1・アイマイフューチャー
――どこのどいつが『自国は安全』なんて言ったのかは知らないが、そんなことが言えるのはまさしく自分に危害が及んだことがないからだ。
日本だろうが現在戦時中の国だろうが自分の命が危険にさらされても尚同じことが言えるのならたいしたものだが、幸か不幸か人間は自分の死が間近に迫ると防衛本能からか恐怖を抱くものである。
確かにいくつかの先進国は戦時中の国よりも安全ということには同意だが、だからといって命の危険がないわけではない。言い換えるならば、そういう国に居たからといって必ず平均寿命まで生きられるというわけではないのだ。
特に俺、後前自走汰の場合は決してそんな未来はないことが分かる。
昔から何かが起こればすぐに命の危機にさらされるからだ。
例えばとある家の前を通ればそこのベランダから巨大な植木鉢が自分の足元に落ちてきたり、海に遊びに行けば溺れかけた女の子にしがみつかれて自分も溺死しそうになったりなど、少し間違えば命の保証がなかった出来事ばかりが起きるのだ。
学校への登校途中、俺の前方にはただの住宅街があるだけだが、今の期間だけはここを通るだけでも相当の恐怖に打ち勝つほどの勇気が要る。
今日もいつものように深呼吸し、細心の注意を払いながらおっかなびっくり進む。
家は別に大きくも小さくもない平凡な二階建ての一軒家ばかりが目立ち、道の両端にはそれらが延々と建っている。住宅道というのは大抵こんなものだが、この一帯はひと際狭く、車二台が同時に通れないほどである。なのに一方通行になっているわけでもないから、ここらに住む人間は対向車とすれ違うのに苦労する。
「……特に何も、起きない……な」
それが当たり前だ。こんなやや辺鄙な住宅街で死の危険にさらされてたまるか。
しかし、残念ながら俺はそれが起こったことがあるからこそ油断できない。
しかもこの不幸が発生するのは全くのランダムなのが怖いところだ。そんなにしょっちゅう災難に遭うわけではない代わりにそう遠くない未来に必ずある。その間隔が最長で一ヶ月、最短で一週間である。
今日は前回の災難――歩いていたらクレーン車が落とした巨大な瓦礫が顔面すれすれで目の前に落ちてきた――から丁度一週間が経った日なので、決して油断はできない。今日から次なる災難が起きるまで俺に安息の日はないのである。
「なんで、こんなことになったかなあ……」
いつからだったろうか。物心がついた時にはすでにろくな目にあっていなかった。それからずっとあの間隔で何らかの不幸、または災難が起こる。その内容もまた前述のような出来事など不規則だが、いずれも共通するのはやはり『死と隣り合わせ』な出来事ばかり起こるということと、もう一つ――
――ズッ……
「――っ!」
実際にそんな効果音が発生した訳ではないが、あえて音を出すならそんな感じで俺の視界が突然歪んだ。
そう、これがもう一つの共通点。この不可解な事象。
脳震盪を起こした時のように、前方だけでなく周りの風景がぐるぐる回りながらどんどんとぼやけていく。やがてどのような景色だったかも思い出せないほど視界が不鮮明になり、そしてついにはブラックアウト。全てが真っ黒に染まった。
その暗黒の中、とある人間がスポットライトを当てられたように鮮明に映し出された。
そいつはやたら気だるそうでいつも疲れたような顔をしていた。ボサボサ頭で中途半端に長い黒髪の所々がハネてツンツンになっているため、どこまでがセットでどこまでが寝癖なのか判断に困る髪型である。その眼には生気がなく、周りにはひどい隈が出来ている。紺色のブレザーを着崩し、面倒事を嫌いそうな風貌……
――それはつまり俺自身、正確にはこの空間のもう一人の『俺』だった。
……悪かったな地味な顔で。誰に言われたわけでもないのに自分で突っ込みを入れる俺。それは俺自身がその見た目を自覚しているからだが、この現象は自分の見た目を再認識させるのに十分な代物だから自覚せざるを得ないというのも本音だ。ちなみに補足すると俺の髪型はセットでも寝癖でもなく癖毛で、これに寝癖が加わると直すのに一時間はかかる。
まあそんな俺の密かな悩みはおいといて、この現象は俺を客観的に見ることができる。鏡などの媒体以外で自分の姿を見れるのだからこれはこれであり得ないのだが、この本質はそこではないのだ。
暗闇に佇むもう一人の『俺』がふと歩きだした。ちなみに周りの景色は相変わらず黒一色なので地面を歩いているのかどうかさえあやふやである。
すると前方、いや正確には右斜め前方から歩いてくるもう一つの人影が目についた。『俺』はまっすぐ歩き、もう一人のそいつは進行方向を左にして歩いている。まるでその空間が丁字路にでもなっているかのような歩き方だが、相変わらず暗闇だから見えないので実際の道がどうなっているのかは分からない。『俺』はもう一方の人間に気づくこともなく前進すると、やがてその人物とぶつかってしまった。もしここが丁字路なら丁度曲がり角にさしかかったところでお互いにぶつかる形である。そうであるならばぶつかる前にお互いがお互いの存在に気付かなかったことにも納得できる。
