2・メイクフレンドウィズナットウ
――後前自家は、寂れた住宅街の一角にあるやはり寂れたボロアパートの二○八号室に存在する。
どの辺りがボロいかと言うと、階段の一つが半分朽ちているところである。このアパートは横長の二階建てだが、その二階へ上がる為に螺旋階段が左右両端に二つ設けてあるのだが、その内の左側の階段は螺旋の下半分が朽ちて無くなっている為、右側の階段からしか上がることが出来ない。
その右側も上がると何だかギシギシ軋むし、大家はいつまでたっても左側の階段を修理しないし、近いうちにこのアパートは崩壊すること間違いなしである。
「どうかそれが俺の『不幸』によって起こりませんように」
いつもそう言いながら不安定な螺旋階段を上がり、二階の左端の二○八号室を開く。
「ただいま……」
薄暗い室内に足を踏み入れる。我が家は電気を最小限しか点けないために、いつも曇り空のようにどんよりとした暗さが室内を満たしている。まだ夕方だというのにリビング以外は明るさに乏しく、そのリビングの明かりも夕陽に照らされたものだということがよく分かる。
あまり裕福な家庭ではないというのもあるが、それ以上に何よりも我が家はとても節約思考なのである。
今は冬なのに暖房器具は一切使わず、寒いときは全身に毛布を装備して寝袋に包まるような状態で行動する。水は近所の公園の水飲み場から汲んでくる。夕飯のメニューがお隣さんその他知り合いのお裾分けで全てを占めることが三日に一度ぐらいの頻度で発生するなど、とにかくそういうことである。
「ああ、おかえり走汰。今日も遅かったな。クラスメイトの一人とよろしくやってて押し倒して相手の服でも破り捨てていたのかと父さん心配したぞ~?」
「……」
当然そんな変な家なので、住人も変である(俺を除く)。
「……どうして黙っている? まさか、そんなバカな……成功したというのか……? 女性を押し倒したら百回中九十九回は激怒されて九十九連コンボを叩きのめされて色んな意味で再起不能になるというのに、どうしてお前はそんなに綺麗な顔をしているのだ!?」
「…………」
「――ああ、綺麗な顔というのは決してお前の容姿のことではなく、怪我ひとつない『無傷』だから綺麗という意味だぞ?」
「――分かってるよ! わざわざ説明してくれなくても結構だよ!」
くそ、今日こそは突っ込まずにボケ殺ししてやろうかと思ったのに、どうもこのエロ親父を相手にすると突っ込まずにはいられない。ああ地味な顔で悪かったな。あんたの遺伝のせいじゃねえの?
こいつは――いや、この人は俺の父親で、名を後前自順也という。見ての通り――いや聞いての通りの変な父親で、いい年こいてその……エロスに目がない……と、自分で言ってて恥ずかしくなる説明をしなければならない残念な父親である。そのくせ見た目がとても四十歳とは思えないほど若々しく、シワもほとんどないし長身で白髪が全く見当たらない黒髪でもあるので、そんな話をしていてもあまり違和感がないところがまた怖い。
「……遅くなったのは警戒しながら歩いてたからだよ。相変わらずその妄想交じりの勘違い止めてくんない?」
ようやく最初の問いに答えると、父はさらに目を見開いて、
「警戒だと……? まさか――風俗の呼び込みに対してか!?」
「――災難に対してだ!」
「なんだつまらん……」
「――あんたは息子の命より風俗の方が大事なのかよ!」
「分かっている。ちょっとしたおちゃめな冗談だ」
「……あんたの場合どこまで冗談か分かんないから言ってんだけど」
「それはどうか許してほしい。これはきっと父さんの性分なんだ。宿命と言ってもいい。何故なら我らの姓には『こうぜん』という言葉が入る…………」
そこで区切り、ちらちらと何度もこちらを横目で見てくる。
「……」
くそ、続きを促せということか。何だか物凄い嫌な予感がするが……
「だったらなんなんだよ?」
「――我ら後前自の『こうぜん』とは、『こうぜんワイセツ』のこうぜんでもあるからだ! だから父さんの行動は名字に秘められた宿命なのだよ……!」
ふ~ん…………
「――――って字が違えよ! 『公然』だろ! そしてまず自分がそれで納得しかけたところが一番怖えよ!」
「父さんにとっては間違ってもいないだろう? お前が納得しかけるほどに……二ヤリ」
「『二ヤリ』とか口で言ってんじゃねえ! なんで自分を貶めるような間違い方すんだよ!」
「いいじゃないか。父さんが勝手に名乗る分には」
「よくねえ! 俺だって同じ名字なんだから勘違いされるだろうが!」
「こらこら、そんな大声を上げてみっともないぞ。全くお前はいつも落ち着きがないな~」
「ぐっ……このクソ親父……」
何で俺が悪いみたいな空気になってんの? 俺が声を荒げた理由は全部あんたのせいなんですけど。
「――そんなバカなことより、『警戒しながら帰ってきた』ということは……」
うわ『バカなこと』とか言ったよこのひと。もうやだこのオッサン……
でも、ようやく本題に入ってくれるみたいだ。顔がほんの三秒前の三倍引き締まっている。これで俺もやっと事情を話せる。
「ああ、今日で六日目だったんだ」
「生理がか?」
「…………こふ~」
「すまん。妊娠の方がよか―――って走汰! 顔が人ならざる者になっているぞ! 悪かった、悪かったからその金剛力士像みたいな顔でドス黒い息を吐くのは止めてくれ!」
ホント、いい加減ぶん殴ってやりたいが、改めて真面目な顔をした父に話すことにした。
「明日から、また災難が起こるかもしれない」
俺の人生には、どうやったって身に危険が迫る出来事が一定間隔置きに起こる。これを『不幸期間』と簡単に名付けている。
その不幸期間のカウントによると、前回のあのチャラチャラした血気盛んな不良との遭遇から明日で丁度一週間となる。
いよいよ俺が常に警戒しなければならない日々がまたやってくる。
だから、数少ない俺の事情を知る一人である父には、そのことを前日には必ず話すようにしている。
ちなみに今日帰る時にも警戒はしていた。その理由は、万が一最短の不幸期間である一週間よりも早く災難が訪れた場合に備えてのことだったが、やはり何も起こりはしなかった。
一週間。これを過ぎることはあっても、これより短くなったことは今までで一度もない。ひょっとしたらこの期間には……
「――なあ走汰、この『一週間』にはどのような意味があると思う?」
父も同じ考えに至ったようだ。
