。だから、今までずっと言えなかった分、お前に対する覚悟なんて有り余っているぞ?」

「……!」

 不敵にも、微笑んだ。いつものふざけたようなだらしない笑い方ではない。いつか俺が憧れた、大人の余裕を感じるような、安心させるかのような力強い笑みだ。

「へ、へえ……それは以前言ってた『俺の心情次第』ってやつか?」

 俺はそれにより若干安心しつつ、それでいて気圧(けお)されながらも本題を促した。

 父は勢いよく頷く。

「そうだ。お前が(こうむ)災厄(さいやく)、災難、不幸、言い方はどれでもいいが、これらの全てはお前の心情が生み出している。不幸な出来事も、それに対抗するかのように得た『アイマイフューチャー』とやらも、さらにはそれらを生み出す間隔の『不幸期間』もな」

「そうかよ。それで? 何を根拠に?」

 分かってはいたが、改めてそう言われると非常に不愉快になる。

「以前に父さんが取っていたデータのことをお前に話したな? お前が不安になると、不幸期間は短くなったと。そしてお前が次に起こる災難を予告したらその通りになったと」

「ああ、そうだな。でもさ、前にも言ったけど『不幸が起こらないで欲しい』って願ったその日に不幸が起こったこともあるんだぜ? その矛盾(むじゅん)はどうなるんだよ?」

「それは多分、お前が本心で思っていなかったからだ」

 父の考えに対する俺の最大の疑問は、あっさりと即答されてしまった。理解不能だが。

「――はあ? それはつまり……俺が嘘ついてたってのか!?」

「嘘……とは言えんがな。ただ無意識の内にそれを否定していたのではないか? 『不幸が起こらないで欲しい』と願ったのは事実なんだろうが、恐らくその後で『どうせ無理なんだろうけどな』と、どこか諦め半分で思っていたのだろう。違うか?」

「…………っ」

 言い返せなかった。自分ではそんなつもりはなかったが、言い返せないということは的を射ていたということなんだろうか。

「これも父さんの推測の域を出ないんだが、お前は、その……破滅(はめつ)願望(がんぼう)を持っていたりしないか?」

 流石(さすが)の父も後半の台詞は言いにくそうにしていたが、俺はそれどころじゃなかった。

「は……? なに……言ってんの?」

 一笑(いっしょう)()してあっさり否定するところなのに、どうしてか、できなかった。

「あるいは『自殺願望』か。()()()()()あの不幸が起こるんだ。正確に言うなら、お前が自分で呼びよせているんだ」

「なに……言ってんだよ」

 俺はまだ、それを肯定してないだろ? なのに何勝手に話進めてんだよ。

「お前の心の奥底かどこかは知らないが、その想いが根強く残っているんだ。希望を持っても、その根が深い負の感情が邪魔をするようになっていたんだろう。しかも厄介なのはお前がそれに自分で気づいていないことだ。だから、無意識に自分が持っている自殺願望に気付かないまま希望を持ったとしても、例えそれが本心でも最後の意思決定は恐らくその負の感情に(ゆだ)ねられるのだから、叶うはずがない。その願望は、お前の中で言うといわゆる『核』みたいなものか」

 ……おい、さっきからごちゃごちゃ何を言ってんだよ。止めろよ。俺が認めてないことを勝手に進めるなよ。訳分かんねえよ。あとあんた話長えんだよ。田口の倍ぐらいじゃねえか。

「どうしてそんな願望を持ったかは父さんにも分からない。そして、だからといって不幸を呼びよせたり『予知』のような力を持つなんていう超自然的なモノの正体なんて分かるはずもない。しかし、その原因は……もしかしたら……お前が生まれた時の――」

「――うるせえ! さっきから黙って聞いてりゃ好き勝手言いやがって! 俺が肯定してもいないことをさも事実のようにベラベラ喋ってんじゃねえよ!」

 ついに我慢の限界が来て激昂(げっこう)するが、父は平然とそれを受け止め、逆に告げた。

「なら何故否定しない? 確かに父さんの言うことは全てが推測だ。不幸期間のデータもあるとはいえ、それだけでは根拠にもなりはしない。しかし、だったら何故お前は『父さんの妄言だ』とでも言って失笑することさえしないのだ? ……お前は肯定していないが、否定もしていないということを忘れるな」

「――――う……ぐ……っ」

 認めたくなかった。それを認めてしまったら、俺が今まで積み上げてきたこの不幸に対する考え方が跡形もなく崩れさってしまう。なのに……否定もできなかった。

「走汰。お前の気持ちも()んで、前に似たようなことを言った時は引き下がったがな。生憎今日はそのつもりはない。例え強引でも、お前のその考え方を改めてもらう。確かに父さんの考えも正しいとは言わん。しかし、お前の考え方を貫き続けは不幸になる。現に、さっきお前の部屋で父さんに話しかけられるまで、お前は何を思っていた?」

「―――――っ!」

 そうだ。確かに思ったよ。『あいつらに迷惑をかけるかもしれないのなら、いっそ―――俺なんていなくなってしまえば』って。

「何度も言うが、父さんの話は全て推測だ。でも……そうとしか思えないのだ。お前ほどではないかもしれんが、父さんだって今までずっと考えてきたんだ。お前が自分の考えを変えられないように、父さんの長年の研究から来るこの考えも変えられるものではないんだ」

 ……分かってるよ。多分、あんたの言うことは正しいんだろうよ。()()()。俺と一緒で、俺が小さいころからこの不幸体質についてずっと考えてくれてたんだもんな。俺が不幸にならないように、関連の情報をチェックして分析して、その解決策をずっと模索してようやくさっき言ってくれた結論に辿り着いたんだろう?

「でも……」

 ついさっきあんた言ったよな? 〝お前が自分の考えを変えられないように父さんのこの考えも変えられるものではない〟ってさ。

 その通りなんだよ。俺のこの考えも変えられないんだよ。今まで自分が積み重ねてきた唯一の頼りだったこのすがるべき考え方をさ、『その考え方は間違いです』と言われて『はいそうですか』と頷ける訳がないだろう? 静菜の奴に『納豆を嫌いになれ』と言ってるようなもんなんだよ。

 その想いを察したのか、父は珍しく俯きがちに目を伏せながら、

「分かっている。だから、これからはそれを自分で証明するんだ」

「――え……」

 思いがけない言葉に俺は目を見張る。

「もう一つ、お前が得たモノがあるだろう。『アイマイフューチャー』だったな。これについても説明するつもりだったが……これは()()()に任せた方がよさそうだ」

 苦笑しながら言った。

「『不幸期間』についても、恐らく自分で気づけるだろうしな。というわけで、これから外に出て……そうだな、公園にでも行ってみろ。そうすれば、何かを変えられるかもしれんぞ?」

「――何を……」

「いいから行きなさい。そして、今の父さんの話をよく覚えておけ。その上で何かを見たとしても、恐れるな」

「――何か……ってのは、アイマイフューチャーのことか……?」

「あれも一種の防衛本能なんだろうが、落とし穴がある。お前が見たというあの四択に惑わされるな。見えるからこそ、『その選択肢しかない』とお前が自分で思ってしまっているだけなんだ。あの四択が気に入らないなら、お前がそれを変えて見せればいいだけだ」

 ――また、俺の考えを否定しやがった。だからそれを実践してなお未来が変わらなかったから今のこの考え方になったというのに……

……いや、あるいはこれも一緒なのか。俺が、『諦め』の気持ちを持っていたから。『この四つの選択肢以外の未来なんてあるはずがない』と、心の奥底で思っていたから……なのか。

 ……そうか。そうだな。つまり反論するのは、それをやってみてからでも、遅くはないってことか。

かつては『死』が付きまとうが故に実践することが怖く、実践しても未来が変わらなかったために敬遠していたが、今は違う。父さんの死に物狂いで考えた結論を思えば、それぐらいのことはやってみる価値はある。俺も父さんも、お互いの考えは変えられないが、今の所それが唯一の歩み寄る妥協点(だきょうてん)だ。

「公園って……いつも俺たちが水を汲みに行ってるところだよな。そこに行けばいいんだな?」

 そう、何ともおかしな話だが、この家の水は、トイレや風呂の水などを除けば、公園の水飲み場から(まかな)っているのだ。

「そうだ。そうすれば……答えが見つかるかもしれん」

「――分かった。行ってくるよ」

「ああ。困った時は我ら『後前自』の姓の意味を考えればいい。そして、お前の名前は『走汰』だ。もう意味は分かるな?」

 ……そうだな。言われて今初めて気づいたよ。『()ろか()か、決めるのは……――』と、そういうことだな。そして俺の名前は……

 ……まだ結論は出ていない。けど……一応言っといてやるよ。

「ありがとう。父さん」

「はは、さっきから呼び方が『父さん』に変わっていたな」

「――あれ……そうだっけ?」

「ああ、一人称を『父さん』にした甲斐があった。お前は特定の感情の時だけ私をそう呼ぶからな」

 ……そうなのか。何というか、本当に親というのは良く見ているのだなと痛感した。

「そして、お前の名前に意味があるように、父さんの名前にも意味がある。父さんの名前の『順也』の『順』は、『じゅん主役』の順でもある。だから、今回の主役であるお前をサポートするのが役目だ。親というのは、そういうものなんだ。よく覚えておけ」

 ……本当に、ホントウニ……この人は……っ!