しかし、それによって『俺』は災難を被ることになる。ぶつかった相手はよく見れば物凄く強面の二十歳前後の大男で、体格が良く金髪で長髪。しかも首から腕や指にかけてそれぞれネックレスやら指輪やらのアクセサリーをこれでもかという程に身につけている。長身で強面ではあるが、いわゆる『チャラチャラした感じの不良』でおまけにとんでもなく不機嫌であり、『俺』にぶつかったことによりその怒りがさらに増したようだ。その証拠に『俺』が謝るよりも先にその男は『俺』を容赦なく殴っていた。さらには最悪なことにそれだけでは終わらなかった。
「……うそだろ」
これはその光景を客観的に見ている俺が思わず発した言葉だ。
無理もない。『俺』がぶつかった相手はあろうことか、懐からナイフを取り出したのだから。しかもそのナイフは果物ナイフのような切っ先が短いものではなく、鋭利で長大な、人を傷つけるために存在するような物だ。どこでそんな代物を手に入れたんだという疑問と、たかがちょっとぶつかったぐらいでそれはやり過ぎだという理不尽な思いを同時に抱いた。
だが、幸か不幸か『俺』が目を見開いて表情が恐怖に歪んだ瞬間、その映像は突然途切れ、その場にいた『俺』も消失した。
「またかよ」
見ている俺が一瞬で最悪な気分になってうんざりしながら呟く。
その間にも消失したはずの『俺』が新たに現れ、暗闇の道を再度歩き出す。すると今度の『俺』は一度目とは似て非なる出来事に遭遇する。
これを数度繰り返し、合計四つの奇妙な『俺』の映像を俺は見届けた。
――ズズッ……
そして、この現象が始まった時と同じように周りの景色が歪み、段々と世界に色と明るさが戻っていく。
「…………!」
ふと気がつくと、目の前には先程までと同じ住宅街と狭い道が広がっているだけだった。しかし、俺は確かに『俺』を通して奇妙な映像を垣間見た。
あのリアリティ溢れる状況を単なる白昼夢で終わらせる気は毛頭ない。それを他人に話せば誰にも信じてもらえないばかりか異常者扱いされるのも無理はないが、俺だけはそれが嘘でないことを知っている。何故なら今までの俺自身が嘘であって欲しいと願いながらも、ことごとくそれを打ち砕かれてきたのだから。
つまり、その経験からくる俺のこれからの行動は……
「――制止……」
それは動かないこと。
「あ~学校めんどいな」
無意味に辺りをキョロキョロしてみる。
「はあ……これからどうなんのかな、俺」
時には溜息を吐いたりして、自分のこれからの生活に憂鬱を感じてみたりする。
勿論演技による行いではあるが、一部本心から来る行動もある。今の行動のどれが本心かは大体言わなくても分かるだろう?
さて、そろそろのはずだ。俺は今までしていた挙動不審な動作の最後として背後を振り返った。
すると、朝日に照らされたアスファルトに小さな影が差した。その本体を見ると、どうやら小学生ぐらいの少年がそこには居た。黒いランドセルを背負い、教科書らしき本を読みながら難しい顔をして歩いてくる。低学年か高学年かで迷う背丈と幼い顔をしており、本を読みながら歩いているところと貧弱そうな体つきから、体を動かすことより図書館で読書や勉強している姿が似合いそうである。
少年は教科書らしき本に視線を落としているせいか、俺に気付くこともなくその脇を通り過ぎた。俺も学校へと向かう道が同じ方向なのでその後ろに続いた。
しばらく歩いていると十字路に差し掛かった。十字路といってもこの住宅街の道なので相変わらず狭い道だ。曲がり角の見通しも悪く、信号も横断歩道もないので車の接触事故が多い場所である。おかげで俺はここでも死にかけたことが数度ある。
少年はそんな場所だというのに気にせずに道の端っこを歩いていたが、その十字路を右折しようとしたとき、それは起こった。
十字路の右、曲がり角から男が歩いて来ていた。少年は相変わらず手に持つ本に視線を注いでいたので前方の男に気付かず、そして男もむしろわざと誰かにぶつかろうとしていたかのように無頓着で歩いていたものだから、その両者が接触してぶつかるのは必然だった。
――ドン
そんな感じの音だった。
少年と男の身長差は相当あったので、接触部分は少年の肩と男の腰だった。
「――わあっ!」
「――いって!」
両者が同時に接触時の言葉を漏らすが、当然衝撃が大きいのは体格が遥かに劣る少年である。しかも男は相当早歩きだったので、少年はその勢いのままぶつかられて尻もちをついて倒れてしまい、持っていた本もバサリと落とした。見ると、歴史の教科書だった。
「¬¬――ってえなこのガキが!」
「――ひっ! ご、ごめんなさい……」
相手が子供だというのにその男はもの凄い剣幕で怒鳴り、少年はその怒声に竦みながら謝ることしかできない。
「ガキだからって『ごめん』で済むと思ってんじゃねえぞこら!」
いちいち大声で言って、ビクリと少年の肩を揺らせる男。それでも少年は怖いのを我慢しながら、唇を震わせながら精一杯何かを口にしようとする。
「ご、ごめ――すみません……ぼ、僕……今日は、れ、歴史のテストが……あって、つい教科書を……」
「ごちゃごちゃうるせえ!」
「――っ! す、すみません……!」
……うるさいのは自分の方だろうが。
「あ~ムカつくムカつく! てめえみたいなガキはホントにイライラする!」