「分からない。最近はこの周期ばかりで発生するから、何かが|あ《・》る《・》ということだけは分かるけど……」
「そうだな。確かに何かがある。以前はその一週間を超えることがほとんどだった上にその周期が非常に不安定だった。一か月の時もあれば、二十日あまりの時もあったが、一週間はごく《・》稀だった」
さっきまでのにやけた顔とは打って変わって真剣な顔つきで、淡々と語りだす父。この時の父はあの嫌らしい笑みとのギャップもあるのか、不覚にもやたらと格好よく見えるから不思議である。
「そして、あの時のお前はあまりそのことを『不幸』と捉えていなかった。対して今のお前は……」
「――な、なんだよ……」
まるでこちらを値踏みするような目で見られ、俺はやや動揺した。
「お前の心情の変化が、このような期間を生み出している……のかもしれないな」
「は? 何言ってんの?」
意味が分かっていない俺に、父は尚俺から目を逸らさずに告げる。
「何故なら、お前がその『不幸』を『当たり前』のように認識し始めたころから、その期間が一週間になったからだ」
「――――!」
驚愕に目を見開く俺に、父はやや苦笑しながら、
「父さんもお前の不幸体質を何とかしようと必死だったからな。お前が死に瀕した期間をずっと記録していたんだよ。そこから何か分析できるかも、と思ってな。すると、お前が父さんに相談してくる内容と精神状態の変化、さらにはそれによる不幸の起こる回数がある程度リンクしていることに気付いた」
父の話では、昔からこの体質によって何かがあった時に相談するよう俺に言っていたのは、それを分析するためだったそうだ。不幸が起こる期間が一週間に変化した後も、前日にその間隔を自分に伝えるよう指示したのもそのためだった。
そして、その相談内容と不幸の発生期間を見比べると……
「お前がどんどん不安になればなるほどその間隔が短くなっていった。例えばお前が『きっとまたすぐにこの災難は起こるんだ』と言った時、当時最短記録だった十日で次の不幸が発生した」
……そこから考えられる原因を特定するのは難しくない。それは俺自身の心情。俺が不安に思うから、次の間隔が短いと思うから実際にその通りになった、ということだろう。
確かに筋は通ってる。でも……
「ああそうだ。これだけでは証拠とは言えないし、確信があるわけでもない。が、判断材料にはしてほしい」
「――どういうことだよ?」
「肩の力を抜いて、『明日には不幸が起こるのではなく楽しいことが起こる』と考えてみたらどうだ? もちろんいきなりは難しいだろうから、そう願うだけでいい。例え叶わなくても願うことだけなら簡単だろう?」
「…………」
父の言いたいことは分かる。全ては俺の不安定な気持ちがあの災難を生み出しているというのなら、その俺自身の心を変えればいい。そういうことだろう? そうすれば災難の間隔は長くなると。でもさ……
「そんなこと思えるわけないだろ? 親父の言うことも信じられるわけがない。俺は今までずっと、そう願いながらもずっと打ち砕かれてきたんだ!」
父が言うことなどはとっくに実践している。なのに改善されるどころか悪化していく一方だったからこそ今こんなにも困っているのだ。確かに俺は物事を前向きに考えられない人間かもしれないが、それでも希望の一つや二つは持っている。
「――こんなことは起こらないで欲しいと願いながら、その翌日には俺の目の前に包丁が飛んできて傍の壁に突き刺さる未来を見たんだ! 夫婦喧嘩で妻が包丁をぶん投げたんだってよ! 俺はその現場に不幸にもたまたま居合わせたんだよ。それほど無残に俺の願いを無視されてんのに、どこに俺の心情が関係あるってんだ!」
ひょっとしたら、俺は泣きそうな顔にでもなっているのかもしれない。父がほんの一瞬顔を歪めたからだ。さっきまでのふざけた顔といい、この人はポーカーフェイスが上手いからその表情は読み取れないが、それでも、あの僅かな表情の変化だけでも珍しいことだった。
「……そうだな。お前の言うことも最もだ。だから、さっきも言ったように判断材料にしてくれるだけでいい。父さんが言ったことによって、少しでもお前が前向きに考えられるきっかけになるかもしれないからな。それに例え今更でも、楽しく人生を過ごしたいだろう。何よりお前はまだ若い。これからの人生に希望がなければやっていけないだろう……」
長々と、傍から見たら説教にも見えるかもしれない台詞を淡々と紡ぐが、俺にとってもそれが真摯に受け止めるべき台詞だということは分かっている。
「……ああ、考えてみるよ」
そんな希望はとてもじゃないけど持てないが、父が一生懸命に考えて出した考察を否定する気にもなれない。
小さいころからこの悩みを相談できたのはこの父と、そして今は訳あってこの家にはいない母だけだ。俺と共に悩み、苦しみ、そして今に至るまで俺を育ててくれた。
俺にはその数少ない理解者の意見を踏みにじる権利はないし、実際その気もない。だけど、理屈と感情はまた別なのも苦しいところだ。
父の言うことを聞きたいのに、俺の今までの理屈と経験がそれを否定する。それも完膚なきまでに。いくら父の言うことに従おうが、決して俺の未来が改善されることがないと確信を持てるから。どうにもならないと、分かっているから……
そんな俺の困った様子が分かったのか、父もやや申し訳なさそうに、
「走汰。あまり考え過ぎるな。すまなかった。少々余計な入れ知恵だったかもしれん。明日から、警戒しながら学校に行け」
「うん。ああいや、その……感謝してるよ、親父には」
敢えて目を合わせずに、普段は滅多に言わない本音を伝えた。いかん、ガラにもなさすぎてハズイ……
父も同じ思いだったのか、頬をポリポリかいた後、
「ならばその礼代わりとしてお前の隠し持っているエロ本を一冊渡してもらおうか」
「…………」
「熟女もの限定な」
……しっかとぶん殴っておいたのでご安心を。
*
――翌日、ついに前回の災難から一週間が経った日、そしてこれからは常に緊張状態でいなければならない日、俺はいつもの通学路を歩いていた。
自宅の近くの住宅街、非常に狭苦しい道など、常に警戒しながら歩いた。
その先にある前回因縁の十字路は細心の注意を払った。十字路に差し掛かる前に数分その場で佇んで誰も歩いてこないことを確認し、見通しの悪い曲がり角を覗き見て誰もいないことも確かめた。そしてゆっくりと、辺りをキョロキョロ確認しながら忍び足のようにそろりそろりと十字路を直進する。