「………………全く、字が違うって…………言ってんだろ?」

 ……でも、ありがとう。()主役。

 俺は父さんに背を向け、そして公園に向かうために走り出す。


 ――家を出る直前、最後に背後から聞こえた言葉に引き返してぶん殴ってやりたくなったが、かろうじて(こら)えた。

「――しかしなあ……お前の好みのタイプがロリだということに父さんはガッカリだ」


   *


 ――家からほんの少し歩けば着くその小さな公園には、遊具と呼べるものがほとんどなかった。

 いつも俺たちが汲んでいる水飲み場の蛇口と、ブランコとすべり台、そしてその対面にポツンとあるベンチ、それだけだった。

 そして、そのベンチに寂しそうに座っている小さな人影があった。

 俺はその前に立ち、未だに俺に気付かないそいつに声をかける。

「――隣、いいか?」

「――えっ……ほわっ! 走汰さん!」

 俺を見るなり飛び上がった。相変わらず特徴的な淡い茶髪頭のアンテナが……なんというか、ギザギザの『V』の字になった。

 俺はもう一度繰り返す。

「隣……いいかな」

「――は、はいっ! ど、どうみょっ!」

 ……噛んだのは突っ込まない。ていうかお前噛み方が段々酷くなってねえ?

 気にせず俺はそいつ、静菜の隣に腰を下ろす。少し狭いベンチなので、お互いの肩が触れ合う距離である。

「――お前……学校はどうした?」

 静菜はいつもの学校指定のグレーのセーターという格好だった。寒いのか、その肩は震えていた。

「あ……あはは……最初は行ったんですけど、その……走汰さんがいらっしゃらなかったもので……早退しました」

「は? 俺がいないくらいでお前は早退すんの?」

 驚いたように問い返すと、静菜は再び俯き、

「その……絶対何かあったんだと……思って。ついにわたしと田口君を避けたのかと……また三日前みたいな悲しそうな顔をされているんだと……思いまして」

 ……なるほど、当たらずとも遠からずだな。

「心配してくれてたってか? じゃあ、何で(うち)に来ないでこんなところに居るんだ?」

「あ……それはそのう……お義父(とう)(さま)……いえお父様に……連絡を頂きまして……」

 ――は……? 今なんつったこいつ。ていうかお前今何を誤変換(ごへんかん)した!?

「えっと、まさかとは思うが、それは俺の親父のことか?」

「はい。そうです……」

 ――やっぱりかよ! ていうかいつの間に連絡取ってたんだよ! あとお前のその『お父様』って呼び方はなんなの? うちに嫁にでも来るつもりか!?

 だが突っ込まない。生憎だったな。今の俺はそう簡単には突っ込まないんだ。これでもまだ落ち込んでいる状態には違いないんだから。

 俺は自分が着ていた黒のダウンを寒そうにしている静菜の背中にあてて着せてやった。

「はわわ! ……あ、ありがとうございます」

 ん、何だ? 何をそっぽ向いてんだこいつ? まあいい。話を続けよう。

「俺が今日学校休んだ理由と……三日前の……ことなんだけど……」

 改めて説明するとなると難しい。でも、ここまで来たからにはこいつにも説明しようと思う。考えてみれば今まで疎遠になった友達にだって、これを打ち明けなかったから――つまり俺が勝手に本心を伝えられないと思い込んで壁を作っていたのも原因だったように思う。

 こいつとはもう深入りしないと決めたばっかりだが、今こそさっきの親父……父さんの考えを信じようと思う。

 後のことはもう知ったことじゃない。なるようにしかならない。例えこいつがその理由を聞いて信じてもらえなくても、そして気味悪がって俺から離れてしまっても、その時はその時でプラスに考えよう。どっちにしろ事情を話した上で俺から離れるよう指示するつもりなんだし、『これで本当の意味で巻き込まなくて済む』とか、そう思えばいいんだ。それだけだ。今までの俺はこういうプラス思考が出来てなかったんだ。

 俺が覚悟を決めて説明しようとすると、

「――ええ……もう聞きました」

 ――えええええええ!? 俺の一生分の決意があっさりと!?

「お父様から……聞きました」

 やっぱりか。本当、お前らいつの間に知り合ったんだか。ていうか『お父様』という呼び方といい、どんな会話を繰り広げていたのか大いに気になるが、今は()こう。

「それで……どう思った? 『信じられない』か? それとも『こんな妄言(もうげん)を吐く奴なんて気持ち悪い』とかか?」

「――そんなことないですっ!」

 敢えて自分を卑下するような例えを出すと、物凄い剣幕で否定した。

「――とても……悲しくなりました。そして、それを知らずにわたしの都合を……『走汰さんとデパートに行きたい』という想いを押し付けて……泣きそうになりました」

 ……まあ、そんな予想はあったよ。お前なら簡単に信じてくれそうってな。そこからさらに自己嫌悪にまで至るとは計算外だったが、でも、だからこそ巻き込みたくないとも思ったんだ。

「だったら、話が早い。もう分かるな? 俺と一緒に居たらまたあの三日前みたいなことが起こるかもしれない。俺は、お前と田口を……絶対にあんなことには巻き込みたくないんだ。だから……」

「――いやです!」

 俺の言うことを察したのだろう。俺の言葉を(さえぎ)りながら拒否された。

「いや、でも――」

「いやです!」

「いや、だか――」

「いやです!」

「……」

「……」

「納豆は?」

「大好きですっ!」

 ――くそう引っ掛からなかったか!

 何てバカやってる場合じゃない。相変わらず、こいつと居るといつも調子が狂う。

ならば、切り口を変えてみよう。

「……そうだ。お前にずっと言ってなかったんだけど、俺って実は納豆大嫌いなんだ。『隠れ納豆大好き少年』っていうのは嘘なんだ。お前が勧めてくれたとき、本当はあの発泡スチロールのパックを叩き落としたかったんだ」

「……そうです……か」

 あ、泣きそうになってる。涙を溜めて、肩を震わせている。

 全く、こいつはすぐにその武器を使うからずるいよ。でも、これでこいつに嫌われるなら……それでいいんだ。

 俺は心を痛めながらも、追い打ちをかけた。

「ちなみにあの時な、俺、お前から納豆受け取っただろ? 『後で必ず食べるよ』って言ったくせに、結局食べられなかったんだ。あの時は頑張って食えると思ってたんだけど、再び厳重に封印してあった(ふた)を開けた途端に食う気をなくしてさ。やっぱあの臭いはないな。結局田口に全部食ってもらったんだ。最低だよな、俺。『必ず食べる』って言ったのにな。お前、嘘つく奴は嫌いだろ?」

