第3章 ベイドンの戦い ~その1~
――ワタルがバギンズに召喚される、およそ2週間前。
ティンタジェル城の王宮では、騎士や貴族などの諸侯たちが喧々諤々の議論を戦わせていた。
アルビオン王国北部に建造されたハドリアヌスの長城を超え侵入してきた北海帝国軍2000に、どう対処するかというのが白熱している議論の中身である。
現在アルビオン王国が動員できる兵力は北海帝国軍の半分の、およそ1000人だった。
「早急にローエングリン王弟殿下に使いを送り、その軍勢が引き返してくるまで籠城に徹すべきです」
慎重論を唱えたのはトリスタンだった。
ローエングリンも籠城のために1000もの兵を残していったのだ。
トリスタンの意見はローエングリンの戦術に沿ったものでもあった。
ただ、この時代のブリストル島に常備軍は存在しない。
兵は普段、畑を耕しながら生計を立て、王や領主から招集がかかったらはせ参じるのである。
日本で言うところの半農半士といえば、少しは理解しやすいだろうか?
かの有名な織田信長が現れるまでは、日本も同様の状態だった。
もし籠城するのなら、無理に動員可能な兵力全員を招集する必要はない。
兵糧の問題もある。
少ない兵で凌げるのなら、それに越したことはなくトリスタンの言い分は理に適ったものといえる。
これに対して、真っ向から反対したのはモードレッドだった。
「トリスタン殿は領民を見殺しにせよ、と申しておるのかな?」
モードレッドの主張に、思わずトリスタンは眉をしかめる。
この論法でこられると、トリスタンは極めて不利な状況に立たされることを承知していた。
それでも、何か反論しなければならない。
「そのようなことは申しておらん。逃げてきた領民はティンタジェル城に収容すればよい」
「では逃げ遅れた者はどうなる? それに土地も荒らされたら、穀物もしばらく収穫できなくなってしまうではないか」
「それは……」
トリスタンは返す言葉が見つからない。
苦し紛れにこちらから質問を投げかけた。
「モードレッド卿は、討って出るべきだと?」
「左様。出陣して持久戦に持ち込めばよい。野戦であっても守りを固めれば、敵も迂闊に動けまい。その間に民を避難させることもできよう」
城に籠って時間を稼ぐのではなく、出陣して時間を稼ぐべきとモードレッドは主張しているのだ。
正論過ぎるほど正論だったため、トリスタンは押し黙る。
「皆の者! 民のために戦うのが、我ら騎士の務めであろう?」
ここぞとばかりに声を張り上げ、モードレッドは演出した。
他の諸侯も出陣する方向に考えが傾きかけているようだ。
「では、せめてパルツィヴァル王は城にお残り下さい。総大将はモードレッド卿に一任すればよろしいかと」
国王はティンタジェル城に残る。
トリスタンとしては、これだけは絶対に譲れない条件だった。
「ならぬ」
威厳に満ちたパルツィヴァルのその一言で、トリスタンの苦労は水泡と帰した。
「世自ら出陣し、外敵を打ち払ってくれよう!」
パルツィヴァルが宣言すると、拍手喝采が巻き起こり王宮が熱気に包まれる。
その様子をトリスタンは1人、冷めた目で眺めていた。
どうしてモードレッドは殊更、パルツィヴァルを煽るような真似をしたのだ?
このときはまだモードレッドの胸の奥底に眠る野心を見抜けず、トリスタンは口惜しげに歯噛みするだけだった。
国王自らの出陣が決定すると、戦支度のため諸侯は競うように王宮を後にする。
皆、来たるべき戦に向けて気分が高揚している中、トリスタンだけは呆然と佇んでいた。
「トリスタンよ」
特に気分を害した風でもなく、むしろ気遣うようにパルツィヴァルは声をかける。
さすがに国王を無視するわけにはいかず、トリスタンは恐縮しながら襟を正した。
「国王自ら戦わなければ、民はついてこん」
「仰る通りですが……」
国王の立場にある者の心構えとしては尊敬に値するし、正しいのだろう。
だが状況が状況だけに、トリスタンは自重してもらいたかった。
「それに世にも聖杯の騎士としての矜持がある。弟のいない今が、世の力を知らしめる良い機会なのだ」
パルツィヴァルの吐露した本音に、トリスタンは何もかもが腑に落ちた。
アルビオンの王はローエングリンにこそ相応しい。
そんな風評が城の内外に流れていた。
いつもパルツィヴァルは自分よりも優れた弟に対し、劣等感を抱き苦しんでいたのだ。
わざわざモードレッドが出陣を催促する必要はなかったのである。
「お言葉を返すようでありますが、ローエングリン王弟殿下は戦が好きな武人であらせられます。政には向いておりません。しかし、パルツィヴァル王は違います。アルビオン王国をまとめられるのは、パルツィヴァル王を置いて他にいません!」
自分が忠誠を捧げる国王を励ますように、自信を持ってトリスタンは断言した。
「世はそなたのような騎士を配下に持ち、果報者よの……」
一瞬前の隠微な目付きを拭い去り、笑顔を見せたパルツィヴァルは、しかし首を左右に振る。
「だが世も1人の騎士なのだ。1人の騎士として、戦場に立ちたいのだ」
パルツィヴァルの眼光に鋭さが増した。
まだ40代の王は老け込むには早すぎる年齢だ。
「わかりました。このトリスタン身命を賭して戦い、王のために尽くす所存です」
片膝をつき、トリスタンは頭を垂れた。
パルツィヴァルの決意は固く翻意させるのが不可能ならば、戦場で最善を尽くすべきだと頭の中を切り替える。
立ち上がって一礼をし、トリスタンは踵を返して王宮を辞した。
「出陣なさるのですか?」
王宮のすぐ外の通路で待ち構えていたのはイゾルデである。
瞳の端に不安の色が滲んでいた。
イゾルデも王宮にいたのだから事情は知っている。
「ああ。だけど心配しなくていい。必ず勝つさ」
イゾルデの不安を払拭しようと、トリスタンは昂然と言い放った。
倍の兵力が相手だ。
苦戦が予想されるため、自分を鼓舞する意味もあった。
「戦の行方よりも私が案じているのは、あなたです、トリスタン様……」
イゾルデは涙で潤ませた目を向ける。
不敬ではあるが戦いに勝とうが負けようがどうでも良かった。
「信じて、待っていて欲しい」
そっと右手を伸ばしたトリスタンは、イゾルデの頬を優しく撫でる。
白い鎧よりも白いドレスが似合う、騎士団に咲いた一輪の薔薇。
王女の世話役としてパルツィヴァルが任命しなければ、騎士としてではなく貴婦人として、今ごろは平穏なな人生を送っていたはずの女性だ。
この時代のブリストル島で19歳という年齢は、特に身分の高い女性ならば尚のこと、行き遅れというのが一般的な認識だった。
だがトリスタンは一切気にすることなく、イゾルデのことを愛した。
これほどまでに心を奪われた女性は、他にいなかったのである。
「絶対に帰ってくる。それまでユーフェミア王女のことを頼む」
別れを惜しむようにイゾルデをぎゅっと抱きしめたあと、トリスタンは名残惜しそうにこの場を離れた。
「あっ……」
イゾルデはその背中を見送ることしかできない。
このときトリスタンを笑顔でおくりだせなかったことを、イゾルデはずっと後悔し続けることになる……。