「……特に何も、起きない……な」
それが当たり前だ。こんな狭っ苦しい十字路で死の危険にさらされてたまるか。
しかし、残念ながら先週にそれが起こったことがあるからこそ油断できない。
十字路を越えてさらに進むと、ようやく少し開けた道になった。ここも住宅地が多い道だが、大通りに行くための道でもあるので先ほどとは雲泥の差で道が非常に広く、当たり前だが対向車とすれ違うのも余裕である。
ただ、この道を真っすぐ進めば大通りまで広い道一本で行けるのだが、今日は道路工事をしているらしい。何やら大型トラックや作業服の人々の姿が目に映り、前方には通行止めの看板が置いてあるので通れない。仕方なく俺は周り道をして大通りを目指すことにした。
この道は広いが、そこから一回右左折するだけでも再びやや狭い道に変わるという特徴がある。おまけにその先も曲がり角や小さめではあるが交差点も多いので、少々複雑で入り組んだ道である。が、結局方角さえ間違わなければ大通りにも着くので迷うことはない。
そして相変わらずの慎重さで進むが特に何も起こらない。さっきの通行止めの工事現場でひょっとしたら何らかの危険があるのではと思ったが、その心配も杞憂でやはり何も起こらなかった。
「ひょっとしたら、今日は起こらないのか?」
いや、確かにまだ一日が始まったばかりではあるのだが、何かが起こるのはいつも決まって登校時か下校時だったから。幸か不幸か学校でそのような危険が発生したことは、相当昔の小学生の時の数度だけだった。もしこの登校時に何も起こらなければ、残りは帰りの下校時しかあり得ない。そうなると、何も発生しないという確率も出てくるというわけだが……
「それとも、親父の言うことが影響してんのかもな」
〝肩の力を抜いて、明日には不幸が起こるのではなく楽しいことが起こると考えてみたらどうだ?〟
楽しいこと……か。こんな誰かにぶつかりそうな曲がり角だらけの道でそんなこと考えるのは不可能に近いが、もし本当に親父の言うことが真実だとしたら、変えられるのだろうか。このどうしようもない期間と、現状を……
――ズッ……
「――――っ!」
まるで、ほんの三秒前の俺を嘲笑うかのようだった。
視界がぐるぐると揺らいで霞み、目の前の風景が見えなくなって闇を孕んでいく。そして迎えるは全てが黒々とした漆黒の世界、アイマイフューチャー。
「やっぱり、無意味なんじゃねえか……」
絶望の呟きと共に諦めに似た嘆息を漏らした。やはり、どうやっても不幸とこの現象は逃れられないのだ。希望を持った直後にこうしてすぐに俺を奈落に突き落とすからこそ、親父の言うことに理解を示しつつも従えない所以でもある。長年の経験談は伊達ではなく、残念ながら自分が一番信じるに値するものなのだ。
やがてこのアイマイフューチャーの空間上での俺こと、『俺』が浮かび上がってきて現われた。
今日の『俺』は一週間前よりも非常に疲れたような顔をしていた。目の下の隈が前回よりもはるかに酷いし、どことなくやつれた顔をしている。
髪型も今日はセットする(実際は寝癖直しだが)暇もなかったので、ただでさえボサボサ頭である癖毛が寝癖によってツンツン度がいつもの二倍増しである。上手い例えが見つからないが、『針ネズミの一歩手前』とでも言っておこう。さらに着用している制服のブレザーは上手く着こなせておらず、ボタンを止め忘れて開けており下のカッターシャツが露出している、学校指定の紫のボーダーネクタイが今にもほどけそうな程にゆるゆるでぶら下がっているなど、疲労と動揺が丸分かりな見た目である。
「……昨日は、今日のことが不安で寝れなかったからなあ……以後気をつけよう」
この現象は毎回今の自分が心身共にどのような状態なのかが客観的に見えるため、身だしなみや姿勢を正す良いきっかけにはなる。
しかし、これが不幸を回避する唯一の手段ではあるものの、これを機に自分に降りかかる災難が分かってしまうのだから、やはりこの現象も好きにはなれない。
やがて『俺』がいつものように歩き出した。今日はどんな災厄が待ち構えているのか、そしてその回避方法はどのようなものか、その内容を忘れない為、俺は食い入るように『俺』とその行動を凝視した。
1.このまま前進すると、突然正面から少女が走ってきて困惑と驚愕の『俺』になんだかもの凄いネバネバしている物を差し出してくる。
2.気分転換と警戒を兼ねたのか、さらに回り道しながら歩くが、右折した瞬間その道の先から少女が道を阻むかのように疾走しながら現われ、何だか凄まじく濁ったような糸を無数に引いている物体を『俺』に突きつける。
3.遅刻ギリギリの時間ということにでも気付いたのか、突然走り出しながら学校に向かうが、同じく忙しなく動き回っていた少女がおそらく大通りの道から出現し、何だか強烈な異臭がするブツを両手にそれを『俺』の鼻先に持っていった。『俺』が今にも死にそうな顔で鼻を抑えているので凄まじい臭いがするのは間違いない。
4.学校をサボろうとしているのか来た道を引き返すが、元の広い道辺りに戻る直前の曲がり角で少女が立ちはだかって回り込み通せんぼする。やがて――いやもう表現しなくても分かるだろ――アレを箸でぐりぐりこね回しながら『あ~んして』みたいな感じでそれをつまんだ箸を『俺』の口元に移動させていく。『俺』は観念したのか、涙目で口を開ける。
「………………………………は?」
――『俺』、いや俺がこんな声を出した。ちなみに今のは1を見終わった後の反応である。
「……なんだこりゃ……」
続いて2を視認後の台詞。いわゆる、困惑。訳が分からないという呟き。
「冗談……だろ」
3終了後には、自分が見たモノが信じられない――否、信じたくないとでも言うようなリアクション。
「………………っ」
4に至ってはもはや絶句した。
それはそうだろう。何かもう、色んな意味で突っ込みどころが満載なのだから。
まず、今までこんなことは一度もなかった。
今の今までこの現象は俺が死の危険に苛まれる出来事ばかりを映していた。自分の目の前に顔面すれすれで瓦礫が落ちてきたり目の前の壁に包丁が突き刺さったりと、一歩間違えば死に至る未来や、他には実際にそれらと接触して『俺』が瀕死の状態になる未来ばかりを見てきた。今日まで俺が生き永らえているのはその中から自分が生き残れる選択肢を選んだからに他ならない。
――なのに、何だ今の未来は? 確かにどれも災厄と言って相違ない未来ばかりだったが――……!