 これで、終わった。大好きな納豆をここまで否定されたんだ。もう俺のことなんて……

「ええ。知ってました」

「――――はっ?」

予想外の、台詞。

「本当、()()()()()()()でした、その優しい嘘」

 肩を震わせながら俯いていたその頭が再び上がり、こちらを向く。

 その目には確かにうっすらと(しずく)がこぼれ落ちていたが、笑っていた。その真意は分からないが、単に悲しくて泣いていたわけではないようだ。

「走汰さん。少々お聞きしたいんですが、今から約八年前に起こった事故をご存じですか? 〝ある少女が交差点に足を踏み出して車に轢かれるところだったのを、ある少年に助けてもらって無事生還した〟という内容なんですが……」

「……ああ、知ってるよ。正直、思い出したくない出来事として無意識に忘れていたらしいが、思い出したからな。具体的には三日前に」

 あの歩道側の信号と横断歩道がない交差点。俺は三日前の他にも、その約八年前にも事故に遭っていた。



――父さんに買い物を頼まれて、三日前にも訪れたあのコンビニで――よりによって納豆を買うよう指示され、渋々従ってコンビニから出た時だ。

 当時の俺の目の前を横切る、非常に小さな物体に出くわした。いやこんな言い方は失礼か。非常に小さな女の子がいた。

おぼつかない足取りで、まるで酔っ払いのように不安定な歩き方でその目は虚ろ。そんな様子に当時の俺はまさかと思いながらも不安になりながらその動きを追っていると、()()()()()だった。

 少女は、ふらふらと目の前の交差点を渡ろうとしていた。そこは、歩行者が渡れるようには出来ていないのに、だ。

人にもよるのだろうが、歩行者を気にしなくていい交差点というのは車を積極的にさせるものだ。そんな危険極まりない交差点を渡ろうとすれば、スピード違反車の速度に衝突されるのは必至(ひっし)だった。

 だから、つい魔が差したのだ。その当時から不幸を被る毎日だった俺にしてはあり得ない行動だったが、体が勝手に動いた。きっと、多分そうだ。この時の俺にも他に意味なんてない。

 でも、首尾よく少女を安全地帯にまでぶん投げたものの、おかげでその時の俺は交差点の真ん中に取り残される形となってしまい、当然、はね飛ばされた。

 重傷とはいえ、奇跡的にも命に別条はない程の怪我だったが、少女は自分を責め続け、俺の傍らで延々と泣き続けていた。そして――これが一番思い出したくなかったことだが、何故か当時の俺は購入したばかりの納豆を差し出していた。

すると、途端に泣き止んでくれた。それどころか初めて当時の俺の前で笑顔を見せてくれた。

 まあ、確かに笑いたくなるのは無理もなかったかもしれない。一刻を争う事態の中、まさか瀕死の重傷の俺(と思っていただろう)から納豆を差し出されるなんて思っていなかっただろうから。

 しかしおかげ様で当時の俺は後からこの行動を死ぬほど後悔するに至り、『納豆に関わるとろくなことがない』という強迫観念を植え付けられる次第となった。

何故かこの最悪な思い出は無意識の内に忘れていたが、納豆に関する苦い経験だけは覚えていた。

 それからはしばし入院生活を送ることになる。が、繰り返すが命に別状はないほどだったので、骨折部分にギプスを装着した状態ではあるものの、思ったよりスムーズに退院することは出来た。

 確か、あれはその入院生活の二日目ぐらいだったと思うが、あの少女が一度だけ見舞いに来てくれた。

 二人部屋の病室にて、同室の同い年の男子がどこかへ出かけている間、話し相手がいなくて退屈していた時だ。不安そうな顔をした小さな女の子がおずおずと引き戸を開けて、訪ねて来てくれた。

何故かその後ろには同じぐらいの背丈をした、小さな女の子がもう一人居た。「ほら頑張って」と言って少女の背中を押していたところを見ると、付き添いのようだった。ひょっとしたら姉妹……なのだろうか。どちらが妹なのかは判断がつかないが。

 しかし、その時の俺は見舞いに来てくれた少女の顔の方に釘づけだったため、付き添いの女の子の顔はよく覚えていなかった。

正直安心したから。当時の俺と違って彼女はほぼ無傷だったらしい。だからその意味でも顔が(ほころ)び、安心させるように笑ってこちらに手招きした。

 少女は付き添いの女の子を入口付近に残し、その時の俺の前におっかなびっくり進んで立ち止まり、

「――ご、ごめんなさい……わたし……は……」

 恐らく自分の何らかの事情を言おうとしたのだろう。何故あの交差点を渡ろうとしたのか、歩道橋などの存在に気付かなかっただけなのか、それともあれは自殺未遂だったのか――でも、途中から嗚咽交じりの声になり、上手く言葉にならない。

 そんな彼女に、当時の俺は一つだけ訊いた。

「あれは、自殺しようとしてたのか?」

「~~~~~~~~っ!」

 ブンブンブン! と、物凄い勢いで首を横に振った。我ながら直球で訊きすぎたかと当時の俺は反省したが、同時に安心した。

「そっか、ならいいんだ。言いにくいことなんだろうし、事情は聞かないよ。君が生きていてくれるなら、それで十分だから」

 ……今こうして思い返していると、とんでもなくキザッたらしい台詞を当時の俺は吐いていたんだと思って悶え苦しんだ。でも、この時の俺は自身の羞恥(しゅうち)(しん)よりも、彼女を安心させることが優先だったから。……どうやらそうらしいから。

「―――ででで、でも……わたしのせいで……こんなにひどいケガを」

 それでもうろたえ続ける少女に、当時の俺はなお言い重ねる。

「――大丈夫だから。もう少しで退院もできる。だから、これ以上自分を責めるな」

「――でもっ……! もしそれでどこか悪くなったら……退院しても、他に悪いところとかできちゃったら……」

 ああ、今なら分かる。多分この娘は不安で一杯だったんだ。『大丈夫』と言っても、物事をどうやっても悪い方向へと考えてしまうから。()()()と同じだったんだ。だからそんな精神状態の彼女を安心させるのは難しい。

 でも、多分当時の俺は何も考えていなかった。精神状態がどうとかそんなことは何も関係なかったのだ。どうして()()()の口からこんな台詞が出てくるのか、今の俺は理解に苦しんだが、

「――約束するから。俺、絶対に死なないし、どこも悪くしないから。君のせいじゃないってことを、それで証明するから」

 恐らく、その時の俺は本心から言っていたのだろう。ホント、吐きそうになるくらい恥ずかしい。誰だお前? 大体『絶対死なない』って、八十年後にも同じセリフが言えんのかよ? いつまでそれが有効なのかを決めとけよな。

「……ほんと?」

しかし、この時の少女にそんな突っ込みは無意味だったのだろう。涙に濡れる大きな瞳でこちらを見返す。

「ああ」

「ほんとにほんと?」

「何度も言わせんな。ほんとにほんとだ」

 彼女の小さな手を無事だった左手で握り、

「だから、君も約束しろよ。これから何か辛いことがあったとしても、もうあんなことはしないって。辛いことにも負けないで、例えアレが自殺のつもりじゃなかったとしても、これからはあんなことにならないように気を付けるって」

「……でも、わたしは――」

「なら納豆を食べた時を思い出せ。何か楽しい事を思い浮かべるんだ。そしたら、辛いことなんて吹き飛ばせる!」

「――あ、うんっ! それは思う! あれ、さいこうにおいしかった!」

 ――何かテンションがさっきまでとは違い過ぎだし。ていうかキャラまで変わってないか?

 しかし、これで『しめた』とでも思ったのか、当時の俺は納豆の魅力について語った。

「――本当の納豆のおいしさはあんなもんじゃないぞ。君はパックに入ってるのをそのまま食べたけど、あれをさらに混ぜるとその三倍はおいしくなるんだ。しかもパックに付いてるタレを入れて食べるのも最高においしいんだ!」

「――ほんとう!? た、たべたい。もっとあれたべたい!」

 目をキラキラと輝かせて、再びあの満面の笑みを見せてくれた。

 ちなみにこの当時から俺は納豆が大嫌いだったので、多分これは父さんから聞いていたことを適当に並べただけだ。でも、その効果はてき面だったようだ。

「じゃあ、俺が退院したら、納豆をプレゼントするよ。だから、さっきのこと、約束できるか?」

「――――うんっ! ナットウと、おにいちゃんがいればがんばれる!」

 ――おい、納豆だけにしろよ。後半の部分は削除しろよ。それは暗に俺と一緒に納豆を食いたいと言ってるようにも聞こえるぞ?