どう考えても理不尽な仕打ちを受けたのは少年の方だ。確かに彼も教科書を見て前方不注意だったがそれは男も同様で、そしてあいつはそういう問題でもなく誰でもいいからぶつかってイチャモンをつけたかっただけだ。俺には分かる。
この男にどんな事情があるのかは知らないが、きっと相当にストレスが溜まっていたのだろう。こんな野郎だからきっとろくでもない事情なのだろうが、それこそどうでもいいことだ。
問題なのは、だからといってこのような手段で人を傷つけることについてだ。誰もがこのストレスとは無縁でいられない社会でそれでも懸命に生きている者が多数いる中、きっとこんな奴こそが俺の災難を生み出す一人なのだろうとつくづく思う。現に生み出してもいるしな。
「……ちくしょう」
……でも、俺にこの男を非難する権利がないのも確かだ。なぜなら、俺はこのまま少年を見捨ててその脇を通り過ぎようとしているのだから。
「……あ」
「……っ」
その際、一瞬だけ少年と目が合った。その目はもちろん救いを求める小動物のようだったが、何とか振り切って葛藤を押し殺し、その場を後にした。
……そう、俺もあの男を非難する権利なんてカケラもない。俺は自分に降りかかってくる火の粉を少年に押し付けたのだから。無意味に人を傷つけるあの男とやってることはそう大差ないのだ。
――少年とぶつかったあの男は、さっきの不可解な現象で『俺』にぶつかってナイフまで取り出し、俺の中で殺人未遂容疑までかかったあの野郎その人である。
あの映像と同じでアクセサリーが嫌悪感を催す程ジャラジャラとうるさかったし、おまけに実物の方のそいつをよく見たら唇にまでピアスをしており、ますます近寄りがたい雰囲気を醸し出していた。
一番最初に見たものでは『俺』があの男にぶつかられていた。しかし、その後に見た映像は少々展開が違っていた。
それは次のようなものであるが、ちなみにそれは暗闇の中『俺』が登場してからの行動とその顛末だと思ってくれればいい。
1.このまま前進したら曲がり角で男とぶつかって因縁をつけられて殴られ、最後にはナイフまで取り出して『俺』を驚愕させる。
2.このまま前進するもふと立ち止まって空を見上げる。しかしそんな『俺』を男が見つけると、男はわざと『俺』にぶつかる。
3.疲労が出たのか、ゆっくり歩くと1と同様の展開に。ゆっくり歩いていた為、後ろから小学生くらいの少年が通りかかるが、彼はバツの悪そうな顔で絡まれている『俺』を見て見ぬふりして通り過ぎる。
4.ふとこれからの自分の未来を憂鬱に感じたのか、立ち止まっていると後ろから少年が歩いて来て『俺』を追い越し、曲がり角から現れた男にぶつかられて少年が絡まれる。『俺』はそんな少年を見て見ぬふりして通り過ぎる。
――これがあの暗闇の中で俺が見た現象の全てである。映像は全部で四つ。最初に見た映像は1であり、それ以外は2以降のものである。
そして、もう分かったかもしれないが、あの映像は未来のものであり、そして実際の俺の未来は4になった。
同じ時間帯の未来なのに四つもあるのはおかしいが、それはいわゆる『可能性』の未来であって、俺がとった行動によって四つの可能性のどれかに決まるというシステムだ。
実際に体験できる未来は一つしかないが、その直前の分岐点で俺がとった行動によって未来は変化する。『ひょっとしたらこんな世界もあったかもしれない』、『もしあの時行動していれば俺はここにいなかったかもしれない』という、もしもの世界。並行世界と言い換えてもいい。
俺はその並行世界にもつながる無数の分岐する未来を四つ見ることができ、それと似た行動をすればその通りになる、という不可思議な現象をあの空間で疑似体験できる。
さっきの俺の例でいくと、住宅道をそのまま前進すればあそこで男に絡まれていたのは間違いなく俺だった。だが一旦立ち止まって今後のことを考えることで未来が変わり、後からやってきた少年に追い越され、彼こそが絡まれる役になってしまったのだ。
この不可解な未来の体験を、俺は勝手に『アイマイフューチャー』と名付けている。ネーミングセンスはあまり良い方ではないが、この現象はいわゆる『予知』に近いのに、役に立つかどうかが微妙で『曖昧』だからだ。
曖昧な情報ばかり見せてくれるのは勿論だが、それ以上に悪い未来ばかりが見えることもあり、アイマイフューチャーは俺にとっての希望の光ではなく、むしろ絶望に突き落とすことも多い。よって、いま一つどのような現象なのかがハッキリしないということも曖昧たらしめている理由だ。
それでも、こんな曖昧な能力でも使えるのなら何でも使って俺は生き抜く。
それは単純に死ぬのが怖いから。幼い頃から散々命の危機に瀕してきた俺は生きることに人一倍執着し始めたため、生きて何がしたいというわけでもないのに、ただ漠然と死ぬのが怖くなった。
だからこそ、俺は自分が生きたいが為に、降りかかる災難を少年に押し付けた。故に、俺に男が取った『人を傷つける』または『八つ当たり』という行動を非難する権利などない代わりに、少年もまた俺のとった『押し付ける』という行動を非難できない。
だってそうだろ少年? 3の未来では男に絡まれてる『俺』をお前だって見て見ぬふりして見捨てただろう?
