ジ・オリジン
――いつもいつも、突然だった。
何かが起こる時はいつも突然。
台風や地震が人間の都合なんて考えなしに発生するのが突然のように、俺の周りでは俺の都合なんて考えもしないでいつも突然に災厄が起きる。
「――うわーーーーーーーーん!」
……それも、人の手によって。
俺の傍らには……何というか、非常に小さな物体がいた。いやこんな言い方は失礼か。とても小さな女の子がいた。顔は泣き顔になっているため涙やらそれを拭う腕やらでよく見えないが、俺よりも相当小さく、おそらく身長にしてみれば半分以下だ。この時の俺は小学校低学年だったため、そんな俺の身長の半分以下ということと女の子の声が非常に幼いものだったということから推測すると、きっと幼稚園児くらいだろう。そんな女の子が俺の傍らで何かをずっと叫んでいる。
「うう……だめ、だめだよう! こんなの……絶対……!」
その嗚咽交じりの言葉が俺に向けられていることは分かっていた。なぜなら俺はこの娘のせいで今とんだ災難に遭ったばかりだからだ。
一言で今の状態を表すなら『瀕死』あるいは『死にかけ』もしくは『虫の息』など、何でもいいが、とにかく一刻を争う状態なのは間違いない。
そして何故そうなったかというと、簡単なことで、この娘が車ばかりが行き交う完全に車道となっている交差点にあっさりと足を踏み入れたからだ。
――現在俺がいる……いやぶっ倒れているこの交差点には横断歩道もなく、歩行者はその上に架かっている歩道橋を上がって向かい側に渡らねばならない。なのにその少女は何のためらいもなくスピード違反車ばかりが存在する空間に足を踏み入れ、自らを血肉の塊にしようとしていたから、俺もつい魔がさした。
「――ばかやろう!」
「――ほえっ? なに――」
全力で走ってその娘に追いついて腕を掴み、そして向かい側とは逆、つまり元いた道に向かって思い切り腕を振ってそいつをぶん投げた。
しかし、幸か不幸かよくそこまで轢かれずに進めたとあの娘を褒めてやりたいが、おかげで俺は交差点の真ん中まで足を踏み入れることになってしまい――
――キキキキキッ!
明らかに法定速度より相当早い前方の車が急ブレーキをかけても、車はすぐに止まれるものでもない。
「――っ!?」
ゆっくりと、だが確実に車は俺に向かって突進してくる。車のスピード的にゆっくりとなんてありえないが、何故か俺の目にはそう見えた。
スローモーションのように、映像のコマ送りのように、何もかもがゆっくりと進む世界。しかし残念ながらその『何もかも』とは俺自身もそうであり、俺の動きもゆっくりに限定されるわけだから車の動きが遅い間に逃げることも出来ない。
そしてどうしてか、覚えてもいないのに、その時には物心がついていないはずなのに、自分が生まれた日のことを思い出していた。
病院にて生まれた瞬間、通常の赤ん坊なら大声で泣き叫んで健康をアピールするところだが生憎俺はそうでなかったらしく、生まれたばかりの俺はそれはそれは静かに誕生した。なぜなら呼吸が出来ない状態だったから。母体に異常があったのか俺自身である胎児に異常があったのかは知らないが、生まれた瞬間からすでに呼吸が停止していた。
医者が焦りながら俺の鼻や口に吸引措置を施していた。母は真っ青になりながら、出産を終えたばかりの疲弊しきった体でこの時すでに決まっていた俺の名を呼び続けていた。普段チャラけている父ですら血の気が失せており、必死で何かを叫んでいた。
この光景は絶対に覚えていないはずなのだが、よりによって今のこの極限状態においてのみ思い出すことが出来た。
これがいわゆる『走馬灯』というものなのかもしれないが、思い浮かんだのはこの光景だけだった。
そしてついに車に接触する直前、先程の光景の理由が突然分かった。
……俺は、生まれた時からすでに死に瀕していたのだ。
今のこの状況と過去の生後直後の呼吸困難。共通点は、死へと向かうカウントダウンということだけだ。
――キキキキキッ!
――――!