 今の俺はそう突っ込みたかったが、ここで突っ込むと少女の『がんばる』という決意に水を差すことになると踏んだのだろう。それに、名前や住所を告げなければもう二度と会うことはない。だから、当時の俺は力強く頷き、彼女に『がんばる』ことを最後に確約させた。

「じゃあ、約束だ」

「うんっ! やくそく~」

 右手は骨折していたので、お互いの左手の小指を絡ませた。

 そして、これが我が生涯で最大の、今のところ最も死にたくなる台詞ナンバーワンを、当時の俺は口にした。

「君は、もっと笑ったほうがいいよ。あの納豆を食べてる時の君は……(内心引いたけど)最高に可愛かったから。だから、君はもっと笑えよ。笑顔は人を幸せにするから。俺も、その笑顔で……今幸せになれたから」

 ……せめて、あの『()』の中身を口にしとけよな。当時の俺よ。

 ホント、この時の俺を殺したくなるのは致仕方ないんじゃなかろうか。

「…………」

 すると、彼女は頬を朱に染めながら、もじもじと体を捻りながら、何を思ってこんなことを言い出したのか未だに謎なのだが、

「じゃ、じゃあ……もしわたしががんばれたら……その上でまた会えたら……け、けっこんしてくれますか?」

 ――ごめん無理!

「ああ。君が頑張って、その元気な姿をまた俺に見せてくれたら、な」

 ――――おい! 何俺の意志を無視してほざいてんだよ当時の俺! こんな約束絶対無効だかんな!

 ……ちなみに付き添ってきた女の子が入口付近で笑いをこらえていたのだけは視界の端に捉えていた。

 すると、少女はようやく安心してくれたのか、どういうわけか抱きついてきた。

「やくそくっ!」

 それに対して当時の俺が頷くのを確認した後、この病室に入ってきた時とは打って変わってとびきりの笑顔を最後に見せて、何度も手を振りながら彼女は病室を出て行った。

 付き添いの女の子も、何か含みのある大人びた笑顔を俺に向けた後、一礼して出て行った。

 ……妙な誤解をされたと分かったのは、多分今の俺だけだ。

 しかし、あの大人びた笑みや一礼する動作など、礼儀正しさでは彼女が勝っていた。ひょっとしたら付き添いの女の子の方が姉なのかもしれない。


 ――でも、それ以降、あの見舞いにきた少女に会うことはなかった。

 先方と何度かやり取りしていた父さんに聞いたら、『引っ越した』という事実を聞いた。きっとあの娘がどこか落ち込んだ様子だったのはそれが関係していたのだろう。

 意外にもちょっぴりショックを受けたが、それ以上にあの結婚の約束のこともあったので、正直ほっとしたのも事実だった。

 しかし、もう一つの『絶対に死なない』という約束だけはいつまでも俺の胸に残っていた。

 いつかあの娘と再会した時、彼女が頑張っている姿を俺に見せると同時に、俺もまた彼女に元気な姿を見せてやりたかったから。『お前のせいじゃない』と、その時に胸を張って言ってやりたかったから。

 ……そうだ、どうして忘れていたんだろう。俺が今こんなにも『生きる』ことに執着(しゅうちゃく)し出したのは、あの事故があったからなんだ。あいつに、俺の無病(むびょう)息災(そくさい)な姿を見せたかったからなんだ。俺が生にしがみつく理由なんて、こんなにも簡単なことだった。

 父さんが俺の不幸の原因をある程度解説してくれた今なら分かる。俺が名付けた『アイマイフューチャー』は、この時に身に着いたのだ。現にこの曖昧な予知が、病院から退院してすぐに起こったことからも明白だ。

 俺が『死なない』ために、俺自身が無意識に作り出した一種の防衛本能から来る防衛機構。それがアイマイフューチャーだった。

 ただし、俺のもう一つの『自殺願望』も心の奥底に(ひそ)み続けていたため、今まで通り『不幸期間』を経て不幸は起こる。そこから『死にたくない』という想いから生まれたアイマイフューチャーでそれらを防ぐ。

 俺の不幸とアイマイフューチャーのからくりは、『死にたがり』と『生きたがり』の相反する想いを無意識に持ち続けていたため、その両者の想いから生まれ来る現象が同時に発生したという、実に単純なものだったのだ。

 そして、最後に『不幸期間』。父さんの言う通り、一連の事象の全てが俺の心情から生まれ出たものとするなら、これも簡単だ。

 これは、俺が『不幸』と付き合っていくにあたって自分が無意識の内に設定した、都合の良い期間だった。

例えば毎日が不幸や災難の連続ならとても俺の身がもたない。かといって何ヶ月も不幸の音沙汰がない状態は俺の無意識下にある『死にたがり』が許さない。その葛藤の末に生まれた、俺が決めた期間。ただそれだけだ。

 故に、俺が不安になればその期間も不安定になる。一週間という安定した期間が崩れ出したのは、あの時に俺がこう思ったからだ。『田口と静菜に迷惑をかけるぐらいなら、いっそ自分がいなくなればいい』と。その負の感情が、想いが、その日の内に不幸を呼び寄せる結果となってしまったのだ。

 ――何だよ。俺の人生で一番俺を困らせていた――まさに死活問題的なこの現象は、全部が俺の心から生まれたんじゃねえか。全部、父さんが言ったとおりだったんじゃねえか。

 そんな簡単なことにも気がつかないで――今までの十数年間……本当に、何をしていたんだろう。

 ……でも、まだだ。落ち込むのはまだ早いんだ。気づいたなら、後はそれを実践すればいいだけだ。いつかあの少女に言ったじゃないか。〝これからはあんなことにならないように気をつけろ〟って。俺もそれに(なら)えばいいだけだ。


 ――だから……もう少しだけ……待っててくれるか。すぐに、約束は果たすから。



 ――静菜に『過去に起きた事故』の事を訊かれ、それに答えながらも回想していくにあたり、俺は真実に辿りついてしまった。

 そんな俺の晴れやかな様子に静菜は軽く吹き出しそうになりながら、でも再び真面目な顔になりながら、

「――自殺したかったわけじゃ、ないんです」

 ()()()()なのか、それを吐露した。

「ただ、ちょっとパパとママを困らせたかっただけなんです……」

 自嘲(じちょう)するように笑い、

()()()の理由なんて、走汰さんの不幸に関すること以上に単純なんですよ。両親が離婚することになったから、どうしてそうなるのかが子ども心には理解できなくて……どうしてパパとママと両方と一緒に居られないのかって。どうしてパパについていくかママについていくかを選ばなければならないのか理解できなくて……だから、()()()()()

 まるで誰かの気持ちを代弁(だいべん)するかのようだった。

「だから、家出したそうです。でも、一人で歩いていると心細くなって、次第に道も分からなくなって、迷っちゃって……きっと心身共に疲れ果てていたんでしょうね。だから、交差点がああなっているとは、気づかなかったんです。と、()()()()()()()()()

「おい、さっきから聞いてりゃ、それは一体誰のことなんだよ?」

 静菜の、まるでその『誰か』の想いを代わりに言っているかのような口ぶりに困惑していた。

 俺はてっきり……お前が――…………

 すると静菜は悪戯(いたずら)っ子のように二ヤリと笑い、

「では、問題です。わたしは一体誰なのでしょう? 三択でお答えください~」

 質問を質問で返すなよな。ていうか、もう分かってんだよ。多分、そうなんだよな?