「そうか……」
突然気付いた。
「あれも十分に死を招く事態じゃねえか……」
俺は、少女が『俺』に差し出していたアレが大嫌いなのだった。先週田口が食べていたアレと同一の物であり、その時にも言ったばかりだが、アレを食べたら何かもう、精神的――いや心身共に死ぬこと間違いなしなのだ。
だからだ。他人にとってはどうでもいいことでも、俺にとっては死活問題。そしてこの現象を見てしまう俺が『死ぬ』ような事態なのだから、あの未来も例外ではないと、そういうことか。
「――というかあの女は何なんだよ!」
突っ込みどころその二である。どうやっても他人にあそこまで強引にアレを差し出してくる知り合いなんていない。というかいてたまるか。いや頼むからいないでください!
……まあ現実は、残念ながら一人だけ心当たりがあるのだけれども……
あと何で4つもある未来があの女に遭うものしかないの? 何? あの女に恨みでも持たれてんの俺?
その行動原理がさっぱりだった。まあどんな理由にしろ、あんな頭のネジが一本どころか数百本抜けてそうな女の考えることなんて分かるはずも……
――ズズッ……
「――しまっ……!」
もうこのアイマイフューチャーが終わりを告げようとしている。今までこの空間に入ることがどれだけ苦痛だったか考えるとあり得ないが、今だけはこの世界にずっと居たかった。
あんな規格外の女と遭遇する未来なんて俺の心身が耐えられるわけがない。
嫌だ嫌だ……! 頼む、もう少しだけ――せめて考える時間をくれ! あの女に遭わずに済む方法を――
――しかし、それが不可能なことは俺が誰よりも知っている。いつだって災難が何の予兆もなしにやってくるのと同様、この現象もそれと連動しているのだから俺の都合なんて知ったこっちゃないのだ。
「――でも、だからってアレはないだろうよ……」
そんな俺の呟きと共に、アイマイフューチャーの世界が明けた。
あの空間に強制連行される前と寸分違わぬ光景。大通りに行くための別ルート、曲がり角等が非常に多い、入り組んだ狭い道。
腕時計を見ると、恐らく先程から数秒程しか経過していなかった。その数秒も恐らくこの現実に帰って来てから経った時間に間違いなく、つまりはあの暗黒空間にいる間はこちらでは時間が進まないらしい。
「で、ど、どうすれば……」
呑気に状況説明している場合ではない。
まさに俺は今から死に直面するような事態に飲まれようとしているのだ。何とかそれを回避しなければならない。
そう、無理だと分かっていても、こればかりは逃げなければならない。
「思い出せ。さっきの四択はどうなっていた?」
確か、前進したらあの変人に遭い、ルートを変えて回り道しても同様、走っても引き返しても回避不可能……
「――無理だあ!」
なんだそりゃ!? 前進しても後退しても走行しても蛇行しても回避不可能て。こんな曲がり角だらけの道が何で袋のネズミ状態になっちゃってんの!?
――ダダダダッ!
「――ひいっ!」
誰かが走ってくる音が聞こえて、反射的に情けない声を出す俺。
『タッタッタッ!』なんて快活な音とは程遠い。しかしそれでもここまで乱暴な足音になるには何かの為に全力疾走していなければならない程の、余程大切なことがあるのだろう。それほどに必死な力強い足取りだった。
「……」
俺はもはや観念した。
どうやっても回避不可能なことは数秒前に痛感したし、前方からやってくる者……つまりあの少女の必死な足音とその表情に負けたというのもある。
そして、少女はついに俺の眼前に現われ、『キキキキッ!』という効果音がつきそうなくらいに急ブレーキして足を止めた。今のは空耳ではあるが、あの急ブレーキ音はどうにも好きになれない。
さてと、この少女は相当走ったようで、「はあ……ふぅひい……」とか奇妙な呼吸音を発生させながら肩を上下させていたので、まだ俺に話しかけるまでには至らないらしい。その間にでも少女を改めて見てみることにする。
さっきのあの空間で『俺』が出会った変人その人であることは間違いない。
全体的に短めの、よくあるショートカットに切り揃えられた髪型で、特徴的なのはその髪の色である。茶髪のようでいて栗色のようでもあり、それでいて光の当たり具合によれば淡く薄いピンク色にも見える。そんな特徴的な色の頂点には、なんというか、植物の『芽が出てふくらんだ瞬間』のような癖毛が左右に広がるようにピコっと生えていた。髪型と色でとても綺麗な感じなのに、そのアンテナのように生えているそれのせいでやや残念な印象も受ける。
その顔は整っているが総じて幼く、俺が通う学校指定のグレーの女子用セーターと白のブラウスを着ていなければ確実に年下に見えていただろう。身長もこの年の男子の平均身長よりも低い俺の肩ほどまでしかなく、中学生どころか下手したら小学生にも見えかねない。その……他意はないが、やや危険な顔立ちである。
ようやく息を整えたのか、そんな少女の第一声は、
「――おはようございます! 走汰さん!」
何故か俺の下の名前を呼びながらの、深々と頭を下げた挨拶だった。
「先日はどうもありがとうございました~。おかげ様でわたしの生き方がより強固なものとなりましたから~」
「…………」
俺は憮然と立ち尽くすのみで、無視した。
「どうしました? まさか具合悪いんですか? やっぱりアレを食べないと調子出ませんか!?」
――いかんもうアレの話題になりかけている!? 話を変えないと!