それに、あの男は『俺』の場合はナイフまで出しやがったくせに、お前の時はどうやら殴るだけで許してくれるみたいだ。『ガキだからって容赦しない』とか言ってたくせに、なんだかんだであの野郎も子供には甘いらしいぞ?
だから、いいよな? 俺がお前の立場だったら殺されてたかもしれないんだから。許してくれとは言わないが、そんな俺を見て見ぬふりはしてくれよ。だって、お前は俺と同じでそれが得意なんだろう?
少年への言い訳を一通り終えた後、再び俺は学校への道を歩き出す。
――ギシ……
途中、歯軋りした。
どうしてか、とても悔しかった。訳の分からない怒りが込み上げてきた。何だか無性に泣きたくなった。
今の俺の行動は間違っていない。
そもそも今の俺の行動を責めることが出来る奴など誰もいない。何故ならどうやっても俺と同じ立場に立って同じ苦しみを共有することなど出来ないのだから。もし仮に全く俺と同じ境遇に置かれて一定間隔おきに死に瀕する出来事を経験して、その苦しみを経てもなお俺を非難出来るというのならそいつは俺を責める資格がある。しかしそんな奴はどこにもいない。俺の行動を『間違ってる』なんて言う権利がある奴はどうやっても現われない。だから、死の恐怖と戦うくらいなら、絶対にこの選択肢の方が良いはずなんだ。
――なのに……なんでこんなに悔しいんだろう。どうしてこんなにも腹立たしいのだろう……
「ちくしょう……」
学校に行こうとしていただけなのに、どうして朝からこんなにも最悪な気分にならないといけないんだ。
ああ、分かってる。自分が本当はどう思ってるかなんて分かっている。
そしてその上でどうしたいかが分からないということも分かってる。
なにせ俺が見れるのは曖昧の代名詞でしかない未来ばかりなのだから、自分の想いもきっと曖昧だらけなんだろう。
……畜生。
*
――学校に着き、教室に入って自分の席に着いた。
「……ふう」
学校に着けば遅かれ早かれ誰もがする当たり前の行動だが、俺にとってはその当たり前の行動をするためには先程の一仕事を終えなければならなかったので、廊下側最後尾の自分の席に座れただけでも非常に安心感がある。
また一つ困難を乗り切ったからだ。俺はまだ生きている。散々死にかけて何度か痛い目にもあったが、まだしぶとく生き永らえている。
「……犠牲も、多かったけどな」
ぼそりと呟いた。
これまでもあの少年のように何度か他人を利用して窮地を脱したことがあるので、あえて俺は『犠牲』という言葉を選んだ。
もちろんさっきの少年も過去に利用した者たちも誰一人として死んだ者はいないが、今の俺があるのは彼らに不幸を押し付けたから成り立っている部分が大きい。よって、俺の代わりに不幸を背負った彼らがいたからこそ俺は存在していられる、ということを忘れないようにしている。
「だからどうなんだって話か」
でも、確かにそれで彼らが喜ぶわけではないが、だからってそのことを忘れてのうのうと生きているよりはマシだろう?