「1.『過去に走汰さんに助けてもらった女の子』 2.『1の女の子の姉妹』 3.『1の女の子の多重人格障害の別人格』 さあ、果たしてどれでしょうか~?」

「1だ」

即答した。

「……どうして、そう思うんですか?」

「どうしてって……」

 ……考えるまでも、ねえだろうが。

「だって、わたしには妹のような存在が居るって、いつか言いかけましたよね?」

 ……ああ、あの自己紹介の時だな。それに田口も似たようなこと言ってたし、訊かなかったけど、気にはなっていたからよく覚えてるよ。

「それに、さっきまでの走汰さんの回想にも、もう一人女の子が出てきた筈です」

 ……ああ、あの一緒に見舞いに来てくれた付き添いの女の子な。当時は全く気にしなかったけど、回想の際はちょっと気になったよ。

「……あの付き添いの女の子こそが、わたしだとは思わなかったんですか?」

「思わなかった」

 またしても即答。

「……どうして、ですか?」

「どうやってもイメージが違い過ぎるから」

 お前のような天真爛漫(てんしんらんまん)で間の抜けた奴が、あの大人びた笑顔を向ける女の子と同一人物なんてとてもじゃないが思えないんだよ。あんな礼儀正しい女の子が、人に納豆を全力で勧める常識知らずな奴に変貌するなんてどうやってもあり得ない。というかあり得てほしくない。

「え……なにか微妙に引っ掛かる物言いですね」

 さっきまでの俺の考えは口に出していないはずだが、何故か静菜は言葉通り微妙な表情で首を傾けた。

俺はそれには気にせず、続けた。

「それにさ、お前、嘘が下手だから」

 いつも躊躇いがちな口調になるのは勿論だが、嘘の精度も低すぎる。

『妹のような存在』のことを言ってるくせに、自分のことのように語り過ぎたりとかな。

 それを告げると、静菜は照れくさそうに頭を撫でながら、

「あはは……わたし、良くも良くも嘘つくのって苦手でして」

 ……『悪くも悪くも』の間違いじゃねえの? あと誉めてないからね? そんな『誉められ過ぎて対応に困る』ような仕草をする理由はこれっぽっちもないからね?

「……さっきの問題の解答を1とした理由は、それだけですか?」

 再び神妙な顔をして問いかける静菜。俺はこれにも迷わず答えた。

「いや、他にもある」

まずもう一つの『多重人格障害』って可能性だが、これはそう簡単に見られる症例じゃないし、それに何よりも……

「――俺の記憶力を舐めるなよ」

 もはや()()()()()()の顔を思い出したんだから、間違えるわけないだろう? つまりはそういうことだ。

「――はは……やっぱり、ばれてましたか」

 あの時俺が助けた少女イコール静菜は残念そうに、でも本心では嬉しそうに呟いた。

「走汰さんに完璧に気づかれるまでは、その……話しにくいこともあったので隠し通すつもりだったんですが、こうして思い出してくれたんですし結果オーライですね」

 ……全く、どんだけひねくれてるんだか。さっさと認めろよな。おかげで要らぬ混乱を招いたじゃねえか。

「俺のことは……いつから気づいてたんだ?」

 まずは素朴な疑問。

「えっと、今の学校に入学して……三ヶ月くらいでしょうか。つまり今年の夏にはもう気づいてました」

「なら、何でそれを言わなかったんだ?」

「確信を持つまでには至ってなかったものですから……でも、最近ようやく気づきました。走汰さんが今わたしを思い出したように、わたしの記憶力は走汰さん以上ですから」

 「えっへん」と、こんな時まで子供みたいに胸を張った。あまり無いけど。

「……話の腰を折らないでくださいますか」

「お、折ってねえよ……」

 何で俺の視線だけで考えが分かんの!?

「ともかく、わたしはそれによって走汰さんのことに気付けたんですけど、走汰さんはわたしを覚えていらっしゃらなかったようなので、そのまま『第二の出会い』として普通に友達になれればいいなって思ったんです。その時に、田口君を少々利用する形になってしまいましたけど――あ、田口君自身と仲良くなりたかったのも本心ですよ?」

 言われなくても分かってるよそんなこと。俺だけでなく、田口ともあんなに仲良さそうだったもんな。でもなあ……

「だからって、何で最初にあいつを通して納豆を勧めてくるんだよ」

 よりによって、俺が大嫌いなものでアピールしてくるとか第一印象は最悪だろう。

「ああ、それは確かにわたしのミスでした。最初は、走汰さんは本当に『納豆が好きで好きで仕方ない』人なのかと思ってましたから」

「……おい、何でそんな最低最悪な誤解をしたのか俺に言ってみ? ああきっと怒らないから……」

 俺の静かな剣幕にビビったのか、「あはは……」とやや引きつった笑みを見せたが、やがて少々唇を尖らせながら答えてくれた。

「だって……わたしを助けてくれた時、あんな訳わかんない状況であんな訳わかんない物をわたしに差し出したんですから、きっとそのご本人さんも相当訳わかんない人だと確信してたんですよ。だから納豆は絶対好きだと思ったんですけど……」

 ――訳わかんないとか連呼するな! そしてお前にだけは言われたくないんだけど!?

「ぐ……」

 しかし、怒れなかった。それは大いに俺が原因だった。

何だよ。こいつの大の納豆好きは俺が全ての元凶だった訳かよ。そらどうしようもねえよ。自分自身を責めるしかねえよ。

 でも……それが静菜の支えになっていたというのなら、大嫌いな納豆でも感謝しなくもない。

「正直、今の走汰さんと話してるうちに、『思い出してもらわなくてもいいや』って、つまりどっちでも良くなってきたんです。だって、昔のことなんか関係なしに、一緒にいて本当に楽しかったから。でも……走汰さんに、あの時のお礼も言いたかったので……()()()は差し上げたんです。それによってあなたが気づいてくれるなら、わたしも事情を話そうと、決めてたので。あの『約束』のこともありましたし……」

 ……また厄介な決心をしてくれていてありがとう。

「そのヒントというのが、『あなたを以前から知っている』という情報です。あの事故のことを覚えているのなら、何かを思い出してもらえると思ったから」

 ……あくまでヒント『だけ』なわけね。全く……ん? でもまてよ……

「じゃあ、何で『妹のような存在がいる』なんて嘘言ったんだ?」

 静菜は少しだけ嫌な感じに口元を吊り上げた。

「あれは、まさしくわたしに見立てた人物ですから。ほら、自分のことなのに『友達の話なんだけど聞いてくれる?』と言ってごまかしながら話すことってありますよね? それの妹バージョンだと思ってくれればいいです。だから、これも一応ヒントですよ。走汰さん以外の方にもこの話をして人づてに伝わるようにもしてましたし。まあ、これは逆に混乱させて真相に辿りつかないようにするのも目的でしたが」

「……お前、俺に思い出してほしかったのかほしくなかったのかどっちだよ?」

「言ったでしょう? 『どっちでもよかった』んですよ」

 そう言って、クスクスと口元を隠しながら笑った。

 ……こいつ、どうやら嘘が下手ってわけじゃなかったらしい。ただ、俺と話す時の『本番』でボロが出やすいってだけか。

「あ、ちなみに走汰さんのお見舞いに行った時の付き添いの女の子は、当時のわたしの唯一の友達です。背が小さいことが共通してるから、よく姉妹に間違われたものです」

 なるほど、『俺が思いだすことによる回想』という偶然もフェイクの一端だったわけか。

「だから、『妹のような存在』のモデルはあの子なんです。あ、わたしがこちらに引越すことになった時、一番悲しんでくれたのも彼女なんですよ」

 ……そうか。向こうでも良い友達がいたんだな。あとどう見てもあの子が姉にしか見えなかったがな。

 苦笑しながら見下ろすと、静菜はいつの間にか真剣そのものの表情をしていた。改めて『本題』に入るつもりだろう。

「というわけで、わたしはあの『約束』と、納豆によって、本当に救われましたから。今まで頑張ってこれたのは、全部走汰さんと、走汰さんが勧めてくれた納豆のおかげなんです」

 ……いや、決して勧めたわけではないんだけどね。

「自分で言うのもなんですけど、頑張ったんですよ。結局両親は離婚してママについていくことになったんですけど、でもわたし負けませんでした。辛い時は納豆を食べたら元気が出たし、何より走汰さんを……あなたとの約束を思いだせたから……」

 照れくさそうに、はにかんだ。

 ……しかし、納豆というのはこんなにも真面目な話をしている時に出てくると大いに水を差す単語だな。何か良い話が台無しな気分だ。

――おっといかん、話に集中せねば……

「だから……わたしは強くなれました。これまで引っ込み思案で言いたいことも言えなかったわたしがはきはきと喋れるようになりました。友達一人しかいなかったわたしにもいっぱい友達が出来ました。こちらに転校する時に、あの付き添いの子を始めたくさんの方に涙を流していただけました。まあ、それは確かに辛かったんですけど―――ついにはママもこの町に帰る気になってくれて……あなたと再会出来るチャンスをもらえたんです。前向きになった途端に良いこと尽くしでした」