「いやまず君はどちら様? 何で俺の下の名前まで?」
「はい。先日までは『後前自さん』と呼んでたんですけど、もうアレを食べてくれたんですし、名前で呼ぶことにしました。つまりわたしたちはそれだけ親しい仲ということですね~。あ、ちなみに『さん』付けはわたしのこだわりです」
「いや意味分かんないから。それに俺アレ食べることなんて絶対ないからね? そしてだから君は誰ですか?」
するとそいつは首を傾げて視線を右上に移動させたが、やがて何かを思いついたのか、小悪魔的な笑みを浮かべた。
「ならあのめくるめく甘い日々を思い出してもらいましょう~。わたしは把持静菜といいます!」
……どうやら最後の問いにしか答えてくれないらしい。なんで、俺もちょっとからかいたくなった。
「……『恥知らず』?」
「――惜しい! よく言われますけど『把持静菜』です! 通称『恥知らずな女』です!」
「通称なのかよ! そして何で自分から言うんだよ!」
「いや~色んな人にアレをお勧めしてたらいつの間にか定着してまして~」
――まさか俺以外にもあの悪魔のような所業を? そら無理もねえ!
「いや~照れますね~」
「照れるとこなのかよ! むしろ悪意を感じるだろ!」
「あはは、まあ確かにちょっと不本意ですけど、皆さん微笑ましそうにおっしゃるものですからつい~決して悪意のみでないことはよく分かりますしね~」
はあそうですか。それで、さっきから一向に話が進まないのですが?
俺のジト目に気付いたのか、そいつは「おっといけない~」とわざとらしく咳払いして自己紹介を再開した。
「改めまして、把持静菜です! 高校一年生で十六歳、あ、丁度三日前が誕生日だったんで晴れて十六歳です~」
……へえ、おめでとう。
「ちなみに身長体重は国家機密です!」
いや別にどうでもいいから。
「でもヒントを出しますと、クラスで背の順に並ばされると一番前になってしまいます!」
いや聞いてないから。
「あれってヒドイ並ばされ方ですよね~。背の低い者の尊厳と人権を無視してますよね~。あんなの一番小さい人が見せ物にされるだけじゃないですか~」
いや興味な……まあそれはちょっと分かるけどさ。俺も背の順になると前の方の順番になるし――ってそうじゃねえ!
「――なんで貴方は俺のことを知っているのですか?」
分かりやすいように、要点だけを簡潔に、そして丁寧に質問した。するとそいつは困ったように、
「え~本当に分かってないんですか~? ほら~先週田口君と一緒にお会いした……」
「ああまあ、それは分かる」
そもそもあの空間で疑似遭遇した時からこの女の正体は薄々見当がついていた。あそこまで堂々とアレを渡す女なんて俺の知る限りでは一人しかいない。というかこれ以上いて欲しくない。
ただ先週田口を介して話した時、結局俺はこの女の顔を見ることがなかったため、初対面としか思えないのも事実だった。が、問題はそこではない。
「お前、先週俺と会った時に既に俺のことを知ってただろう? ありゃ何でだ?」
「ああ、それはですね……」
そこで一旦言葉を区切り、何故か視線を彷徨わせながら、
「ある人から……聞いていたものですから」
急に歯切れを悪くし、そしてどういう訳か、淡い薄茶色の頭から伸びる芽のような癖毛がへにゃっと崩れてペシャンコになった。生きてるのかそれは?
「ある人って、田口か?」
「……いえ……その……何といいますか…………妹…………なんです」
「へ? 妹? お前妹がいんの?」
「あ……いえ……『妹のような』存在……といいますか……」
「?」
いま一つ意味が分からなかった。仮にこいつに妹がいたとして、何でそいつが俺のことを知っているんだ?
「つまりどういうことなわけ? その妹が……」
「――そんなことより走汰さん! これをどうぞ!」
そうして懐(どこから出してんだよ!?)から取り出したるは四角い発泡スチロールのパック。
――しまった! このタイミングだったのか……!
話を変えることが目的だったのかもしれないが、だとしたら効果てき面だった。いやしかしこんなタイミングなんて読めねえよ! 絶対回避不可能じゃねえか!
「あ~……把持……さん? それは一体……?」
「む……わたしのことは静菜とお呼びください。『把持』だと『恥』と誤認する人もいますから」
それは分かる気もするが、何でまだ二度(しかも一度目は対面しなかった)しか会ってないのに名前で呼ばなきゃいけないんだよ……
「まあ名前で呼び合うための算段でもあるんですけどね~いや~照れますね~」
いやそこ言っちゃ駄目だろ。嘘でもいいからさっきの理由を貫き通せよ。
しかし、下手に怒らせるとその手のパックの中身がすぐにも俺の口に到達しそうなので、やむを得ず従う。
「えっと……では静菜さん? その手に持つ物は――」
「――『静菜』と呼び捨てにしなさい! でないとそれっぽくありません!」
――それっぽくってどれっぽくだよ! あと急に怒った顔になるんじゃない! 色んな意味で怖いだろ!
内心思い切り突っ込むが、やはり前述の理由で怖いので思うだけにした。
「……いやお前だって『走汰さん』じゃねえか。ならお互い『さん』付けで呼び合うのが筋だろ」
「わたしが『さん』付けするのはいいけど走汰さんが『さん』付けするのはダメなんです~」
「――理不尽だ!」
ちなみに怒った時は頂点の芽がアルファベットの『V』の字みたいにピンと逆立つらしい。それは新手の生命体なの?