誰に言ってるのか自分でも分からないが、とりあえずこの場はそうまとめておく。いつまでもそれらを引きずってもどうにもならないし、経験談だがこういうのは切り替えが大切でもある。騒がしい喧噪の中、丁度クラスメイトの一人がこっちに近づいてきたってのもあるしな。
「よう後前自、な~に学校来た瞬間からぼそぼそ独り言呟いて一匹狼気取って自分ではカッコいいつもりなんだろうけど周りからは根暗にしか見えない奴を気取ってんだあ?」
「よう田口、わざわざ人の神経逆撫でするクソ長い挨拶をありがとう。そういうお前はメチャクチャ機嫌よさそうだな」
この登場した瞬間に癇に障る説明くさい台詞を吐いた奴は田口公哉といい、一応親友と言えなくもない奴である。俺と違って長身で、茶髪で顔もそこそこイケメン(らしいが俺は認めない)なため、女子にモテるそうだが……
「あ、やっぱり分かるか? 聞いてくれよ。今日隣のクラスの女の子が俺に差し入れをくれてさあ。いや~絶対あの子は俺に気があるな。うん」
……どちらかというと三枚目な発言が多いので、こいつの見かけに騙された女子が会話した瞬間に萎える、ということも多々あったそうな。ちなみにさっきの『俺と違って』というのはあくまで身長だけの話であり、黒髪の俺が茶髪に憧れてるなんてことはないし、何より顔の良さだけなら俺はこいつに負けていない――が、何だか自分で思ってて空しくなってきたのでもう止めよう、うん。
さて、それでもこの田口は自分としてはモテるつもりでそのことを一々俺にアピールしたいらしいが、俺は面倒くさいのと人の自慢話が嫌いなのもあり、まともには取り合わない。
「それでさあ――」
「うんうん、ヨカッタネ!」
「っておい! なんだその棒読み発言は! オレまだ話しきってないだろ! ここからがオレの武勇伝兼、モテ話兼、隣のクラスのあの子のオレを見る目についての話を――」
「――うるせえな! お前いちいち話が長いうえに説明くさいんだよ!」
「――んなっ……! ……フッ、も、モテない野郎は、これだから困るぜ。ただ生きているだけで複数の女にマジマジと見られたこともあるオレに僻んでるんだな? あの時の女共の熱っぽい視線ときたら――」
「そら間違って女性の下着売り場に入ればジロジロ見られるわな」
「――何で知ってんだよっ! さては見てたのか? 見てたんだなお前!?」
よしよしようやく台詞が短くなってきたな。こいつは焦るとその豊富なボキャブラリー(?)を失うから。
「まあ元気出せよ。男なら生きてれば十回や二十回は変態に見られることもあるさ」
「なにその具体的な数字!? オレはそんなには見られたことないぞ!」
てことは何回かはあるんだな。可哀想に、自分で自分を貶めてることに気付いていらっしゃらない。
俺は田口の肩をポンと叩く。
「お互い、強く生きていこうな?」
「同情するなー! お、覚えてろよこらあ!」
またしても可哀想な捨て台詞を残して田口は自分の席に戻っていった。
……さっきの台詞はまんざら冗談でもないんだけどな。
俺と田口のやり取りは大抵今のような感じだが、俺が親友と思う奴だけあってあいつとは非常に気が合う。
さらに俺には例の間隔ごとに災難が付きまとうという制限があるため、それが起こりそうな期間には俺は親友を巻き込まないために常に一人で居るようにしているのだが、あいつはそんな付き合いが悪い俺にも事情を聞かずに相変わらずの態度で接してくれている。
だから田口にはガラにもなく感謝していたりするのだが、性格その他の理由などで一生それを言うつもりはない。
まあそんなバカなことはさておき、そろそろ朝のホームルームが始まる時間である。
そして、今日も災難から始まった俺の一日は始まる。ホームルームの後は、あの少年も頑張っていた歴史――つまり日本史の授業だ。
――昼休み、俺は田口と席を合わせて購買で買った焼きそばパンを食べていた。
廊下側最後尾の自分の席にはそのまま俺が座り、その空いた前の席を田口が借りて向かい合う形だ。
周囲は授業時とは違って喧噪に満ちている。食べながら週末の予定を話し合っていたり、「頭おかしいのよあの恥知らずな女」とか、時には誰かの悪口が聞こえてきてうんざりしたりもする。それでもクラスメイトの数多くは学生食堂に食べに行くこともあり、現時点でのこの教室の人数はこれでも少ない方である。
「あれ?」
ふと正面の田口を見ると、どうやらこいつもパン食のようでメロンパンをかじっているが、今日は見慣れないピンク色の弁当箱も机の上に置いていた。
「お前今日は親に弁当でも作ってもらったのか? ていうか弁当あんのにパン買ったのか?」
聞いた瞬間、田口は唇の両端を多分限界近くまで吊り上げやがった。というかキモッ! その奇妙な笑い方で目を見開くな! どこのホラー映画だよ!