 ……ちょっと前までの俺に是非聞かせてやりたかった言葉だな。本当、人の気持ち次第でこうまで世界は変わるんだ。

「そして走汰さんは、わたしを思い出してくれました。これであの約束のことを証明できるから……今のわたしがあの時と同じ過ちを繰り返さずにいて、『頑張った』ところを、ようやく見せられるから……」

 静菜はきゅっと目を閉じ、やがて何かを決意したように勢いよく頷き、そして俺を真っすぐに見据えた。

「――走汰さん、あの時の約束を果たしに来ました! わたしは、あの時以上に元気になれました。あれからあんな事故のようなことは一度も起きていません! そして……こんなにも頑張れたから、また貴方に会いに来ました!」

 ……ああ、偶然も重なったのだろうが、わざわざそれを俺に見せに来てくれたんだな。約束……覚えててくれたんだな。

ならば、俺の言うことも決まってる。

「俺も……今約束を果たすよ。俺は……今もこうして生きている。そら大変なことがあったのは知っての通りだけど、お前との約束があったから、今まで生きてこれたんだ。お前の……おかげなんだ。そして、今もこれからも、俺は絶対死なないから! だから、もうお前があの事故のことで気に病むことは何もないんだ。むしろそのおかげで俺は『生きたい』と願えたんだ。だから……むしろ感謝してる……」

 一息ついて、そして、俺も静菜の目をはっきりと見据えて、

「生きさせてくれて……ありがとう。事故に遭ってくれて、そして俺を巻き込んでくれてありがとう」

「――後半は余計です!」

 ……ごめんなさい。

「それで……そのう……走汰さん」

 お互いの約束はこれにて果たしたわけだが、静菜はまだ何か言いたそうにもじもじしていた。

「あの時の……もう一つの約束……覚えてますか?」

「あ~~~~~~……」

 うん。できたら忘れたかったが、残念ながら覚えているようだな。

「……その……『もしわたしが約束を果たして、その上でまた会えたら結婚する』という内容だった、と思うんですが……」

「いや覚えてるよ。改めて言わなくても分かってるから」

 てかよくそんな恥ずかしいことまた言えたなおい。

本当、あの時の俺はどうかしていたんだな。あんな恥ずかしい台詞を連発して、挙げ句の果てに静菜の言葉にあっさり頷くんだから。

しかして、静菜は何を思ったか、首を横に振った。

「――あの約束は『ナシ』にしましょう」

「――え……」

 正直、拍子抜けした。あの約束を言い出したのはこいつだから、てっきりノリノリかとも思ってたんだが……

「小さい頃の子供の言葉なんて、妄言のようなものです。さっきみたいに果たされる約束もあれば、そうならない約束もあるものなのです。例えば『大きくなったらパパのお嫁さんになる』なんて言葉と一緒です。これは決して果たされないことですから……」

 まあ、それはそうなんだが……何か釈然としないのが本音である。ということは、あの最後の約束は……父親の嫁になれないことと同義ということか? いや別に残念がってるわけじゃなくてね?

 俺が考え込みながら首を捻っていると、静菜は、今度は俺と決して目を合わさずに言った。

「だから……今から言うことは、あの時の約束なんて関係ないということです。走汰さんには、選ぶ権利があります。『強制』なんて言葉は、わたしは大嫌いですから」

 が、結局最後は俺から視線を逸らしたくなくなったらしい。俺を再び見据えるが、今度は非常に不安そうに見つめてくれた。上目づかいで、どことなく頬が上気しているような……というか頭の芽のような癖毛が心臓の『ドクンドクン』みたいな感じで痙攣(けいれん)したように動いてるのはなんなの? もしそうだとしたらやたら鼓動が早い気がするけど、そろそろそれに対する疑問を口にしてもいいか?

 そんなあさっての方向の疑問を覚えてしまったため、次の静菜の台詞には不意をつかれた。

「……だから…………言います。わたしは、()()()()()()………………す………………」

 ……何故かそこで一回深呼吸。

「…………………………………………………………すき……………………です」

 ――いや、正確には、度肝を抜かれた、か。

「…………」

 俺は多分、呆けていた。あまりにも意外かつ驚愕の展開だったので、思考が追いついていないのかもしれない。

 気づけば静菜の顔は耳まで真っ赤にして茹でダコのようだった。

 というか、今の流れから告るのかよ…………最初から思ってたけど、ホント、お前は規格外の女だな。

「…………あの時の約束も、本心でした。言うなれば走汰さんは、わたしの初恋なんです」

 静菜は真っ赤に染まった頬に手を当てながら、

「でも、最近走汰さんと再会してからは、あの約束なんてどうでもよくなっていました。だってわたしは……昔のあなた以上に、今の走汰さんを好きになってしまったから……」

 照れ笑い。羞恥。不安。それらが混じったような複雑な表情だった。

……こんな恥ずかしい事を言える人間がこの世にいたんだな。ビックリだ。

「昔と同じ、いえ昔以上に走汰さんはとても優しかった。田口君を介して納豆を渡した時、そして道端でわたし自身が納豆を差し出した時、納豆が大嫌いなのにあなたはわたしを傷つけないように嘘をついてくれました……確かに嘘は嫌いですけど、あの嘘によってわたしがどれだけ救われたか分かりますか? 『恥知らずな女』の名は伊達(だて)ではないんですよ?」

 やや自嘲めいた笑みを浮かべたが、すぐに晴れやかな微笑みに戻った。

多分、納豆に関することで悩みがあったのだろう。こいつは俺以外の人間にも無差別に納豆を勧めたことがあったらしい。大方その時に大好きな納豆を否定されたとかそんなところか。

そう言えば教室内での女子数人の視線が痛かったのも記憶に新しい。きっと彼女たちがその被害者なのだろう。

「走汰さんが納豆を大嫌いだということにはショックでしたが、それでもあなたは『好きな物を他人にも知ってもらいたい』というわたしの行動まで否定はしませんでした。むしろ『それでいい』と言ってもらえた気がして……ちょうどあの人たちを傷つけて否定されたばかりだったから……本当に、嬉しかったんです」

 「ありがとうございました」と、改めて頭を下げられた。そんなことで礼を言われても困るのだが、こいつが言いたいんだから黙って言わせておいた。

「だから、その……以上……です。そういうこと……なんです。昔以上に……あなたはかっこよかったですよ。はい」

 比喩ではあるが、頭から蒸気が出たみたいに真っ赤だった。

「あ、顔というよりも内面の話ですけど」

 ……一言多いねキミ。

 あ~……でも、えっと、多分今度は俺が何かを言う番なんだよな。こんな状況生まれて初めてだからどう対応していいか分からん。

「えっと……な……」

 当たり前ながら上手い言葉など出てこない。しかし、俺の困った様子に静菜は勝手に納得してしまったようで、

「――分かってます! はい。分かってるんです! わたしがあくまで勝手に想っていただけで、走汰さんはそうでないんですよね。だから強制したくないから、あの約束は無効にしたんです。でも、わたしの気持ちは知っておいて欲しかったんです。それだけですっ! だから……えっと、あ、また明日です!」

「……明日は土曜日だから学校では会えないぞ?」

「――あ、そうですよねっ! で、ではまた来週! それじゃっ!」

 そう言い置いてベンチから立ち上がり、その場から去ろうとする。

「まてこら」

「――はわっ!」

 その腕を引っ掴んで強制停止させ、再びベンチに引き戻す。

 全く、自分で告っといて相手の言葉も聞かずに逃げるんじゃねえよ。そうやってすぐ自己完結してしまうところがお前の悪い癖だ。自分で吐いた言葉には責任を持てよ。

「せめて、俺の返事を聞いてからにしろ」

「あ……そ、そそそ、そうですねっ! で、では、聞かせてくだぴゃいっ!」

 ……突っ込まない。突っ込まないからな! 緊張した時には噛んでしまうらしいが、こんなある意味極限状態で誰が突っ込むものか! ていうかお前こそこんなタイミングで話の腰を折るんじゃねえよ!