色々文句もあったが、またしても前述の理由で――以下略。
「わ……分かった。じゃあ……静菜?」
「はいっ!」
途端、ほわんと口元をだらしなく開けて、そいつ――静菜は「えへへ~」と微笑む。まるで子供が褒められた時にやる仕草そのままだった。そして頭の芽は犬の尻尾のように、嬉しそうにピコピコと揺れていた。可愛らしいというか、見ていて微笑ましい笑みではある。
そして改めて、恐る恐る訊いてみる。どんな答えが返ってくるかは大体想像もつくが、それによって敢えて正直に言い、アレを食べる展開を回避しようという算段だ。
「……その手に持っている発泡スチロールは……」
「――納豆です!」
即答!? こいつ今まで俺が名前さえ言いたくなかったから散々それのことを伏せてたのに、あっさりバラしやがった! ていうかお前もついさっきまで『アレ』としか言ってなかったじゃねえか。
……ああ、そうだ。あっさりバラされたが、そして多分バレバレだったのだろうが『アレ』とは納豆のことだ。ネバネバしててグロテスクな糸を引いていて強烈な異臭を発する時点で分かるだろう。ちなみにそれらの表現は俺の脚色が入っているのかもしれないが、そこは納豆嫌いの表現なので勘弁してほしい。
そして、今までも言ってきたように、俺は納豆が大嫌いだ。単にネバネバとか臭いとかだけの食わず嫌い的な問題ではなく、口に入れた瞬間のあの感触と猛烈な吐き気は忘れることができない。おいしくないというよりは、いわゆる『生理的に無理』というやつだ。あとは、最悪な思い出もあるしな。
「というわけで納豆をプレゼントします! 今すぐ食べてください。三秒で食べてください。でも飲んじゃだめですよ」
「――飲むか!」
なんか、どこかで聞いたような……そうでもないような台詞である。無性に腹が立つのは何故だろう。
あとこんな道のど真ん中で食べられる訳がないという当たり前の指摘を後回しにしたのがおかしな話だ。
「ああもう、ならはっきり言うけど、俺は納豆嫌いなんだよ! 見るのも嫌だし臭い嗅ぐなんてもっての外なの! だからそんなおぞましいもんを俺に突きつけんじゃねえ!」
「――――――!」
「あ……」
少々、言い過ぎたかもしれない。静菜は目を真ん丸に見張り、驚いたように口を開けたまま固まっていた。
そんな呆然自失した様子に流石に心が痛み、フォローを入れた。
「すまん、ちょっと言い過ぎた」
我ながら少し熱くなってしまったと反省した。先週も思ったように人の『大好きな物』を全力で否定されるのは辛いことこの上ないだろう。どんなに自分がそれを嫌っていようが、好きな者はそうじゃない。だから、いくら自分が嫌悪感を隠しきれないブツだからといって、好きな者の目の前で納豆の存在を全否定する権利なんて俺にはないのだ。
ないのだが……
「――やっぱり『好き』なんですね!」
「――『嫌い』だっつってんだろうが! 何? お前の耳と脳は人の言うことを正反対に解釈する最悪な機能でも付いてんの!?」
だからって、先週も述べたように、それが嫌いな者に『自分が』好きな物を勧めるのも同じくらい間違っていると思う。特に納豆に関しては好き派と嫌い派がお互いに多数存在するらしいし、だとしたらその両者はお互いの領分を越えないよう、つまりは不可侵の条約を結ぶべきなのだ。
なのにさあ……
「――だって『言い過ぎた』って申し訳なさそうに謝られましたし~」
「それは……納豆は嫌いだけど、だからってその食品を『否定』する気はないって意味だ!」
「つまり好きなんですよね?」
「違う! だから何でそう正反対の意味にとるんだよ!」
「嫌よ嫌よも好きのうち~ですよね?」
出たよその言葉。先週の去り際にも吐いて俺のテンションをマグマが出る地層辺りまでに叩き落とした台詞だ。一体どうやったらそれ程に自分の都合の良い解釈を出来るのか御教示頂きたいものだが、今はこの誤解を解くのが先だ。
「嫌よ嫌よも嫌いのうちだ! 俺の本心は正真正銘納豆が大嫌いなんだ!」
「またまた~。わたし知ってますよ。走汰さんみたいな人のことを『ツユダク』って言うんですよね?」
「……あ?」
何か、その笑顔ですら今は凄まじく嫌な予感しかしないんですけど……
「本当は牛丼の『スペシャルメガ特盛り』を食べたいのに『並』で我慢して、さらに『つゆだく』にしたいのに『つゆを少量』にせざるを得ない素直になれない人のことを言うんですよね~」
……それは恐らく『ツ』しか合ってないあの人種のことを言ってるのだろうか。だとしたら多分全然違うと思う。
「そして『か、勘違いしないでよね! あんたの為に痩せたくてスペシャルメガ特盛りとつゆだくを我慢したんじゃないんだからねっ!』て人差し指をこう突きつけながら言う人のことなんですよね~」
……こいつ無駄に演出過多だな。で、でもちょっと上手いなちくしょう……その高圧的な見下し方とは裏腹にほんのり頬が朱に染まってるところとかフィニッシュの人差し指とか……まあ何か違う気がするけども――――じゃなくて!
「俺はそんな訳わかんない人種じゃねえし納豆は大嫌いだ! 何度も言わせんな!」
そこでようやく俺の言うことが嘘でないと分かったのか、静菜はしょぼんと俯き、頭の芽をふにゃふにゃにしなびさせた。
「だって……先週はわたしが『納豆好きなんですね』って訊いたら『まあな』って……」
「う……」
いやだからそれは納豆の存在まで全否定しないように配慮をだな……
しかしここで再び拒絶したら今度こそ俺は納豆を否定してしまう気がする。いやそもそもついさっきまで散々『大嫌い』だと連呼したが、それは静菜が誤解していたからこそ事無きを得ていたのだ。不安がっている今に同じことを言えば、今度こそ彼女の好きな納豆は俺によって『否定』されてしまうだろう。
ただ、何度も言うようにそれはあくまで『俺が』嫌いなのであって、納豆自身やそれを大好きだという静菜の価値観やセンスまで悪く言うつもりはないのだ。
「いや……あの時の言葉はだな……」
それを上手く伝えればいいのだが、元々俺は説明が上手い方ではないし、何よりこいつの自分勝手で思い込みが激しい解釈の仕方を考えると恐ろしくてそんなことはできない。『好き』か『嫌い』かの二択でないと納得してもらえそうにない。あるいはそれ以外で答えてもそのどちらかに勝手に解釈されそうなのだが……
俺の考え込む様子を見て、静菜は『嫌い』だと勝手に判断したみたいで、
「そうですか……やっぱりわたしの勘違いだったんですね……」
「……っ」
いや、まさにその通りなのだが、そんな今にも泣き出しそうな顔をされると困る。通りがかる人が変な眼で見てくるし、それに何よりそんな悲しげな表情は見たくなかった。
俺のせいで、自分が間違っていたことによる『自己嫌悪』に陥らせたくなかったから。きっとこの娘はそれによって相手に『嫌がらせ』していたと自分を責めるだろう。いやむしろ一度その過ちに気付かせて無差別に納豆を勧める行動を戒めさせるのも手だったが、俺のこと限定なら俺が無責任に『まあな』と言ったことにも罪はある。
故に、俺のせいで『自分だけが悪い』とは思わせたくなかった。
だからだろう、きっとそうだとしか思えない。この後の自分が発した台詞に俺は一生後悔し、そして終始悶え苦しむことになる。
「――い、いやそんなことないぞ! 俺は、な、納豆…………――――大好きだから!」
「――ほ、ホントですか?」
瞬時に顔を上げて、でもまだ不安そうに俺の目を覗き込んでくる。
「ああホントだ! 何を隠そう、俺は『隠れ納豆大好き少年』なんだ! だから普段は『納豆大嫌い』だと言ったりするが、同じように納豆が好きで好きで仕方ない奴にはついつい本音を漏らてしまうんだ!」
まだ半信半疑といった表情の静菜に、俺はもう悪ノリが過ぎたように適当に喋っていた。
「え~でもさっきの走汰さんの『大嫌いだ』っておっしゃった時の怖い顔も、嘘には見えませんでしたよ?」
くそうさっきまで散々自分本位に都合よく解釈してたくせに、ここに来てやけに疑り深くなりやがって!