「よく聞いてくれたな。まさしくさっきのホームルーム前の話に戻らせてもらうぜ! オレのモテ話兼、史上最高のハーレム話兼――」
「ああ、お前が下着売り場で黒のレースの下着を万引きしたって話だっけ?」
「――違えよ! そして間違えるにしてもかなり酷く脚色したなおい! そうじゃなくて隣のクラスのあの子がオレに熱烈なラブコールを――」
こいつの台詞の途中ではあるが――いやまあ、俺も聞いた瞬間のお前の表情で何言われるかは大体察したからな。
「で、じゃあなんの話?」
仕切り直しとばかりに話を戻すと、「今まさに言ったんだけどなあ」とやや怒り気味だが、田口は気を取り直してきりっと顔だけはそこそこ二枚目の顔を引き締め、
「隣のクラスの可愛い子がこれを渡してくれたんだよ」
再びだらしない笑顔で三枚目以下の表情に戻った。
「ああ、さっき言ってた差し入れの話か」
「ああそうだ。きっとオレのことが好きで好きでしょうがなかったんだな。わざわざオレが教室に入る瞬間を狙って声をかけてきたんだ。そして彼女はこう言ったのさ。『あの、よ……よかったら、お友達と一緒に食べじぇ……食べてくだしゃいっ! 是非、お、お友達にも、ど、どじょう!』てな。物凄い緊張してたところがまたやべえぜ! 間違いなく惚れ――」
――わざわざ噛んだところまで再現せんでも……
しかもこいつその女の子の仕草まで真似たつもりなのか、やたらと体をクネクネモジモジさせながら、やや高めではあるがそれでも低い、超キモい声色で言いやがった。そんな体中を捻りまくるぶっとい声の女子がいたら例え女でも殴りたくなるんだけど……
――バキィッ!
「――グヘアッ! って何で急にアッパーカットをくらわすんだよ! しかも俺まだ喋ってる途中だったろ!」
「それを男がやるんだから尚殴るに決まってんだろ。後お前話長いから」
「いやでも殴るというかアッパーだよねそれ! しかもかなりマジの力の! 下手したらガゼルパン――」
「気にするな。お約束だ」
「――アッパーカットのお約束とか意味分かんないんだけど!? そしてまたオレが喋ってる途中で口を挟んだなあ!? 人の話は最後まで聞けよこらあ!」
「うるせえな、そんなことより続きを話せよ。いつまでたっても話が進まんだろうが。後お前台詞が長いのと一々聞くのがめんどくさい内容ばかりだから適度に口とモノローグ挟んでんだよ」
「お前がアッパーするからだろうが! ってモノローグってなに――」
――さて最高のタイミングでこいつの邪魔をしたはいいが、いい加減この流れにも飽きたので何とかなだめてもう一度話を促した。
「ふん、しょうがないな。だからその子が言ったんだよ。『絶対お友達と分けて食べてくださいね』ってさ」
「……ふ~ん」
「ああそうさ」
「……」
「……」
……え、そこで話終わり? あんだけ引っ張っといてそれだけ?
「『絶対絶対お友達と分けて食べてください!』ってさ」
「いや言い直さなくていいから。なんだよ。それじゃお前のことが好きってわけじゃなさそうじゃねえか」
「はあ? お前耳鼻科行った方がいいんじゃないの? 今の話聞いてどうしてオレのこと好きじゃないって言い切れるかねえ? あ~やだやだモテない奴はこれだか――」
「ならお前は精神科行ったほうがいいんじゃねえの?」
「――どういう意味だこらあ!」
いやだってお前が真似したその子の台詞に何度『お友達』が出てきてると思ってんだよ。明らかにお前をダシにそのお友達に弁当を食べてもらおうとしたに決まってんじゃねえか。
「……ん?」
と、言おうとしたが、何だかその『お友達』という内容が引っ掛かったのでその台詞を飲み込んだ。こいつに友達と言えるような奴って俺と一緒であまり居ない気がするが、一体誰のことだろう?
「おい、どうし――」
「何でもないっすよ」
「――今のはたった一言のつもりだったのに邪魔したなおい!?」
「いや、まあ、確かにお前の言う通りかと思ってな」
「おう、そうだろそうだろ。最初からそう言えってのこいつぅ。まあね。そらオレだからね。モテること自体が当たり前だからね。人が必ず毎年一歳ずつ年を取るのと同じくらい当たりま――」
――なんとなくこうして勘違いしてくれた方がいざという時に物凄く楽しい展開になりそうだったからな。具体的には振られる時とか。あとは、何だか引っ掛かる部分も多かったので、ひょっとしたらこいつの言う通りって可能性がない訳じゃない。よって、ここはこいつに乗っかって保留とするのが賢い選択だろう。
「ああ。まあそうだよな。そういうことにしといてやるから、遠慮なくその弁当を開けろよ」
「何か引っ掛かる言い方だなおい。まあいいや。あの子の愛を確かめちゃうぜ!」
そして、いよいよ田口がそのピンク色の弁当を開けた。
「――お……」
「――げっ……!」
今の嫌悪感たっぷりな声は俺が発したものである。
いやだってさ、その弁当箱、蓋を開けた瞬間に濁り散らした糸を無数にまき散らしてるしそれが蓋にくっ付きまくってるし、しかも問題の本体はすさまじく粘っこい例のブツだしさ。おまけに匂いが、いや臭いと言い換えてもいいが――だめだ、吐き気を抑えられない……! 何かもうどこから突っ込んでいいか分かんねえよ!