――いかんいかん、話を戻そう。

いや、でも本当にお前はすげえよ。男以上に度胸があるよ。

 …………全く、先に言われちまったことが情けないばかりだ。だから、潔く答えてやるよ。せめてここで返事しないと、男としての尊厳を完全に失うからな。

「――――俺も……お前のことが…………好きらしいんだよ。文句あっか」

「――――――――…………っ! ないですっ!」

「――ぐおっ!」

 言うなり、俺の腹に多分全力で頭をぶつけてきた。いや、どうやら抱きついてるらしいが、俺にとっては苦痛でしかないからな?

 俺は片手でその背中に腕を回し、もう片方の手で彼女の頭を撫でながら……頂点のアンテナには敢えて触れないようにしながら、苦笑した。

「こんな色恋とは無縁の抱擁があるなんて知らなかった」

「――え……わたし的には恋の炎が燃え盛るくらい熱い突撃だったんですけど……」

 静菜は俺の胸……というか腹に顔を埋めながら答える。

「『突撃』とか言ってる時点で色恋とは無縁だな」

「え……でも『アタック』ってそういう意味なんですよね? 他のライバルより先に相手にタックルしてその人を悶え苦しめたら勝ち……みたいな」

「…………」

 うん。それ意味違うから。いつか『暗殺』とかほざいてやがったのはそれかよ。大分マシになってはいるけども。

 全く、どこまでも退屈しない女だ。

 しかし……このままベンチでずっと抱きしめて居たかったが…………


 ――ズッ……


「―――――っ!」

 辺りが闇に染まった。

 俺の腕の中に居た静菜の姿もいつの間にか消えている。

「……どこまでも不粋な現象だな」

 だが、ほんの三十分前までの俺なら恐れおののいているところだが、今はそうではない。

 むしろ父さんと俺の新たな考えを証明するチャンスだ。

 だから、もし俺の予想通りなら……今から見る映像は……

 やがてもう一人の『俺』が現われる。その行動は―――――



1.目の前に居た静菜がどこから出したのか、納豆を差し出してくる。彼女を抱きしめていた『俺』は全力で逃げようとするがその密着状態が仇となり、逆に拘束され、強制的に納豆を口に放り込まれる。

2.静菜が納豆を取り出すが、『俺』は瞬時に『あれはなんだ』とでも言うようにあさっての方向を指差す。彼女がその方向を向いた隙に逃げ出そうとするが読まれていたのか首根っこを掴まれ、1と同じ展開に。

3.やや展開は違うが、結局は紆余曲折を経て1と同じ展開に。

4.『俺』が納豆の存在を認めるよりも先に『俺』の口にがぼっと納豆がパックごと突っ込まれる。



「………………」

 全ての映像を見て、俺はジト目で真っ暗な空間を見ていた。

 ……何か、そろそろ内容が適当になってないか? 特に3と4。

 いや、今はそんなことを疑問視している場合ではない。何でまた納豆を食わされる未来しかないんだよと突っ込みたくもあったが、今はそこでもない。

「『死』に繋がる未来が、一つもねえじゃねえか」

 そうだ、思えば以前に静菜に納豆を差し出されたときに見た映像もそうだった。あの時にも前日に父さんが自身の結論の片鱗を俺に語ってくれたから、俺は多少なりとも前向きになれた。だから、内容があんな訳の分からないものだったんだ。

 それは今回も同じだ。俺がもはや『死にたがり』の願望を捨てられたのかは知らないが、今こんなにも前向きになっているからこそ、俺が『死と隣り合わせ』になる未来が一つもないのだ。

 そして、このアイマイフューチャー自身のこと。父が言った事を思い出せ。

〝お前が見たというあの四択に惑わされるな。見えるからこそ、『その選択肢しかない』とお前が自分で思ってしまっているだけなんだ。あの四択が気に入らないなら、お前がそれを変えて見せればいいだけだ〟

 いやはや、全くその通りだ。

そうだ、気に入らない。今見た映像全部気に入らねえよ。

もはや過去の――未来を変えようとして失敗した事実は気にしない。あれは俺自身の諦めが招いた結果なのだ。絶望の類の感情に支配されていた俺が希望に満ちた未来なんて想像できるわけがなかったのだ。

でも、今は違う。

だから、俺は1~4のどの未来も選ばない! 見てやがれ!


――ズズッ……


気がつけば、俺の腕の中には大切な人が居て、心地よさそうに目を閉じていた。猫かお前は。

が、瞬時にその目が開かれ、

「――あ、そうだ! お近づきの印に納豆をどうぞ! 走汰さんが納豆嫌いなのはよく分かりましたけど、だからといってわたしが諦める道理はありません。きっとあなたは食わず嫌いになってるだけなんですっ! だから絶対食べれば気に入ってくれるはずです!」

 なんつう理屈だよ。もはや何を言っても無駄だなこりゃ……

 静菜はいつか見た発泡スチロールのパックをいつの間にかその手に持っており、蓋をあけ、これまたいつの間に持っていたのか()(ばし)で何回も混ぜた。付属していたタレをかけ、その後再び全力で混ぜ合わせた。聞きたくもないが、どうやら混ぜ方にもこだわりがあるらしい。

「さあ、どうぞっ。あ~ん」

 準備万端とばかりに、その納豆の一粒を箸で摘み、俺の口へと持っていく。

「しゃあないな。分かったよ」

 俺は黙って口を開ける。

「――――え……?」

 が、俺の口の真ん前でピタリとその割り箸を止めた。おいおい、止めるのは良いけどそんな至近距離じゃ臭いが……あれ?

「――食べて……くれるんですか?」

 キョトンと大きな目を真ん丸にしながら、やや呆けた顔をした。

「……好きな女の……好みの味を知りたいというのは……当たり前だろ」

 ……照れくさいので視線は合わさない。

 それは静菜も同様のようだった。

「――ほわっ! ……あ、いやそのう……そのお言葉は大変嬉しいのですが……感謝感激で帰ったら納豆を五パック分ぐらい食べようとは思うのですが……その……」

 いやそれは止めとけよ。食いすぎだろ。

「となると、わたしはこのまま『あ~んして』と言って走汰さんに食べさせなければならない、ということでしょうか……」

「いや当たり前だろ。俺の目の前に納豆を掴んだ箸をちらつかせといて今更何言ってんだよ。全く、いつかもそうして食わせようとしたくせによ」

()()()?」

 何でもねえよ。『ひょっとしたらこんな世界もあったかもしれない』、その『イフ』の世界の一つってだけだよ。

「いいから、さっさと食わせてくれよ」

「あ……いえそのう……てっきり走汰さんは『それ食うぐらいなら死んだ方がマシだ!』とかおっしゃりながら逃げると思っていたので……実はこの体勢からこのお箸を強制的にそのお口に光速……いえ高速で突っ込もうという作戦を考えていたのですが……」

 おい、だからお前今何を脳内で誤変換した!?

……そして、よくご存じで。俺が選ばなかった未来の要素てんこ盛りってことだったんですね。強制接食反対!