「ふ……それは静菜への試練なんだ。お前の納豆への愛がどこまで本物か試すためだったのさ!」
――我ながら嘘にしか聞こえねえ! ていうか田口みたいなバカな口調になってるところがもっと嫌だ!
「そうだったんですかあ。ならわたしは合格したんですね~凄く嬉しいですっ」
うわ信じたよこの女。ちょっとキャッチセールスとかには気をつけろよ?
「自慢じゃないですけど、わたしの納豆への愛は凄いです。誰にも負けませんよ~? きっと内閣総理大臣さんにも負けませんよ~?」
……総理が納豆好きかはともかく、日本のお偉い人にも『納豆への愛』なら負けないということらしい。超無意味な比喩をありがとう。
「そりゃ走汰さんの試練に余裕で合格するわけですよね~」
はいはい、ヨカッタネ。これでめでたく納豆同盟は成立ということで……
「というわけで納豆をどうぞ!」
――しまったそうきたか!
静菜は勢いよく発泡スチロールの蓋を開けて、中の凄まじくネバネバした物体を露出させた。
「――――ぐ……は…………っ!」
蓋が開けられた瞬間、強烈な異臭。さらにはどこから出したのか、いつの間にか持っていた割り箸をそのネバネバした豆に突っ込もうとしていた。
「――ま、待て!」
俺はその吐き気がする程の異臭に涙目になりながらも、何とかそれだけは阻止すべく手を伸ばして『ストップ』の合図をした。なんとしてでも阻止せねば……このままでは先程見た4の未来になってしまう。
箸を止めてくれたはいいが、俺の焦りとは裏腹に静菜は再びその納豆への想いを語る。
「わたしは納豆が好きです! 『隠れ納豆大好き少年』である走汰さんよりもずっと好きで、そして走汰さんも納豆が大好きです! というわけで私のこの手にある納豆もちゃっちゃと食べてください!」
く……何気に『自分の方が納豆を愛している』と子供みたいに張り合ってきた挙句に食べろだと? そんなの、出来るわけないだろうが……!
だがこれは確実に俺が悪ノリした結果だ。そうなると分かっていたはずなのに静菜に上手く説明できなかった俺の責だった。故にここで俺が取るべき行動は、もはや観念して目の前の暗黒物質(俺ビジョン)を口にしていっそ4の未来のように静菜に食べさせてもらうのも一興なのだろう。ある意味おいしい展開だし。
しかし、それだけは無理だ。どうしても無理だ。人がいつか必ず死ぬのと同じくらいどうしようもないことなのだ。だから、俺はこの差し出されている発泡スチロールの中身が自身の口に移動することを全力で回避せねばならない!
俺はあまり良くない頭をフル回転させ、この事態を打開するための最善の策をこの一瞬で何とか考えだした。
「――あ、そうだ! もうこんな時間だ。このままじゃ遅刻するぞ!」
我ながらやや棒読みになってたかもしれないが、事実だった。ここで『納豆好きか嫌いか&食べるかどうか談義』を延々と続けていたせいで相当の時間が経過していたのだ。
「――え……あ、本当ですね。急がないと……」
静菜も自身のピンク色の腕時計を確認してあたふたしだしたが、俺を再び不安げな上目づかいで見上げた。
「じゃあ……納豆は食べれません……よね」
「そうだな」
「そうです……よね」
静菜の瞳が潤みだした。未だに自分の手の中にある四角い発泡スチロールを眺め、その大きな目を悲しげに伏せた。自分が勧めた物を食べてもらえなかったぐらいで大層な落ち込みようだったが、その行動が紛れもない本心から来ているということの証拠でもある。
こいつは……本当にただ自分が『大好きな納豆』を他人に食べてもらいたいだけなのだ。それにより、そのおいしさを知ってもらいたい。分かち合いたい。自分がこれによって幸せになったから、それをお裾分けしようとでも言うように……
そんな様子に……俺もつくづくお人好しだと自分で自己嫌悪するが、言わずにはいられなかった。
「ああ……今この場では無理だ。だから、後で必ず食べるよ」
瞬間、静菜は即座に俺を見つめ直して、
「本当ですか?」
「ああ、今は時間がないから……そうだな、一時間目終了後の休み時間にでも食べるよ。今は冬だから大丈夫だとは思うけど、昼休みにまで鮮度がこのままもつとは限らんからな」
「……」
口を半開きにして、未だに泣き出しそうな表情で俺から目を離さない。まるでその真偽を量っているかのようだったが、やがてようやく納得したらしい。
「――良かった!」
ぱあっと、今までの悲観めいた顔から一転、満面の笑みがそこにはあった。
「ありがとうございます! とても嬉しいです!」
「じゃあ、その納豆、俺にくれるんだよな?」
「――あ、は、はいっ! ど、どうじょ!」
……噛んだのは突っ込まない。
俺に納豆を渡す時の表情は子供さながらの大口を開けたニッコリ笑顔で、その幼い風貌も相まって似合っており、そしてとても可愛らしいものだったからだ。
多分、今のところ最高の、とびきりの笑顔だった。
……その両手で差し出している物が納豆ではなくバレンタインチョコとかだったら尚良い笑顔だった、とも突っ込まない。納豆の臭いで吐き気と涙目になるのを抑えるのに必死でそれどころじゃなかった。
――というかまさかここまでとは……! 臭いだけでもこれほどのダメージを受けるなんて……
俺はその自分的には刺激臭にも匹敵する悪臭に死に物狂いで耐え、静菜の手から問題のブツを何とか受け取り、筆入れから携帯型セロハンテープを取り出して開けっ放しになった発泡スチロールの蓋を何重にも閉じた。さながら封印するように。そして鞄に入っていたコンビニ袋からパン等の昼食を取り出してそれらを剥き出しのまま鞄に入れ直し、空いた袋には今しがた受け取った発泡スチロールを詰めて仕舞い込んだ。
「随分厳重に閉めるんですね~でも凄いです」
静菜はやや訝りながらも、その手際に感心したようだった。
「ま、まあ鞄の中にこぼれたら大変だからな」
……流石にここまでやれば臭いが付くこともないだろう。多分……大丈夫だよね?