これは、確かに俺の考えが間違っていたのかもしれない。こんな代物を弁当にするだなんて、きっとこれは本当に田口に贈ったもので、これで奴を亡きものにせんとしているのかもしれない。
まあこれ食って死ぬ程のことはないだろうが、俺にとってはこんなものを食ったら確実に死ねる。何かもう精神的に死ねること間違いなし……!
「お、おい。これ間違いなくお前に恨みがある奴の――」
「――これはつまりねばっこい関係を望んでいるということだな。流石、最近の女子は進んでやがるぜ。体だけでなく付き合い方まで成長してやがるな~ぐへへへへ!」
「――どこのエロオヤジだよ! さらにどんだけプラス思考!? そして何より田口の分際で俺の台詞を途中で切んじゃねえ!」
「あ~んなことやこ~んなことまでお望みってことかなあ……うへへへへ!」
うわ聞いちゃいねえ……そしてキモい。
「いいからさっさと食ってしまえよ。一刻も早くそのブツを俺の視界から消し去ってくれ」
「あん? お前これ嫌いなの?」
「ああ、大嫌いだ。見てるだけで虫唾が走るね。というかその臭いを早くなんとかしろ! 俺はそれの何から何までホントにダメなんだ!」
「へ~そうなるとますます嫌がらせしたくなるなあ……無理やりにでも食わせてやろうか~?」
どっかの三下みたいな嫌らしい笑い方で、そのブツを箸で混ぜ合わせる。どうかこいつが噛ませ犬にならないことを祈るばかりだ。
「こ、この野郎……」
若干引きつった顔になったが、何とか『怒ってますよ』的な表情で威嚇した。凄まじく目を見開いて大口を開け、「こふ~」と俺の口からあり得ない呼吸音が漏れる。
「――うお! ちょ、冗談だって後前自! 悪かったからその般若みたいな凄まじい形相と毒の霧みたいな息遣いを止めろ! なんか人間にあるまじき顔と息になってんぞ!」
「――だったら今すぐ食えや! 三秒で食え! というかもう飲め!」
「無茶言うなよ! あ~もう分かったって、さっさと食えばいいんだろ。へへん、元々オレがもらったもんなんだからお前なんかにやるかっつの。お前なんかその焼きそばパンでも――」
「――そらいっき飲みだ! いっき! いっき!」
「――人の台詞の途中で死にそうなこと強要するなあ!」
――数分後、ようやく田口が例の危険物(俺にとっては)を平らげてくれたので、俺も食事を再開した。まだ食べ終わっていなかった焼きそばパンをもそもそと食べる。
……くそ、もうアレは残ってないし弁当箱も完璧に閉じられてるのに、まだ臭いが残ってやがる。
「全く、よくそんなもん平気で食えるなお前」
半ば呆れながら言ってみると、田口は珍しくイケメンスマイルで、
「ああ、まあな。家でもよく食ってるし。ご飯と一緒だと尚良かったんだけどな。まあでもこれならまだまだ食えるぜ。体にもいいらしいし、それでいて美味しいんだから良いとこ取りの一品だぜ」
真面目に語って見せた。いつも喋る時はどこかおちゃらけが入るのに、どうしてか今回ばかりは真剣に言ってくれるものだから、こいつのクソ長い台詞を珍しく邪魔せずまともに聞いた。
きっとアレに対しては本当に好きだからこそ言えるのだろう。こいつの数少ない真剣な顔を見てそれはよく分かった。
「ふ~ん……」
しかし、それでも俺は理解に苦しむ。俺がこんなにも大嫌いな代物をどうしてここまで好きになれるのかが分からない。もちろん好みというのは人それぞれだが、俺にとっては一生口にしたくないというか、やはりアレのことを考えただけでおぞましいのに、どうしてそれを遠慮なくバクバク食えるのかが分からん。あとお前真剣な顔のとこ悪いけど喋るたびに凄まじい臭いを発してるからあんまり顔近づけんなよ。
「ま、お前がそこまで言うならきっと美味しいんだろうな」
あくまでお前にとっては、と心の中で付け加えるがな。
「まあな」
こいつの台詞がたった三文字なんて驚天動地の極みだが、本当に嬉しそうに言ってくれるので突っ込む気にもなれない。
確かに俺はアレが大嫌いだが、だからといってアレが好きな奴を否定する気も毛頭ない。そもそもアレは好き派と嫌い派が結構な比率で分かれているらしいし、好きなやつは好きで、嫌いな奴は嫌い。それでいいと思う。ただし、お互いの領域に入ってこなければ……
「――やっぱりそうですよね~。それおいしいですよね~」
「ああ、いや、まあな」
あくまで俺は建前的にそう言うだけだ。考えてもみろ。自分が大好きな物に対して大嫌いだの不味いだのおぞましいだの言われてみろ。どんな気持ちになるか想像するのは難しくないだろう? だから俺は否定しない。
「ですよね~それを食べると元気出ますよね~」
「まあ……な」
でもなあ、さっき言ったとおり、好き派と嫌い派において、お互いの領域に入ってくる輩が稀にいるんだよなあ。嫌い派が取る極端な行動はさっきのように好き派の前で思い切りアレを否定したり取り上げたりする行為だが、逆に好き派が取る最も極端で許せない行為は嫌い派にそのアレを勧めてくることだ。
「ですよね~それがないともう駄目ですよね~生きていけないですよね~」
「う……ま、まあ……」
くそ、やたらしつこいな田口。さっきは俺に嫌がらせの一つもして見せたが、あいつも俺と同じで嫌いな者に無理にアレを勧めてくるような奴ではないのだが、今日に限ってはよっぽど認めてほしいらしかった。
頼む田口。お前だけはそんな嫌な奴に成り下がらないでくれ。お前はそこまで人の嫌がるようなことする奴じゃなかっただろう?