 俺は内心こめかみに青筋が出そうになるのを何とか堪えながらその続きを促す。

「なら、遠慮することねえだろうが。さっさと俺の口目がけてその箸を突っ込んでこいよ。ただし光速でも高速でもなく低速でな」

「あ……はい。まさか本当に『あ~んして』で食べさせることになるとは思わなかったので少々恥ずかしいのですか、はい。覚悟を決めます」

 やがてその目の前で止まっていた箸がようやく動き出し、「あ~ん」と言いながら俺の口に移動させる。

 俺も死ぬほどの羞恥に耐えながらも同じ言葉を呟き、潔く口を開く。

「~~~~~~~~~~~~~~~…………ぐっ!」

 ようやくその一粒が俺の口内に到達した。が、その味は……

「……………………あれ?」

 確かに、そのネバネバムニュムニュする食感は凄まじく嫌悪感を与えるのだが、しかしその味は別段悪いものではない。いやむしろその納豆自身の味とタレがうまい具合に混ざり合って……

「…………美味(うま)い、な」

「―――――――ほんとうですかっ!?」

 静菜がいつか見せた子供っぽいながらも非常に可愛らしい笑顔を見せた。本当に、こいつは納豆の事に関する時が一番良い顔をするな。ちと複雑だけど。

「……ああ、普通に食べられるな。でも、何で……」

 今まであれほどの嫌悪と吐き気すら催していた忌まわしい物体を食べられるなんて、どうやっても信じられない。正直、死ぬほどではないにしろ、死ぬほどの覚悟を持って口を開けたのに……

「えへへ~。驚いていらっしゃいますね走汰さん~。この納豆、何か気が付きませんか~?」

 久々に語尾を伸ばしながら不気味に微笑む静菜。その納豆を見ると、別段変わったところもない、いつもの発泡スチロールのパックに入っているだけの物だが……

「そうか…………『(にお)い』か」

「はい! 御名答です~」

 その納豆に近づけば明白だった。

 さっきから俺の鼻先に納豆をつまんだ箸を固定させていたくせに、その臭いがあまりしないから変だとは思っていた。これはつまり……

「臭いを抑えた……納豆か」

 その答えに静菜は満足そうに頷き、心底嬉しそうに話してくれた。

「そうです~。元々最近の納豆はどれも(にお)いを控えた物になっているんですが、これは納豆が大好きな人から大嫌いな人まで幅広い方々に食べていただけるように臭いをそれぞれの人の好みに合わせて開発された、『クンカクンカ納豆』といいます~」

 ……そのネーミングセンス以外は認めてやってもいいのだが……

「ほら、カレーライス専門店ってありますよね。あそこでは色んなカレーが食べられますが、あそこのもう一つの目玉はその人の好みによってカレーの(から)さを調節出来ることです。辛い物が大好きな人は激辛カレー、苦手な人は甘口カレーを選択できる、というようにです。それと同じで、納豆も人の好みによって臭いを調節できる程の種類を開発したんです~。実はパックに穴が開いていて通気性を調節しているからでしょうね~。納豆の臭いの原因はパックにあったりもしますから~」

「なるほど……そういうことか」

 確かに、俺が今まで納豆を嫌悪していた理由ベストスリーのどれかに『臭い』は堂々とランクインしている。納豆が嫌いな者はそのネバネバした食感も勿論嫌いだが、まずはその『臭い』によって五感の嗅覚(きゅうかく)を思いきり嫌な意味で刺激されるので、そもそも食べる気が失せるのだ。それによって、知らず知らずの内にいわゆる『食わず嫌い』という状態になっていたのかもしれない。

 ならばその対策としては簡単だ。ネックであるその『臭い』を少なくすればいい。もちろん人の好みというものもあるが、納豆の味は食べ方にもよるが非常に美味しいものとなる故に、臭いさえ軽減できれば食べてくれる。食べてくれさえすれば、後はその味に病みつきになる、という寸法だ。

「だから、臭いも含めて納豆が大好きな人は強烈な臭いを発する種類を買ってその臭いをクンカクンカして堪能し、臭いが嫌いな人はそれを抑えた種類を買ってその真偽を確かめるべく顔をしかめながらクンカクンカすればいいんです~。だからどんな人でもクンカクンカするので『クンカクンカ納豆』という名前なんですよ~」

 ……クンカクンカの他に言いようがなかったのだろうか。

「だから、これはスーパーにしか売ってないんですよ~。確かにこれ程の種類を作ったとしても、その真偽を『買う前に』確かめられなければ消費者は簡単には購入しません。よって、スーパー、あるいは食品売り場があるデパートとかじゃないといけないのです。それらじゃないと『試食コーナー』を設けにくいですし……あ、この場合は『試臭(ししゅう)』とも言うのかもしれないですけど~」

 なるほど、な。

 そこで静菜は少々視線を下げ、

「だから、デパートに行って、一緒にそれを買いたかったんです。走汰さんに、これを是非食べて欲しかったから……」

 ああ、全くなんてことだ。あの時こんなにも大切な人の、その好意を無残に踏みにじっていたなんてな。

「じゃあ、これからはどんどん勧めてくれよ。そして今度は……納豆を一緒に食べような」

「ほわわ……」

 ポンとその頭に手を置くと。俺の手の間を通って頭の植物の芽のようなアンテナが照れくさそうにモジモジとし出した。同時にその本体も照れくさそうに顔を赤らめて同じような動きをする。どうやらある程度本体と動きがリンクしているらしい。俺は吹き出しそうになりながらそのまま空を眺めた。


 ――ああ、全く、悪くねえよ。

 これで、俺と父さんの考え方は証明された。

 この展開は、あの空間内で見た未来のどれでもない。どの未来も俺が納豆を食わされることには違いないが、今の現実では、決して『強制的に』口に突っ込まれた訳ではない。

確たる証拠としては、アイマイフューチャー内の『俺』は非常に嫌悪感を丸出しにしながら涙目で食べていたが、今の俺は違う。こんなにも満たされた状態なんだ。自分では分からないが、きっと物凄く晴れやかな顔をしていることだろう。

――もう、大丈夫な気がした。例え再び不幸に近い現象が俺の身の回りで起きたとしても、それを単なる『偶然』と片づけられる気がした。

本当……全てが俺の心から生み出された事情だったなんて未だに信じられないが、だからこそ、これからはこの前向きな気持ちを持ち続けていけばいい。

物事の捉え方次第で、こんなにも世界は……変わるのだから。

「あ、それじゃあ、今度はこれをどうぞっ!」

「え――」

 物思いに耽っていた俺は静菜の声で現実に帰された。そして、新たに静菜が持っていたその()()は――

(わら)納豆ですっ!」

「――――――――――――――――――――ぐ…………っ…………はぅあ…………!」

 凄まじく表現しにくい呻き声が俺の口から漏れた。

 静菜が持っていたのは、彼女が言った通り藁の中に納豆が入っているものだった。無数の藁を細長く束ねてその両端を白い紐のような物で結びつけてある。その藁の中心部分が開けられて、その中から納豆が露出していた。どうやら真ん中部分の藁を開ける、というかどけると納豆が出てくるという仕組みになっているらしい。

「これは中々手に入らないんですよ~。パックの納豆と違って昔ながらの伝統的な発酵方法で作ったものですから、パックよりももちろん高級品です~」

 ――知るか! どうでもいいんだよそんなこと!

「これの良いところは何と言っても通気性でして~。さっきのクンカクンカ納豆も小さい穴が開いてるからある程度の通気性を保ってはいるんですが、こちらはなまじ藁ですから段違いです~。しかもこれは天然の藁の納豆菌で作られた物なので最高に美味しいんですよ~。パックの納豆より保存性が悪いのが欠点ですが、そんなのはすぐに食べれば問題ナシです~」

 いやだから聞いてねえよ! それよりも何よりも……!

「――その臭いを今すぐ引っ込めろ!」

「ええ……? そんなに嫌な臭いですかこれ? 通気性が良いのでむしろマシではないでしょうか? それでも臭いはそりゃあしますけど、これの場合はむしろ『良い臭さ』といいますか~」

「―――――藁! 多分藁の臭いだよ! それと納豆本来の臭いが合わさって……なんというか、俺にとっては最悪な臭い同士のハーモニーになってもはや死活問題なんだよ!  見ろよこの涙目を! いいから引っ込め――」

「まあまあ、食わず嫌いはよくありませんよ~? というわけでどうぞ~」

「お前俺の納豆嫌いの原因が『臭い』って分かってたんじゃねえの!? なのに何で俺が再び『臭いが最悪』って言い出したその危険物極まりないもんを食べさせようとすんの!?」

 静菜はいつの間にか目が据わっててある意味非常に恐ろしい顔だった。そして、いつかも聞いた(とど)めの一撃の台詞を放つ。

「嫌よ嫌よも好きのうち~」

 俺の口に、藁から取り出された納豆が一気に突っ込まれた。

「~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~………………!」

 俺は、もはや文字で表現できない断末魔(だんまつま)の叫び声をあげた。


 ――ふふ……こんな展開も、あの空間の映像では……見なかった未来だ……俺は新たな……未来を…………勝ちとった………………のだ…………………………ガクッ。











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