表現のしづらい音だが激突音が発生した。
スローモーションの世界が明けた。
無残にも俺の体は相当の衝撃をくらい、あの娘に続いて今度は俺の体がブッ飛ばされる番だった。当然受け身をとることなど出来ずに無様に背中から落ちて倒れた。
おそらく俺を轢いた張本人だろう――男が駆け寄ってきて、あの時の両親と同じく血の気の失せたような顔で俺の体をまず道路脇に移動させた後、何か――これも多分だが応急処置的なことをしていた。
しばらくすると俺がぶん投げたあの女の子がやってきた。どうやら大した怪我はなかったようで――
「うわああああああああああああああああああんうわあああああああああああああん!」
……大声で泣き叫ぶくらいの元気はあったようだ。
俺もあの時こんな感じで誕生していたら、今のような状況は起こらなかったのだろうか。
あの時と今の因果関係なんて分かりはしないのに、どうしてか自分の体の安否よりそんなことが気になった。
「――ごめんなさい……ごめんなさぁい! うう~……!」
傍らで泣きじゃくっている少女。もはや顔は涙まみれで素顔が分かりもしない。
「うう……ごめん……なさい。わたし……わたし……は」
……いつまでもそんな顔は見せないでほしかった。
恨みごとの一つぐらいは言える立場なのに、今の俺はそんなことよりも彼女を泣き止ませたかった。
俺のせいで後悔をしてほしくなかったから。きっと俺が死ぬか何らかの障害が残るだけでもこの娘は一生そのことを引きずるだろう。まだ幼稚園児だというのにそんな辛い事実は背負わせたくなかった。
だからだろう。きっとそうだとしか思えない。俺は後にも先にもこれほどに恥をかいたことはない、一生後悔するほどの行動をしてしまった。
激痛が走る手で持っていた袋からそれを取り出し、少女に差し出していた。
それは当時の俺の手の平よりは大きいが、それでも片手で持つことに全くの支障はない程の重さで、発泡スチロールのパックに入っていた。そしてその物体も俺と一緒に車に轢かれて飛ばされたものだからパックは一部が破損しており、中身が飛び出ていた。
「『――は……!?』」
この声の主は複数人である。まずさっきから泣きじゃくっていてうるさいくらいの――恐らく幼稚園児と思われる少女。続いて俺を轢いてしまったために同じく泣きそうになりながら必死で俺の患部を手当てしていた若い男性。そしてもう一人はこの俺自身。この場にそぐわない何とも間抜けな声だった。
俺が間抜けな声を出したのは自分でも驚きだったからだ。何故こんなものを持っていたのか訳が分からなかった。
それはとても粘り気のあるものだった。さらにはあちこち糸を引いていた。そして極めつけは強烈な異臭。俺にとっては吐き気を催すほどの最悪な臭いを発生させていた。前述の通りそれを包むパックが破損しているためにその物体は俺の手の平にまで及んでいる。きっと相当に手洗いをしなければこの臭いは取れないだろう。それほどに強烈な印象を与えるもの。
「………………なっ……とう……」
――そう、納豆だった。
……ていうか納豆だった。
わざわざ表現するまでもなく一言その単語を言えば済む物体だった。
……意味不明だった。
と、自分で(しかも心の中で)突っ込む俺だった。
さっきから我ながら『だった』が多い説明『だった』。
――いかん混乱のあまり訳が分からなくなってる……!
「…………」
俺の混乱をよそに、少女はまるで憑きものがとれたかのように放心しながら俺が差し出した納豆をじっと見つめた。その上何を思ったか恐る恐るその粘り気のある豆粒を掴み、その小さな口に入れた。
「――――あ……」
止めようとしたが遅かった。こんな状態で食べてる場合じゃないとかそんなものを素手で掴んだら臭いが取れないとか箸で食べないと納豆じゃないとか一部は訳のわからない突っ込みどころも多々あったが、やがて少女は咀嚼を終え、ごくんと飲み込んだ。
「…………………………」
…………無言。
この異様な空気はなんだろう。こんな状況だというのに非常に気まずいのは何故だろう。ふと隣に視線を移すと俺の手当てをしていた若い男性が目につくが、こちらは俺への応急手当ての手を止めていて、やはりぽかんとした表情で口を半開きにしながら俺の顔を眺めている。
いや、あなたまで動きを止められると俺も少し困るんですが――と、少女よりも運転手に対して文句を口走ろうとした瞬間――
「――ぷっ……! あははっ!」
さっきまであんなにも大声をあげて泣き叫んでいた少女が、涙ながらにようやく笑顔を見せてくれた。
未だに少女の前に差し出されている俺の手からどんどん納豆を口に入れていく。
「――あはははははっ!」
もはや一変して、満面の笑みだった。
いや、笑顔が見られたことは大変結構だけどこの状況で大笑いされるのも大変つらいんだけどなあ……あとキミ悪いけどその口と手がかなり臭うよ?
「…………」
……俺を轢いた運転手は以後終始無言だった。
――この被害者と加害者、そしてそれに巻き込まれた者約一名の異様な光景は救急車が到着するまで続いた。
――ちなみに俺は親父に買い物を頼まれたからあそこにいた。あの交差点の手前にはコンビニエンスストアがあり、あの出来事はその買い物を済ませた直後のことだった。
だがその買い物の内容が納豆だったと忘れていたとはなんたる失態だろう。おかげであの状況で納豆を差し出すことになってしまい、空気が読めないとかTPOとかいう以前に人間として終始馬鹿にされそうな行動だったに違いない。現に入退院を経て学校に復帰した際にクラスメイトにいい笑い物にされたのは言うまでもない。
後から分かったことだが、俺の外傷は確かに重傷だったが命に別状はない程で、背中の打撲やいくつかの擦り傷と一か所の骨折があっただけだった。よく考えてみればあの状況で少女や運転手をあれだけ冷静に観察したり、挙句の果てには納豆を差し出すことすら可能だったのだから、無事でなければ出来ない行動だった。
ただ、安心したこともある。それは無事に生還できたこと。直前に見たものが納豆だなんて――さらには納豆が原因で死ぬなんて死んでもごめんだからな。
最後にもう一つ。これは分かりたくもなかったが、残念ながら分かったこと。今回唯一骨折した部位は右腕で、それは納豆を差し出していた腕だったことだ。
……簡単にまとめると、納豆に関わるとろくなことがないということだった。
そしてそれは、残念ながらこれからも一緒だった。
――いやしかし、だからって納豆はないだろうよ……