「ですよね~それがないともう死にますよね~。壊滅ですよね~日本どころか世界沈没ですよね~」
「――そこまではねえよっ! あと何気にあり得ない酷い例え止めろ!」
突っ込んだ。これは無理だ。突っ込まずにはいられない。
この野郎田口、いくら俺が多少はお前に合わせる菩薩のような奴でもそこまで言われて認められると思うなよ……!
「お、落ち着け後前自。お前さっきから誰と話してんだ」
「……あ」
確かに、さっきの声の主は俺の目の前に居るこいつのぶっとい声とは明らかに違って女の声だったし、喋り方が『~』を抜けよというくらいゆっくりだったし、そもそもそれは俺の背後から聞こえてきた。俺の席は廊下側最後尾なので、その後ろの教室の出入り口から声をかけているのだろう。
「――って、なんだ君だったんだ。さっきはこれありがとう。美味しく頂いたぜ」
俺が背後を振り返るよりも先に田口が反応した。
「あ、いえいえ~。田口君はそれが大好きって聞いてましたから、美味しかったなら良かったです~」
「あ、なんだ? お前の知り合いなのか?」
まずは初対面の女子より親友に聞いた方が早いと思い、再び田口に向き直る。
「ああ、言っただろう? オレのことが『これ』な女子だよ。噂をすればなんとやらだな~まったくモテる男に常に女の影ありっていうかさあ、やっぱこれもしゅくめ――」
――自分の目の前に『ホ』の字(古い)を書きながら得意げに説明するが、放っておいたら何時間でも喋りそうだったので勝手にこちらで得心する。つまり俺の背後にいる女子は『田口に弁当を渡した隣のクラスの女の子』ということだろう。
俺が勝手に納得していると、再び背後から声がかかった。
「やっぱり後前自さんもそれが好きだったんですね~。わたしの目に狂いはありませんでした。次も期待しててください。世界が壊滅するほどおいしいですから~」
「――壊滅云々は否定しただろうが! あと俺『好き』とは一言も言ってないぞ!」
突っ込みながらようやく背後の出入り口を振り返るが、その子は既に立ち去っていた。
隣のクラスの出入り口付近から「嫌よ嫌よも好きのうち~」と、まさに嫌な歌が聞こえた。
……最後に物凄く憂鬱になる言葉を聞かされた気がする。『次』も期待しててと言ったかあの女……
「……ん?」
何故かクラスメイトの女子数人がこちらを窺っていた。俺が視線を返すと彼女らは慌てて視線を逸らした。
――何だかこの日は朝に災難、昼も災難だった。
でも、それ以降は至って平凡な毎日だった。俺の望んだ平和な毎日。例の災難が起こる間隔は最短でも一週間なので、あと一週間は気軽に過ごすことができる。
現に『次』も期待しててと言ったくせにあの女は翌日には現われなかった。またあの妙な物を食わされると思うと気が気でなかったので非常に良かった次第である。
そもそもあの女は何者なのかということを忘れていたので田口に聞くと、「そういやオレも名前まだ聞いてなかったんだよな」とのことで、要するに分からないということだった。
名前も知らない相手から弁当を渡された田口もおかしいが、あの女と一度も会ったことのない(そして結局顔も見れなかった)俺の名前を知ってたのもおかしな話だった。
本当に何者なのかと思ったが、その翌日にも現われなかったので、段々とあいつに関することは忘れていった。
今は普通の人と同じ、平凡な毎日を楽しむことが先決でもあったから。
平凡とはつまらない退屈な毎日と思われがちだが、災難によってそれとは縁遠い期間が設けられている俺には何よりも最高の毎日なのだった。
しかし、その平凡な毎日もすぐに終わることになる。
一週間が経過すれば、後はいつもと同じく警戒しながら生きる日々が続く。最近では一週間で起きてばかりではあるが、すぐ発生しなければ最長で一カ月の時もあるので、その場合は警戒期間も長くなり、同時に田口たちと過ごせない時間が長くなることにも繋がる。
だから、今度もすぐに起こってほしい。不幸が早く起こってくれなんておかしなことを言っているのは分かっている。
でも、これ以上、付き合いの悪い奴と思われたくないから……
――いつまで、続くんだろうな。この最悪で災厄な毎日は。