「じゃあ、学校に急ごうぜ」
若干不安を残しつつも、改めて静菜に向き直り、大通りまでの道を親指でクイっと示した。
「――はいっ!」
静菜は相変わらずの子供っぽさ全開の笑顔で勢いよく頷いた。目の錯覚だったかもしれないが、頂点の芽のような癖毛も一緒に頷いていた気がした。
――よし、我ながら上手い選択だった。
静菜の後ろについて学校に向かいながら、俺は内心ガッツポーズを取っていた。
俺の未来は、先のアイマイフューチャーの映像で言うならば1と同様の展開になった。
今回のアイマイフューチャー現象は、1~4の未来はどれも似たようなものだったが、静菜が真っすぐ走ってくる登場の仕方的に見て、今回は1で間違いないだろう。
後は実際に納豆を差し出してくるだけで、『俺』がそれを食べたかどうかは定かではないが、その差し出されている中途半端な状態で映像は途切れたため、『食べることになるとは限らない』曖昧な終わり方だったのも共通している。
「でも、4だけは……」
そう、最後の映像――静菜が納豆のパックを開けて割りばしを突っ込み、納豆をこれでもかというくらいにこね回した挙げ句、俺に直接食べさせようとした未来――だけは少し毛色が違っていた。
あれだけは『俺』が観念して口を開けていたし、そのまま放っておいたら確実に静菜に納豆を食べさせられていただろう。だからこそ俺はあいつの『納豆に箸を付ける』行為を全力で止めたのだ。
「……なんとか、なった」
結果、納豆を今この場で食べるという未来だけは回避できた。
1~4のどれにも当てはまらない未来はあり得ないが、その中での最良の未来を選ぶことはできる。俺はそこを上手く切り抜け、1の未来を勝ち取ったのだ。
「まあ、納豆の臭いだけでも軽く死にかけたけどな……」
ひょっとしたら1~4の未来以外の分岐を選択したら、臭いを嗅ぐことすらなかったかもしれないが、それは無理だということは過去の経験から分かっている。
実際、俺の未来は1と同様の結果になったわけだが、アイマイフューチャーの疑似遭遇時と現実の遭遇時では出会い方が少々異なっていた。
アイマイフューチャーの時は『俺』は普通に歩いていて静菜と出会うが、さっきまでの現実では混乱の最中だった俺は立ち止まったままだった。
つまり、疑似体験時とは違った行動をしたのにも関わらず、結果的に未来は1になった。
それはどれだけ疑似体験と違った行動をしても、必ず1~4のどれかになるということを示している。
過去に何度か未来を変えようとし、その度に決められた未来にしかならず、さらにはその行動が最も最悪な未来を選択してしまったこともあるため、俺はもはや諦めていた。
「今の俺に出来ることは、見える未来から最上の選択肢を選ぶことだけ……なんだよな」
それ以外にはどうすることも、出来ないから。でないと、もっと悪い未来に繋がるから。
俺の悲観めいた様子が伝わったのか、前を走っていた静菜がいつの間にか足を止めていた。
「どうしたんですか~? ぼそぼそと独り言のように呟いて」
「ああ、いや、漠然とこれからどうなるのかなって思ってただけだ」
「どうなるかというと、期末テストとかですか?」
「あ、ああそうそう。今月、十二月後半だよな。ああやだやだ」
静菜が上手いことその例えを教えてくれたので、それに乗っかることとする。現に全体的に成績が芳しくない俺にとっては嘘でもない。
それでも、静菜は俺に笑いかける。
「そうですね。わたしもあまり勉強は得意ではないですけど、でもそれ以上に今は良いこともありましたから、そちらに意識を集中したらどうですか?」
「あ? 今のどこに良いことがあったってんだ?」
首を傾げる俺に、静菜は白い歯を見せて「にっ」と笑い、
「だって、これでもう友達でしょう?」
「とも……だち?」
「はいっ! わたしの納豆をまた食べてくれるんですし、もう十分に友達同士ですよね~」
意味不明な理屈だが、友達……か。
「……もう、俺たちは友達なのか……?」
「当たり前じゃないですか~誰が何と言おうとわたしはそう思ってますよ~」
……そうか。まさかこんな変な奴と友達になるとは夢にも思わなかったけど、不覚にも嬉しかった。今の学校では田口とクラスメイト他数人しか話せる相手がいない俺には、何よりも嬉しいことだった。
ひょっとしたら、これを機に、昔みたいにもっと積極的に友達を作れるように……なる、のだろうか。こんなどうしようもない災難と迷惑をまき散らす俺でも……
微かな期待と同時に不安も抱いた。何故ならこれは友達が出来ると同時に、俺が被る災難に巻き込みたくない者が増えたことも意味するから。
……でも、田口と同様、絶対に巻き込まないから。約束するから。
そうすれば……俺みたいな厄介者でも……友達に……
「……本当に、俺たちは友達……なんだよな」
「はいっ。何度も言わせないでくださいよ~」
「そっか………………さんきゅ……」
今の顔を見られたくないので、俯きがちにぼそっと礼を言った。
「ん? ええまあ、お礼を言われる程ではないんですが、これでわたし達は友達です……」
そうだよな。
「――納豆と!」
「――納豆とかよ!」
「そして友達の次は、納豆とこいびと――」
「却下!」
……俺の感動と感激を返せ。